講義が終わり、キャンパスの隅にあるベンチで、僕と高橋はいつものように缶コーヒーを飲んでいた。
木漏れ日がちらちらと揺れて、初夏の風がシャツの裾をふわりと揺らす。
「なあ、お前実家に帰ってたんだよな?」
高橋が唐突に切り出した。
「うん。ゴールデンウィークだったし、ちょっとだけ」
「……お母さん、元気そうだった?」
(またその話か)
「まあ、あいかわらずだよ。庭の草むしりして、張り切ってた」
「そっか……」
高橋は缶を一口飲んだあと、視線を遠くへ向けた。
「なんかさ……会ったときのこと、たまに思い出すんだよ」
「……え?」
高橋はずっと落ち着かない様子で、しきりに僕に話しかけてきた。
あの日以降、どこかフワついてるというか、ひとつテンポがズレているというか──。
「……なんか、柔らかい人だよな。話し方とか、目線とか」
「うちの母さんが?」
「うん。あれだけなのに、なんか……妙に覚えてる」
高橋はぽりぽりと自分の後頭部をかいた。
「変な意味じゃないってのはわかってるけど……」
「まあ、母さんって、放っとけないタイプではあるかも」
「うん。なんつーか、“ああ、この人と並んで歩く人、幸せだろうな”って、思っちゃったんだよな」
その一言に、思わず言葉が詰まる。
「……バカじゃねぇの」
「バカだよな、俺」
高橋はそう言って笑った。
だけど、あの笑いはたぶん、本気だった。
「……なあ、今度また実家帰ったらさ。お母さんに、よろしくって伝えといてくれない?」
「……お前、何者だよ」
「通りすがりの、ペガサスの親友、ユニコーンだよ」
言ってから、「あ、やべ」と自分で笑う高橋。
──やっぱり、どこか母にやられてる。
僕はふと、昨夜届いた“写真”のことを思い出した。
送ってきた張本人は、あいかわらず何気なく笑ってるだけだろうけど……。
彼女の無自覚な破壊力は、どうやら距離を置いても健在らしい。
ある土曜の午後。僕は大学の課題で使う資料を探すため、自室のノートパソコンを開いていた。
作業の合間にふとスマホを繋ぎ、写真のバックアップを開始する。
Wi-Fiが遅いせいで思ったより時間がかかっていて、暇つぶしにベッドに寝転がっていると──
「よう、いるかー?」
不意にドアがノックされ、高橋がひょっこり顔を出した。
「ノート貸してくれ、例の講義のやつ」
「はいはい、ちょっと待って」
僕は机の引き出しを開けてノートを探す。
その間、高橋は勝手知ったる様子で机の前に座り、PCの画面をチラ見した。
──それが、運の尽きだった。
「……おい」
「ん?」
「……このフォルダ、“おふくろ”って書いてあるけど……開いていい?」
「は?」
振り返った瞬間には、もう遅かった。
「うっ……あれ……なにこれ……」
高橋が椅子にもたれかかったまま、わずかに目を見開き、無言でフリーズしている。
僕は飛びかかるようにパソコンの前に走った。
「おいバカ!勝手に開くなって言っただろ!」
「言ってねぇし……!」
「……いや、だからって!」
画面には昨夜、母が何気なく送ってきた1枚の写真が大写しになっていた。
洗面所の鏡越しに、リネンシャツを軽く羽織り、わずかに濡れた髪を無造作にかき上げている母。
頬に少しだけ光が反射して、まるで雑誌の1ページのように“自然で綺麗”だった。
「……これ、まじでお前の母さん……?」
高橋が絞り出すように言った。
「そ、そうだよ……」
「ごめん……俺、いまちょっと呼吸整えてる……」
「なんでだよ」
「目が……心が……追いつかない……」
高橋は額を押さえて、文字通り崩れ落ちそうになっていた。
「いや、お前前に会ってんじゃん、母さんに。今さらなにを」
「いやいやいや、あのときは“生”だったから……ある意味防御できたんだよ。だって周囲もあったし……」
「……防御?」
「でもこれは違う!一対一!フルスクリーンで直撃食らったら、そりゃもう……」
高橋はぶつぶつ言いながら、僕のベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
「……お前、あの人と毎日暮らしてたのか。すげえな、尊敬する」
「なんの尊敬だよ」
「いやもう、普通に目合わせられない気がしてきた……」
「やめろって」
その日はしばらく、高橋はまともに立ち上がれなかった。
そして翌週のキャンパスで、僕はなぜか“母親美人伝説”の火種が再燃していることを知ることになる──