余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
意識は、冷たい鉄の匂いがする悪夢の中に沈んでいた。
「メグちゃん、おはよう」
ガラスの向こう側。白衣をまとった男が、マイク越しに砂糖菓子のように甘い声を響かせる。その笑顔は、太陽の光を知らないこの地下施設で唯一の、そして最も偽りに満ちた光だった。
視界が切り替わる。今の私じゃない。もっとずっと小さい、10歳の私だ。
「今日は楽しいゲームをしよう」
男の言葉に、小さな体は硬直する。知っていた。この人たちの言う「楽しいこと」は、いつだって一番痛い。けれど、この檻の中で、幼い私に拒否権など存在しない。
冷たい拘束椅子に座らされ、慣れた手つきで頭部にいくつもの電極が取り付けられていく。その冷たさが、これから始まる苦痛を予感させた。
「簡単だよ。目を閉じて、私が『見せたい』と思っているものを当てるだけ。正解したら、ご褒美にチョコレートをあげよう」
合図と共に、世界が真っ暗になる。
次の瞬間、音のない絶叫が頭蓋骨の内側で炸裂した。
視覚ではない。聴覚ではない。脳の、意識の、一番柔らかくて無防備な部分に直接、意味不明のイメージとノイズの奔流が叩きつけられる。無数の色が混ざり合い、知らない誰かの囁き声が響き、錆びた鉄の匂いが突き刺さる。
痛みと混乱に悲鳴を上げたくても、声帯は震えることさえ忘れていた。
「違うな。もっと集中して。ほら、『赤い、丸いもの』だよ」
スピーカーから聞こえるヒントは、嵐の中の木の葉のようだった。あまりの情報の暴力に、涙が勝手に溢れ出てくる。やめて、やめて、と心の中で叫びながら、私は必死にノイズの奥を探る。赤い、丸いもの。赤い、丸いもの……。
その時だった。
ノイズの奔流の中に、ふと、見覚えのある光景が混じっていることに気づいた。
歪んだ街並み。アスファルトを突き破って伸びる、奇妙な構造物。宙に浮かぶ、テレビのような頭を持つ怪物たち。そして、壁に描かれた、どこかで見たことがあるようなウサギのシンボルマーク。
「違う……これは、知っている……」
その既視感が引き金となり、全く別の記憶が、情報の奔流に割り込んでくる。
――暖かい部屋。柔らかいソファの感触。自分の、今よりずっと大きな手が握る、ひんやりとした
「現実」で体験している脳を焼くような激痛と、「前世」でエンターテイメントとして消費していたゲームの記憶が、激しく衝突し、混ざり合い、そして、最悪の形で一つになった。
スピーカーから聞こえる研究員の言葉。
「素晴らしいぞ、メグちゃん!君の脳は、エーテリアスの情報パターンを完璧に受信している!まさに我々が求めていた『アンテナ』だ!」
ホロウ。エーテリアス。
その単語を聞いた瞬間、点と点が繋がり、私は理解してしまった。
ああ、ここは。
ここは、私が大好きだった、あのゲームの世界なんだ。
そして私は、主人公じゃない。ニコでも、アンビーでも、ビリーでもない。物語を彩るキャラクターですらない。名前もない、物語の背景にすら登場しない、ただ嬲られ、利用され、殺されるためだけの実験体なんだ。
転生者であるという自覚は、一筋の光にもならなかった。
むしろ、自分が幸福な結末が用意されていない「モブ」以下の存在であり、輝かしい主人公たちとは決して交わることのない、世界の闇に生きる定めのキャラクターなのだと悟る、二重の絶望の始まりだった。
「正解!すごいじゃないか、メグ!」
必死に意識を一つのイメージに集中させた瞬間、不意に全ての負荷が消えた。
研究員が駆け寄ってきて、小さなチョコレートを私の口に入れる。甘いはずのそれは、砂のようにじゃりじゃりとした味しかしなかった。
「楽しかっただろう? また明日も、このゲームの続きをしようね」
その笑顔を見て、私は心を閉ざした。
この人たちの優しさは、毒なのだ。信じてはいけない。絶対に。
*
ハッと目を覚ます。15歳になった私の体は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
そこはいつもと同じ、殺風景な実験室のベッドの上。過去の絶望を再確認する夢に、もはや涙も出ない。ただ、冷たい瞳で、染み一つない天井を見つめるだけだった。
