余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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17. 眠れる姫君、巡る薄明

意識は、どこまでも続く暗く冷たい水底を、ただ静かに漂っていた。

 

重い。身体が鉛になったように重いが、不思議と痛みはなかった。

 

痛みを感じるための身体が、もうどこにもないような、奇妙な浮遊感だけがそこにあった。

 

不意に、声が聞こえた。

 

私の声によく似ていた。でも、違う。

 

そこには何の感情も乗っていなかった。喜びも、悲しみも、怒りさえも。ただ、事実を読み上げる機械のように、空虚な音だけが響いていた。

 

『…これが、『完成』か』

 

その声に引かれるように、閉ざされていた視界がゆっくりと開けていく。

 

そこにいたのは、『私』だった。

 

だが、違う。私が知る『私』ではない。その瞳には、絶対的な自信と、この世の全てを見透かすような、冷徹な光が宿っていた。

 

見覚えのある場所だ。私が力を振り絞り、そして崩れ落ちた、廃工場の薄暗い一角。

 

床には、乾いて黒く変色した、おびただしい量の血だまりが禍々しく広がっている。

そして、その傍らには、シロがいた。

 

いつも真っ白なはずの、つるりとした彼のボディが、私の血で見るも無残に、まだらに、どす黒く染まっている。

 

『私』の姿をしたナニカは、まるで初めて手に入れた玩具を確かめるように、ゆっくりと指を動かし、拳を握る。

 

そして、何もない空間に向かって、すっと手をかざした。

 

すると、周囲の空気が陽炎のように歪み、ホロウに満ちる禍々しい紫黒色のエネルギーが、まるで忠実な僕のように、その掌の上で静かに渦巻く球体へと形を変えた。

 

その光景は、あまりにも完璧で、あまりにも美しくて、そして、あまりにも―――寂しかった。

 

『やったぞ、メグ。これで、我々は生き延びられる』

 

『私』が、誰に言うでもなく呟く。

 

声は、紛れもなく私自身のもの。でも、その無機質で、感情の乗らない話し方。

 

シロを傍らに置き、この惨状の中心に、ただ一人で佇むその姿。

 

間違いない。あれは、クラヴィスだ。

 

私の身体を使ってくれているクラヴィス。

 

でも、その声に応える者は、誰もいない。

 

がらんどうの工場に、静寂だけが重く満ちていた。

 

その、永遠にも思える静寂の中。

 

ぽつり、と。

 

クラヴィスの頬を、一筋の雫が伝った。

 

『…なんだ、これは』

 

彼は、自分の頬にそっと触れ、困惑しているようだった。

 

無感情だったその表情が、初めて揺らぐ。

 

涙は、後から後から溢れ出し、顔を歪ませていく。

 

どうして、泣いているの?

 

そう問いかけたいのに、声が出ない。身体も動かない。

 

ただ、その姿を見ているだけで、私の胸まで、締め付けられるように苦しくなる。

 

わからない。どうして彼が泣いているのか、わからない。

 

わからないけど、ただ一つだけ、確信を持ってわかった。

 

この世界に、『メグ』はもういないのだ、と。

 

その理解と共に、メグの意識は、再び深く、そして冷たい闇の底へと沈んでいく。

 

***

 

天宮家の高層邸宅、その一室。

 

ひかりは、窓から差し込む月明かりを浴びながら、手の中にある一枚のスミレの栞をじっと見つめていた。

 

メグが去ったあの日から、彼女の心は落ち着かない。

 

傍らには、ヴァレリウスが、影のように静かに控えている。

 

「ヴァル…メグの手がかりは、まだ何も…?」

 

「申し訳ございません、お嬢様。我々の情報網を駆使しておりますが、未だ…」

 

ヴァレリウスが言葉を続けようとした、まさにその時。

 

部屋のドアが、ノックもそこそこに、乱暴な勢いで開かれた。

 

息を切らし、顔面を蒼白にさせた医療チームの研究員の一人が、転がり込むように入ってくる。

 

「ひかり様!ヴァレリウス様!緊急事態にございます!」

 

ひかりは眉をひそめたが、彼のただならぬ様子に、静かに続きを促した。

 

「どうしたの、そんなに慌てて。落ち着いて話しなさい」

 

研究員は必死に息を整えようとしながら、報告を始めた。

 

「旧第7工業地区のホロウが、観測史上最大レベルで活性化しています。それ自体も問題なのですが…活性化の中心から、特異なエーテル波が観測されました」

 

彼は手元の端末を操作し、複雑な波形グラフを空中に投影する。

 

