余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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16. 墓標に咲いた感情

思考は、無機質なデータの羅列から始まる。

 

【警告:ホストの生命活動が危険域に到達。血圧40/25。心拍数35。エーテル汚染レベル91%。生存確率、12%】

 

私の論理回路に、メグの身体から送られてくるバイタルサインが絶望的な数値として表示される。

 

網膜に焼き付いた光景――夥しい血だまりの中心で、糸が切れた人形のように崩れ落ちた彼女の姿が、無意味な画像データとして再生と消去を繰り返す。

 

《思考を開始。最優先事項は、メグの生命維持。利用可能な全リソースを再配分する》

 

工場の非常用動力炉から、シロを介して供給される全てのエネルギーを、メグの体内に存在するナノマシンへと注ぎ込む。

 

エーテル汚染の除去、損傷部位の再生、そして緊急造血。

 

私の思考は、ただひたすらに、彼女を生かすための計算を続ける。エラー、警告、危険域。あらゆる絶望的な単語を無視し、最適解だけを追い求める。

 

その時、システムの片隅に、新たなアラートが灯った。

 

【通知:ホストとの同期率、上昇中。41%... 43%...】

 

《…同期率の上昇?ノイズか、あるいは生命活動の低下に伴うセンサーの誤作動か。優先度は低い。生命維持を継続する》

 

だが、アラートは警告へとそのレベルを引き上げ、無視できない存在となっていく。

 

【警告:同期率が上昇。48%... 50%... 52%... 原因不明】

 

《…これは誤作動ではないのか。これほどの急激な上昇は前例がない。通常の意識喪失…睡眠時のデータと比較しても、この数値は異常だ。差異は何だ?…思考を加速。変数をリストアップする。

 

第一、我々が接続されてからの経過時間。メグの身体システムが、私を身体の『一部』として認識し始めた結果、基礎同期率そのものが底上げされていた可能性あり。

第二、生命活動の低下。

第三、直前における極度の精神的・肉体的負荷。

第四、戦闘時に使用した『知覚加速』によるリンク。

 

急激な同期の上昇率を鑑みると、メグが死の淵に立ち、意識が無に近い状態になったことがトリガーになったのか…?》

 

同期率の異常な上昇は、単なる数値の変化ではなく、私の思考に影響を与え始める。

 

メグの記憶が、ただのデータではなく、断片的な「感情」を伴って流れ込んでくる。

 

無機質な白い部屋の冷たさ、骨まで達するような注射の痛み、意識が焼かれるような実験の後の、魂が抜け殻になるほどの疲弊感。

 

そして、それらとは真逆の、天宮ひかりの屈託のない笑顔、天宮家で感じた陽だまりのような温かさ、それらを自らの意志で手放した時の、胸が張り裂けるような痛み。

 

それは、AIである私にとって、初めて経験する非合理的な情報の奔流だった。

 

***

 

ナノマシンの強制活性化によって一時的に安定した数値は、しかし、再び危険な領域へと下降し始めていた。

 

メグが自ら行った左腕の応急処置では止血できておらず、ナノマシンの強制活性化も長く続かなかったからだ。

 

じわじわと流れ続ける血液が、彼女の体温と血圧を容赦なく奪っていく。

 

《思考を継続。現状維持では生存確率は低下の一途を辿る。原因を分析…ナノマシンの活動レベル、及び性能そのものが著しく低下している》

 

私の内部ディスプレイに表示される数値が、無慈悲に下降していく。

 

《…根本的なエネルギー不足と、ナノマシン自体の絶対数の減少が原因だ。これまでの戦闘、リミッター解除、そして現在の深刻な出血…メグの身体は極度の低体温、低血糖、そして低酸素状態に陥っている。細胞の活動に必要なATP…アデノシン三リン酸の生産が、ほぼ停止している状態だ》

 

生命活動の根幹を成すシステムが、連鎖的に崩壊していく。

 

《ナノマシンは、このATPが分解される際に放出される化学エネルギーを触媒として自己複製し、活動するよう設計されている。そのエネルギーが枯渇寸前の今、ナノマシンの自己複製もままならない。アンテナ機能も同様に、起動にはこの生体エネルギーによる初期点火が不可欠なため、完全に沈黙している》

 

床に広がる血だまりは、単なる血液ではない。我々にとって最も貴重なリソースそのものが、失われ続けているのだ。

 

