「お母さん、無自覚美人です 大学生編」   作:松田義和

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第二十一章 一人帰省

夏が過ぎ、空気に金木犀の香りが混じるようになったころ。

僕は久しぶりに、ひとりで実家に帰ることにした。

 

「えっ、一人で帰るの?」

と、高橋がちょっと寂しそうに言い、

「……たまには親孝行だな」

と松田さんがしみじみ呟き、

剣崎さんは、カップを手にしながら「そういう時間、大事」と短く言った。

 

みんな、きっと気を遣ってくれたのだと思う。

──母さんと、二人きりで過ごせるように。

 

 

電車を乗り継いで、見慣れた駅のホームに降り立つ。

そこから家までの道のりを、僕は久しぶりにひとりで歩いた。

 

赤く染まりはじめた桜の木。

空気は澄んでいて、風がやさしくて。

この道の先に、母さんがいる──

それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

家の前まで来ると、ちょうど玄関が開いて、母さんが顔を出した。

 

「おかえりなさい、ひとりで大丈夫だった?」

 

白いニットに、グレージュのエプロン姿。

ゆるく結んだ髪が肩に落ちて、やさしく揺れていた。

 

「うん、電車も空いてたし、快適だったよ」

 

僕がそう言うと、母さんはほっとしたように笑って、

 

「じゃあ、今夜はちょっとだけ豪華にしようか。きのこと栗の炊き込みご飯、作ってあるの」

 

「わ……ありがとう。楽しみです」

 

玄関の匂い。台所から聞こえる音。

そして、母さんの笑顔。

全部が懐かしくて、でも変わらなくて。

 

秋の夕暮れ、僕は「ただいま」と小さくつぶやいた。

 

──ここが、帰る場所だ。

 

 

台所では、母さんが忙しなく動いていた。

白い割烹着に着替えて、まな板を鳴らす音がリズムよく響いている。

僕はダイニングの椅子に座りながら、その姿をぼんやりと眺めていた。

 

「栗はね、茹でてから包丁で半分に切って、スプーンで中をすくうと楽なのよ」

 

「へぇ、そんなやり方あるんだ。僕、手で全部むいてたよ」

 

「それじゃ大変でしょう。……はい、味見してみて」

 

差し出してくれた炊き込みご飯は、湯気を立てながらふわっと香った。

きのこと栗の匂いが混ざって、思わずため息が出るほどだった。

 

「……うまい」

 

「よかった。あんまり濃くしないようにしたの。東京の味に慣れてるかなって思って」

 

母さんはちょっと不安そうに言ってから、ふふっと笑った。

 

夕飯は、炊き込みご飯とお味噌汁、それに秋鮭の塩焼きと小鉢がふたつ。

どれも全部、家庭の味。どこにも売ってない、“うちの味”だった。

 

「最近どう? ボクシング。続いてる?」

 

「うん。ちょっとずつ慣れてきた。楽しいよ」

 

「それはよかった。体を動かすのはいいことよ。でも……顔は守ってね? ケガしたら──」

 

母さんは言いかけて、じっと僕の顔を見た。

 

「……なんか、男の子の顔になってきたわね。いい顔よ」

 

「……やめてよ、そういうの」

 

「ふふっ、照れてる照れてる」

 

冗談っぽく笑うけど、母さんの目はどこかちょっと寂しそうだった。

僕は黙って箸を置き、湯のみを手に取る。

 

「……ありがと、母さん」

 

「えっ?」

 

「いろいろ、今まで」

 

一瞬だけ母さんの手が止まって、そして静かに笑った。

 

「なに? 秋だから? ちょっとセンチメンタルな気分?」

 

「かもね」

 

「ふふ、じゃあ今夜はお月見でもしよっか。まだ見えるかな」

 

母さんは立ち上がって、障子をすっと開ける。

夜空には、まんまるの月がぽっかり浮かんでいた。

 

「……きれいだね」

 

「でしょ? 昔さ、ベランダでお団子食べたの、覚えてる?」

 

「うん。覚えてるよ」

 

