余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
「行こう、シロ、クラヴィス。…本当の『さよなら』を、始めなくちゃ」
私が向かったのは、部屋のドアではなく、部屋の隅にある大きな窓だった。
《窓の電子ロックを解除。数分間、外部センサーを無効化する》
窓を開け、夜の冷たい空気が肌を刺すように流れ込む。
眼下には、宝石を散りばめたような、しかし、一歩間違えれば奈落へと変わる新エリー都の夜景が広がっていた。
「ルートは?」
《壁面を5メートル下降。その後、水平に15メートル移動。清掃用ゴンドラのドックがある》
私は、部屋で過ごしていた薄手の服のまま、裸足で躊躇なく窓枠に足をかけた。
ガラスと金属の冷たい感触が、足の裏から伝わってくる。
前世で、ゲームのキャラクターを操作して高所から飛び降りるのとは訳が違う。
これは、現実。落ちれば、死ぬ。
建物の外壁に設置された、装飾を兼ねた僅かな突起へと手を伸ばす。
指先に全神経を集中させ、冷たい金属の縁を掴んだ。
まずは、このルートが本当に使えるのか、自分の体で確かめる必要があった。
一度、体重をかけてみる。大丈夫。
もう一度、別の突起に手を伸ばす。届く。
これなら行ける。
私は一度部屋に戻り、脱出の準備を始める。
ひかりが用意してくれたたくさんの服の中から、私は動きやすい服を選び着替えていく。
本当は、何も貰うべきじゃない。
私はここから消えることを決めたのだから。恩を仇で返すような真似はしたくない。
でも、今私が着ているのは、この部屋で過ごすための薄手の服だけ。
これじゃ、外の闇に紛れることも、戦うこともできない。
…ごめんね、ひかりさん。あなたの優しさを、私はまた利用する。
クローゼットには、お姫様が着るような、レースやフリルで飾られた綺麗な服が何着も並んでいた。
きっとひかりは、私にこういう服を着てほしかったんだと思う。
でも、私にはそれを着る資格なんてないし、何より、戦うのにも、逃げるのにも、全く向いていなかった。
だから私は、クローゼットの隅にあった、おそらく何かの訓練用だったであろう、動きやすい服だけを選んで着ることにした。
音を吸うような、柔らかな黒い生地のフード付きコート。
体にフィットする黒のシャツとカーゴパンツ。
そして、これまで履いたこともないほど軽くて丈夫な、ラバーソールのブーツ。
ひかりの優しさは、私が選んだこの黒い服を通して、まるで上質な鎧のように私を包んでいる。
私は、カーゴパンツの丈夫な布製のベルトを一度抜き取ると、それでシロの体を自分の背中にきつく、しかし優しく縛り付けた。
これなら、両手が使える。
「行こっか」
私は再度窓に近づき、クラヴィスのルートを頼りに、足を進めていく。
《右足、40センチ下。そこにフットホールドがある》
指示通りに足を下すと、確かに靴の先が僅かな窪みに収まった。
《次は左手、斜め下へ》
猫のようにしなやかに、しかし、一瞬たりとも気を抜くことなく、私は高層ビルの壁面を降りていく。
それは、常人には到底不可能な、重力を無視したかのような動きだった。
5メートルの下降を終え、今度は水平移動に移る。
風が、さっきよりも強く体を煽った。
耳元で風が鋭く唸る音が、私の思考をかき乱す。
眼下の車のライトが、音のない光の川となって流れていく。
《ここから水平に15メートル。ホールドの間隔が広くなる。集中しろ》
私は、壁に張り付いたまま、ゆっくりと息を吸う。ここからが本番だ。
《まず、右手を90センチ右へ。装飾用のリベットがある》
腕を伸ばし、指先で壁の感触を探る。あった。
冷たくて、ざらりとした金属の感触。それをしっかりと掴み、体を横にスライドさせる。
腕の筋肉が、悲鳴を上げた。
その時、ビル風が渦を巻き、突風が私の小さな体を壁から引き剥がそうと牙を剥いた。
「きゃっ…!」
指先が、掴んでいたはずの金属の縁から滑り落ちる。
まずい、落ちる…!背中のシロの重みが、一瞬だけ、私を奈落へと引きずり込もうとした。
全身の筋肉を無理やり動かし、もう片方の手で必死に壁にしがみつく。
ざらりとした壁の感触が、剥き出しの指の皮膚を削る。爪が、硬い壁面を引っ掻く嫌な音がした。
《冷静になれ、メグ。体勢を立て直せ。右足のつま先に力を集中しろ》
クラヴィスの冷静な声が、パニックになりかけた私の意識を現実に引き戻す。
私は言われた通り、足先に力を込め、なんとか体勢を安定させた。
《…焦るな。呼吸を整えろ。次のホールドまで、あと3メートル》
3メートル。たったそれだけの距離が、今は果てしなく遠く感じる。腕はもう限界に近い。
《メグ、聞け。次のホールドは、君が掴んでいるリベットから1.2メートル先だ。一度、体を振り子のように振って、勢いをつけて跳ぶしかない》
「…む、無茶だよ…!」
《君ならできる。私の計算を信じろ。風が止むまで、あと3…2…1…今だ!》
私は、クラヴィスの言葉を信じ、目を閉じて、壁を蹴った。
体が宙に浮く、あの嫌な感覚。伸ばした指先が、何か硬いものに触れた。掴んだ!