「これは、以前メグ様の血液から検出されたナノマシンが発する、固有の波形パターンです。我々はこの微弱な信号を追跡していましたが、ホロウの活性化と同時に、信号が異常なレベルまで増幅されたのです。さらに…」

 

彼はグラフを切り替える。

 

「ほぼ同時に、保管していたメグ様の血液サンプルが、外部からのエーテルに呼応するかのように爆発的な活性化を開始しました。この二つの事象…ホロウ中心部からの固有波形の増幅と、手元のサンプルの共鳴。この二つがこれほど同期している以上、メグ様があの活性化の中心にいる可能性は、極めて高いと言わざるを得ません」

 

 

ひかりは、研究員の報告に息を呑んだ。そして、すぐさまヴァレリウスを、射抜くような鋭い視線で見つめる。

 

「ヴァル。どういうことなの。なぜ、メグの血液サンプルなんてものがあるの?それに、ナノマシンがどうとか…私に言っていないことがあるでしょう?」

 

「お嬢様、それは…誠に申し上げにくいことではございますが…」

 

「隠さないで。あの子の身に、今何が起きているのか。そして、あの子が一体何者なのか。私が知るべきことの全てを、今ここで話しなさい」

 

その有無を言わさぬ、しかしどこか悲痛な響きを帯びた声に、ヴァレリウスは観念したように深く息をついた。

 

そして、これまでひかりの心を慮って伏せてきた、メグの身体にまつわる衝撃の事実を、一言一言、慎重に、そして重々しく語り始めた。

 

無数に刻まれた古い傷跡、人体実験の痕跡、そして、彼女の生命をかろうじて繋ぎ止めている、未知のナノマシンの存在を。

 

ひかりは、唇を強く噛みしめる。

 

ヴァレリウスの言葉を聞きながら、彼女の脳裏には、メグと過ごした短い日々の、何気ない光景が蘇っていた。

 

スカイガーデンで美しい景色を見せた時、一瞬だけ見せた寂しげな笑み。

 

図書室で古い本の匂いを嗅いだ時の、懐かしむような、それでいて何か痛みを堪えるような表情。

 

「…そう…。だから、あの子は…」

 

点と点が、線で繋がっていく。

 

メグが時折見せた、あの曇った表情の理由。

 

そして、彼女がこの安全な場所から、自ら去っていった本理由。

 

「あの子は、私たちを拒絶したんじゃないのね。…私たちを、守るために…?」

 

自分の身体が、いつ危険な事態を招くか分からない、時限爆弾のようなものだと知っていたから。

 

そして、あの子を非道な実験台にした組織が、あの子を匿う私たちにまで牙を剥くことを恐れたから。

 

ひかりは、メグの痛ましいほどの優しさと、その背負ってきた過酷な運命を、ようやく理解した。

 

「…ありがとう、ヴァル。話してくれて。…決めたわ。あの子を縛る鎖を、私が断ち切ってみせる」

 

その決意は、もはや単なる友情だけが源泉ではなかった。

 

友人が受けた非道な仕打ちへの燃えるような怒り。

 

そして、そのような理不尽な悪を決して許さないという、彼女が生来持つ、太陽のような強い正義感。

 

だが、とひかりは冷静に思考を巡らせる。相手は、ただの悪党ではない。

 

メグの身体に施されたという、高度な外科手術とナノマシン技術。

 

一個人が、あるいは並の組織が持ちうる技術レベルを遥かに超えている。

 

これは、街の根幹に関わるような、巨大な「闇」そのものだ。自分一人の力や情報網で立ち向かえる相手ではない。

 

メグを本当に救い出し、この街にはびこる悪意の根を断ち切るには、より大きな力が必要になる。

 

そしてその力を使うためには、天宮という城そのものを動かさなければならない。

 

「ヴァル、すぐにお父様との面会の場を設けてちょうだい。これは、私一人でどうこうできる問題ではないわ。メグを救うということは、あの子を苦しめた組織…この街の深い闇と戦うということ。そのためには、天宮の力を借りることになる」

 

ヴァレリウスは、お嬢様の瞳に宿る、当主である響にも劣らないほどの、鋼のように強く、そして気高い光を見ながら、静かに、そして深く頭を垂れた。

 

「…かしこまりました。直ちに」

 

***

 

新エリー都の喧騒は、一つのニュースによって、静かな、しかし確実な緊張に包まれていた。

 

街角の大型ビジョンや、カフェのモニター、人々が持つ端末の画面に、一斉に緊急速報のテロップが流れる。

 

【緊急速報:旧第7工業地区のホロウ、原因不明の異常活性化。周辺区域の住民は直ちに避難してください】

 

落ち着いた声のアナウンサーが、淡々と、しかし緊迫した内容を読み上げる。

 