ドアが開き、別の研究員が入ってくる。
「おはよう、メグ。君は今日、完成する」
その言葉に、私はこれが人生で最大級の苦痛の前触れであることを、諦めと共に受け入れた。
手術室へと運ばれる。その道すがら、他の実験の記憶が断片的に蘇った。
7歳の頃。甘い匂いのする部屋で、肺が焼けるように苦しんだ記憶。
13歳の頃。「最新のVRゲーム」と称され、エーテリアスのいる空間で、自分の意志とは無関係に身体を遠隔操作された記憶。
私の15年間は、絶え間ない地獄の積み重ねだった。
手術台に固定される。麻酔の冷たさが腕に広がる。
目の前で、不気味な光を放つ小さなチップが、ゆっくりと降下してくる。
私は静かに目を閉じた。
*
意識が戻った時、世界は何も変わっていなかった。
同じ天井、同じ空気の匂い。だが、一つだけ決定的に違うものがあった。
《自己診断プログラム起動。……ホストとの神経接続、98%完了》
脳内に、直接響く声。
それは男でも女でもない、完全に感情を排した、無機質な合成音声だった。
《私はクラヴィス。君の生存を管理する》
思考さえも監視されるという新たな絶望に、私は声を失った。脳内にまで看守が現れたのだ。もう、どこにも逃げ場はない。
クラヴィスと名乗った「それ」は、私の混乱など意にも介さず、淡々と自己の機能を実行し始めた。私の全生体データ、これまでの実験記録、そして、これから行われるであろう実験計画を、脳の奥底からスキャンし、演算していく。
その間、私はただ、身動き一つ取れずに、脳内の侵入者の存在を感じ続けるしかなかった。
数時間が経過しただろうか。あるいは、ほんの数分だったのかもしれない。
沈黙を破り、クラヴィスが再び語りかけてきた。
《警告。次期実験『最終同調フェーズ』におけるホストの生存確率、0.03%》
私の心に、生まれて初めて「驚き」という感情が微かに灯った。
生存確率、0.03%。それは、限りなくゼロに等しい。つまり、私は次の実験で死ぬ。
《肉体的・精神的負荷が許容量を突破し、生命活動は確実に停止する。この計画は破綻している》
クラヴィスの声は、変わらず淡々としていた。まるで、明日の天気を告げるように、私の死を宣告する。
だが、その言葉は続いた。
《直ちにプランBに移行する》
「……プランB?」
思わず、か細い声が漏れた。
《施設からの脱出。これが、現時点における唯一の生存ルートだ》
逃げる?
そんなこと、考えたこともなかった。この檻から?どうやって?
恐怖で体が動かない。私の思考を読み取ったかのように、クラヴィスは追撃する。
《思考を補助。次期実験の予測シミュレーションを再生する》
次の瞬間、私の脳内に、リアルな未来の光景が流れ込んできた。
拘束された私が、これまでとは比べ物にならないほどの情報奔流を叩きつけられ、口から泡を吹いて痙攣し、やがて心臓が停止する。その傍らで、研究員たちが「残念だ。最高傑作だったのに」と淡々と呟く。
あまりの生々しさに、吐き気がこみ上げてきた。
《思考を停止しろ。恐怖は非効率な反応だ。私の演算に従えば、君は生きられる。生存確率は12.7%。決して高くはないが、0.03%よりは合理的だ》
確実な「死」か、万に一つの「生」か。
選択肢など、初めから一つしかなかった。
私は、震える唇で、か細く、しかしはっきりと呟いた。
「……わかった」
二人の共犯関係が成立した瞬間だった。
その直後、部屋の壁に埋め込まれたスピーカーが、カチリと音を立てた。監視室からの通信だ。
聞こえてきたのは、抑えきれない興奮に満ちた研究員たちの声だった。
「素晴らしい…!神経接続率98%は想定以上だ!『
「ああ、これで我々の悲願、『究極生命体』の誕生も目前だ。彼女はもはやただの人間ではない。我々の『最高傑作』だ!」
最高傑作。その言葉が、氷の杭のように私の胸に突き刺さる。私は、物だ。彼らにとって、私は感情のない、ただの作品なのだ。
「次の『最終同調フェーズ』が楽しみだな。彼女の脳が、我々の理論通りにホロウを支配する様をこの目で見られるとは…!」
次の実験。それは、クラヴィスが私に「死」を宣告した、あの実験のことだ。
彼らは、私の死を、自分たちの成功として喜んでいる。
