秋の風が、木々の葉を静かに揺らしていた。
縁側に腰かけた僕は、白髪まじりの髪を帽子の下に押し込みながら、少し首をすくめた。
足元には湯気の立つ湯呑み。脇には読みかけの文庫本。
空気はすっかり冷たく、でもどこか、懐かしい匂いがした。
「あれから、もう五十年か……」
思わず、そんな独り言が口をついた。
この家も随分と古くなったけれど、手入れを欠かさなかったからか、今も穏やかに僕を迎えてくれる。
母さんが残した白いレースのカーテンが、柔らかく揺れている。
──母さん。
いったい、どれだけの時を、あの人の笑顔に守られてきたのだろう。
強くて優しくて、ちょっと天然で、そして時々、誰よりも綺麗で。
大学生だったあの頃。
仲間たちと騒がしく過ごした日々。
何度も実家に押しかけては、母さんの手料理を目当てに「合宿」だの「視察」だのと好き勝手に名目をつけて。
母さんも、まんざらでもなさそうに笑ってたっけ。
思い出すのは、あの“夏”。
みんなで帰省した暑い夏の日。
ボクシング部の松田、剣崎、高橋、そして……藤堂や、あと、あのあとから加わったシンまで。
個性が強すぎて衝突もしたけれど、不思議と一つの輪になれた。
彼らと出会えたことが、人生でどれだけの財産だったことか。
母さんの誕生日をこっそり祝った夜のことも、よく覚えている。
みんなが必死で用意して、プレゼントを渡して、母さんがほんの少し泣いて──
あの時だけは、誰も茶化さずに、静かに笑っていた。
「あなたたちに、出会えてよかったわ」
そう言ってくれた母さんの言葉が、今も胸の奥に残ってる。
……気づけば、仲間の何人かとはもう会えなくなってしまった。
剣崎は定年後、旅に出たまま音信不通。
藤堂は剣道道場を任され、頑固な“親方”として地域の子供たちに怖がられているとか。
シンはテレビで見かけたきり。
高橋は、まさかあんなに立派な政治家になるとは思わなかったけれど、演説の語尾に「〜っス」が残ってるのには笑った。
松田……お前だけは最後まで「俺が守る」って言って、母さんを本当に大事にしてくれてたな。
……ありがとう。
ふと、ポケットの中に手を入れると、ある小さな紙が指先に触れた。
それは、母さんが最後に残してくれた手紙だった。
少し色あせた封筒。
字は、昔のままだった。
丸くて、丁寧で、優しい字。
「あなたが歩くその先に、いつも帰る場所があるように。
どんなに遠くにいても、私はここであなたの幸せを祈っています。」
読み返すたびに、泣きそうになるのは年を取って涙腺が緩んだからじゃない。
母さんの想いが、今も変わらずそこにある気がするからだ。
日が傾いてきた。
縁側から見える庭には、母さんが育てていた白い椿が、今年も咲いていた。
その花に向かって、僕はそっと頭を下げた。
「ただいま。……そして、ありがとう」
静かな風が、頬をなでていった。
まるで、母さんがそっと、背中を押してくれたようだった。