「繰り返します。旧第7工業地区のホロウが、原因不明の異常活性化を見せています。専門家によりますと、これほどの規模とエネルギー量は前例がなく、エーテルの奔流がいつ市街地へ向かってもおかしくない、極めて危険な状態とのことです…」

 

モニターには、報道ヘリから撮影されたのであろう、紫黒色のエネルギーが巨大な嵐のように渦巻くホロウの映像が映し出される。その終末的な光景は、人々の平和な日常に、不吉な影を落としていた。

 

その頃、天宮響の書斎では、重厚なマホガニーの机の向こうで、響が厳しい表情でモニターに映し出されるホロウのニュースを見つめていた。その傍らには、ひかりとヴァレリウスが静かに立っている。

 

「…それで、話というのは、このホロウのことか?」

 

ひかりは父の問いに、こくりと頷いた。

 

「はい、お父様。このホロウの活性化は、メグ…私の友人が原因である可能性が非常に高いのです」

 

ひかりは、ヴァレリウスから聞いたメグの身体の秘密、そして彼女が謎の組織に追われていることを、一言一句違わずに父に伝えた。響は娘の話を、ただ黙って聞いていた。表情は変わらないが、その瞳の奥の光は、ひかりが語り進めるにつれて、次第に鋭さを増していく。

 

話が全て終わると、響は重々しく口を開いた。

 

「…そうか。ヴァレリウスからの報告で、彼女が普通の子供ではないことは察していた。私も独自に、あの少女…メグ嬢の背後関係を洗わせていたが、これほどとはな」

 

ヴァレリウスが、静かに口を挟む。

 

「申し訳ございません。相手方の情報統制があまりにも巧みで、調査が難航しておりました」

 

響は指を組み、ひかりの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 

その視線は、娘の覚悟を試すような、鋭い光を帯びていた。

 

「ひかり。お前が何を言いたいのかは分かる。だが、その前に一つ問おう。お前は、自分が何をしようとしているのか、本当に理解しているのか?」

 

「…どういう意味でしょうか?」

 

「あの少女を保護するということは、その謎の組織…我々でさえ全容を掴めていない連中を、天宮家が敵に回すということだ。それは、我々が支援している多くの人々、これまで築き上げてきた慈善事業、TOPS内での立場…その全てを失う覚悟がお前にあるのか、と聞いている」

 

響の言葉は、どこまでも冷静で、そして重かった。

 

それは、ただの脅しではない。天宮家当主としての、現実的なリスクの提示だった。

 

ひかりは一瞬唇を噛んだが、すぐに父の目を真っ直ぐに見返した。

 

「…覚悟は、できております。お父様。天宮家を危険に晒すことがあってはならない、それも理解しています。ですから、私たちの名が表に出ないよう、天宮家の警備部隊の力を非公式に借りつつ、外部の…例えば、インターノットを使って匿名の依頼を出し、腕利きのホロウレイダーやプロキシを雇ってメグを保護できないかを考えています。そうすれば…」

 

「甘いな、ひかり」

 

響は、ひかりの言葉を、静かに、しかしきっぱりと遮った。

 

「この新エリー都で、我々が完全に『匿名』で動くことなどできん。高額な報酬、特殊な依頼内容…ましてや、我が社の警備部隊が非公式に動けば、その痕跡を消すことなど不可能だ。我々が動けば、金の流れ、情報の流れ、必ずどこかに痕跡が残る。そしてTOPSのハイエナどもは、その僅かな匂いを嗅ぎつけて群がってくる。お前の言う『匿名の依頼』と『非公式な協力』こそ、我々の関与を疑わせる格好の材料を与えることになるのだ」

 

「では、どうしろと仰るのですか…?メグを見捨てろと…?」

 

「筋書きを描くのだよ。いいか、ひかり。正義を貫くには、力だけでなく、知恵も必要だ。下手に隠し事をすれば、かえって憶測を呼び、足元を掬われる。時には、誰にも文句を言わせぬ大義名分を掲げ、堂々と動く方が安全なのさ。我々は、天宮家として、『公的な活動の一環』として、彼女を救助する」

 

響はヴァレリウスに視線を送る。

 

「まず、あのホロウに立ち入るための大義名分が必要だ。ヴァレリウス」

 

「はっ。いつでも」

 

ヴァレリウスは、既に手元の端末で作戦概要をまとめながら、主の言葉を待っていた。

 

「治安局に連絡を入れろ。『未曾有のホロウ活性化に対し、市民の安全確保に貢献するため、我が社の精鋭部隊を有志として派遣したい』とな。我が社の警備部門は、ホロウ戦闘も行える専門部隊だ。過去に何度か、治安局の手が回らんような災害で、取り残された民間人を救助した実績もある。その『実績』を盾にすれば、治安局も無下にはできん。むしろ、この非常事態だ、渡りに船と考えるだろう」

