僕は、ボクシング部に入った。
やってみて、初めて気づくことがたくさんあった。
高校まで、僕はずっと体育が苦手だった。運動そのものが嫌いだと思っていた。
でも、本当はちがった。
みんなと同じように動けないのが恥ずかしかった。
輪に入れず、できない自分を笑われるのが怖かっただけなんだ。
でも、ボクシングはちがった。
個人競技だから、練習も一人ひとり。自分のペースで向き合える。
できないことがあっても、先輩たちは誰もバカにしたりしない。
「こうやるといいよ」って、まっすぐな目で教えてくれる。
そのことが、ただ嬉しかった。
生まれて初めて「スポーツって、楽しいかもしれない」と思った。
それが嬉しくて、思わず母さんにLINEを送った。
《ボクシング部、入ったよ。ちょっと痛いけど……思ってたより楽しい》
すぐに既読がついて、絵文字だらけの返信が返ってきた。
《えぇ〜!? あなたが!? ボクシング!?(笑)
でも、なんかいいね!頑張ってるって、ステキよ〜✨ ファイト!》
──今思えば、それがよかったのか悪かったのか。
母さんのことだ、きっとこの先、また何かしら“動く”。
でも、あのときはただ、「知ってほしかった」んだ。
僕が、ちゃんと前に進んでるってことを。
あの家を離れても、自分の力で、自分を変えていけるってことを。
だからきっと、あのLINEは僕にとって、小さな“覚悟”だったのだと思う。
ボクシング部に入部して、二か月が経った。
最初は軽い体験のつもりだったけれど、いまや僕と高橋は、毎日のように練習に通っている。
「毎日来るなんて、別に義務じゃないぞ」
剣崎部長は、涼しげな目元でそう言った。いつも黒いTシャツに無駄のない言葉。
「……わかってます。でも、楽しくて」
僕は自然と笑いながら答えていた。
楽しい。──こんな気持ちで運動に向き合えるなんて、自分でも信じられなかった。
ジャブのフォームが綺麗になったと褒められると、なんだか心がじわっとする。
ミットにきれいに音が響くたび、自分の中で何かが積み重なっていくのがわかる。
「お前、ちょっとだけサウスポーに向いてるのかもな」
高橋にそう言われた日、僕はちょっとだけ浮かれたまま帰宅した。
*
部活を始めてから──というより、ボクシング部に入ってから、母さんは一度も下宿に来ていない。
「たまには顔見せてよ〜」とか
「お部屋、ちゃんと掃除してる〜?」とか
あんなに何かと理由をつけては現れていたのに。
今は、LINEと……“自撮り写真”だけ。
唐突に送られてくる、やや俯き加減の“自然な風”の一枚。
背景は庭だったり、買い物帰りの玄関前だったり。
もちろん、「見せたい」と思って撮っているわけじゃない。
──でも、見せるつもりがないなら、なぜわざわざ送る?
「母さん、たぶんわかってるんだろうな」
鏡に映る自分を見ながら、そうつぶやく。
母さんは、僕が変わりはじめていることに気づいてる。
もう、ただ“守られるだけ”の僕じゃないことも──。
たぶん、だからこそ、あえて来ないんだと思う。
「変わる時間」を僕にくれてる。そんな気がする。
*
放課後のジムの中。
コンクリートの壁に、靴音とパンチの音だけが響いている。
「前より、体幹が安定してきたな」
剣崎部長が、僕の構えを見てうなずいた。
「迷いがなくなった。……あとは、ちゃんと自分の拳を信じろ」
その言葉は、技術のことだけじゃないように感じた。
「はい」
声が自然と出る。
喉の奥に詰まる不安よりも、前に出る手と足が確かだった。
高橋は汗だくになりながらサンドバッグを叩いていた。
「俺、腹筋割れるかなぁ」
「まず揚げ物やめろよ」
「……それは無理」
練習後の帰り道、そんなくだらない会話をしながら、夕暮れのキャンパスを歩く。
あの坂の向こうに、また夏が来ようとしていた。
*
夜。アパートに戻ると、スマホが光った。
母さんからのLINE。
《暑くなってきたね〜! ちゃんと水分とってる?》
その下に、白いブラウスに麦わら帽子の母さんの写真が一枚。
庭の紫陽花の前。
相変わらず、奇跡のように“映えて”いる。
──だけど、今の僕はもう、その“奇跡”にふりまわされるばかりじゃない。
少しずつ距離を置いて、それでも大切に思えるようになってきた。
《大丈夫。俺、ちゃんと元気です》
そう返して、スマホを伏せる。
きっとこのまま、少しずつ季節は変わっていく。
母さんとの距離も、僕自身も。
でも、変わっていくということは、前に進んでるってことなんだ。
それが、今はちょっとだけ誇らしい。
そして──また次の季節、母さんに会ったとき、僕は胸を張って言えるだろう。
「ちゃんとやってるよ」って。
そして母さんは、いつも通り、あの笑顔で「そう、それはよかったわ〜」って笑うんだ。
──夏が、もうすぐそこまで来ている。