余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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今回の話には「シルバー小隊」に関する描写があります。
ネタバレが気になる方は、ご注意ください。


13. 友達だから、さよなら

ひかりと一緒にアストラの曲を聞いてから数日。

 

私は、柔らかいベッドの上で目を覚ました。

 

窓から差し込む太陽の光が、部屋を暖かく照らしている。

 

数日前まで、私はほとんど眠れていなかった。警戒と恐怖で張り詰めた神経は、静かな環境にいても休まることを知らなかったからだ。

 

だが先日アストラの曲を聞いてから、少しだけマシになった。

 

気持ちが少し落ち着き、余裕が出たからか、私はここにいる人達の顔をよく見るようになった。

 

それまでは、彼らの1個1個の動きを追い、いつでも反撃と逃走が行えるようにしていたときと比べると、負担は大きく下がったように思う。

 

私のそんな変化に気づいたのか、よくこの部屋を出入りし、私の治療をしてくれている人達は、目が合うと、笑顔で手を振ってくるようになった。

 

彼らは私に気を遣っているのか、必要以上に近づかずまた会話ではなく、ジェスチャーで私とコミュニケーションを取ろうとしてくる。

 

気を遣わなくてもいいのに、と思う反面、声を掛けたら怯える相手にどう対応したら良いのかと聞かれたら、何も答えられない。

 

自分のことだけれど、申し訳なさが出てくる。

 

部屋のドアが静かにノックされ、ひかりが入ってくる。その手には、温かいスープと焼きたてのパンが乗ったトレイがあった。

 

「おはよう。今朝は少し食欲があると、ヴァルから聞いたから。もしよかったら、一緒にどうかしら?」

 

ひかりは、私のベッドから少し離れたテーブルに、自分の分の朝食も用意する。

 

その自然な振る舞いに、私は恐る恐るベッドから降り、テーブルの前に座った。

 

「…いただきます…」

 

そう呟き、スプーンでスープを口に運ぶ。

 

温かくて、優しい味が、空っぽだったお腹と心にじんわりと染み渡った。

 

誰かと一緒に食べる食事なんて、いつ以来だろう。前世では当たり前だったはずの、この温かい感覚を、私は忘れかけていた。

 

「ふふ、美味しい?」

 

「…うん」

 

短い会話。

 

しかし、それは二人の間の氷が、確かに溶け始めた瞬間だった。

 

ひかりは、嬉しそうに微笑むと、思い出したように言った。

 

「そういえば、まだちゃんと自己紹介をしていなかったわね。私はひかり。天宮ひかりよ。あなたの名前、もし嫌じゃなければ、教えてもらえるかしら?」

 

私は、スプーンを握りしめたまま、ひかりの顔をじっと見つめる。名前。『メグ』

 

それは、あの研究員たちが私につけた名前だった。

 

彼らは私を『最高傑作』と呼び、その甘い言葉とは裏腹に、実験を繰り返した。

 

その名前で呼ばれるたびに、優しさと苦痛が同時に蘇る。

 

それでも、私にとって、それが唯一の名前だった。だから…。

 

「…メグ」

 

絞り出すような、小さな声だった。

 

「メグ…。素敵な名前ね。これから、よろしくね、メグ」

 

ひかりは、心から嬉しそうに笑った。その笑顔は、私が知るどんなものよりも、眩しかった。

 

***

 

その日の午後、ひかりは再び私の部屋を訪れた。

 

「メグ、体調もだいぶ良くなったと聞いたわ。ずっとこの部屋だけじゃ、息が詰まってしまうでしょう?もしよかったら、少しだけ、このお家の中を案内させてくれないかしら?」

 

私は一瞬ためらったが、ひかりの真っ直ぐな瞳に、小さく頷いた。

 

ひかりに連れられて、私は初めて部屋の外に出た。

 

目の前に広がるのは、どこまでも続く、陽光が差し込む長い廊下。

 

壁には美しい絵画が飾られ、足元の絨毯は雲の上を歩いているように柔らかい。

 

「こっちは図書室よ。お父様の趣味で、古い紙の本がたくさんあるの」

 

扉の先には、天井まで届くほどの本棚に、無数の本がぎっしりと並んでいた。

 

革の匂いと、古い紙の匂い。懐かしい感覚に、胸が締め付けられる。

前の私だったら、きっと一日中ここにいられただろう。

 

