三月末、僕は一人暮らしを始めた。
最初のうちは意外と快適だった。
朝は好きな時間に起きられるし、食事も外食や冷凍食品で適当に済ませられる。
洗濯も……まあ、週一で回せば何とかなる。
そう思っていたのは、ほんの二週間程度のことだった。
――慣れとは恐ろしい。
米は炊かなくなるし、冷蔵庫の中はペットボトルとマヨネーズだけ。
そして洗濯機の下からなぜかカビのような匂いがしてくる。
何より、食卓が無言だ。誰もいない部屋で、誰の話もしない夕食。
その静けさだけが、妙に耳に残った。
そんなある日。
アパートの玄関前に、見覚えのある段ボールが届いた。
“○○運送”のロゴと、手書きの送り主名「母さん」。
段ボールには、「ワレモノ注意」の赤いテープ。
箱の上には、母さんの筆跡でこう書かれていた。
「食べすぎ注意。甘やかし便です」
開けると、まず目に飛び込んできたのは、ホッカホカの手料理……ではなく、タッパーにぎっしり詰まった常備菜。
ひじきの煮物、きんぴら、レンコンの炒め物。冷凍おにぎり、出汁パック、のど飴、湿布……そして謎のコロコロクリーナー。
まさに“生活を送ってきた”感じの中、僕はふと底の方に、薄い封筒があるのに気づいた。
封筒の中には、数枚の写真が。
1枚目──
ベランダに干された洗濯物と、日傘を持って振り返る母さん。
2枚目──
買い物袋を下げた母さんが、台所で包丁を握っている横顔。
エプロンをかけたまま、笑ってこっちを見ている。
3枚目──
実家の庭。小さな桜の木の前で、花を見上げている母さんの後ろ姿。
……なにこれ。
なんで“母さんの私物写真”が入ってんの?
思わず笑いそうになったけど、それと同時に、胸がぐっと締めつけられた。
写真のどれにも、僕は写っていない。
でも、全部どこか僕に向けられているようだった。
まるで、母さんが“ここで待ってるからね”って、伝えてくるみたいで。
添えられていた小さなメモには、こう書かれていた。
「部屋が寂しいでしょ。私がいても何もできないけど、写真くらいなら黙ってそこにいてくれるから」
「風邪ひかないで。洗濯物はためすぎないでね」
言葉の端が、やっぱり母さんだった。
僕は写真を一枚だけ、机の本棚の間に立てかけた。
ベランダの陽射しと母さんの横顔のやつ。
「……ありがと」
独り言のようにそうつぶやいて、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
そして翌日。
授業から帰ると、ポストにまた母さんからの封書が届いていた。
中身は──
さっきの写真の「撮影裏話」と「おすすめのお茶」紹介、そして「次回予告」らしきメモ。
「次は、おにぎりと唐揚げと、アクスタ的なやつ(自作)を送ろうかと思ってます」
勘弁してくれ。
でもちょっと、待ち遠しい。
その封筒が届いたのは、それから1週間後のことだった。
差出人は、もちろん母さん。
宛名の下に、見慣れないスタンプが押してある。
「取扱注意:心の支えが入っています」
……嫌な予感しかしない。
そっと封を切ると、まず飛び出してきたのは、ビニールに包まれた透明の板。
いや、板というより、何かの台座? そして──
「……これ、まさか……」
出てきたのは、母さんのアクリルスタンド。
本当に、アクスタだった。
ちゃんと厚みのあるプラスチック製で、立体加工されている。
手にした瞬間、乾いた笑いがこぼれた。
母さんが自宅の庭先で、日傘を差しながらほほえんでいるワンショット。
背景は白飛び気味。手にはお茶の入った湯呑み。
しかも、台座には金色の文字でこう書いてある。
《No Mom, No Life》
自作のくせに、完成度が妙に高い。
このフォント、どこで手に入れたんだよ……。
続いて、母さんからの手紙が同封されていた。いつものメモ用紙。
その文字を、僕は思わず声に出して読んだ。
「こんにちは、アクスタ第1号です!