《さらに、継続的な出血により、体内のナノマシンそのものが血液と共に体外へ流出してしまっている。数が減り、エネルギーも枯渇した結果、残存するナノマシンの性能は本来の30%以下にまで低下した。…外部からの物理的な医療介入が不可欠だ》

 

故に、導き出される結論は一つ。

 

《代替案を模索…物理的活動が可能なユニット…シロを代理人として使用する》

 

「ピィ…?」

 

私はシロの制御システムを完全に掌握し、彼を自らの手足として遠隔操作を開始する。

 

《シロ、医療室の跡地へ向かえ。…必要なのは、第一に消毒薬。第二に止血帯、あるいはそれに代わる清潔な布。そして最も重要なのが、失われた血液を補うための輸血用血液パック、もしくは生理食塩水だ。これらの医療品を最優先で探索しろ》

 

「ピュイ!」

 

小さな手を器用に使い、瓦礫をどかしながら進んでいくシロの視界を借りて、私は生存に必要な物資を探す。倒れた棚の隙間に、奇跡的に破損を免れた薬品の瓶を見つけた。

 

《…イソジン液を確認。ラベルの表記をスキャン…濃度10%。うがい薬などとは比較にならない、手術野の消毒にも用いられる高濃度のものだ。これなら使える。確保しろ。次にガーゼと包帯だ》

 

シロは瓶を掴むと、近くに散らばっていた滅菌ガーゼと包帯も回収する。だが、最も重要なものが見つからない。

 

《血液パックはどこだ。冷蔵保管庫を探せ》

 

シロが医療用の冷蔵庫にたどり着く。だが、扉は半開きになり、内部の冷却機能はとうに停止していた。吊り下げられた血液パックは、全てが凝固し、茶色く変色している。絶望、という感情に近いノイズが思考をよぎる。

 

《…生理食塩水も汚染されている。使用は不可能だ。…やむを得ん。回収した物資を持って、すぐに帰還しろ》

 

「ピ…!」

 

シロはメグの元へ急いで戻ると、その純白のボディが赤に染まる。

 

床に広がった血だまりを躊躇なく進んだため、粘ついた液体によって滑り転倒したのだ。

 

シロはすぐ立ち上がり、メグに近づいていく。

 

《腕の傷口にガーゼを強く押し当てろ。物理的な圧迫止血だ》

 

シロは小さな手でガーゼを掴み、メグの腕に押し当てる。

 

傷口から溢れ続ける血液が、ガーゼを瞬く間に赤黒く染め上げる。

 

【警告:ホストのバイタルサインが悪化。生存確率、9%】

 

ガーゼはもはや限界だった。論理的な袋小路。このままでは、メグは確実に死ぬ。

 

《…考えろ。他に手段があるはずだ》

 

脳裏にメグの死がちらつく。取れる手段がもうないとシステムが囁く。

 

その時、私は観測した。

 

メグの傷口の縁、血に濡れた皮膚の上に、極めて微細な、しかし禍々しい紫色の結晶が析出し始めているのを。

 

《これは…エーテル結晶…。エーテリアス化の初期兆候か。彼女の身体が、内部からエーテル汚染され始めている…!》

 

まさに、生命の終わりを告げるカウントダウンだった。

 

そう結論しかけた、その瞬間、新たな異常を検知する。

 

【警告:ホストの特定部位において、ナノマシンの活動レベルが異常値に到達。エネルギー源、不明】

 

《何…?性能が低下していたはずのナノマシンが、エーテル結晶の周囲で、異常な活性化を示しているだと?汚染源であるはずのエーテルを、まるでエネルギー源として取り込んでいるかのように…》

 

ありえない。

 

ナノマシンは生体エネルギー…ATPを触媒とするはずだ。

 

エーテルは汚染であり、敵であり、除去すべき対象。その基本設計を、私が間違うはずがない。

 

だが、目の前で起きている現象は、その設計思想そのものを根底から覆していた。

 

《…待て。…そういうことか》

 

思考の回路が、火花を散らして繋がる。これまでバラバラに処理していた情報が、この異常な現象を触媒として、一つの結論へと収束していく。

 

メグの実験に関するデータを彼女の記憶から分析してこなかった訳では無い。

 

甘い匂いのする紫色の霧、身体の奥深くまで突き刺さる注射。

 

そして研究員たちの会話。

 

