引っ越し当日。
新生活の第一歩。
駅から徒歩15分の古めのアパートに、僕は荷物を積んだ段ボールとともに立っていた。
春の風がまだ少し冷たく、窓を開けると薄いカーテンがふわっと揺れる。
「ようこそ、俺の城」と冗談めかしてつぶやいてみたが、返事があるわけもない。
母は、あれだけ「行ったら邪魔になるでしょ」と口にしていたのに、
前日の夜、玄関でしばらく立ち止まってから、何も言わずに寝室に戻っていった。
きっと、寂しいんだろうな……
でも、僕だって簡単じゃない。
胸の奥でくしゃくしゃになったまま、何も言えずに来てしまった。
朝からバタバタして、ようやく一息ついたのは昼過ぎ。
カーテンを付けて、コンロの点火を確認し、洗濯機のホースをつないで──
「ひとりでやってるな、ちゃんと」と、自分を褒めてやりたくなった。
その時だった。
「ピンポーン」
インターホンが鳴った。
配達か? それとも近所の人?
ドアを開けると、そこに立っていたのは──母だった。
「……なんで」
「あら、ちゃんとお部屋に入れたのね。偉い偉い」
当然のように笑って、母は手に下げた紙袋を掲げた。
「お昼、まだでしょ? ほら、おにぎりと卵焼き。あときんぴら。少しだけ」
僕は絶句した。
「いや、来ないって……」
「来ないとは言ってないわよ? 行かないほうがいいかな〜って言っただけで」
子供みたいな言い訳をしながら、母は靴を脱ぎ、勝手に台所の蛇口を開いて水圧を確かめ始めた。
「ちょっと圧弱いわね〜。ちゃんとお風呂出る?」
「……たぶん」
そして、持ってきたお弁当をテーブルの上に並べ始める。
まるで、今も一緒に暮らしているかのような手つきで。
僕は黙って座って、母のおにぎりを口に入れた。
少しだけ、しょっぱかった。
でも、それが妙に安心した。
「ほんとは、朝いちで来ようと思ってたの。でも、ほら……」
「なに?」
「……なんでもないわ。やっぱり、ちょっとだけ寂しかったのかもね」
そう言って、母はふわりと笑った。
「もう、すぐ帰るわよ。今日は、ちゃんと“お客さん”として来ただけだから」
「お客さんが勝手に洗面所の収納覗くか?」
「チェックは大事でしょ〜。……あっ、このラック危なそうだから後で百均で滑り止め買っときなさいね」
「……はいはい」
どこまで行っても、母は母だった。
「じゃあ、ほんとにもう帰るわね」
玄関で靴を履きながら、母さんはちらりと僕を見た。
気遣うような、でもどこか満足そうな顔で。
引っ越し初日、“なにも言わず”現れて掃除や整頓をしていった人とは思えない、
あいかわらずの「仕事を終えた感」を漂わせている。
「駅までの道、大丈夫よね?」
「うん。15分くらいだし」
「迷ったらスマホ使いなさいよ。紙の地図も入れてあるけど」
──どんだけ用意周到なんだよ。
そんなやりとりをしていると、外階段の方から足音がした。
僕の部屋は古い木造アパートの2階。
現れたのは、年の頃40代半ばくらいの、がっしりした体格の男性。
スラックスにポロシャツというラフな服装だが、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。
「あれ、こんにちは。もしかして……新しく越してきた方のお母さま?」
「あっ、はい。そうなんです。今日から、こちらでお世話になります」
母さんがペコリと会釈する。
男性は一瞬──ほんとうに一瞬だけ、目を見開いた。
そして、目尻にやわらかい笑みを浮かべる。
「はは、いやぁ、これは……想像してたよりずっと……」
「?」
「いえいえ、失礼。私は大家の吉田です。このアパートの管理もしてます」
「まぁ、ご丁寧に。吉田さん、どうぞよろしくお願いします」
──なんだこの空気。
僕は玄関から一歩引っ込んで、ドアの陰からこっそり覗いていた。
明らかに、大家さん──吉田さんの目つきが変わった。
まるで“何かに射抜かれた”ような感じ。
その表情に、僕の背筋が軽くざわついた。
「本当に……お若いですね。お母さまには見えない。奥様と間違えられるんじゃ?」
「まあ〜、そんなことないですよ。息子ももう大学生ですし」
「いやいや、それにしてもお綺麗だ」
「ふふ……ありがとうございます」
──やめてくれ。
その笑顔は……強すぎるんだよ、母さん。
•
数分後。母さんは「じゃあ失礼しますね」と手を振って階段を下りていった。
吉田さんは、それを見送ったあと、なぜか僕の方へ顔を向ける。
「……いいお母さんだな。うん。君がうらやましいよ」
「は、はあ……ありがとうございます……?」
そしてなぜか、妙に親しげな口調で続けた。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってね。夜でも早朝でも、対応するから」
「え、あ、はい……」
「それと、鍵とか不具合あったら即対応。あと、冬は廊下が冷えるから、カーペット敷いていいよ。うちは原則NGだけど、特別ね」
──え、やたら優しいな。
というか、なんで今まで住んでた人の時は冷たかったって噂だったのに、急にそれ!?
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その夜。
僕は部屋のカーテンを閉めながら、スマホをいじっていた。
そこに、吉田さんからLINEが届いた。
(入居時に管理連絡用として登録していた)
吉田「お母さま、ほんとうに素敵な方だね。なんというか、こう……清らかで」
吉田「よろしくお伝えください。またいつでも、遊びに来ていただければと」
……いや、遊びに来る予定ないから。
というか、僕の住処なんだけど。
以後、何かと僕への対応は“神対応”に変わっていく。
・宅配便の受け取りをしてくれるようになった
・ゴミの分別で注意されなくなった
・たまに大家さんから「差し入れ」が届く(たくあん、味噌汁の素など)
……なにこれ、母さん効果強すぎないか。
僕は思った。
この街でも、やっぱり──母の天然人たらしは健在だったんだな、と。
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後日。
母さんからのLINEにこうあった。
「この間の大家さん、感じのいい方ね〜。ちょっとお酒の香りがしたけど」
──うん、多分それは、母さんを見て“酔った”んだと思うよ。