「お母さん、無自覚美人です 大学生編」   作:松田義和

9 / 28
第八章 夏が来る

僕は、ボクシング部に入った。

やってみて、初めて気づくことがたくさんあった。

 

高校まで、僕はずっと体育が苦手だった。運動そのものが嫌いだと思っていた。

でも、本当はちがった。

みんなと同じように動けないのが恥ずかしかった。

輪に入れず、できない自分を笑われるのが怖かっただけなんだ。

 

でも、ボクシングはちがった。

個人競技だから、練習も一人ひとり。自分のペースで向き合える。

できないことがあっても、先輩たちは誰もバカにしたりしない。

「こうやるといいよ」って、まっすぐな目で教えてくれる。

 

そのことが、ただ嬉しかった。

生まれて初めて「スポーツって、楽しいかもしれない」と思った。

 

それが嬉しくて、思わず母さんにLINEを送った。

 

《ボクシング部、入ったよ。ちょっと痛いけど……思ってたより楽しい》

 

すぐに既読がついて、絵文字だらけの返信が返ってきた。

 

《えぇ〜!? あなたが!? ボクシング!?(笑)

でも、なんかいいね!頑張ってるって、ステキよ〜✨ ファイト!》

 

──今思えば、それがよかったのか悪かったのか。

 

母さんのことだ、きっとこの先、また何かしら“動く”。

でも、あのときはただ、「知ってほしかった」んだ。

 

僕が、ちゃんと前に進んでるってことを。

あの家を離れても、自分の力で、自分を変えていけるってことを。

 

だからきっと、あのLINEは僕にとって、小さな“覚悟”だったのだと思う。

 

 

ボクシング部に入部して、二か月が経った。

最初は軽い体験のつもりだったけれど、いまや僕と高橋は、毎日のように練習に通っている。

 

「毎日来るなんて、別に義務じゃないぞ」

剣崎部長は、涼しげな目元でそう言った。いつも黒いTシャツに無駄のない言葉。

 

「……わかってます。でも、楽しくて」

僕は自然と笑いながら答えていた。

 

楽しい。──こんな気持ちで運動に向き合えるなんて、自分でも信じられなかった。

ジャブのフォームが綺麗になったと褒められると、なんだか心がじわっとする。

ミットにきれいに音が響くたび、自分の中で何かが積み重なっていくのがわかる。

 

「お前、ちょっとだけサウスポーに向いてるのかもな」

高橋にそう言われた日、僕はちょっとだけ浮かれたまま帰宅した。

 

 

部活を始めてから──というより、ボクシング部に入ってから、母さんは一度も下宿に来ていない。

 

「たまには顔見せてよ〜」とか

「お部屋、ちゃんと掃除してる〜?」とか

あんなに何かと理由をつけては現れていたのに。

 

今は、LINEと……“自撮り写真”だけ。

 

唐突に送られてくる、やや俯き加減の“自然な風”の一枚。

背景は庭だったり、買い物帰りの玄関前だったり。

 

もちろん、「見せたい」と思って撮っているわけじゃない。

──でも、見せるつもりがないなら、なぜわざわざ送る?

 

「母さん、たぶんわかってるんだろうな」

鏡に映る自分を見ながら、そうつぶやく。

 

母さんは、僕が変わりはじめていることに気づいてる。

もう、ただ“守られるだけ”の僕じゃないことも──。

 

たぶん、だからこそ、あえて来ないんだと思う。

「変わる時間」を僕にくれてる。そんな気がする。

 

 

放課後のジムの中。

コンクリートの壁に、靴音とパンチの音だけが響いている。

 

「前より、体幹が安定してきたな」

剣崎部長が、僕の構えを見てうなずいた。

「迷いがなくなった。……あとは、ちゃんと自分の拳を信じろ」

 

その言葉は、技術のことだけじゃないように感じた。

 

「はい」

 

声が自然と出る。

喉の奥に詰まる不安よりも、前に出る手と足が確かだった。

 

高橋は汗だくになりながらサンドバッグを叩いていた。

「俺、腹筋割れるかなぁ」

「まず揚げ物やめろよ」

「……それは無理」

 

練習後の帰り道、そんなくだらない会話をしながら、夕暮れのキャンパスを歩く。

あの坂の向こうに、また夏が来ようとしていた。

 

 

夜。アパートに戻ると、スマホが光った。

母さんからのLINE。

 

《暑くなってきたね〜! ちゃんと水分とってる?》

 

その下に、白いブラウスに麦わら帽子の母さんの写真が一枚。

庭の紫陽花の前。

相変わらず、奇跡のように“映えて”いる。

 

──だけど、今の僕はもう、その“奇跡”にふりまわされるばかりじゃない。

少しずつ距離を置いて、それでも大切に思えるようになってきた。

 

《大丈夫。俺、ちゃんと元気です》

 

そう返して、スマホを伏せる。

 

きっとこのまま、少しずつ季節は変わっていく。

母さんとの距離も、僕自身も。

 

でも、変わっていくということは、前に進んでるってことなんだ。

それが、今はちょっとだけ誇らしい。

 

そして──また次の季節、母さんに会ったとき、僕は胸を張って言えるだろう。

 

「ちゃんとやってるよ」って。

 

そして母さんは、いつも通り、あの笑顔で「そう、それはよかったわ〜」って笑うんだ。

 

 

 

──夏が、もうすぐそこまで来ている。

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。