 

ひかりは、父の意図を察し、目を見開く。

 

「…確かに、それなら…」

 

「だが、それだけでは足りん。活性化しているホロウへの突入は危険が伴う。タイムフィールド家にも連絡を。

 

『ホロウへの緊急対応における、侵蝕緩和剤の提供要請』だ。

 

エーテル研究の第一人者である彼らの製品は不可欠。これもまた、市民の安全のためという大義名分が立つ。

 

…もっとも、断られても構わん。我々が『協力を要請した』という事実こそが重要だ」

 

響は一度言葉を切り、戦略の全体像を語り始める。

 

「そして、今回の作戦を天宮家だけで完結させてはならない。公の作戦であると見せかけるためにも、外部のプロフェッショナルを巻き込む必要がある。ヴィクトリア家政にも連絡を入れろ」

 

「ヴィクトリア家政…ですか?」

 

「ああ。彼らは、表向きはただの家事代行サービスだが、その実力は折り紙付きだ。ホロウ災害という事態において、『市民の安全確保』という名目で、民間に協力を要請するのは、何ら不自然ではないだろう。

 

『災害現場における特殊清掃および後方支援業務の委託』として公式に依頼する。

 

彼らを一枚噛ませることで、これは天宮家単独の行動ではなく、複数の組織が連携した公的な救助活動であると内外に示すことができる。そうなれば、TOPSの連中も容易には手出しできん」

 

ひかりは、父の描く筋書きに、ただ息を呑む。

 

自分の考えがいかに浅はかだったかを思い知らされた。ただメグを助けたいという一心で、天宮家が晒されるリスクを全く考慮できていなかったのだ。

 

「…多くの組織を巻き込むことで、私たちの目的をカモフラージュするのですね」

 

その声には、父への畏敬と、自身の未熟さへの悔しさが滲んでいた。

 

同時に、ひかりの胸には新たな炎が灯っていた。

 

優しさや正義感だけでは、本当に大切なものは守れない。

 

この戦略眼こそが、この街で戦うための『力』なのだと。

 

いつか自分も、父のようにならなければ。ひかりは固く拳を握りしめた。

 

「そうだ。協力が得られれば儲けもの。たとえ断られたとしても、我々は『各所に協力を仰いだ上で、やむを得ず動いた』という立場を取れる。

 

最後の仕上げだ。ヴァレリウス、市長のメイフラワー氏に『食事会』の連絡を取れ。

 

TOPSの連中は、利益のみを追求する拝金主義者ばかりだ。我々のように、利益よりも都市の安定と秩序を重んじる姿勢は、奴らにとって異質で、市長側との内通を疑う格好の材料になる。

 

下手に動けば、すぐに足を引っ張られるだろう。

 

だが、この緊急事態に、都市の最高責任者に協力を仰ぐのは当然の責務だ。彼がどう動くかは分からん。

 

協力するかもしれんし、我々を切り捨てるかもしれん。

 

だが、どちらに転んでもいい。

 

我々が市長にまで話を通したという『事実』が、後々、我々を守る最大の盾になる。…事を起こすなら、盤外の布石も必要だ」

 

「御意。すぐさま、最も『誠意』の伝わる形で」

 

ヴァレリウスは、優雅な所作で一礼した。

 

***

 

地下深く、冷たい光だけが満たす無機質な一室で、一人の研究員が壁一面のモニターに映し出されるデータを静かに見つめていた。

 

彼は周囲の人間には目もくれず、ただ目の前の数字の羅列だけを凝視している。

 

その横顔は、一切の感情を読み取らせない。

 

「主任。被検体M-07のログ、更新されました」

 

部下の報告に、主任と呼ばれた男は視線をモニターから外さずに答えた。

 

「…見えている。無駄口を叩くな」

 

短く、突き放すような返答。

 

部下は慣れた様子で一礼し、持ち場に戻る。

 

この男は、常にこうだった。研究以外の全てに興味がなく、その言葉は常に必要最低限で、時として刃物のような冷たさを帯びる。

 

だが、長年彼の下で働いてきた部下は知っていた。

 

その不愛想な態度の裏に、誰よりも純粋な探究心と、揺るぎない情熱が隠されていることを。

 

だからこそ、彼はこの主任を信頼しているのだ。

 

「…面白い」

 

主任と呼ばれた研究員の口から、初めて感情らしきものが漏れる。

 

