午後、母さんと連れ立って買い物に出た。
まだ陽の高い秋の空の下、歩く母さんの横顔はなんだか軽やかだった。
僕は学生用のジャージとスニーカー。母さんは落ち着いたベージュのニットに白のロングスカート、ショルダーバッグを肩に下げている。
「スーパーの特売、今日は玉ねぎが安いのよ」
「え、目的それだけ?」
「ついでにお魚も見たいし、お花屋さんにも寄りたいの」
「いや、結構回るじゃん……」
そんなやりとりをしながら商店街を歩いていると──
「おっ、坊主! 帰ってきてたのか!」
突然、八百屋のおじさんの声が響いた。
その横ではすでに、母さんが笑顔で手を振っていた。
「いつもすみません、トマト美味しかったです」
「へへっ、お母さんが来ると店が華やかになるからなぁ。ほれ、おまけしとくよ」
「あらまぁ、またそんな〜。ありがとうございます」
──まるで、常連客どころか“町の看板娘”のようなやりとり。
僕は手持ち無沙汰にトマトの袋を預かるだけだった。
その後も、
「〇〇さん、この前の煮物、おいしかったわ〜。レシピ聞いてもいい?」とお総菜屋の奥さんに声をかけられたり、
魚屋の若旦那が、「お母さんが来るとマジで活気出るんスよ〜」と謎のコメントを残して笑っていたり──
どこへ行っても、“母さん人気”は健在だった。
僕が支払いを済ませようと財布を出そうとすると、
「あら、お兄ちゃん、今日は男前ねぇ」
「えっ? どこですかそれ」
「お母さんの隣だと、どうしても引き立つのよぉ〜」
なんて失礼なセリフを近所のおばちゃんに言われたりして。
「……母さん、ちょっと人気すぎない?」
「そんなことないわよ〜。ただね、ちゃんと“ありがとう”って言ってるだけ。あとはちょっと笑うのよ」
そう言って、母さんはほんのりと微笑んだ。
──それだけで、また一人通りすがりの男性が、思わず振り返っていた。
夕暮れ時、買い物袋をぶら下げて帰る道すがら。
母さんがふと、隣を歩く僕を見て言った。
「あなた、大きくなったわねぇ」
「今さら?」
「ううん、今が一番感じる。あっという間だったなって」
そんなことを言われると、なんだか妙に照れくさくて、僕は無言で袋を持ち直した。
母さんが僕の腕に視線を落とし、ちょっとだけ目を細めたのに気づいて──
夕方の風が、少しだけ肌寒かった。
でもその隣にいる母さんのぬくもりは、相変わらずやわらかくて、優しかった。
夜。明日にはもう戻るという夜。
実家のリビングは、ほんの少し肌寒くて、こたつを出すにはまだ早いような、そんな微妙な気温だった。
母さんはソファに座って毛布を膝にかけ、編み物なんてしている。いつの間にそんな趣味を?
僕はダイニングテーブルでぼんやり麦茶を飲んでいた。
テレビはついていたけど、誰も内容を追っていない。
流れてくるバラエティ番組の笑い声が、やけに遠く聞こえた。
「……明日、何時に出るの?」
母さんが、毛糸を編む手を止めずにぽつりと聞いた。
「昼前かな。駅までタクシー呼ぼうと思ってる」
「じゃあ……朝ごはん、ちょっと早く作るわね」
「いいよ、パンで適当に」
「……でも、最後の朝ごはんでしょう?」
その言葉に、ふと手が止まった。
最後って。たった数日いただけなのに、その言い方はずるい。
母さんの口調はいつも通りだったのに、なんだか胸が詰まった。
「じゃあ……味噌汁、お願いしてもいい?」
「ふふ。了解しました。具は何がいい?」
「豆腐と……わかめ」
「はいはい、わかめね。じゃあ切らしてないか見てくるわ」
そう言って、母さんはふわっと立ち上がると、キッチンへと消えていった。
僕は手元のコップを見つめながら、明日また一人になることを考えた。
あの部屋。あのアパート。布団をたたむのも洗濯も、自分でやる日々。
母さんがいないことは、当たり前になっていたはずなのに、
一度こうして一緒に過ごすと、空気ごと持ち帰りたくなる。
「……冷蔵庫にまだ漬物あるから、持って行きなさいねー」
奥から母さんの声。
「うん」
そう答えたあと、僕は小さくつぶやいた。
「……やっぱ、帰ってきてよかったな」