さみしい夜のお供にどうぞ。
部屋に立てておくと、たまに小言を言ってくれる気がします」
「(ちなみに次は、エプロン姿編・おにぎり編・図書館読書編の予定よ)」
もう笑うしかなかった。
結局その晩、僕はアクスタを机の隅に立てて過ごした。
ひとり暮らしの夜。
エアコンの音だけが響く静かな部屋で、母さんのアクスタがこちらを見ている。
本当に、小言を言ってくる気がした。
「もう夜更かしして。顔色、悪くなるわよ〜」
「洗濯物、ためちゃダメって言ったでしょ?」
どこか懐かしいその声が、心の中でリフレインしていた。
*
そして翌日。
同じアパートの友人・高橋が部屋に遊びに来た。
勉強会のつもりが、すぐに雑談タイムになるのはお約束だった。
「お前んち、変な置物あるな」
「……置物じゃない。アクスタだ」
「誰のだよ、それ」
僕はため息をついてから言った。
「……母さん」
「は?」
「母さんのアクスタ」
一瞬の沈黙。
それから高橋は、声を押し殺して爆笑しはじめた。
「……お前、それ……どんな教育受けてきたんだよ!」
僕も思わず笑ってしまった。
でも、笑いながらも、胸のどこかでは──
この透明な小さな“母の姿”が、今の僕を支えてくれている気がしてならなかった。
部屋の片隅。
そこにあるのは、変わらない誰かの気配。
アクスタは黙って立っているけれど、
僕にとっては──ちゃんと、“帰れる場所”だった。
高橋は、まだ笑いながらもアクスタに顔を近づけて覗き込んだ。
「──え、待って。これ……」
笑い声が止まる。
「……めっちゃ綺麗な人じゃん」
その声に、僕は一瞬返事ができなかった。
アクスタに映る母さんの姿──庭先で日傘を差しながら微笑んでいる、あの一枚を、
高橋はじっと見つめていた。
「え、これ……本当にお前の母ちゃん? 嘘でしょ?」
「……本当だよ」
「いや、だって……芸能人じゃん、これ。え、マジで?」
顔を上げた高橋の表情は真剣そのものだった。
「……あのさ、お前。俺、前から思ってたけど、母ちゃんの話になると微妙に照れるじゃん。なんか隠してんのかと思ってたけど……いや、なるほどな。こりゃ照れるわ」
僕は何も言えずに、ただ苦笑いするしかなかった。
「写真だけでこれって、実物どんだけ破壊力あるんだよ。……なあ、今度お前の家に──」
「──無理だ」
言い終わる前に、僕はキッパリ断っていた。
高橋は両手を上げて、「いやいや、冗談だって」と笑ったが、
その目がまだ、アクスタから離れないのを僕は見逃さなかった。
「この角度さ、すげえ自然な笑い方してんのがヤバい。……これ、アクスタっていうより、存在がもうアートだわ。はー……」
「やめてくれ」
僕は思わずアクスタを手に取り、元のビニールにそっと戻した。
「それ、俺には“お守り”みたいなもんなんだよ。……あんま、変な目で見るな」
「……悪い、そういうつもりじゃなかったけど。マジで綺麗だなって、正直思っただけ」
「……わかってる」
僕は視線を落としながら言った。
けれどその日からだ。
高橋の態度が、なんとなく変わったのは。
いつものラフな距離感はそのままに、
「母ちゃん元気?」なんて、妙にさりげなく聞いてきたり、
「今度の長期休み、帰省するの?」とか、聞かれてもないのに予定を合わせてきたり。
──おい、やめてくれ。
心の中で僕はそう叫びながらも、
なぜか母さんのアクスタを机に立て直す自分がいた。
やっぱり、どこかで嬉しかったのかもしれない。
自分だけじゃない、誰かも──
“母さんの魅力”に気づいてしまったことが。
その日から僕の部屋のアクスタには、
“透明ケース+鍵付き”という新たな防御が施されることになる。
誰にも、簡単に触れさせたりはしない。
それは──僕だけの、特別な“家の光”だったから。