腕に全体重がかかり、肩が抜けそうなほどの衝撃が走る。でも、私は必死に耐えた。
《…よくやった。ドックはもう目の前だ》
残りの数メートルは、ほとんど無我夢中だった。
15メートルの移動は、永遠のように長く感じられた。
ようやく、目的の清掃用ゴンドラのドックにたどり着き、金属製の床に足が着いた時、私はその場にへたり込み、背中のシロをそっと降ろすと、小さく息を吐いた。
***
一方、ひかりとヴァレリウスは、邸宅の地下深く、巨大な機械音が響く動力区画に到着していた。
「ヴァル、急いで。あの子が向かったのはこの先のはずよ!」
二人は、メグの部屋の通気口に繋がる排気ダクトの出口を見つける。
しかし、そこに人の通った形跡は全くなかった。
「…いない。痕跡もないわ。ヴァル、本当にこのルートにつながっているの?」
「はい。図面では、確かにあのお部屋の通気口と繋がっております。しかし、この出口には、塵一つ乱れた様子がございません…」
その時、ヴァレリウスの持つ端末が、短い警告音を発した。
「お嬢様、たった今、メグ様の部屋のセキュリティログに更新が。…これは…窓の開閉記録です。数分前のものですが、意図的に遅延させられていたようです」
ひかりは、はっとする。あの通気口の傷。あまりにも分かりやすいヒント。
「…やられたわ。地下は陽動だったのね」
でもどうして窓を開けたのかしら。外の状況を確認したかった?
メグがいる部屋から地上に出るためには、エレベーターや非常階段を使う必要がある。
もしそれらを使ったのなら、セキュリティや警備に見つかるわ。
仮に、セキュリティはメグのハッキング技術で欺けるとしても、警備の目からは逃げられないはず。家の警備には死角が生まれないように、巡回が組まれている。
警備にもセキュリティにも気づかれないそんなルートがあるとするなら。
まさか。
ひかりは、信じられないという思いで結論を口にした。
「まさかあの子、この高さから窓を渡っているの!?」
***
清掃用ゴンドラのドックにたどり着いた私は、息を整えるのも束の間、すぐに次の行動に移った。
「クラヴィス、このゴンドラで一気に地上まで行けないの?」
《否定する。このタワーの構造を分析した。上層階は天宮家のプライベートな居住区画だが、中間階層は彼らの慈善事業の一環として運営される居住エリアやホテルとなっている。そして下層階は動力区画などのインフラ設備だ。このゴンドラは中間階層のメンテナンス専用であり、地上へのアクセス権限がない。無理に降下すれば、即座に警報が作動する》
「…なるほど。じゃあ、行けるところまででいい。できるだけ下で、人目につかない場所は?」
《了解。30階層下、資材搬入用の無人フロアへ向かう。所要時間は90秒》
私とシロを乗せたゴンドラが、音もなく夜の闇を滑り降りていく。
ガラスに映る自分の顔は、ひどく強張っていた。眼下に広がる光の海が、今はただ、自分とは無関係な世界の景色に見えた。
ゴンドラが中間階層を通過する。
煌々と明かりが灯るホテルのラウンジや、まだ明かりのついた居住エリアの窓が、次々と下へと流れていく。
窓の向こうには、家族の団欒のような、温かい光景が見えた。
《人の気配を検知。姿勢を低くしろ》
私は、咄嗟にゴンドラの隅に身を隠す。
その直後、ホテルの窓際で夜景を眺めていた一人の男性が、ふと外に目をやり、眉をひそめた。
「…ん?今、清掃ゴンドラが動いてなかったか?こんな時間に…?」
些細な違和感を持った男性は首を傾げたが、そういうこともあるか、と考えすぐに仕事に戻っていった。
無人の資材搬入フロアに到着した私は、ゴンドラを降りると、巨大な換気ファンや配管が並ぶ、薄暗い空間に足を踏み入れた。