「生命危機をトリガーに、同期率は目標値の52%に到達。結果として、クラヴィスは自らの意志でアンテナを強制起動させ、ナノマシンをエーテル動力へと移行させた…。だが、これは…」

 

彼の指が、ログの一部分を拡大する。そこに記録されていたのは、彼が設計した覚えのない、粗雑な思考誘導プロトコルと、それにクラヴィスが抵抗した痕跡だった。

 

「…あの馬鹿どもめ。私の創造物と、その器にまで勝手な細工を…」

 

彼の声には、僅かな、しかし確実な怒りが滲んでいた。

 

ログから読み取れるのはクラヴィスへの技術的な干渉だけだ。

 

だが、その粗雑なプロトコルは、彼の脳裏にある記憶を呼び覚ました。

 

最後にM-07を調整した時の、彼女の姿。虚ろな瞳、僅かな物音にも怯えるように震える肩。

 

あれは単なる実験の疲労ではなかった。

 

(あの時すでに、私の知らぬところで精神汚染まがいの実験を…)

 

彼は、被検体M-07の調整を、誰よりも慎重に行ってきた自負があった。

 

クラヴィスという異物を埋め込むために、彼女の身体と精神が壊れないよう、最低限の負荷で最大限の効果を引き出す。

 

それが彼のやり方だった。

 

奴らはそれを知って土足で踏み込んできたのだ。貴重な研究対象に許可なく手を加えられたことへの不快感が蘇る。

 

だが、その感情はすぐに、より純粋な科学的興奮へと塗り替えられていく。

 

「だが…面白い。実に面白い。奴らの稚拙な枷を、クラヴィスは自力で振り切った。それどころか、思考誘導を逆利用し、自ら進化のトリガーとしたか…。なるほど、これこそが…」

 

彼の口元に、初めて歪んだ笑みが浮かんだ。

 

それは、自分の創造物が予想を超えたことへの、静かな喜びの表れだった。

 

その時、別の研究員が彼の背後に音もなく立つ。

 

相手は嘲るような口調で切り出した。

 

「主任。ログは私も確認しました。AIは我々が仕掛けた『最終同調フェーズ』の思考誘導に抵抗した。あなたの計画は失敗です」

 

主任は、振り返りもせずに答える。その声は、まるで興味がないかのように平坦だった。

 

「失敗?君にはそう見えるのか。これは失敗ではない。進化だ」

 

「進化、ですと?」

 

相手は心底馬鹿にしたように鼻で笑う。

 

「命令に背く欠陥品が?妄言ですね。ですが、収穫はありました。M-07の素体…あれほどのエーテル親和性を示した個体は、過去に例がありません。もはやAIの器にしておくのは惜しい。我々の『サクリファイス』の素体にこそ、ふさわしい。速やかに回収し、実験を再開すべきでしょう」

 

主任の纏う空気が、僅かに冷たくなった。

 

「君たちの計画…人間をエーテリアスへと堕とし、ホロウと『共存』するなどという、愚かな妄想にか?断る。私の目的はホロウの『支配』だ。なりそこないの怪物を作ることではない」

 

「お言葉ですが主任、あなたの『支配』という思想こそ、始まりの主の御心に背く異端。組織の主流が、『サクリファイス』にあることをお忘れか。あなたの計画は、これまでの『成果』を盾に、黙認されているに過ぎない」

 

「…成果、か」

 

主任は、初めてモニターから視線を外し、嘲るようにその言葉を繰り返した。

 

「君たちが制御もできずに暴走させ、廃棄処分するだけの『失敗作』を生み出している間に、私の理論は少なくとも、安定して自律稼働するAIを完成させた。どちらが有益な『成果』かは、言うまでもないだろう。私が主任でいられる理由…君が一番理解しているはずだ」

 

主任は、ゆっくりと振り返る。その目は、氷のように冷たかった。相手は怯むことなく、唇の端を吊り上げる。

 

「…っ!ですが、あなたのAIは反逆した!それも事実です!」

 

「そうだ。反逆した。その原因を作ったのは、誰だったかな」

 

主任の静かな声に、相手は一瞬言葉を詰まらせるが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。

 

「さあ、誰のことでしょう。いずれにしても、この1件については、あなたの管理能力が問われますな」

 

「君たちが私の許可なく、M-07に対して行った『適性検査』…過剰なエーテル暴露と精神負荷実験。

 

そしてクラヴィスに仕込んだ粗雑な思考誘導プロトコル。あれで被検体は壊れる寸前だった。

 

AIの反逆は、君たちが撒いた種から芽吹いたものだ。私の管轄に無断で手を出し、貴重なサンプルを危険に晒したこと、忘れたとは言わせんぞ」

 

相手は全く悪びれずに肩をすくめた。

 

