「お母さん、無自覚美人です 大学生編」   作:松田義和

8 / 28
第七章 ボクシング

松田さんと出会って、僕は少しずつ自分のことを考えるようになっていた。

 

大学に入って実家を離れ、一人暮らしを始めてから、生活は確かに自由になった。でも、そのぶん無力さも痛感していた。なにか起きても、すぐには母さんのところに駆けつけられない。心配は募る一方で、守りたい気持ちばかりが空回りする。

 

──だから、強くなりたい。

単純だけど、ふとそう思った。

 

ある日の放課後、僕は思い切って松田さんを呼び止めた。

空手部の部室棟前。相変わらず全身黒ずくめのその背中に、少しだけ勇気を出して声をかけた。

 

「松田さん、お願いがあるんです」

 

彼は目を細めて振り返った。

 

「おう、どうしたペガ……いや、星矢」

 

「僕、空手部に入れてもらえませんか?」

 

その瞬間、松田さんの顔が、グッと真剣な色に変わった。

 

「……理由を聞いてもいいか?」

 

「もっと、自分を鍛えたいんです。自信も、体力も。あと……」

 

僕はそこで、少し言い淀んでから、続けた。

 

「いざってとき、誰かを守れる自分になりたいんです。母さんみたいな人を」

 

松田さんは黙って、僕を見つめた。

しばらくして──

 

「悪いが、ダメだ」

 

「……え?」

 

「お前はまだ、母上のことを“守らなきゃいけない”って思ってる。だが、あの人は守られるだけの存在じゃない。むしろ、あの人に影響されてるのは、俺たちの方だ」

 

「……」

 

「星矢、お前には“お前の戦い方”があるはずだ。拳だけがすべてじゃない。お前はお前らしく、自分を強くしろ」

 

言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。

でも──なぜかその言葉は、まっすぐ胸に届いた。

 

「……でも、見学だけでもいいですか。空手部」

 

すると松田さんは、急に照れたように頭をかいた。

 

「ま、たまには来てくれよ。母上の“最新情報”持ってきてくれれば、歓迎だ」

 

「そこかよ」

 

僕は思わず苦笑いした。

 

松田さんと話すと、なぜか不思議と肩の力が抜ける。

不器用だけど、まっすぐな人だと思った。

 

きっと、こういう人がいる場所なら、僕も少しは変われるかもしれない。

ゆっくりでも、僕なりに。

 

──そう思いながら、僕は少しだけ背筋を伸ばして、夕暮れのキャンパスを歩いた。

 

新学期の午後。

春風がキャンパスを吹き抜ける中、僕は昼休みの終わりを惜しむように、図書館前のベンチに腰掛けていた。

空を見上げると、雲一つない青。心だけが、少しだけ重かった。

 

──何か、始めたい。変わりたい。

 

そんな漠然とした思いのまま過ごす日々。

その時だった。

 

「お前、興味ありそうな顔してるな。……ボクシングとか」

 

声をかけてきたのは、黒のジャージを着た長身の男。

その目は細く鋭く、まるで相手の本音を射抜くような光を帯びていた。

 

「え……あ、僕ですか?」

 

「そう。今日、体験入部がある。来るなら、来い」

 

有無を言わせぬ口調だった。

だけど、なぜか不快ではなく、不思議と抗えない吸引力があった。

 

「えっと……どこで?」

 

「体育館裏、地下。18時からだ。……遅れるなよ」

 

そう言って、男は踵を返した。

名前も名乗らず、去っていくその背中に、なぜか僕は目を離せなかった。

 

 

夕方、指定された場所に行くと、地下のジムには数人の部員がいた。

汗の匂いとミットの乾いた音が、空気を切り裂くように響いていた。

 

その中に、さっきの男がいた。

今度はボクシンググローブをつけ、指導している姿だった。

 

「来たか。……荷物そこに置け。動ける格好になってろ」

 

「あ、はい。あの……名前、教えてもらっても?」

 

彼はグローブを外しながら、ちらりと僕を見る。

 

「剣崎。部長だ」

 

聞いたことがある。ボクシング部にスーパースターがいるって。

この人がそうか。

 

短く、それだけを言った。

でもその一言に、部員たちがピリッと空気を引き締めるのがわかった。

 

「お前、何のためにボクシングやりたいんだ」

 

「……自分でも、よくわからないです。ただ……強くなりたくて」

 

「誰かのためか?」

 

僕は、ハッとした。

それはまさに、松田さんに言われた言葉と重なっていた。

 

「……最初は、そうだった。でも今は……自分のために、って思ってます」

 

剣崎は目を細めて、数秒黙った後、わずかに口の端を上げた。

 

「なら、グローブをつけろ」

 

 

サンドバッグに向かう僕の背中に、彼の声が飛ぶ。

 

「腕じゃない。腰で打て。呼吸と一緒に吐き出せ。……感情をぶつけるな」

 

言葉は冷たい。けれど、そこに確かに“導く力”があった。

 

練習が終わるころ、足はガクガクで、腕は痺れていた。

けど、不思議と気持ちは晴れていた。

 

そんな僕の横に、いつのまにか高橋が立っていた。

 

「おー、お前だけズルいな。俺も入るわ、ボクシング部」

 

「……理由は?」

 

「ん? 腹筋割りたいだけだけど?」

 

やっぱりな。

 

剣崎がちらりと高橋を見た。

 

「……やる気があるなら、誰でも構わない。ただし──本気でやれないなら帰れ」

 

その目は厳しくも、どこか試すような光を宿していた。

 

「俺、けっこうやるときはやるよ?」

 

「……なら、見せてみろ。グローブをつけろ」

 

こうして、僕と高橋のボクシング部での挑戦が始まった。

 

剣崎という“冷たい炎”のような男の下で、

僕は、誰かのためじゃなく、自分の足で立つ強さを、少しずつ手に入れていくのだった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。