――震える脚で立ち上がりながらも、胸の奥はまだ焼けつくように痛んでいた。呼吸のたびに内臓が裂けるようで、喉を通る空気は熱鉄のように苦い。だがそれでも――ヤドの奥に走る脈動は、確かに力を取り戻していた。
「……あぁ……まだやれる……! 俺は……死んでねぇ!」
鋏をカチリと打ち鳴らす。湿地の空気を切り裂くその音は、まるで自分の心臓の鼓動を増幅するかのように耳に響いた。恐怖を塗りつぶすための合図、そして闘志を灯す火種だった。
ドスファンゴがこちらを睨む。巨体は筋肉の塊のようで、鼻息ひとつで泥を吹き飛ばす。目の奥に宿る赤い光は、縄張りを荒らす異物を許さぬ支配者の怒りそのものだ。
「……来いよ……!」
胸に渦巻く恐怖を押し殺し、声を張り上げた瞬間、地響きが走る。大地を裂く蹄の音が耳を突き刺し、巨獣の影が揺れる。来る――!
俺は泥を蹴り、低く構える。さっきみたいに正面から吹き飛ばされたら、今度こそ骨ごと砕かれて終わる。だが、奴の突進は直線的だ。巨体ゆえに小回りも効かない。ならば――!
「……避けるだけじゃねぇ、刺す……!」
目に焼き付ける。牙をむき出し、猛牛のように突っ込んでくるドスファンゴの姿。泥が弾け、鼻先が迫る。心臓が喉を突き破りそうになる。
瞬間――俺は泥に身を投げ出すように低くダイブした。鼻先をかすめ、背に熱風のような突進が流れ抜ける。皮膚が焼けるようだ。視界の端で巨体が通過するのを捉えた瞬間、俺は鋏を振るった。
「ッらぁあ!!」
刃先がドスファンゴの脇腹をかすめる。鉱石を喰った鋏はただの幼体のものじゃない。ガリッと甲皮を削り取り、そこに刻んだ浅い溝へ毒が染み渡っていく。紫色の液が肉へと吸い込まれるように浸透していった。
「……よし……ッ!」
手応えはあった。だが傷は小さい。巨体を揺るがすには程遠い。だが、毒は確実に体内へと走るはずだ。少しでも奴の動きを鈍らせられれば勝機はある。
「まだだ……! 調子に乗んなよ俺……!」
心に釘を打つ。先ほどまでの動きに慣れてきた自分を叱咤する。ほんの一瞬の慢心が死を招くのは、さっき痛感したばかりだ。
ドスファンゴが咆哮を上げ、振り返る。脇腹の痛みに苛立ち、血走った目で俺を睨みつける。その瞳には理性など欠片もない。ただ殺意と憤怒だけ。
次の突進が来る。わかる。奴は単調だが、その勢いは絶大。距離を詰められれば避ける間もなく終わる。ならば、間合いを計り、奴の勢いを逆に利用して斬り込むしかない。
湿地に雨粒が落ち始めた。泥に輪を描く雫がリズムを刻む。その音さえ合図に思えた。
「……来い……次は、もっと深く……!」
両鋏を広げ、身を低くする。牙を突き出して走り来る巨影。重い蹄が泥を割り、音が近づく。
ドスファンゴの影が視界いっぱいに広がった。巨体が一直線に迫る。振動で肺が震え、全身の骨が警鐘を鳴らす。だがもう退かない。俺は鋏を低く構え、そのまま地を舐めるように滑り込んだ。
「――今だぁッ!!」
刃が通り道に置かれた罠のように待ち構え、巨獣の腹が自ら突っ込んでくる。
ゴリッ、と嫌な手応え。鋏は肉を抉り、深く沈んだ。熱い血が飛び散り、紫色の毒液がじわりと注ぎ込まれていく。
「入った……ッ!!」
咆哮が大地を揺らす。ドスファンゴが怒号を上げ、体をくねらせながら突き抜けていった。泥と血と雨粒が混ざり合い、視界を赤黒く染める。
毒は流し込んだ。奴の巨体にどれほど効くかは分からない。だが確かに――爪痕は残した。
俺は泥に膝を突きながら、血に濡れた鋏を握り直した。
「……まだ終わりじゃねぇ……次で決める……!」