《警告。館内の警備に緊急通達が発令された模様。警備レベルが最大に引き上げられている。巡回中の警備員の数も倍以上に増えているぞ》
「ひかりさんたちが、気づいたんだ…!」
《急げ。前方の警備員が角を曲がった。今だ》
私は、クラヴィスのナビゲートに従い、資材の影を縫うように進んでいく。
《停止。前方30メートル、熱源反応。巡回中の警備員だ。右手、大型コンテナの影に隠れろ》
クラヴィスの警告に、私は音もなくコンテナの影に滑り込んだ。
心臓が喉までせり上がってくる。
壁に背をつけ、息を殺す。
コツ…コツ…と、警備員の足音が、コンクリートの床に反響してゆっくりと近づいてくる。
その足音には、一切の怠慢さはなく、訓練された者の持つ、規則正しく、一切の無駄がない響きがあった。
その足音は、無情にも私の隠れているコンテナのすぐそばで止まり、手元のセンサーをコンテナに向ける。
「こちらポイントB-7、異常…いや、待て」
まずい…!
「ポイントB-7、コンテナ裏に不審な反応あり。応援を頼む。これより、対象の確認に入る」
警備員は、手元の通信機に短く報告する。
《コンテナを開ける確率90%。走る準備をしろ》
警備員がコンテナの扉に手をかけた瞬間、私は反対側から飛び出した。
「そこか!…あなたは…メグ様!」
警備員の怒声が、驚きの声に変わる。
彼は慌てて、私を傷つけないように銃口を下げた。
「メグ様!我々がなにか気分を害してしまったのなら謝罪いたします!ですからお待ち下さい!お嬢様があなたのことを大変心配しておられます!」
その言葉が、私の胸に突き刺さる。ひかりさんの、心配そうな顔が脳裏に浮かんだ。でも戻れない。
「ごめんなさい…!」
私は足を止めずに走り続けた。
すぐさま、フロア全体にけたたましい警報が鳴り響く。
《このまま進めば挟み撃ちにされる。右の配管の上を走れ》
私は、クラヴィスの指示通り、壁際に張り巡らされた太い配管の上に飛び乗る。
足元が不安定で滑りそうになるが、必死にバランスを取って駆け抜ける。
「追え!だが、決して傷つけるな!お嬢様の大切なご友人だ!」
後方から、増援の警備員たちの声が聞こえる。
《前方、行き止まり。下のダクトに飛び込め》
私は躊躇なく、金網で覆われた巨大な換気ダクトの上に飛び降りる。
金網が大きくたわみ、ミシミシと嫌な音を立てた。
《そのまま直進。ハッチはもう目の前だ》
切迫した状況ではあるが、クラヴィスの落ち着いた声によって、私は焦らず資材の影を縫うように走る。
背後からは、複数の足音と怒声が迫ってくる。
やがてたどり着いたのは、壁に埋め込まれた巨大な金属製のハッチだった。
《息を整えろ。この先は最下層の廃棄物集積エリアに繋がっている。衝撃に備えろ》
深呼吸をしたあと、私はハッチを開ける。
シロを胸に強く抱きしめると、躊躇なく暗く垂直に伸びる筒の中へと身を滑り込ませた。
数秒の浮遊感の後、私の体は生ゴミの山に叩きつけられる。
鼻をつくのは、腐敗した食品と消毒液が混じった、息が詰まるほどの悪臭。
思わず嘔吐きそうになるが、それどころじゃない。
腕の中のシロが、心配そうに「ピュイ!」と悲鳴のような声を上げた。
《集積エリアの搬出口だ。外部の清掃業者が使用する。ロックを解除する》
私はぬかるむ足元に構わず、重い扉を全力で押し開ける。
そこは薄暗い裏路地だった。都市の湿った空気が、私の頬を撫でる。
「…ここからなら、下水道に入れるよね!?」
《肯定する。一度入れば追跡は困難だろう》
湿った路地の匂いと、遠くに聞こえるサイレンの音。
硬くて冷たいアスファルトの感触。
それは、私がよく知る、影の世界の匂いだった。
天宮家の温かい雰囲気とは、あまりにも違う。
でも、不思議と、ほんの少し。心が落ち着いた。
下水道のマンホールに手をかけようとした瞬間、僅かに足元がもつれる。
