夏が過ぎ、空気に金木犀の香りが混じるようになったころ。
僕は久しぶりに、ひとりで実家に帰ることにした。
「えっ、一人で帰るの?」
と、高橋がちょっと寂しそうに言い、
「……たまには親孝行だな」
と松田さんがしみじみ呟き、
剣崎さんは、カップを手にしながら「そういう時間、大事」と短く言った。
みんな、きっと気を遣ってくれたのだと思う。
──母さんと、二人きりで過ごせるように。
*
電車を乗り継いで、見慣れた駅のホームに降り立つ。
そこから家までの道のりを、僕は久しぶりにひとりで歩いた。
赤く染まりはじめた桜の木。
空気は澄んでいて、風がやさしくて。
この道の先に、母さんがいる──
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
家の前まで来ると、ちょうど玄関が開いて、母さんが顔を出した。
「おかえりなさい、ひとりで大丈夫だった?」
白いニットに、グレージュのエプロン姿。
ゆるく結んだ髪が肩に落ちて、やさしく揺れていた。
「うん、電車も空いてたし、快適だったよ」
僕がそう言うと、母さんはほっとしたように笑って、
「じゃあ、今夜はちょっとだけ豪華にしようか。きのこと栗の炊き込みご飯、作ってあるの」
「わ……ありがとう。楽しみです」
玄関の匂い。台所から聞こえる音。
そして、母さんの笑顔。
全部が懐かしくて、でも変わらなくて。
秋の夕暮れ、僕は「ただいま」と小さくつぶやいた。
──ここが、帰る場所だ。
台所では、母さんが忙しなく動いていた。
白い割烹着に着替えて、まな板を鳴らす音がリズムよく響いている。
僕はダイニングの椅子に座りながら、その姿をぼんやりと眺めていた。
「栗はね、茹でてから包丁で半分に切って、スプーンで中をすくうと楽なのよ」
「へぇ、そんなやり方あるんだ。僕、手で全部むいてたよ」
「それじゃ大変でしょう。……はい、味見してみて」
差し出してくれた炊き込みご飯は、湯気を立てながらふわっと香った。
きのこと栗の匂いが混ざって、思わずため息が出るほどだった。
「……うまい」
「よかった。あんまり濃くしないようにしたの。東京の味に慣れてるかなって思って」
母さんはちょっと不安そうに言ってから、ふふっと笑った。
夕飯は、炊き込みご飯とお味噌汁、それに秋鮭の塩焼きと小鉢がふたつ。
どれも全部、家庭の味。どこにも売ってない、“うちの味”だった。
「最近どう? ボクシング。続いてる?」
「うん。ちょっとずつ慣れてきた。楽しいよ」
「それはよかった。体を動かすのはいいことよ。でも……顔は守ってね? ケガしたら──」
母さんは言いかけて、じっと僕の顔を見た。
「……なんか、男の子の顔になってきたわね。いい顔よ」
「……やめてよ、そういうの」
「ふふっ、照れてる照れてる」
冗談っぽく笑うけど、母さんの目はどこかちょっと寂しそうだった。
僕は黙って箸を置き、湯のみを手に取る。
「……ありがと、母さん」
「えっ?」
「いろいろ、今まで」
一瞬だけ母さんの手が止まって、そして静かに笑った。
「なに? 秋だから? ちょっとセンチメンタルな気分?」
「かもね」
「ふふ、じゃあ今夜はお月見でもしよっか。まだ見えるかな」
母さんは立ち上がって、障子をすっと開ける。
夜空には、まんまるの月がぽっかり浮かんでいた。
「……きれいだね」
「でしょ? 昔さ、ベランダでお団子食べたの、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
「じゃあ、明日白玉粉買ってこようか。また一緒に作ろ」
「……うん、作ろう」
その夜は、久しぶりに実家の布団で眠った。
隣の部屋から聞こえてくる洗い物の音が、やけに懐かしくて、胸に染みた。
カチャカチャという食器の音が、子守唄みたいに優しく響いていた。
──この時間も、この音も、ぜんぶ“帰る場所”の証なんだ。
そう、強く思った。
翌朝。
窓の外は、すっかり秋の色をまとっていた。
風がさわさわと庭の柿の葉を揺らしている。
僕が目を覚ましたとき、もう台所からは包丁の音が聞こえていた。
「……相変わらず早起きだなぁ……」
ぼそっとつぶやきながら居間に向かうと、ちょうど母さんが卵を割ったところだった。
白いシャツにエプロン姿。髪はゆるくまとめて、顔にはうっすら化粧。
それだけで、もう完璧に“朝の母さん”だった。
「おはよう、起きた? ごはんすぐできるわよ」
「おはよう。うん、なんか懐かしい音で目が覚めた」
「ふふっ、包丁の音で目覚めるのは健康的でしょ?」
テーブルにはすでに味噌汁とご飯、それに焼き鮭と小松菜のおひたし。
湯気がゆらゆらと立っていて、まるで時間が止まっているようだった。
「東京でもちゃんと朝ごはん食べてる?」
「まぁ、ぼちぼち……パンとか、バナナとか」
「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。せっかく運動してるんだし」
「……うん、努力します」
苦笑しながら箸を持つと、母さんがふと箸袋を差し出してきた。
「これ、持って帰って。名前入りなの。練習のとき、おにぎりとか持っていくときに使って」
「……え、こんなの作ったの?」
「内職みたいなもんよ。暇だったから」
そんな言い方をしながら、母さんの顔はどこか嬉しそうだった。
「ねえ、今日は庭の柿、少し取って帰りなさい。あと干し芋もあるわよ。剣崎くんたちにも渡してあげて」
「……なんで部長の名前覚えてるんだよ」
「だってLINEに時々出てくるじゃない。あと……高橋くん、最近大丈夫?」
「……いや、まぁ、元気だけど。相変わらず魂抜けてる」
「ふふっ、彼、ちょっと天然でかわいいわね」
「やめてくれ……」
そんな何気ない会話が、どれだけ僕の心を落ち着かせているか、言葉ではうまく言えなかった。
──母さんの朝は、いつも通りだった。
変わらない朝ごはんと、変わらない笑顔。
だけど今の僕には、それがとんでもなく“特別”に思えて仕方なかった。
ご飯を食べ終えたあと、母さんは急に何かを思い出したようにスマホを取り出した。
「あっ、そうだ。昨日、夕方の光がすごく綺麗だったから、つい撮っちゃったのよ〜。ほらこれ、どう?」
と言って見せてきたのは、庭先で撮った母さんの自撮り。
──白いワンピース、ゆるくまとめた髪、オレンジ色の光にふわっと包まれた柔らかな微笑み。
「……え、なんでこれ自撮ったの?」
「ん? ブログ用よ。最近ちょっとずつ始めたの」
「ブログ……!? それ、公開してんの?」
「うん、でも名前は伏せてるし、顔もぼかしてるし大丈夫よ〜」
「いやいやいや、母さん、それは……」
「大丈夫よ、だって“うちの子が世界一”とか書いてないし!」
「……もしかして、それ前に書いてたやつ?」
「ふふっ、内緒よ」
ああ、もう。
結局、この人には敵わない。
そんなことを思いながら、僕は今日の味噌汁をしみじみと味わった。
──夏が過ぎて、季節が巡っても、
きっとこの人は、ずっと“僕の母さん”のままだ。