松田さんと出会って、僕は少しずつ自分のことを考えるようになっていた。
大学に入って実家を離れ、一人暮らしを始めてから、生活は確かに自由になった。でも、そのぶん無力さも痛感していた。なにか起きても、すぐには母さんのところに駆けつけられない。心配は募る一方で、守りたい気持ちばかりが空回りする。
──だから、強くなりたい。
単純だけど、ふとそう思った。
ある日の放課後、僕は思い切って松田さんを呼び止めた。
空手部の部室棟前。相変わらず全身黒ずくめのその背中に、少しだけ勇気を出して声をかけた。
「松田さん、お願いがあるんです」
彼は目を細めて振り返った。
「おう、どうしたペガ……いや、星矢」
「僕、空手部に入れてもらえませんか?」
その瞬間、松田さんの顔が、グッと真剣な色に変わった。
「……理由を聞いてもいいか?」
「もっと、自分を鍛えたいんです。自信も、体力も。あと……」
僕はそこで、少し言い淀んでから、続けた。
「いざってとき、誰かを守れる自分になりたいんです。母さんみたいな人を」
松田さんは黙って、僕を見つめた。
しばらくして──
「悪いが、ダメだ」
「……え?」
「お前はまだ、母上のことを“守らなきゃいけない”って思ってる。だが、あの人は守られるだけの存在じゃない。むしろ、あの人に影響されてるのは、俺たちの方だ」
「……」
「星矢、お前には“お前の戦い方”があるはずだ。拳だけがすべてじゃない。お前はお前らしく、自分を強くしろ」
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
でも──なぜかその言葉は、まっすぐ胸に届いた。
「……でも、見学だけでもいいですか。空手部」
すると松田さんは、急に照れたように頭をかいた。
「ま、たまには来てくれよ。母上の“最新情報”持ってきてくれれば、歓迎だ」
「そこかよ」
僕は思わず苦笑いした。
松田さんと話すと、なぜか不思議と肩の力が抜ける。
不器用だけど、まっすぐな人だと思った。
きっと、こういう人がいる場所なら、僕も少しは変われるかもしれない。
ゆっくりでも、僕なりに。
──そう思いながら、僕は少しだけ背筋を伸ばして、夕暮れのキャンパスを歩いた。
新学期の午後。
春風がキャンパスを吹き抜ける中、僕は昼休みの終わりを惜しむように、図書館前のベンチに腰掛けていた。
空を見上げると、雲一つない青。心だけが、少しだけ重かった。
──何か、始めたい。変わりたい。
そんな漠然とした思いのまま過ごす日々。
その時だった。
「お前、興味ありそうな顔してるな。……ボクシングとか」
声をかけてきたのは、黒のジャージを着た長身の男。
その目は細く鋭く、まるで相手の本音を射抜くような光を帯びていた。
「え……あ、僕ですか?」
「そう。今日、体験入部がある。来るなら、来い」
有無を言わせぬ口調だった。
だけど、なぜか不快ではなく、不思議と抗えない吸引力があった。
「えっと……どこで?」
「体育館裏、地下。18時からだ。……遅れるなよ」
そう言って、男は踵を返した。
名前も名乗らず、去っていくその背中に、なぜか僕は目を離せなかった。
*
夕方、指定された場所に行くと、地下のジムには数人の部員がいた。
汗の匂いとミットの乾いた音が、空気を切り裂くように響いていた。
その中に、さっきの男がいた。
今度はボクシンググローブをつけ、指導している姿だった。
「来たか。……荷物そこに置け。動ける格好になってろ」
「あ、はい。あの……名前、教えてもらっても?」
彼はグローブを外しながら、ちらりと僕を見る。
「剣崎。部長だ」
聞いたことがある。ボクシング部にスーパースターがいるって。
この人がそうか。
短く、それだけを言った。
でもその一言に、部員たちがピリッと空気を引き締めるのがわかった。
「お前、何のためにボクシングやりたいんだ」
「……自分でも、よくわからないです。ただ……強くなりたくて」
「誰かのためか?」
僕は、ハッとした。
それはまさに、松田さんに言われた言葉と重なっていた。
「……最初は、そうだった。でも今は……自分のために、って思ってます」
剣崎は目を細めて、数秒黙った後、わずかに口の端を上げた。
「なら、グローブをつけろ」
*
サンドバッグに向かう僕の背中に、彼の声が飛ぶ。
「腕じゃない。腰で打て。呼吸と一緒に吐き出せ。……感情をぶつけるな」
言葉は冷たい。けれど、そこに確かに“導く力”があった。
練習が終わるころ、足はガクガクで、腕は痺れていた。
けど、不思議と気持ちは晴れていた。
そんな僕の横に、いつのまにか高橋が立っていた。
「おー、お前だけズルいな。俺も入るわ、ボクシング部」
「……理由は?」
「ん? 腹筋割りたいだけだけど?」
やっぱりな。
剣崎がちらりと高橋を見た。
「……やる気があるなら、誰でも構わない。ただし──本気でやれないなら帰れ」
その目は厳しくも、どこか試すような光を宿していた。
「俺、けっこうやるときはやるよ?」
「……なら、見せてみろ。グローブをつけろ」
こうして、僕と高橋のボクシング部での挑戦が始まった。
剣崎という“冷たい炎”のような男の下で、
僕は、誰かのためじゃなく、自分の足で立つ強さを、少しずつ手に入れていくのだった。