聞こえなかったはずなのに、キッチンの向こうで、母さんがそっと笑った気がした。
──翌朝、僕の荷物には、豆腐とわかめの味噌汁と、手作りのおにぎり、そしてほんのり花柄のハンカチがそっと添えられていた。
それが、また僕の新しい一週間の始まりだった。
下宿に戻ると、玄関前に妙に見慣れた影が三つ──いや、四つ。
「おかえり、久しぶりだな」
「よう、元気だったか?」
「……で、どうだったんスか」
「さあ語れ、すべてをな」
松田さん、剣崎さん、高橋、そして藤堂さんが、まるで交番前で職質でもするかのように並んで僕を囲んできた。
「……ただいま。なんでいるの」
「察しろ。おまえが“帰省する”って言った時点で、俺たちの秋も終わった」
松田さんが腕を組んで真顔で言う。
「何が“秋も終わった”だよ。……普通に帰省しただけだし」
「その“普通”がな。君の家では“事件”を意味するんだよ」
高橋がわざとらしくため息をつき、剣崎さんはうなずいている。
「で?母上は……お元気だったか?」
藤堂さんが、ものすごく丁寧に聞いてくる。なんだその敬語。
「……元気だったよ。買い物行って、晩ご飯一緒に食べて、駅まで見送ってくれた」
「うわー、その“駅まで見送る母”ってもうさ……エモの暴力だよな……」
高橋が後ろの壁に寄りかかり、目を閉じる。
「写真は?LINEは?動画は?ブログ更新は?」
松田さんが身を乗り出してくる。
「なんで松田さんのほうが母さん情報に敏感なんだよ……」
僕はスーツケースを引いて自室に戻ろうとしたが──。
ピコン♪
またLINEの通知が鳴った。
その場の空気が……ピタリと止まった。
「今の音……」
「まさか……」
「開けるのです」
「抵抗は無意味だ」
──恐る恐るスマホを見ると、
《さっき駅で撮った写真✨ 髪が風でボサボサだけど、記念にね☺️》
という母さんからのメッセージと、自撮り写真が添付されていた。
駅のホーム。夕暮れ。風に揺れる髪。
白いカーディガンに、秋色のストール。
そして──少しだけ寂しそうな、でもやっぱり優しい、笑顔。
僕はそっとスマホを伏せた。
「……ただいま、俺の静かな日常」
「いや、それはもう戻ってこないよ」
高橋が即答した。
こうしてまた、平穏とは程遠い、でもどこか居心地のいい“日常”が始まったのだった。
と思ったら。
ピコン。
まただ。またLINEだ。
「……いまの音、LINEですよね?」
「さっきの駅のやつで終わりかと思ってたのに……」
「まさか、まさか続編……?」
「いや、それはない。あってはならん……!」
ざわつく四天王。
四人の視線が一斉に僕のポケットに突き刺さる。
僕はため息と共にスマホを取り出し、そっと画面を覗いた。
──《夏に撮った水着写真あったから送るね ️》──
「…………」
「…………」
「…………」
「うわーーーーー!!!」
どよめき、というより、もはや地鳴り。
高橋がテーブルに頭をぶつけ、松田さんが拳を握りしめて天を仰ぐ。
剣崎さんは口を開いたまま固まり、藤堂さんはなぜか正座しはじめた。
「ちょ、お前……まさか……見るのか?」
「いや、開けるな。開けたら戻れないぞ!」
「我らが日常は、もはや日常ではないのだ……」
「静まれ!開ける前に、一度深呼吸を──」
「……開けるよ?」
ピッ。
──そこには、真夏の庭先。
鮮やかな水色のビキニに身を包んだ母さんの笑顔。
背景には一面の花。
そして日差しを受けてきらめく髪。
まぶしい。あまりにも、まぶしすぎる。
「うわああああ!!」
「無理!無理!俺、無理!!」
「アレは……反則だ……ッ」
「……これが“無自覚の神託”……」
誰だ今、神託って言ったの。
「ちょっとお水飲んでくる……」
高橋がふらつきながら台所へ。
松田さんは窓辺に立ち尽くし、剣崎さんはスマホの構造を見つめながら「記憶はどうやって消すんだ……」とつぶやく。
そして僕は、スマホを伏せて静かに言った。
「……だから言ったでしょ。帰省は、爆弾を持ち帰ることだって」
それでも彼らは、今日も僕の部屋に集まってくる。
たとえ爆発の余韻に包まれながらでも──この混沌こそが、僕たちの日常なんだから。