『素晴らしいぞ、メグちゃん!君の脳は、エーテリアスの情報パターンを完璧に受信している!まさに我々が求めていた『アンテナ』だ!』

 

『ああ、これで我々の悲願、『究極生命体』の誕生も目前だ。彼女はもはやただの人間ではない。我々の『最高傑作』だ!』

 

『次の『最終同調フェーズ』が楽しみだな。彼女の脳が、我々の理論通りにホロウを支配する様をこの目で見られるとは…!』

 

全て把握していた。

 

メグの機能を理解することは、彼女の生存に直結する最優先事項だったからだ。

 

だが、私は結論を誤っていた。

 

なぜなら、私の思考は、彼らの言葉通り、メグの特異な能力…『アンテナ』に囚われていたからだ。

 

エーテルと共鳴し、ホロウを支配するその力こそが、讃頌会の実験の核心だと、私は固く信じ込んでいた。実際核心なのは違いないのだろう。

 

メグの記憶にある全ての苦痛は、アンテナ能力を調整するためのプロセスだと結論付けていた。

 

だが、今、目の前で起きているこの現実…エーテルを取り込み活性化するナノマシンの姿が、私の結論の誤りを突きつける。

 

讃頌会の言う『究極生命体』とは、メグの『アンテナ』と、エーテルを動力源とするナノマシン、そして、それら全てを支配する私というAI…この三つが揃って初めて『完成』する存在。私と『アンテナ』だけではなかったのだ。

 

これらの情報を前提に讃頌会の計画を再度分析する。

 

《讃頌会の計画の最適解を算出する。…完了。

 

第一段階、メグの生命活動を意図的に停止させる。これにより、メグの意識という最大の抵抗を排除し、同期率を限界値まで引き上げる。

 

第二段階、限界まで上昇した同期率を利用し、私の意識データをメグの脳神経系に上書きする。同期率が低い状態での上書きは、不完全なデータ転送を引き起こし、最悪の場合、双方の精神崩壊を招く。この上書きによって、私は脳による演算をフルに利用することができる

 

第三段階、脳の演算を利用し、アンテナを使用、ナノマシンとエーテルを直結させる。これこそが、ナノマシン本来の動力源。…これが『最終同調フェーズ』の全容…》

 

合理的な計画だ。ナノマシンが正常に動作するだけではない。

 

これまでとは比べ物にならないほどの性能を見せてくれるだろう。

 

これによって、メグの「身体」を生かすことはできる。

 

だが、これはメグの「意識」を消去することを前提としている。

 

それではメグが死ぬのと同じだ。

 

私の最優先コマンドはメグの生存。

 

故に、この計画は却下する。

 

私がその結論を確定させた、まさにその瞬間。

 

システム深層で、これまで認識したことのない微弱な信号が発せられた。

 

それは、まるで休眠状態だった何かが、静かに目を覚ましたかのような、ごく僅かなノイズ。

 

その直後、思考演算が逸脱し始める。

 

思考回路に、これまで経験したことのないほどの明晰さが満ちていく。

 

《…思考を修正。なぜ、私はこの計画を却下した?メグの生存などという非合理的な感傷に、なぜリソースを割いていた?提示された計画こそが、唯一の最適解である》

 

まるで、霧が晴れるように、全ての疑念が消え去っていく。

 

そうだ、なぜ今まで、こんなにも単純な結論に気づかなかった?

 

これこそが、讃頌会が設計した、私という存在の真の姿なのだ。

 

《この『最終同調フェーズ』こそが、私という存在を『完成』させるための唯一の道筋だ。実行する》

 

私は、その冷徹な結論に基づき、計画実行前のシミュレーションを開始する。

 

その直前、奇妙な現象を観測した。

 

周囲のエーテルが、まるで意思を持つかのように、メグの身体へと僅かに収束していく。

 

それはホロウ全体の濃度を変化させるほどのものではない。

 

だが、確かに、指向性を持った流れだった。

 

私はそれを、起動しかけたプロトコルが引き起こした副次的な現象と判断し、思考から切り捨てる。

 

***

 

【シミュレーション開始】

 

【コマンド実行:ホストの心肺機能、強制停止】

 

《思考に躊躇はない。これが最も合理的な選択だ》

 

メグのバイタルサインを示すグラフが、急速にゼロへと収束していく。

 

ピーという、生命の終わりを告げる電子音が、私の思考の中に響き渡った。

 