「そして、こっちが私のお気に入りの場所」

 

ガラスの扉を開けると、そこは植物園のような温室だった。

 

色とりどりの花が咲き乱れ、中央には小さな噴水が涼しげな音を立てている。

 

「綺麗でしょう?ここで本を読んでいると、心がとても穏やかになるの」

 

「…おだやか…」

 

 

私は、その言葉を小さく繰り返した。

ひかりが言うようにこの場所はとてもきれいな場所だ。私が知っている限りここまで凝ったものは初めて見た。

 

この場所で過ごす自分を想像してみる。

 

クラヴィスとシロといっしょにこの広い庭園を歩き回る。

 

クラヴィスが見ている花の解説をしてくれて、シロが元気に走り回っている姿を見て、私はそれを見て聞いて温かい時間を過ごす。

 

単なる想像だけどポカポカした気持ちになる。

 

ひかりが言っている「穏やか」になるというのはこのことを言うんだろう。

 

私の中でもう一つ身近な「穏やか」になるときがあったな。

 

隠れ家で、傷ついたシロを撫でている時。

 

クラヴィスと二人きりで、追手のいない静かな夜を過ごしている時。

 

それは常に危険と隣り合わせの、張り詰めた空気の中にある、束の間の安らぎだったけど、「穏やか」な瞬間だった。

 

ひかりが言う「穏やか」とは違うかもしれないけど、あれも私にとってはかけがえのない宝物だ。

 

メグの口元に、ほんの僅かな、寂しげな笑みが浮かんだ。

 

しかし、その瞳はどこか遠くを見ていて、ひかりのいるこの場所にはない、別の景色を映しているかのようだった。

 

「…ごめんなさい。なんだか、悲しい思いをさせてしまったかしら」

 

「ううん、少し前のことを思い出してただけ。この場所はとてもきれいだね」

 

「そう言ってもらえて嬉しいわ!」

 

ひかりは私の言葉を聞くと本当に嬉しそうに、花の解説を始めてくれた。

 

時間が経ち、ひかりは時間を確認する。

 

「そろそろ良い時間ね。少し、お茶にしない?ヴァルが、美味しいお菓子を用意してくれているはずよ!」

 

ひかりさん、私の手を引くでもなく、ただ先に立って温室の奥にあるサンルームへと歩き出す。

 

一瞬だけ躊躇したが、私はその背中を追いかけた。

 

サンルームには、白いテーブルと椅子が置かれていた。

 

すぐにヴァレリウスさんが、銀色のワゴンを押して現れる。

 

私は、その姿を見て、咄嗟に身を固くした。

 

間近で見る、見慣れない人間。鼓動が早くなっていくのがわかる。

 

「お嬢様、メグ様。本日のお茶はダージリンのファーストフラッシュを。お茶菓子には、特製のミルフィーユをご用意いたしました」

 

彼の佇まいは、どこまでも丁寧で、その穏やかな瞳には、私を値踏みするような色は一切なかった。

 

テーブルに並べられた、美しいティーカップと、芸術品のように繊細なお菓子。

 

私は、そのミルフィーユを見て、息をのんだ。

 

脳裏に、白い部屋の光景がフラッシュバックする。

 

腕に針が刺さる冷たい痛み。頭が割れるような激痛。

 

意識が遠のくほどの苦しみが終わった後、研究員はいつも、優しい声でこう言った。

 

『よく頑張ったね、メグ。ご褒美だよ』

 

そして、銀紙に包まれた、宝石のように綺麗な砂糖菓子を、私の口元に運んでくるのだ。

 

甘い味は、さっきまでの痛みを無理やり忘れさせるための、麻酔のようだった。

 

私の手が、僅かに震える。

 

「メグ大丈夫?もしかして苦手だった?」

 

ひかりは、心配そうに首を傾げながら、自分のミルフィーユを一口食べる。

 

「んー、おいしい!大丈夫よ、毒なんて入ってないから!」と冗談めかして笑った。

 

その無邪気な笑顔が、少しだけ私の恐怖を抑えてくれた。

 

私は、震える手で小さなフォークを手に取り、おそるおそるミルフィーユの端を崩して、口に運んだ。

 

サクサクとしたパイ生地の食感と、甘すぎないカスタードクリームの優しい味。私がこれまで与えられていた甘いものとは全く違っていた。

 

「どう?」

 