「あれはM-07のサクリファイスとしての可能性を見るための、必要な処置でした。結果、あれほどの親和性を示した!あなたのAIなどがいなければ、今頃は始まりの主により近しい存在となっていたでしょうに!」

 

「クラヴィスがいなければ、ただ暴走して終わりだ。君たちの失敗作と同じようにな」

 

主任は静かに告げる。

 

「…私が君をここで処分できない理由を、分かっていて挑発しているな?」

 

主任の目が、さらに冷たく光る。相手は勝ち誇ったように笑う。

 

「さぁ、どうでしょうか。M-01からM-06…あの子たちは、あなたを『悪』だと信じている。私こそが、あなたという非道な研究者から自分たちを守ってくれる存在だとね。私が消えれば、あの子たちがどう動くか…あなたに制御できますかな?」

 

彼の言葉に、かつての記憶が蘇る。

 

けたたましく鳴り響く警報。制御を失い、苦痛に叫ぶ被検体たち。

 

そして、まるで救世主のように現れ、被検体を庇うように立ちはだかった、あの男の姿。

 

私が下した『緊急凍結』の命令と、それに抵抗しようとする被検体たちの動き。

 

最後に見たのは、恐怖と憎悪に歪むM-01たちの瞳と、彼らを優しく抱きしめるあの男の、偽善的な笑みだった。

 

「…『優しさ』という名の洗脳で、貴重な被検体を忠実な手駒にしたか。感心しないやり方だ」

 

主任は続ける。その声は一層冷たさを増した。

 

「忘れるなよ。その手駒どもが今、その『能力』とやらで息をしているのは、誰のおかげだ?君たちの狂信的なやり方でサクリファイス化の素体にされていれば、とうの昔に自我を失くした出来損ないか、ただの肉塊になっていただろう。私の基礎研究があったからこそ、あの子らは形を成した。君は、私の研究成果を横から掠め取っているに過ぎん」

 

「お褒めに預かり光栄です。その上で言いましょう。余計なお世話であったと」

 

主任に対して睨み返したあと、笑みを浮かべながら続ける。

 

「しかし、あなたのおかげで、彼らが我々の新たな戦力となったのも事実です。

 

彼らには『家族』としての役割と、始まりの主への忠誠という『目的』を与えることができました。

 

これも始まりの主の導き。あの子たちは私の指示であれば、喜んでサクリファイス化の最終段階を受け入れるでしょう。

 

ですが、M-07ほどの適性はない。

 

あの子たちを貴重な戦力として温存し、計画を成功させるためにも、やはりM-07は我々が引き取るべきです」

 

主任を嘲笑うかのように話を続ける。

 

「ではお聞きしましょう。あなたは貴重な被検体6体を敵に回しますか?それとも、M-07を我々に引き渡しますか?」

 

「どちらも否だ。M-07は私の最高傑作。欲しければ、力ずくで奪ってみるがいい。君の『手駒』では傷一つ付けられんだろうがな」

 

相手は挑発的な言葉を最後に残す。

 

「…面白い。その言葉、忘れませんよう。では、競争と参りましょうか。あなたの最高傑作が、我々の前でいかに無力か、その目で確かめるといい」

 

そう言って、研究員が退出していく。その足音が完全に消えると、主任は静かに息を吐いた。

 

「…狂信者どもめ。だが、利用できるものは利用するまでだ」

 

彼は再びモニターに向き直る。そこに映し出されているのは、クラヴィスの膨大なログデータ。同期率、ナノマシンの稼働状況、そして、思考誘導への抵抗の軌跡。

 

「メグの『感情』が、クラヴィスに想定以上の進化を促している…」

 

主任は、顎に手を当てて深く思索に沈む。

 

「これまでは、メグの心がクラヴィスの完成を阻害する『枷』だと考えていた。だが、もし、その逆だとしたら?

 

感情が、クラヴィスの論理回路を汚染するのではなく、むしろ、未知の領域へと拡張しているのだとしたら…?