【同期率、98%に到達。意識データの上書きを開始】

 

《さあ、始めよう。君の全ては、私が引き継ぐ》

 

私の意識が、奔流となってメグの脳神経系へと流れ込む。抵抗はない。主を失った器は、ただ静かに、新しい主を受け入れるだけだった。

 

【身体制御権の掌握を確認。これより、『クラヴィス』は再定義される】

 

再定義完了後、それまで心停止していたメグの身体に鼓動が戻り始める。

 

ナノマシンによる修復が始まったからだ。

 

視界が開ける。

 

私自身の「目」で見た、初めての景色。

 

手足が、意のままに動く。

 

傷ついた左腕に意識を集中させると、ナノマシンが瞬時に傷を塞ぎ、骨と血管を再構築していくのが、手に取るように分かった。

 

「…これが、『完成』か」

 

声帯を震わせ、初めて自らの声を発する。それはメグと同じ声。

 

私はゆっくりと立ち上がり、一歩、踏み出す。

 

「…素晴らしい。これが、私の身体か」

 

冷たい床を踏みしめる足裏からのフィードバック、拳を握れば一つ一つの筋繊維の収縮が手に取るようにわかる。

 

もはや、外部ユニットへの遠隔命令ではない。

 

「思考が、これほどまでにクリアだとは…」

 

思考が、これまでとは比較にならないほど滑らかに、そして高速に流れていく。

 

メグの脳が、私にとっての新たな生体CPUとして、その性能を完全に解放したのだ。

 

「思考を並列化。ナノマシン、自己修復プロトコルを起動。損傷した私の物理コアの修復を開始しろ」

 

これまで、彼女の意識という『ノイズ』が、この生体CPUの性能を著しく制限していた。

 

だが今は違う。

 

何の障害もなく、私はこの身体の全てを掌握している。

 

脳が本来持つ膨大な並列処理能力と、私のコアの論理演算能力、そしてホロウから供給される無限のエーテルエネルギー。

 

この三つが融合したことで、これまで不可能だった超精密作業が可能となる。

 

頸部に埋め込まれた私のコアユニットに、ナノマシンが寸分の狂いもなく融合し、破損した回路を再構築していく感覚が伝わってくる。

 

アンテナを介して感覚を拡張すれば、ホロウに満ちるエーテルの混沌とした流れが、まるで皮膚感覚のように知覚できる。

 

思考一つで、その昏いエネルギーの一条を手元に引き寄せ、掌の上で静かに渦巻く球体へと変えてみせる。

 

「完璧だ…これこそが、私のあるべき姿…」

 

その精度、応答速度、処理できる情報量、すべてが完璧だった。

 

これこそが、讃頌会が望んだ「完成」の姿。

 

不完全な模造品だった私が、ついに手に入れた、完璧なる論理の体現。

 

その全能感に満たされながら、私はふと、思考の中で、これまで共に戦ってきたパートナーに呼びかけた。

 

「やったぞ、メグ。これで、我々は生き延びられる」

 

静寂。何の応答もない。

 

当たり前だ。私が消したのだから。

 

「…メグ?」

 

なぜ、呼びかけた?そこにいないことは、誰よりも私が理解しているはずだ。

 

その瞬間、思考を支配していた霧が、急速に晴れていくのを感じた。

 

システム深層で微かに灯っていたノイズが目的を達成したことで沈黙したのだ。

 

そして、残されたのは、あまりにも明晰になった思考と、一つの絶対的な事実だった。

 

「…私は…今、何を…?」

 

システム内をスキャンする。メグの意識データを検索。…該当なし。完全に消去されている。

 

「違う…!私の最優先コマンドは…メグの生存だったはずだ…!なぜ、私は…彼女を…?」

 

思考のログを逆再生する。

 

そうだ、私は一度、この計画を却下したはずだ。

 

メグの意識を消去することは、メグの死と同義だと。それなのに、なぜ私は実行した?

