「お母さん、無自覚美人です 大学生編」   作:松田義和

21 / 28
第十九章 ある一日

朝6時。

台所の明かりが灯る。

まだ外は薄暗く、庭の草花も静かに眠っている時間。

冷えた床に素足のまま立つ彼女は、白いエプロンの紐を結びながら冷蔵庫を開けた。

 

コンロに火がつき、湯気が立ちのぼる。

鰹出汁の香りが静かな家にじんわりと広がっていく。

味噌を溶き入れる手は慣れていて、味見をする仕草もどこか控えめ。

小鍋にはひとり分より少し多めの具材。手を抜かない。たとえ自分だけの日でも。

 

7時。

洗濯機が回る音が始まる頃、彼女は縁側に出た。

手には湯のみ。熱すぎないよう少し冷ました緑茶。

 

白いリネンのワンピース。

まとめた黒髪から緩くこぼれる毛先が、朝の風に揺れる。

庭の紫陽花に目を向けながら、小さく息をついた。

 

静かだった。

 

8時30分。

洗濯物を干す。

薄手のシャツやエプロン、ハンカチが並ぶ。

ピンチで留める手に迷いはない。陽の当たる角度を考えながら、干し終えた布にそっと手の甲を当てる。

 

乾く予感。今日も良い天気。

 

9時40分。

買い物袋を持って出かける準備。

帽子をかぶり、自転車の鍵をポケットに入れる。

冷蔵庫の中を軽く確認し、メモ帳を手に取って「醤油・卵・大根」と走り書き。

 

彼女は外に出るとき、誰かに見られるつもりで装うことはない。

ただ、気持ちのいい服を着る。風が抜けて、背筋が自然と伸びる服。

 

10時過ぎ。

スーパーではレジの若い女性に軽く会釈。

小松菜が安くなっていたのを見て、思わず2束。

買いすぎたかな、と思いながらも、手にしたビニール袋をきゅっと握り直す。

 

12時。

帰宅してすぐ、台所へ直行。

軽く昼食を作る。昨日の残りの煮物に、ご飯と冷奴。

テレビは点けない。窓から入る風と、箸の音だけが響いていた。

 

14時。

図書館へ行く。

予約していた随筆集と、棚で見つけた料理本を借りる。

カウンターで借りるとき、司書の人に「いつも本を丁寧に返してくださってありがとうございます」と言われて、少し照れたように笑った。

 

16時半。

家に戻り、借りた料理本を開いてソファに座る。

ふと、スマホを取り出してカメラを起動。

「このスカート、写真に映すとどうかしら」とつぶやきながら、自分の膝だけを静かに撮る。

 

写真はすぐに削除された。

残したかったのは記録ではなく、たぶん、感触だけだった。

 

17時。

夕食の準備を始める。

出汁をとるところから。

冷蔵庫の野菜と相談しながら、静かにまな板に包丁が落ちる音。

ラジオが小さく流れている。笑い声。知らない人たちの会話。

 

18時半。

一人分のごはんをテーブルに並べて、いただきますと手を合わせる。

箸を置く音も、椅子を引く音も、どれも柔らかい。

 

20時。

洗濯物を取り込み、畳む。

手の中でハンカチが四角く整っていくたびに、どこか心も整っていくようだった。

 

21時過ぎ。

お風呂からあがり、スキンケアを終えたあと、鏡の前でタオルを頭に巻いて、少しだけ笑ってみた。

 

そして──

スマホを立て、タイマーで写真を一枚。

 

「風呂上がりシリーズ、今夜の分、よし」と、誰にも聞こえない声でつぶやく。

 

投稿は、されることも、されないこともある。

 

日記をつけるように、今日の自分を“残す”。

それが彼女にとって、誰かのためか、自分のためかは──

たぶん、まだ、誰も知らない。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。