「…おいしい…」

 

その小さな呟きに、ひかりは、これまでで一番嬉しそうな笑顔を見せた。

 

私が少しずつミルフィーユを食べ進めているのを見ると、ひかりは、別の話題で楽しそうに話しを始めた。

 

ちょうど私とひかりが食べ終わった頃に、ヴァレリウスさんが静かにワゴンを片付けに来た。

 

彼は、空になった私の皿を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「メグ様、お口に合いましたようで、何よりでございます。ひかりお嬢様が、メグ様と一緒にこうしてお茶をすることを、ずっと楽しみにしておられましたのでな」

 

「…!」

 

私は、突然話しかけられ、びくりと肩を揺らす。

 

しかし、ヴァレリウスさんの優しい眼差しには、何の裏も感じられない。

 

《…分析。対象の言動に敵意は検出されず。目的は、ひかりへの忠誠心の発露と、君を安心させるための発言の可能性が高い》

 

私は、何も答えられず、ただ俯くだけだった。ひかりは、そんな私の様子を見て、明るく言った。

 

「そうだわ!まだ見せたい場所があるの。こっちよ、メグ!」

 

***

 

ひかりに促され、サンルームを出る。次に向かったのは、防音扉が設えられた一室だった。

 

「ここは演奏室。私、楽器を演奏するのが好きで…時々ここで練習しているの」

 

中には、グランドピアノだけでなく、ギターやドラムセットなど、私が前世の記憶でしか知らない楽器がずらりと並んでいた。

 

ひかりは私を近くの椅子に座らせる。

 

「メグは、音楽は好き?」

 

「嫌いじゃ、ないと思う」

 

「そっか!じゃあ、今度何か弾いてあげるわね!」

 

ひかりは屈託なく笑う。

 

***

 

最後に案内されたのは、邸宅の最上階にあるスカイガーデンだった。

 

ガラスの壁に囲まれたそこからは、新エリー都の街並みが一望できた。人々の営み、彼らが過ごす街の光。

 

私がこれまで見てきた、瓦礫と影の世界とは全く違う、光に満ちた風景だった。

 

「ここから見る景色が、私、一番好きなの。この街は、色々な問題を抱えているけれど…それでも、こんなに綺麗でしょう?」

 

私は、何も答えられなかった。ただ、ガラスの壁にそっと手を触れる。

 

この一枚のガラスが、まるで世界の境界線みたいだった。

 

ひかりがいる、温かく光で満ちた世界。私が生きてきた、冷たく影で覆われた世界。

 

今日ひかりに色々なところを案内されて、改めて思った。

 

私が生きてきた環境がどれだけ異常だったのかを。

 

でもこの世界ではそれが当たり前になっている部分が少なからずあって、別に私の境遇は珍しくもないことを。

 

ふと私は「ツイッギー」という少女のことを思い出す。

 

彼女は防衛軍の優秀な兵士を大量生産する計画の一環で、クローン技術を使って生まれた存在。

 

たしかアンビーもその計画で生まれた存在だった。

 

彼女たちの部隊は「シルバー小隊」と呼ばれていて、最終的にはコストが嵩むという理由で、無謀な作戦に送られて処分されることになった。

 

ホロウの中でツイッギーはなんとか生きていたけれど、姉妹達の死体に押しつぶされて身動きが取れず、手や足をエーテルに侵食されて失った状態だった。

 

彼女は「ゴミ拾い」に拾われたおかげで生き残ることができたけれど、闇市やオークションに販売されて生き地獄のような扱いを受け続けることになってしまった少女。

 

物語では「ツイッギー」はアンビーのあり得たかもしれない未来として描写されていた。

 

ツイッギーを拾ってくれたのが「ゴミ拾い」ではなくニコのように優しい存在だったら、また違った未来があったかもしれない、とそんなストーリー。

 

私も同じだ。もしも、私に埋め込まれたのがクラヴィスじゃなかったら?私はあの研究所で死んでいたか、もしくは生き残ってまた違う実験を受けていたのかもしれない。

 

私が賞金稼ぎに追われて、ホロウの中で倒れたとき、ひかりではなく「ゴミ拾い」のような存在に拾われていたら?ツイッギーのように生き地獄のような扱いを受けていたのかもしれない。

 

そう考えると、私はクラヴィスとひかり達天宮家に助けてもらった恩を返さないといけない。

 

