ボクシング部の新人大会当日。
僕と高橋は、リング脇の控えスペースで出番を待っていた。
「うわ、緊張してきた……」
「こっちはさっきから手が汗でベトベトだよ……」
それでも、心強い味方はいた。
部の仲間たちがたくさん来てくれていて、なかでも──
「頑張ってこいよ!お前らの拳に全てを込めろ!」
と、なぜか本職・空手部の松田さんが叫んでいた。
「応援、ありがとうございます……でも、松田さん、空手部……」
「いいんだ!俺は今日だけ“拳の兄弟”だからな!!」
その隣で腕を組んでいるのは、ボクシング部の部長・剣崎さん。
冷静沈着なはずの彼も、今日はややそわそわしていた。
そして、もうひとり──剣道部出身で、いまや我がボクシング部の“風紀担当”として活動している藤堂さんが、まるで落ち着きがない。
「……松田、剣崎、あれは……まだか……?」
「な、何がですか?」
「いや……その……昼だろう?ほら、そろそろ……弁当の時間帯だし……」
「……」
明らかに何かを待っている。
いや、正確には「誰かを」待っている。
「……昨日のブログに書いてあったんだよ」
高橋が僕の耳元でボソッと囁く。
「“明日は新人戦。お弁当作って応援行けたらいいな♡”……って」
「母さんの……ブログ……?」
そう、いまこの場に集う“男たち”の視線が一点に集中していた。
会場の入り口──そこに現れるかもしれない“存在”を、誰もが待っている。
剣崎「……試合は10時開始、彼女の移動距離を考えると……もうすぐだな」
松田「いや、朝市の渋滞があるぞ……」
藤堂「おまえら何でそんな分析してるんだ!!」
「おい見ろ!」
会場のざわめきが一気に高まった。
──その瞬間。
「あら、間に合ったみたいね〜」
白い帽子にロングスカート。
笑顔で手を振る、あの人。
「……母さん……」
三人、同時に立ち上がる。
松田「っ! く、来たァァァァ!!」
剣崎「ポジションA、防御体勢を──っ」
藤堂「気を抜くな!!神が舞い降りたぞ!!」
観客席がざわつき、他校の選手までもが「誰?」と視線を送る。
そんな中、母さんはふわりと近づき、笑顔で言った。
「ちょっとお弁当、差し入れにね。みんな、頑張って♪」
──その笑顔に、拳よりも強く打ちのめされた男たちがいた。
そしてリングに向かう僕は、こう思った。
「……今日の勝敗、たぶんもうどうでもいいんじゃ……」
なんとか──本当に「なんとか」だった。
僕は判定でギリギリ勝利を収めた。
試合終了のゴングが鳴った瞬間、膝が笑っていた。
セコンドの剣崎さんが無言で水を差し出してくれ、
松田さんが「よくやったぞ、チビペガサス……」と目元をぬぐっていた。
藤堂さんは両手を組み、「アーメン……」と祈っていた。
そして──
「すごい!かっこよかったじゃない!」
母さんが客席から駆け寄ってきた。
満面の笑み、柔らかい香り。
そして──全力のハグ。
「ちょっ……まっ……母さん……っ」
観客が見てる!後ろに剣崎さんと松田さんがいる!
でも、母さんの顔は無邪気そのもので。
「ほんとに、ほんとに頑張ったのねぇ」
小さく拍手しながら、僕の肩をポンポン叩いてくる。
ああ、なんて母さんって母さんなんだろう。
──その時。
背後から“目に見える緊張”が伝わってきた。
松田:歯ぎしり中(小刻みに震えてる)
剣崎:冷静な顔だが拳がギュッと握られてる
藤堂:なぜか竹刀を取りにいこうとするフリをしてる
会場の空気が、なぜかピリピリしている。
「さっきの試合よりこっちのほうが緊張感あるんじゃ……?」
と誰かが小声で言っていた。
「さ、次は高橋くんの試合だね、応援しなくちゃ!」
と母さんが言って、みんなで観客席を見渡した──
……ん?
……あれ?
……もう試合終わってる……?
「た、高橋……」
視線の先で、ヘッドギアを脱いで帰ってくる高橋がいた。
「終わったの!?え、うそっ、ちょっと、いつ!?」
「……まぁ、ちょっと前にね……」
どこか虚ろな目をしていた。
「すごいじゃない、どうだったの!?」と母さん。
「……うん、まぁ、出られただけでよかったよ」
と遠くを見つめながら言う高橋。肩を落とす。
「す、すまん……完全に見落としてた……」
「……僕も……ハグの衝撃が……」
母さんが「あら、ごめんなさいね、私のせいで」って微笑むと、
高橋は「ううん、来てくれてうれしかったです」って、やけにいい声で返していた。
──結果として、
高橋の試合は誰にも見られておらず、
写真すら残っていないという悲劇だった。
その夜、高橋のSNSに上がった投稿はこうだった。
「出場しました! 結果は……まあ、それなりに。来てくれた人、ありがとう!(※誰もいない)」
コメント欄に、母さんのアイコンがぽんと出ていた。
「よく頑張ったわね☺️また応援行くからね 」
──そして、その“また”が、また何かを巻き起こすことを、
僕たちはまだ知らなかった。