芸能人の息子がいる──そんな噂が、いつの間にか大学内でささやかれ始めた。
はじめは「へぇ〜そうなんだ」くらいの軽い話題だったのが、徐々に尾ひれがつき、「母親が超絶美人で芸能活動をしている」「元タレントらしい」「あの人を町で見たことある」なんて話になっていた。しかも、肝心の“誰の母親か”ははっきりしていないらしい。
──でも僕には、なんとなく分かっていた。
きっと、その中心にいるのは、母さんだ。
「まさかね」と思う気持ちと、「いや、ありえるな……」という諦めが入り混じる日々。
そして、その“確信”は突然の形で裏切りなく現実となった。
*
「おい、そこの一年」
学食の出口で声をかけてきたのは、黒尽くめの男、下着まで黒いとわかるほどの黒尽くめの男──三年の空手部主将、松田さんだった。全身から放たれる圧──ただごとじゃない。
「は、はい……」
「お前か。“芸能人の息子”ってのは」
「え?」
「俺はな、そういう惰弱なボンボンが大嫌いなんだ。華やかさに胡座かいて、ろくに努力もせず──顔がよくて注目されるだけのやつが!」
そんなこと言われても、僕は別に顔で得してきた覚えはないし、芸能活動なんてしてるのは母さん……というか、してないし! たぶん。
「……ちょっと顔貸せや」
僕の肩をがっしり掴むと、松田さんはそのままズンズンと歩き出した。
ついていくしかない空気だった。ていうか、めちゃくちゃ怖い。
「ちょ、どこ行くんですか……?」
「道場だ。お前に“本物”を叩き込んでやる」
いやいやいやいや。
汗が滲む。なんでこんなことに──
だが、そんな僕を救ったのは、あまりにも予想外な“あの声”だった。
「あらっ、○○じゃないの。こんなところでどうしたの?」
涼しげな声に振り向くと、日傘を片手に、母さんが立っていた。
薄手の白いブラウスに、品のあるベージュのロングスカート。ナチュラルな笑顔と相まって、まるでCMから抜け出してきたような姿だった。
「これからアパートに行くところだったのよ。肉じゃが作りすぎちゃって」
と、タッパーの詰まったエコバッグを持ち上げる。
「……お友達?」
その瞬間、松田さんの動きがぴたりと止まった。
「……母さん、この人はその……」
「松田です。三年、空手部の者です」
さっきまで「道場に連れてく」と言っていた人とは思えない低姿勢で、深々と頭を下げている。
「まぁ、ご丁寧に」
母さんはにこりと笑って会釈した。
「○○くん、良いお友達がいて安心だわ〜」
松田さんの口元が微妙に引きつっているのが見えた。
「……いや、俺、ちょっと用事思い出したわ。また今度な」
そう言って踵を返す松田さん。その背中に漂う“敗北”のオーラ。
「……え、いいんですか道場は」
「うるさい黙れ。大切にしろよ、その母ちゃん」
「あ、松田さん?」
「はいー!」
やすこのような返事をする松田さん。
「これ一つどうぞ」
とタッパーを渡す母さん。
「えっ!あの、あの、ありがとうございます!」
120度くらいのお辞儀をする松田さん。
そのままの姿で彼は遠ざかっていった。
「あらあら、なんだったのかしら? じゃあ、これ持ってって。夕飯にでも食べてね」
差し出されたタッパーの重みが、やけに胸に響いた。
──やっぱり母さんはすごい。しかも、無自覚に。
そして今日もまた一つ、“伝説”が更新された。
道場で、松田がひとり、虚空に向かって叫ぶ。
「ありゃ……女神だろ……」
その日、午後の講義が終わって図書館へ向かおうとした僕の前に、再び“黒い影”が立ちはだかった。
──松田さん、だった。
相変わらず全身黒尽くめ。Tシャツもパンツもリュックも黒。もう一周まわって清々しいほどの漆黒スタイル。けれど、その表情は前回とは打って変わって、どこか妙に神妙で。
「……この前は、すまなかった」
言うなり、深く頭を下げる松田さん。周囲の学生が「えっ今の松田先輩!?」とざわつくのが聞こえる。
「い、いえ……あの時は僕もびっくりして……」
「礼を言いたかった。あの時、お前の母上が──い、いや、“お母様”が……その……」
また黙り込んだ。
松田さんはちらりと周囲を見回し、僕を脇の植え込みの影に連れていった。なぜか妙にこそこそとしている。
「……俺は松田カズキ。名前の字は、“一に輝く”って書いてカズキ」
「はい……?」
「一部では“鳳凰”って呼ばれてる。……燃え上がって、何度でも蘇る存在だからって」
すごい異名だなと思ったが、僕は口には出さなかった。
「まぁ、それは置いといて……その、だな……」
再び言葉に詰まる松田さん。
彼は唇を噛みながら、決死の覚悟で言った。
「……もし、また“お母様”にお会いすることがあったら……その……お手製のおかずの……レシピを……聞いていただけませんか……」
「レシピ……?」
「いや、ほんと、感動したんだ。肉じゃがだ。出汁の染み方が違った。あと、たぶん……愛情、だと思う」
顔は真剣そのもの。笑っちゃいけない、と思えば思うほど、喉の奥がむずむずした。
「……それだけですか?」
「いや……本音を言えば……」
彼は眉を下げ、ためらいがちにこう続けた。
「……あの“お母様”が、忘れられない……」
なんだこれは。
「それで、俺は決めたんだ。お前のこと、勝手にライバル視してたけど──今日からは、弟として認める」
「いや、それもちょっと違う気が──」
「困ったことがあったら何でも言え。“鳳凰”が力になる。あと、その、家庭料理、俺も学びたいから、今度その……ご実家に一緒に帰るとか、ないか?」
僕は無言で頭を抱えた。
──騒ぎは去っていなかった。
むしろ、新たな“信徒”が生まれていたのだった。