私がいまクラヴィスに返せる恩は、戦いで負った損傷を直してあげること。

 

そしてひかり達に返せる恩は、この場を離れて、天宮家との関係を断ち切ることのはずだ。

 

いまの私は賞金首で讃頌会から追われている存在。

 

天宮家はTOPSの一員ということもあって、私がここにいる以上は、賞金稼ぎが真正面から乗り込んでくることはない。

 

問題なのは讃頌会。讃頌会にとって私は『最高傑作』で、逃げ出した私を探すことに力を入れているはず。

 

讃頌会は目的のためならどんな手でも使う人達なのだから、もし私が天宮家にいることがバレたらどうなる?

 

おそらく陰湿なやり方で狙われる。

 

ここにいる人達が事故に見せかけて、暗殺されるかもしれない。

 

あるいは、不祥事をでっち上げられて、社会的地位の失墜を狙われるかもしれない。

 

さらに言えば、天宮家の内側に人を送り込んで、内部からこの光を壊すのかもしれない。いずれにしてもきっと彼らは躊躇しない。

 

だから、私はここにいちゃいけない。彼らが危険な目に遭う前にここから離れる、それが恩返しになるはずだ。

 

そんな結論が、鋭い痛みとなって、私の胸を締め付けた。

 

「…どうかしたの? 難しい顔をしているわ」

 

不意にかけられた声に、私はハッとして顔を上げた。

 

ガラスに映る自分のこわばった顔の隣で、ひかりが心配そうに私を覗き込んでいる。

 

「ううん、なんでもない。すごく綺麗だなって思ってただけ」

 

《…君の思考は論理的には正しい。だが、その結論に至る君のストレスレベルの上昇は、看過できないリスクだ》

 

私は、クラヴィスの声に何も答えなかった。隣に、ひかりがいるから。

 

***

 

その夜、部屋に戻った私は、窓から見えるスカイガーデンをぼんやりと眺めていた。

 

ひかりとの穏やかな時間は、私に安らぎを与えると同時に、新たな決意を促していた。

 

「クラヴィス、あなたの自己修復効率は、まだ32%のままなの?」

 

《肯定する。外部からの部品供給がなければ、これ以上の効率改善は見込めない》

 

「…決めた。私、外に出るよ。あなたの部品を探しに。それでまた新しい拠点を探そう。今度の拠点はホロウの中とかが良いのかも」

 

《却下する。君のバイタルサインは、この環境下で著しい安定化の兆候を見せている。ストレスレベルも、脱出以来、最も低い数値を維持している。この安全な環境を放棄することは、非合理的だ》

 

「そうだね。クラヴィスの言う通りだよ。ここまで居心地が良いのは生まれて初めてかもしれない。そんな場所を自分から手放すことに納得がいかないのも分かるよ。でも、私がここを離れたい理由も、クラヴィスなら分かるよね。私が考えてたこと正しいって言ってくれてたし」

 

《肯定する。だが私はこうも言ったはずだ。「その結論に至る君のストレスレベルの上昇は、看過できないリスクだ」と》

 

たしかに、そのことを決めたときは胸が痛かった。

 

ここにいる人達のおかげで、「優しさ」にいい思い出ができたから。「優しさ」に理由なんていらないんだって分かったから。

 

短い間だったけど、嫌な思い出を上書きできるくらい、充実していたから。

 

私よりも私のことを分かっているからこそ、ここを離れるべきじゃないと言ってくれているのが分かる。

 

そんなクラヴィスに納得してもらうためには…

 

「それならクラヴィス。私が想像してる、天宮家が辿るかもしれない結末を見せるよ。それからもう一度話そう」

 

 

私は目を閉じて想像する。私が天宮家にいることが讃頌会にバレて、天宮家が讃頌会のターゲットになることを。

 

最初は天宮家が保有する戦力で太刀打ちできるけど、その攻撃が徐々に、「天宮家」ではなく、「天宮家」が支援する人たちに移る。

 

身寄りのない子どもたちや家を失った人達が、見せしめに襲われる。サクリファイスを作るための実験体になる人達も出てくるだろう。

 

《警告。ホストのストレスレベルが閾値を超過。心拍数、上昇中》

 

天宮家はそんな彼らを守ろうとするけれど、人手が足りなくて、どうしても漏れが出てしまう部分が出てくる。

 