「じゃあ、明日白玉粉買ってこようか。また一緒に作ろ」

 

「……うん、作ろう」

 

その夜は、久しぶりに実家の布団で眠った。

隣の部屋から聞こえてくる洗い物の音が、やけに懐かしくて、胸に染みた。

 

カチャカチャという食器の音が、子守唄みたいに優しく響いていた。

 

──この時間も、この音も、ぜんぶ“帰る場所”の証なんだ。

 

そう、強く思った。

 

翌朝。

 

窓の外は、すっかり秋の色をまとっていた。

風がさわさわと庭の柿の葉を揺らしている。

 

僕が目を覚ましたとき、もう台所からは包丁の音が聞こえていた。

 

「……相変わらず早起きだなぁ……」

 

ぼそっとつぶやきながら居間に向かうと、ちょうど母さんが卵を割ったところだった。

白いシャツにエプロン姿。髪はゆるくまとめて、顔にはうっすら化粧。

それだけで、もう完璧に“朝の母さん”だった。

 

「おはよう、起きた? ごはんすぐできるわよ」

 

「おはよう。うん、なんか懐かしい音で目が覚めた」

 

「ふふっ、包丁の音で目覚めるのは健康的でしょ?」

 

テーブルにはすでに味噌汁とご飯、それに焼き鮭と小松菜のおひたし。

湯気がゆらゆらと立っていて、まるで時間が止まっているようだった。

 

「東京でもちゃんと朝ごはん食べてる?」

 

「まぁ、ぼちぼち……パンとか、バナナとか」

 

「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。せっかく運動してるんだし」

 

「……うん、努力します」

 

苦笑しながら箸を持つと、母さんがふと箸袋を差し出してきた。

 

「これ、持って帰って。名前入りなの。練習のとき、おにぎりとか持っていくときに使って」

 

「……え、こんなの作ったの?」

 

「内職みたいなもんよ。暇だったから」

 

そんな言い方をしながら、母さんの顔はどこか嬉しそうだった。

 

「ねえ、今日は庭の柿、少し取って帰りなさい。あと干し芋もあるわよ。剣崎くんたちにも渡してあげて」

 

「……なんで部長の名前覚えてるんだよ」

 

「だってLINEに時々出てくるじゃない。あと……高橋くん、最近大丈夫?」

 

「……いや、まぁ、元気だけど。相変わらず魂抜けてる」

 

「ふふっ、彼、ちょっと天然でかわいいわね」

 

「やめてくれ……」

 

そんな何気ない会話が、どれだけ僕の心を落ち着かせているか、言葉ではうまく言えなかった。

 

──母さんの朝は、いつも通りだった。

変わらない朝ごはんと、変わらない笑顔。

だけど今の僕には、それがとんでもなく“特別”に思えて仕方なかった。

 

ご飯を食べ終えたあと、母さんは急に何かを思い出したようにスマホを取り出した。

 

「あっ、そうだ。昨日、夕方の光がすごく綺麗だったから、つい撮っちゃったのよ〜。ほらこれ、どう?」

 

と言って見せてきたのは、庭先で撮った母さんの自撮り。

 

──白いワンピース、ゆるくまとめた髪、オレンジ色の光にふわっと包まれた柔らかな微笑み。

 

「……え、なんでこれ自撮ったの?」

 

「ん? ブログ用よ。最近ちょっとずつ始めたの」

 

「ブログ……!? それ、公開してんの?」

 

「うん、でも名前は伏せてるし、顔もぼかしてるし大丈夫よ〜」

 

「いやいやいや、母さん、それは……」

 

「大丈夫よ、だって“うちの子が世界一”とか書いてないし!」

 

「……もしかして、それ前に書いてたやつ?」

 

「ふふっ、内緒よ」

 

ああ、もう。

結局、この人には敵わない。

そんなことを思いながら、僕は今日の味噌汁をしみじみと味わった。

 

──夏が過ぎて、季節が巡っても、

きっとこの人は、ずっと“僕の母さん”のままだ。

 

 

 

 

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