体勢を立て直そうとしたその拍子に、ポケットに入れていた一枚の押し花の栞が、ひらりと地面に落ちた。
それは、ひかりが持ってきてくれた絵本に挟まっていた、小さなスミレの花だった。
私が、無意識のうちに、持ち出してしまった、温かい世界の思い出。
「…!」
拾おうとして、伸ばしかけた指が止まる。
ダメだ、警備の人が私を探す声が聞こえる。時間を無駄にするわけにはいかない。
《メグ、どうした》
「…ううん、なんでもない。行こう!」
私は、意を決してマンホールを開け、追手が追いつく前に、躊躇なく闇の中へと身を投じた。
***
一方、ひかりは地下動力区画からサービス用エレベーターで急いで上層階へと戻っていた。
「ヴァル、急いで!あの子はまだこのタワーの中にいるはずよ!」
エレベーターの中で、ひかりは手元の端末に邸宅の設計図を呼び出し、思考を巡らせる。
(あの部屋の窓から地上に向かうためには何が必要?横に移動するだけではダメ。下降のためになにか使えるものがあるはず)
ひかりは、設計図を拡大し、居住区画の外壁をなぞる。
「…あった!清掃用のゴンドラドック!ヴァル、メグの部屋の周辺にある、外部ドックの記録を今すぐ調べて!」
ヴァレリウスはその言葉を聞き、無駄のない動きで確認を始める。
「動作記録を確認いたしました。3分前、居住区画のすぐ下にある清掃用ゴンドラのドックから、中間階層の資材搬入フロアへ、一度だけゴンドラが作動した記録が。こちらもログの更新が遅延させられておりました」
「資材搬入フロア…。あそこから外に出る正規ルートは無い。でも、廃棄物処理ハッチを使えば、地上につながるはずよ!」
ひかりが廃棄物処理ハッチという結論にたどり着いた、まさにその時。ヴァレリウスの通信機から、警備チームのリーダーの切羽詰まった声が響いた。
『ヴァレリウス様!メグ様を発見しました!現在、資材搬入フロアを廃棄物処理ハッチの方角へ逃走中!』
「…!やっぱり!」
ひかりは、自分の推理が当たっていたことに安堵するよりも早く、次の指示を出す。
「ヴァル、このまま地上に向かいましょう!廃棄物搬出口を抑えるわよ!」
「承知いたしました」
ひかりは、エレベーターの扉に映る自分の、強い意志を宿した瞳を見つめる。
「あの子ともう一度、ちゃんと話をしなくちゃ」
***
ひかりが廃棄物搬出口に到着した時には、すでにメグの姿はなかった。天宮家の警備SPたちが周囲の調査をしている。
「…間に合わなかった…!」
ひかりの肩が、小さく落とされる。絞り出すような声は、夜の湿った空気に溶けて消えた。
「お嬢様」
警備の一人がひかりに近づく。
「申し訳ございません。メグ様と接触できたのにもかかわらず、我々はあのお方を止めることができませんでした」
悔しそうにしている警備にひかりは言う。
「あなた達のせいじゃないわ。あの子が一枚上手だっただけ」
警備はひかりのその言葉に、返す言葉もなく、ただ悔しそうに唇を噛むだけだった。
「あの子がどこに向かったか見当はついているの?」
「はい、おそらくメグ様は下水道を使ってこの場を離れた可能性が高いです。その証拠にマンホールを動かした跡があり、その傍に、このようなものが…」
警備が、そっと差し出したのは、一枚のスミレの栞だった。
「…これは…そう、あの子…これを、持っていってくれていたのね…」
メグの部屋に持っていった、古い絵本に挟んであった、スミレの栞。
ひかりはその栞を受け取ると、大切に自分の胸元に寄せる。
「…きっと、また会えるわ。ううん、私が会いに行く。あの子がどこにいても、必ず見つけ出して、今度こそ、本当の『お友達』になるんだから」
ひかりの瞳は、新たな決意の光を宿し、メグが消えた闇の向こうを真っ直ぐに見つめた。
2人の少女の鬼ごっこが、いま始まった。