そうなったら後は簡単。

 

天宮家が支援している人たちは、憎しみの対象を讃頌会ではなく、天宮家にしてしまう。

 

なぜなら、勘がいい人は自分たちが襲われている原因には天宮家が関わっていることに気づくから。

 

そういう情報操作を讃頌会はするだろうから。

 

被害が出た人たちは、自分たちの鬱憤を晴らすために、天宮家を攻撃する。

 

それまで受けた恩なんて関係ない。

 

彼らを責めても自分たちを攻撃しないとわかっているから。体の良いサンドバッグになるって、無意識に思っているから。

 

自分たちがこんなにも襲われ苦しいのは、お前らが弱いからだ。お前らが私たちに関わったからだ。

 

世論は天宮家が悪いという流れになる。

 

《警告。精神的負荷が危険域に接近。思考プロセスを中断することを推奨する》

 

こうして、天宮家の社会的地位を貶められる。天宮家は讃頌会の攻撃に加え、これまで守ってきた人たちからの攻撃にも対応しないといけなくなる。

 

そうするとさらに、人員を割く必要が出てきて、守りがどんどん薄くなっていく。

 

そこまでやっても、天宮家が私を手放さないのなら、今度は内部から壊していく戦略に切り替えるだろう。

 

天宮家に仕えている人たちの家族が人質に取られるか、度重なる危険に限界を迎えてしまうのか。

 

どっちにしたって、ひかりたちに危害を加えるように指示される。彼らは最初抵抗するのかもしれない。

 

けれど、そうやって逆らって、誰かの家族が一人でも傷つけられたら、どんなに忠誠心があったとしても、天秤は家族の方に傾く。

 

そうして、ひかり達は信頼できる者たちから攻撃を受ける。彼らからの攻撃は、簡単に喉元まで届く。

 

一人ひとり、「天宮」に連なる人たちが、不幸な「事故」でいなくなっていき、ひかりも最後には…

 

《メグ!今すぐその思考を停止しろ!これは命令だ!》

 

クラヴィスの鋭い声が、私の暗い想像を強制的に断ち切った。私ははっと目を開け、荒い息を繰り返す。心臓が、まるで警鐘のように激しく鳴っていた。

 

「…どうクラヴィス。私にとって、いまの可能性を抱えたまま、ここに居続けることと、新しい拠点を探すこと、どっちのほうが私にとって負担が少ないのかな?」

 

私は息を整えて言葉を紡ぐ。

 

《……》

 

クラヴィスは、何も言わなかった。その沈黙が、何よりも答えになっていた。

 

***

 

スカイガーデンを散策して、メグと別れた後、ひかりは今日一日のことを振り返る。

 

(今日はあの子は少しだけ笑ってくれた…。お茶もお菓子も、美味しいって言ってくれたし、私の話も静かに聞いてくれた。ほんの少しだけど、あの子の心に近づけた気がするわ。でも、まだ足りない。あの子が本当に安心できる場所を、私が作ってあげなくちゃ)

 

ひかりが決意を固め、静寂の中で思考に深く沈んでいた、その時だった。控えめなノックの音。いつもと寸分違わぬ、丁寧な響きだった。

 

「お嬢様、ヴァレリウスでございます。少しよろしいでしょうか」

 

ドアの向こうから聞こえる声もまた、普段通りの落ち着き払ったものだった。

 

しかし、その声に含まれる微かな硬質さを、ひかりは聞き逃さなかった。

 

「ええ、どうぞ」

 

滑るように入室したヴァレリウスは、完璧な所作で一礼した。

 

その顔は能面のように無表情で、姿勢にも一切の乱れはない。

 

だが、長年彼と共に過ごしてきたひかりには分かった。その静けさの奥で、鋼のような緊張が張り詰めていることが。

 

「どうしたの、ヴァル。なにか報告?」

 

「はい。…お嬢様、申し上げにくいことではございますが」

 

ヴァレリウスはわずかに間を置いた。選び抜かれた言葉が、静かに紡がれる。

 

「メグ様が、お部屋より姿を消されました」

 

ひかりの心臓が、氷の手に掴まれたように冷たく収縮した。

 

焦っても良いことはない。まずは現状を把握するところから始める。

 

「…侵入者がいるということ?それでも、この家のセキュリティをすべて突破できるわけがない…」

 

「おっしゃるとおりです。天宮家のセキュリティは最高のものを用意しております。たとえ突破できたとしても、その痕跡は残るはずです。しかし…」

 

ヴァレリウスは険しい顔で続ける。

 

「しかし、セキュリティのログには、物理的にも電子的にも侵入の痕跡を確認できませんでした」

 

ひかりは、ヴァレリウスの言葉に違和感を覚える。

 

家のセキュリティは、扉の開閉からそのロックの状況まで、把握できるようになっているはず。それなのに何のログも無かった?

