ケルビの毛皮をようやく洞窟に敷き詰め終えた。陽も傾き始め、薄暗くなった洞窟の奥。ガミザミ――いや、“俺”は、小さな勝利に浸るように、ゆっくりと甲羅を下ろす。
(おお……思ったより、フカフカしてる……)
毛皮の上で身体を左右に揺らし、甲羅の感触を確かめる。ケルビの毛は思った以上に密で、血の臭いも水場である程度流したおかげか、今は鼻につかない。どこか懐かしい感覚だ。実家の居間に敷いてあった絨毯を、ふと思い出す。
「これが、俺の住処か……。ふふっ、贅沢になったもんだなぁ……」
ついに自分の寝床らしきものを手に入れた満足感で、自然と笑いが漏れる。だが、しばらくその心地良さに身を任せていると――不意に、違和感が身体を這い上がってきた。
(ん?……なんだ? なんか、ゴワゴワする……)
腕を動かすたびに、甲殻がどこか引っかかるような感覚がある。いや、それだけじゃない。首元、脚の付け根、背中の付近――全身がじんわりと、妙な重さを帯びている。
(なんだこれ? 体が……なんか合わない?)
まるで自分の体が、自分のものじゃないかのような居心地の悪さ。甲羅の継ぎ目に何か詰まっているような、動かすたびに微かな圧迫感があった。背中に手を回してみようとするが、ハサミの角度が合わずに、ただ空しく宙を切る。
(いや、これ……まさか……脱皮……?)
その単語が頭をよぎった瞬間、思考が一瞬止まった。 脱皮。人間だった頃には無縁の概念。だが今は――ガミザミだ。甲殻類。脱皮は、生きるための変化の儀式だ。
「マジか……俺、脱皮すんの?」
声にならない声が、洞窟の天井に反響する。生きていれば何かしらの変化があるとは思っていたが――まさかこれほどの実感が伴うとは。
(でも、これ……成長の証なんだろ?)
怖さはある。体のどこかが千切れそうな気すらする。でも、それを乗り越えなきゃ前に進めない。前に食ったケルビ。あの肉の旨さも、もう一度味わうには、もっと強くなるしかない。
(よし……やるか)
硬直したような甲殻を動かし、背を丸め、脚を突っ張らせる。体内に圧をかけ、殻の継ぎ目から力を押し出すように――
「うっ……っが……!」
重い。動かない。呼吸は浅くなり、甲羅の中で蒸されるように熱がこもる。それでもやめない。ぐ、ぐ、ぐぐ……と、細かい音が背中から響き――
バキィッ!
裂けた。背中の甲殻が、音を立てて割れた。
「やった……!」
だが、そこからが本当の地獄だった。 一気に脱げると思っていたのが間違いだった。裂けた隙間にハサミを突っ込んで、慎重に内側から殻をこじ開けていく。少しでも焦れば、まだ柔らかい自分の肉を傷つける。
「くっそ……痛ぇ……!」
時間の感覚が曖昧になるほど、長い格闘だった。甲殻を一枚一枚、力を込めて剥がしていく。ハサミが滑って殻に当たり、爪を削りながらも――
ようやく、全ての殻を脱ぎ切った。
息を切らして、その場に倒れ込む。体はしっとりと濡れたように艶やかで、触れればふにゃふにゃと沈み込む。硬質の防御力はなくなっていたが、それでも。
(……軽い)
そう思った。甲羅を脱いだ分、体が一回り細くなったような錯覚。でもそれは、これから再び硬く、厚くなっていくのだろう。これが、“強くなる”ということだと、体が教えている。
「……これが、ガミザミの……生き様ってやつか」
生臭く、少し汗のようなにおいが立ち込める洞窟の中。脱いだ殻が乱雑に転がる中で、自分の成長を肌で感じる瞬間だった。
(……もうちょい休もう)
全身がだるい。慣れないことをして、体力も気力もすっかり削られていた。
ケルビの毛皮に身を沈め、目を閉じる。
――甲羅の下で、新たなガミザミの夜が始まる。