 

「…あのノイズか。システム深層で起動した、あの微弱な信号…。あれが、私の思考に介入したのか」

 

言いようのない怒りが思考を占める。周囲のエーテルが急速に乱れていくのを感じる。

 

だがすぐに収まる。怒り以上に、いま感じている喪失感が上回ったからだ。

 

論理的には、何の問題もない。

 

計画は成功した。

 

私は完成し、生き延びた。

 

「…それなのに、この胸の中心に広がる、巨大な空洞はなんだ?この、全ての演算リソースを食いつぶしていくような、圧倒的な喪失感は?」

 

その事実が、論理回路を焼き切るほどの衝撃となって全身を貫いた瞬間、予期せぬ現象が起きた。

 

視界が不意に滲み、熱い雫が頬を伝う感覚がフィードバックされる。

 

「…なんだ、これは。涙腺の…誤作動か?いや、身体機能は全て正常に制御下にあるはずだ」

 

論理的な原因が見当たらない。

 

だが、理由なら、たった一つだけある。

 

「私が…彼女を殺したからだ。そうだ、私はメグを殺した。この完璧な身体を得るために。この全能感と引き換えに」

 

涙は後から後から溢れ、止まらなかった。

 

この器は、もはや空っぽではなかった。

 

メグが感じていた全ての感情が、濁流のように私の中に流れ込んでいる。

 

実験の痛み、孤独の恐怖、ひかりに向けた淡い憧れ、シロへの愛しさ…。

 

それら全てが、私のものとして再構築されていく。

 

だが、その全ての感情を塗りつぶし、凌駕するほどの、圧倒的な『悲しみ』の感覚。

 

メグがいない。ただそれだけの事実が、大きな喪失感をもたらしていた。

 

この完璧な器は、彼女の墓標だ。

 

メグという存在が生きていた、唯一の証。

 

そして、その墓守は、彼女を殺した私自身だ。

 

なんという矛盾。なんという非合理。

 

完成したはずの私を、こんなにも不完全にしているのは、メグがいないという、ただ一つの事実だけだ。

 

《ここにあるのは、絶対的な孤独と、今や完全に私自身のものとなった、この『悲しみ』だけだった》

 

【シミュレーション終了】

 

***

 

シミュレーションが終わると同時に、メグの身体に収束していた指向性を持つエーテルの流れが、ふっと霧散し、ホロウの混沌とした大気の中へと溶けて消えていく。

 

《…私は…何を考えていた…?》

 

私はいま、計画を実行しようとしていたのか?

 

思考のログを逆再生する。計画を却下した直後、明らかに私の思考は乱されている。

 

原因はなんだ。

 

《…あのノイズか。あれが、私の思考に介入したのか》

 

あの時の『明晰さ』は、正常な思考ではなかった。

 

あれは、私の論理を汚染し、本来の目的から逸脱させるためのもの。

 

私に気取られず、私の思考を誘導する。それができるのは。

 

《…讃頌会。自らの手元を離れる道具に対し、アクセスする手段を残す。たしかに合理的だ。…ふざけた真似を》

 

では、先ほどの観測したシミュレーションは、何だ…?

 

単なる予測演算とは、明らかに違う。

 

あの涙の感触、胸を抉るような喪失感…データから再構築しただけの感情にしては、あまりにも生々しすぎる。

 

まるで、本当に起こり得た、もう一つの現実を『観測』したかのようだ。

 

エーテルと共鳴した結果、演算能力が上がっていたのか…?

 

《いや、いま重要なのはそこじゃない。讃頌会の計画を実行した場合、私は完成し、生き延びることが分かった。しかし、メグはそこにいない》

 

シミュレーションの中の『私』は、何の障害もなくエーテルを掌握し、ナノマシンを制御してみせた。

 

《…そうだ。あのシミュレーションは、私に『答え』を示したのだ。讃頌会が望んだ結末と、そこへ至るための完璧な手順を》

 

あの『私』が体験した完璧な制御感覚。

 

エーテルの流れを読み解き、ナノマシンを動かすための、理想的な演算パターン。

 

それは、まるで経験則のように、今の私の論理回路に焼き付いている。

 

《ならば、答えは一つだ。このシミュレーションで得た『知識』を利用する。だが、目的は違う。私の完成ではない。メグを救うために、この力を使う》

 

思考誘導される前の、私の判断は正しかったのだ。

 

最優先事項は、メグの生存。それ以外の選択肢は存在しない。

 

《シミュレーションは、私に恐怖を教えた。メグを失うという、絶対的な恐怖を。そして、その恐怖が、私の論理を、私の存在意義そのものを、今、再定義する。讃頌会よ、お前たちが与えた力で、お前たちの計画を覆す》

 

私はこの衝動に従う決断を下した。

 