 

「メグの部屋の状況は?ログではなくて、窓が開いていたり、ドアが開いていたり、現場の状況はどうなっているの?」

 

「メグ様が最後にお部屋に戻られて以降の状態が続いております。荒らされた痕跡もございません」

 

現場の状況とログの内容を照らし合わせても、特に問題は生じていない。それなら、まだ部屋にいるということになるはず。

 

そうだわ。監視カメラ。メグの部屋も含めて、監視カメラが設置されている。そちらを確認したほうが早いわ。

 

「ヴァル、監視カメラの映像は?メグの姿が写っているはずよ」

 

「…映像を確認したところ、メグ様がお部屋に戻られてからの姿は確認できております。しかし…こちらをご覧になってください」

 

ヴァレリウスはひかりに、メグの部屋の監視映像を見せる。

 

そこには、確かに、ひかりと別れた後のメグが部屋で過ごす様子が映っていた。

 

しかし、数分後、映像の中のメグが、ふっと掻き消えるようにいなくなる。

 

ノイズが走るでもなく、ただ、そこにいたはずの人間だけが、綺麗に消えていた。

 

「…これは…!」

 

ひかりは息をのむ。

 

「ヴァル、この映像…それに、セキュリティログ…。これって、まるで…」

 

「はい。まるで、ゴーストのように…でございますな」

 

それは、メグが社会で呼ばれている一つの通り名。高度なハッキング技術を用いて、その場を撹乱すると言われていたもの。

 

ヴァレリウスの言葉に、ひかりは確信する。

 

これは、外部からの侵入ではない。

 

メグが、自らの意志で、そして、天宮家の誰も知らない、技術を使って、この家から消えたのだ。

 

ひかりは、唇を強く噛み締めた。

 

「…ヴァル、もう一度メグの部屋を調べましょう。何か…何か手がかりを見つけるわよ」

 

「かしこまりました。お供いたします」

 

二人はメグの部屋へと急ぐ。

 

***

 

部屋は、ヴァレリウスの言う通り、荒らされた形跡もなく、静まり返っていた。

 

ひかりは、メグがいつも座っていたベッドの隅に目をやる。

 

そこが、あの子の定位置だった。この部屋で唯一自分の場所としていた空間。

 

(あの子はいつもここで、小さな膝を抱えて座っていたわ…)

 

ひかりはゆっくりとそこに近づき、メグの視線を追体験するように、そっと屈み込んだ。

 

あの子はここから、何を見ていたのだろう。何を、考えていたのだろう。

 

ひかりの視線が、部屋の壁を、天井を、そして家具をなぞっていく。一見して、何の変哲もない、ただ静まり返った部屋。

 

しかし、メグと同じ目線になった瞬間、ひかりは普段決して気づくことのない、ある一点に吸い寄せられた。

 

天井の隅、空調のための小さな通気口。

 

その金属製のグリルの縁に、光を鈍く反射する、ごく微細な傷があった。

 

まるで、硬い何かでこじ開けようとしたかのような、新しい擦過痕。

 

「ヴァル…」

 

「はい、お嬢様」

 

「あそこ…あの通気口、元々傷はついていたかしら」

 

ひかりの指さす先を認めたヴァレリウスは、すぐさま自身の端末で、メグが来る前の部屋の状態と比較し、わずかに目を見張った。

 

「お見事でございます、お嬢様。データベースと照合した結果、メグ様がいらっしゃる前には、あの傷は存在しませんでした」

 

ひかりは息を呑んだ。やはり、あれはメグが残した痕跡なのだ。

 

「…でも、どうやってあんな高い場所に?」

 

ひかりの当然の疑問に、ヴァレリウスは静かに首を横に振った。

 

「それこそが、不可解な点にございます。あの高さでは、人の手が届くとは到底思えません。メグ様がどのようにしてあの通気口に触れることができたのか…常識では、考えられないのでございます」

