朝6時。
台所の明かりが灯る。
まだ外は薄暗く、庭の草花も静かに眠っている時間。
冷えた床に素足のまま立つ彼女は、白いエプロンの紐を結びながら冷蔵庫を開けた。
コンロに火がつき、湯気が立ちのぼる。
鰹出汁の香りが静かな家にじんわりと広がっていく。
味噌を溶き入れる手は慣れていて、味見をする仕草もどこか控えめ。
小鍋にはひとり分より少し多めの具材。手を抜かない。たとえ自分だけの日でも。
7時。
洗濯機が回る音が始まる頃、彼女は縁側に出た。
手には湯のみ。熱すぎないよう少し冷ました緑茶。
白いリネンのワンピース。
まとめた黒髪から緩くこぼれる毛先が、朝の風に揺れる。
庭の紫陽花に目を向けながら、小さく息をついた。
静かだった。
8時30分。
洗濯物を干す。
薄手のシャツやエプロン、ハンカチが並ぶ。
ピンチで留める手に迷いはない。陽の当たる角度を考えながら、干し終えた布にそっと手の甲を当てる。
乾く予感。今日も良い天気。
9時40分。
買い物袋を持って出かける準備。
帽子をかぶり、自転車の鍵をポケットに入れる。
冷蔵庫の中を軽く確認し、メモ帳を手に取って「醤油・卵・大根」と走り書き。
彼女は外に出るとき、誰かに見られるつもりで装うことはない。
ただ、気持ちのいい服を着る。風が抜けて、背筋が自然と伸びる服。
10時過ぎ。
スーパーではレジの若い女性に軽く会釈。
小松菜が安くなっていたのを見て、思わず2束。
買いすぎたかな、と思いながらも、手にしたビニール袋をきゅっと握り直す。
12時。
帰宅してすぐ、台所へ直行。
軽く昼食を作る。昨日の残りの煮物に、ご飯と冷奴。
テレビは点けない。窓から入る風と、箸の音だけが響いていた。
14時。
図書館へ行く。
予約していた随筆集と、棚で見つけた料理本を借りる。
カウンターで借りるとき、司書の人に「いつも本を丁寧に返してくださってありがとうございます」と言われて、少し照れたように笑った。
16時半。
家に戻り、借りた料理本を開いてソファに座る。
ふと、スマホを取り出してカメラを起動。
「このスカート、写真に映すとどうかしら」とつぶやきながら、自分の膝だけを静かに撮る。
写真はすぐに削除された。
残したかったのは記録ではなく、たぶん、感触だけだった。
17時。
夕食の準備を始める。
出汁をとるところから。
冷蔵庫の野菜と相談しながら、静かにまな板に包丁が落ちる音。
ラジオが小さく流れている。笑い声。知らない人たちの会話。
18時半。
一人分のごはんをテーブルに並べて、いただきますと手を合わせる。
箸を置く音も、椅子を引く音も、どれも柔らかい。
20時。
洗濯物を取り込み、畳む。
手の中でハンカチが四角く整っていくたびに、どこか心も整っていくようだった。
21時過ぎ。
お風呂からあがり、スキンケアを終えたあと、鏡の前でタオルを頭に巻いて、少しだけ笑ってみた。
そして──
スマホを立て、タイマーで写真を一枚。
「風呂上がりシリーズ、今夜の分、よし」と、誰にも聞こえない声でつぶやく。
投稿は、されることも、されないこともある。
日記をつけるように、今日の自分を“残す”。
それが彼女にとって、誰かのためか、自分のためかは──
たぶん、まだ、誰も知らない。