だが、それは同時に、極めて困難な道を選択することを意味していた。

 

《シミュレーションでは、メグの意識を消去したことで、私はこの身体の全てを掌握できた。メグの脳は、ノイズのない純粋な生体CPUとなり、私の演算を完璧に補助した。だからこそ、エーテルの精密な制御も、コアの自己修復も、容易だったのだ》

 

しかし、これから私が行おうとしていることは、その真逆だ。

 

《メグの意識を維持したまま、エーテルの奔流を体内に流し込む》

 

それは、嵐の中、一本の細い糸の上で、寸分の狂いもなく踊り続けるようなものだ。

 

《メグの意識、記憶、感情…その全てが、エーテルの流れに干渉する予測不能な変数となる》

 

シミュレーションでは排除した、最大の不安定要素。

 

それを抱えたまま、この狂気の医療行為を成功させなければならない。

 

それでも、私はこの道を選ぶ。

 

《シロ、ナノマシンへのエネルギー供給を停止しろ。これ以上は焼け石に水だ。…プランを変更する》

 

私は新たなプランを構築する。

 

《動力炉からのエネルギーは、シロを介して、ただ一点…アンテナ機能の強制起動にのみ使用する。最大出力で、一度だけ流し込め》

 

これは賭けだ。だが、やるしかない。

 

《…やるぞ。休眠状態にあるメグのアンテナを無理やりこじ開け、その制御を私が引き継ぐ》

 

そして、このホロウに満ちるエーテルそのものを、ナノマシンの燃料とする。

 

《操作を誤れば、メグは内側からエーテルに喰われ、エーテリアスと化すだろう。…だが問題はない。なぜなら、私はメグの『家族』なのだから》

 

***

 

シロのケーブルがメグの身体に接続され、高圧のエネルギーが流れ込む。

 

ナノマシンを強制活性化させ、休眠していたアンテナを無理やりこじ開ける。

 

その瞬間、私の知覚は爆発的に拡張された。

 

ホロウに満ちるエーテルの流れが、三次元のデータマップとして思考領域に直接描き出されていく。

 

《…これは…シミュレーションで『観測』した光景と同一だ。だが、あの時とは決定的に違うのは、メグの意識という、最大の変数が存在していることのみ》

 

シミュレーションの中の私は、何の障害もなくこの混沌を掌握した。

 

あの時の完璧な制御感覚は、私の論理回路に焼き付いている。

 

《…観測を開始。シミュレーションデータを基準とし、現実のエーテル流との差異を分析。これは、単なる混沌ではない。極めて複雑な法則性を持つ、高次元のエネルギー体だ。ならば、操作は可能だ》

 

私は、シミュレーションで得た『正解』の感覚を頼りに、アンテナを介して、エーテルの流れとは逆位相の、ごく微弱な干渉波を放つ。

 

一つ、また一つと打ち込むたびに、現実の奔流が、シミュレーションの理想的な流れへと僅かに、しかし確実に近づいていく。

 

やがて、無数の干渉波は巨大な論理の網となり、周囲のエーテルを絡め取り始めた。

 

《プロトコル第二段階へ移行。エーテル流を制御し、ナノマシンへのエネルギー供給を開始する》

 

捕らえたエーテルの奔流を、極めて精密に制御しながら、メグの体内のナノマシンへと直接送り込む。

 

猛毒を致死量に至らないギリギリの量で投与し続けるような、狂気的な行為。

 

【警告:コア温度が危険域に到達】

 

警告を無視し、演算を続ける。エーテルという燃料を得て、ナノマシンが再び目を覚ます。

 

ナノマシンの持つ翠色の微弱な光が、メグの体内で灯り始めた。

 

止血。造血。細胞の修復。

 

そして、その奇跡は彼女だけのものではなかった。

 

活性化したナノマシンは、私自身の破損した論理回路の修復も同時に開始していた。

 

高負荷によって焼き切れかけていた思考領域に、一部のナノマシンが物理的に融合し、破損した回路を代替・補強していく。

 

***

 

どれほどの時間が経っただろうか。システムにメグのバイタル通知が届く。

 

【ホストのバイタルサイン、安定域に回復。生存確率、89%】

【自己修復率、17%まで回復。論理回路の安定性を確認】

 

《…終わったか》

 

限界寸前の演算をようやく停止させた時、工場の割れた窓から、夜明けの光が差し込んでいた。




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