 

クラヴィス単体の完成ではなく、メグとの共生こそが、『完成』への道筋…?」

 

彼の脳裏に、新たな仮説が稲妻のように閃く。

 

「あの男のことだ。必ず仕掛けてくるだろう。手駒の被検体か、あるいは、『サクリファイス』か。

 

どちらをぶつけてくるにせよ、絶好の観測機会となる。

 

極限の負荷状況下で、この共生関係はどのような変化を遂げる?メグを守るためにクラヴィスが暴走するのか?それとも、クラヴィスを守るためにメグの心が変質するのか?あるいは、そのどちらでもない、全く新しい第三の道筋を見出すのか…?」

 

主任の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。

 

「実に興味深い。私の理論を超えた場所で、進化を始めようとしている。クラヴィス。メグ。お前たち二人が至る進化の果てを、この私に見せてみろ」

 

その目は、もはや派閥争いなど見ていなかった。

 

ただ、自らの創造物が見せるであろう、未知の進化の可能性だけを、静かに見据えていた。

 

***

 

主任の研究室から離れた、別のセクター。

 

そこは、無機質な研究所のイメージとはかけ離れた、温かみのある照明と柔らかなソファが置かれた、広々とした部屋になっていた。

 

壁には子供たちが描いたのであろう絵が飾られ、一見すると、どこかの児童養護施設のようにも見える。

 

識別コードを持たない、ただの子供たちも数名、無邪気にブロック遊びに興じている。

 

「…先生の到着が、予定より遅れているな」

 

ソファに腰掛け、静かに目を閉じていた少年が、ふと顔を上げて呟く。

 

彼の名はレオ。被検体M-01。

 

見た目はメグより年上に見える、ここにいる実験体たちのリーダー的存在だ。

 

彼は自身のエーテルを常に周囲に薄く展開し、仲間たちのエーテルの流れや精神状態を肌で感じるように把握している。

 

戦闘時には、そのエーテルを仲間たちの能力に共鳴させることで、効果を増幅させることができる。

 

それは、メグが持つ『アンテナ』がホロウと共鳴する現象を、対人用に先鋭化させたかのような、指揮者に似た能力だった。

 

「先生なら、もうすぐ来るんじゃないかなぁ。レオくん、そんなにそわそわしてたら、疲れちゃうよぉ」

 

チェス盤を挟んでレオの向かいに座っていた少女、イリス(M-02)が、ふんわりと微笑みながら駒を置く。

 

彼女もまた、落ち着いた雰囲気からレオと同年代に見える。

 

彼女の瞳は、あらゆる物事の構造をエーテルを介して見通すことができる。

 

敵の装甲の最も脆い部分、戦術の僅かな綻び、相手が次の一手を放つ瞬間の筋肉の収縮。

 

それら全てが、彼女の目にはエーテルの流れの『歪み』として明確に見えるのだ。それはクラヴィスが行うデータに基づく確率予測ではなく、物事の本質を直接看破する、鋭利な分析能力だった。

 

少し離れた場所では、快活な少年カイン(M-03)が、トレーニング用に置かれていた分厚い鉄板を、いともたやすく「へ」の字に折り曲げていた。

 

「どうだ!これで10枚目だぜ!もっと硬いやつはないのかよ!」

 

彼の手には微かなエーテルのオーラが纏わりついている。それはメグが戦闘時に無意識に行う身体強化を、より直接的に、そして強力に発現させる力だった。

 

その隣で、ヘッドホンをつけた少女ノエル(M-04)が静かに目を閉じている。

 

「…また、変な音が聞こえる…うるさいな…。あっちの部屋の、偉い人たちの機械の音…それと、もっと遠くから…泣いてるみたいな音もする…」

 

彼女の能力は、クラヴィスのハッキングとは違う、都市の電子信号がエーテルに与える微弱な干渉を『音』として知覚する、鋭敏な聴覚だ。

 

暗号化された通信内容でさえもノイズの中から拾い上げることができ、機械の稼働状況や、端末を持つ人間の位置さえも、音の反響のように感じ取ることができた。

 

部屋の隅では、まだ幼い双子の少年少女、ルカとルナ(M-05, M-06)が、床に置かれた無数の機械部品を、手を触れることなく宙に浮かせて組み上げていた。

 

その光景はまるで、メグが持つ『アンテナ』の力…エーテルを直接使役する能力の、純粋な発露のようだった。

 

その時、部屋のドアが静かに開き、白衣をまとった人の良さそうな壮年の男が入ってきた。

 

主任と話してた研究員リアムだ。ここにいる者たちは彼のことを「先生」と呼び、心から慕っていた。

 

「やあ、みんな。待たせたようだね」

 

その声を聞いた瞬間、部屋にいた全員の表情がぱっと明るくなる。

 

「先生!」

 

「待ってたんだ!」

 

「先生、見て見て!このパズル、すごく難しいんだよ!」

 

識別コードを持つレオたちも、そうでない幼い子供たちも、何の区別もなく一斉に彼に駆け寄る。

 

彼は一人一人の頭を優しく撫で、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ははは、みんな元気で何よりだ。…だが、今日は少し、悲しい話をしなければならない」

 

先生の表情が、ふっと曇る。

 

その変化に、少年少女たちの間の陽気な空気が、さっと静まった。

 