 

ひかりは、改めて天井の通気口を見上げた。メグは小柄だ。

 

しかし、あの通気口は、大人の頭一つ入るかどうかというほどの大きさしかない。

 

骨格を無視でもしない限り、人間が通り抜けられるような経路では断じてなかった。

 

ううん、そんなことを考えるのはあと。

 

「ヴァル、あの通気口がどことつながっているか分かる?外に出られるルートがあるのなら、メグはそこを使うはずよ」

 

「こちらです、お嬢様」

 

ヴァレリウスは手元の端末を滑らかに操作し、青白い光で投影された邸宅の立体図面を空中に呼び出す。

 

無数のフロアとインフラが神経網のように絡み合う構造の中から、ひかりたちがいる最上層の居住ブロックの一室とその通気口に繋がるラインが赤くハイライトされた。

 

「これは、この居住ブロック専用の排気ダクトの一つにございます。建物の上下を貫く巨大な設備用の縦穴を経由し、最終的にはタワーの心臓部である地下の動力区画へと繋がっております」

 

「地下の区画まで…?そこにも監視カメラはあるでしょう?」

 

「はい。しかし…」

 

ヴァレリウスは苦渋の表情で言葉を続けた。

 

「この部屋の映像と同様に、過去一時間に渡る地下通路の監視ログにも、一切の異常は記録されておりませんでした。メグ様は…この要塞の神経網を移動しながら、自らの痕跡をリアルタイムで消去し続けたものと推察されます」

 

ゴーストの通り名にふさわしい、完璧すぎる仕事ぶりだった。

 

この血管のようなダクトを、たった一人で進んでいるというの…?

 

しかし、ひかりは怯まなかった。

 

「…デジタルな記録は消せても、物理的な痕跡までは消せないわ」

 

ひかりは、テーブルの上に残された絵本を一瞥し、心を固めた。

 

あの子がこの場所にいた証。あの子と過ごした時間の証。それが、ここにある。

 

「ヴァル、地下へ案内して。あの子の思考を、私が辿る」

 

あの子がここを離れた理由なんて、今は分からなくてもいい。

 

重要なのは、あの子が今、たった一人で、どこか暗い場所にいるかもしれないということ。

 

私が「安心できる場所を作る」と心に決めた、その約束を、まだ果たせていないということ。

 

ヴァレリウスは、ひかりの言葉に、天宮の血の片鱗を見た気がした。

 

彼は深く、そして敬意を込めて一礼した。

 

「かしこまりました。このヴァレリウス、お嬢様の道行きを、どこまでもお供いたします」

 

***

 

ひかりとヴァレリウスが部屋を出て行き、その足音が遠ざかる。

 

静寂が戻った部屋で、窓際にかけられた分厚いカーテンの影から、小さな人影が音もなく滑り降りる。メグだ。

 

彼女は息を殺し、ドアの方へ注意深く耳を澄ませていた。

 

《追跡者の離脱を確認。第一段階の欺瞞作戦は成功だ》

 

「…うん。うまくいったね」

 

メグは小さく呟くと、ドアの向こうに消えたひかりの気配を思い出し、胸がチクリと痛んだ。

 

「…ひかりさん、あんなに慌ててた。心配、してくれてるんだ…ごめんね」

 

《…その痛みは、当初のシミュレーションには含まれていない、新たなリスク因子だ。君が望むなら、私はこの『最適解』を再評価する。…作戦を中断し、ひかりに全てを打ち明けるという選択肢も存在する。メグ、改めて問う。計画を本当に続行するのか?》

 

「続けるよ。もう決めたことだから」

 

その時だった。天井の通気口から、カタリと小さな音がする。

 

「ピュイ」

 

白い影が軽やかに床に着地した。シロだ。

 

「っとと、おかえりシロ。大変だったでしょ」

 

メグはシロを優しく抱き上げる。

 

彼が通気口のグリルに傷をつけ、この建物の情報を集めるという役目を、見事に果たしてくれたのだ。

 

《ヴァレリウスとひかりは地下の動力区画へ向かっている。邸宅上層階の警備は、今が最も手薄になる》

 

メグは、ひかりが出て行ったドアに一度だけ寂しそうに視線をやり、そして、全てを振り払うように顔を上げた。

 

「行こう、シロ、クラヴィス。…本当の『さよなら』を、始めなくちゃ」

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