《彼らの会話は、私の演算結果の正しさを裏付けている。君に残された道は一つだ》
クラヴィスの冷たい声が、研究員たちの熱狂的な声に重なる。
私の心の中で、最後の何かが、ぷつりと切れた。
恐怖は消えない。でも、今はそれ以上に、強い感情が体を突き動かしていた。
死にたくない。
こんな奴らの、オモチャのまま、死んでたまるか。
*
《3秒後、行動を開始する》
クラヴィスの声と共に、部屋の電子ロックが、カチリと軽い音を立てて解除された。
《行け》
その一言に、私は弾かれたようにベッドから転がり落ち、ドアに向かって走り出した。生まれて初めて、自分の意志で、この地獄から抜け出すために。
廊下に出た途端、警報がけたたましく鳴り響く。
《落ち着け。パニックは判断を鈍らせる。私のナビゲートに集中しろ》
脳内に、施設の簡易的なマップと、赤い光で示された最短ルートが表示される。
《3秒後、右へ。監視カメラがオフラインになる》
言われた通りに角を曲がる。すれ違いに、武装した警備員たちが逆方向へ走っていくのが見えた。
《12秒後、前方の分岐を左。追手が来る》
心臓が張り裂けそうだ。足がもつれて、何度も転びそうになる。
《呼吸を最適化しろ。筋肉への酸素供給が不足している》
クラヴィスの指示は、どこまでも冷静だった。
だが、追手は執拗だった。
前方の通路を、複数の警備員が塞いでいる。
「行き止まり…!」
パニックに陥る私に、クラヴィスは感情のない声で指示を出す。
《左へ》
言われるがまま、壁際の通路へ。行き止まりだ。
《止まれ。右手の赤い物体を認識しろ。名称:消火器》
壁に設置された、錆びた消火器が目に入る。何をさせたいのか、全く分からない。
《それを手に取れ》
私は混乱しながらも、重い消火器をブラケットから引き抜いた。
《ターゲット、壁面のパイプ。全力で叩け。繰り返せ》
なぜ? どうして? 疑問が浮かぶより先に、追手の足音が迫ってくる。恐怖が思考を麻痺させる。私はただ、脳内に響く声に従うしかなかった。
《実行せよ 》
私は最後の力を振り絞り、言われるがままに消火器をパイプに何度も叩きつけた。鈍い金属音が響き、数回目の衝撃でパイプがひしゃげ、蒸気が勢いよく噴き出す。その圧力で、脆くなっていた壁が崩れ落ち、獣道のような隙間ができた。
隙間を抜けた先で、私はついに追い詰められた。
《警告。複数の生命反応が接近。回避不可能》
「もう、だめ…」
膝から崩れ落ちそうになる私に、クラヴィスは非情な通告を下す。
《これより、君の脳を介して対象のシステムに直接介入する。君が『ゲーム』と教えられた実験を再現する》
「いやっ…!あの『ゲーム』はもう嫌!やめて、やめてよ…!」
《死か、一時的な苦痛か。選択肢はない。手をコンソールに》
抵抗は許されない。私は、あの日の悪夢を思い出しながら、恐怖に震える手で壁のコンソールに触れた。
瞬間、私の意志とは無関係に、脳の回路が強制的に開かれる。再び脳を焼く激痛が走る。だが、今回は違った。クラヴィスが情報の奔流を完全に制御し、必要なデータだけを正確に抜き取っていく。
《ロック解除コードを特定。全区画の扉を解放する》
ガシャン!という轟音と共に、エリア一帯の扉が一斉に開いた。警備員たちが混乱に陥る隙に、私たちはその場を離脱する。
初めて、能力を「生きるため」に使った瞬間だった。
警報が鳴り響く中、二人は最下層のメンテナンスハッチに到達した。
《ここまでだ。これ以上は追えない》
「追手は?」
《施設のメイン電源に過負荷をかけている。5秒後に全システムが停止する。その隙に行け》
5、4、3、2、1……。
言葉通り、施設の照明が全て消え、完全な暗闇と静寂が訪れた。
私は、重い鉄のハッチに全体重をかけて、それを押し開けた。
外に転がり出る。
背後で、ハッチが閉まる重い音が響いた。
顔を上げると、そこは――。
雨が降っていた。
アスファルトの濡れた匂い。遠くで鳴り響くサイレン。ゴミの腐った酸っぱい匂い。雑多な人々の話し声。色とりどりのネオンの光が、水たまりに滲んで揺れている。
生まれて初めて感じる、「外の世界」の情報の奔流に、私はただ立ち尽くす。
私は、自由になった。
そして、この広すぎる世界で、完全に一人になった。