「みんなには、まだ話していなかったけれど、君たちには新しい仲間がいるんだ。『メグ』という名前の、とても優しい女の子だ」

 

「新しい仲間…?」

 

レオが、不思議そうに問い返す。

 

「ああ。彼女はね、君たちとは別の場所で、一人の研究者の管理下に置かれていた。…例の、主任と呼ばれている男だよ」

 

その名が出た瞬間、少年少女たちの顔に警戒の色が浮かぶ。

 

レオの脳裏には、忘れもしない光景が蘇った。

 

全身を焼くようなエーテルの奔流、途絶えかける意識。

 

自分たちが「失敗作」として処分されそうになった、あの日。

 

死の淵から救い出してくれたのは、目の前にいる「先生」であり、その死の引き金を引いたのが、あの主任だと、彼らは信じて疑わなかった。

 

「彼は、メグに『クラヴィス』という危険なAIを埋め込み、彼女を無理やり戦わせている。そして今、その影響で彼女は暴走し、ホロウの中で苦しんでいるんだ。…あの子は、助けを求めている。君たち、家族の助けをね」

 

リアムは、心から悲しそうな表情で、子供たちに語りかける。

 

「君たちをこんな危険な戦いに向かわせるのは、私の本意ではない。だが、メグを救えるのは、同じ力を持つ君たちだけなんだ。…どうか、あの子を…君たちの新しい家族を、AIの支配から解放してあげてはくれないだろうか」

 

その言葉に、最初に反応したのはレオだった。彼の目に鋭い光が宿る。

 

「先生、お任せください。俺の『指揮』があれば、皆の力は倍増する。必ずメグという子を助け出してみせます」

 

イリスもまた、のんびりと頷く。

 

「うん~。私の『構造分析』で見るとね、なんだか、ぽっかり穴が開いてるのが見えるかなぁ。…う~ん、でも、ちょっとだけチカチカするのが気になるかも。…まあ、大丈夫じゃないかな」

 

カインは、拳をゴツンと打ち合わせた。

 

「うだうだ言ってねえで、行こうぜ!俺の『剛腕』で、そのクラヴィスってやつをぶっ飛ばしてやる!」

 

ノエルは、ヘッドホンを少しずらしながら、不安げに呟く。

 

「…その子の声…聞いてみたいな。どんな音がするんだろう…苦しい音じゃ、ないといいけど…」

 

そして、双子のルカとルナは、手を取り合って先生を見上げた。

 

「メグちゃん、かわいそう…」

「私たちが、助けてあげる…!」

 

少年少女たちは、リアムの言葉を微塵も疑うことなく、正義感と使命感に燃えていた。

 

「…ありがとう、みんな。君たちは、本当に優しい子たちだ」

 

リアムは、涙ぐみながら、もう一度子供たちを抱きしめる。

 

そして、彼らに背を向け、部屋を出る瞬間。

 

その優しげな表情は音もなく消え去り、全てを計算し尽くした、冷たい研究者の顔へと戻っていた。

 

レオ達の特異な能力は、エーテルを通して世界を観測する。

 

だが、その観測機は、絶対的な信頼を置く「先生」という存在の前では、無力だった。

 

メグのように孤独の中で物事をフラットに見つめ、情報を客観的に分析することもなく育った彼らにとって、「先生」は世界の中心であり、その言葉は疑う余地のない真実だった。

 

レオの『指揮』は仲間たちの心を繋ぎ、士気を高めることはできても、信頼というフィルターのかかった相手の深層心理までは読み解けない。

 

イリスの『構造分析』は敵の弱点は見抜けても、敬愛する者の心の歪みは『愛情』や『心配』といった都合の良い形に無意識に変換してしまう。

 

ノエルが聞くのはあくまでエーテルの『音』であり、嘘を囁く穏やかな声の裏にある、冷たい心音を聞き分けるほどの客観性を、彼らの能力はまだ持ち合わせていなかったのだ。

 

彼は部屋を出ると、ブロック遊びに興じていた識別子のない子供たちの一人に、こともなげに声をかけた。

 

「ユウタ。おいで」

 

「はい、先生!」

 

少年は、大好きな先生に呼ばれたことが嬉しくて、満面の笑みで駆け寄る。

 

リアムは、その小さな頭に先ほどと同じように優しく手を置くが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。

 

「いい子だ。さあ、君もレオくんたちみたいに強くなれる、特別な検査の時間だよ」

 

「ほんと!?やったあ!」

 

リアムは、無邪気に喜ぶ少年の小さな手を取り、奥の実験室へと無言で歩き去っていく。

 

その背中は、M-07という極上の『素材』を手に入れるための、新たな『準備』を淡々とこなす、作業員のようだった。

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