余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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みなさま、いつも応援ありがとうございます。

今回の話には「シーズン1・アウトロ:涙と過去を埋めて」において明らかになる情報が含まれています。

ネタバレが気になる方はご注意ください。

また原作の時系列を「第三章:危うし、高楼の夜」クリア後まで進めました。

これまで投稿してきたものを確認しつつ、時系列に矛盾が生じないように執筆しましたが、気になる点がありましたら、ご指摘いただけると幸いです。


18. その涙は誰が為に

ヴィクトリア家政の屋敷において、フォン・ライカンは、天宮響との通信を終えると、静かに受話器を置いた。

 

その表情は、いつものポーカーフェイスの裏で、怜悧な計算を重ねていた。

 

「災害現場における特殊清掃および後方支援業務の委託」

 

その言葉の裏に隠された、天宮家当主の真意を、彼は正確に読み取ろうとしていた。

 

これは、単なる清掃依頼…市民の救助依頼ではない。

 

ホロウを舞台にした、政治劇だとライカンは解釈していた。

 

彼が思考に沈んでいた、まさにその時。

 

机の上に置かれたもう一つの端末が、短い音もなく着信を告げた。

 

画面には何のIDも表示されていない。

 

最高レベルの秘匿回線。ライカンの表情が、わずかに引き締まる。

 

「…やあ、私だよ、ライカンくん」

 

スピーカーから聞こえてきたのは、柔らかな穏やかな声。

 

新エリー都の市長、メイフラワー。ヴィクトリア家政の真の雇い主だった。

 

「天宮家からの招待状は、無事に届いたようだね」

 

「…はっ。ただいま拝受いたしました」

 

「単刀直入に言おう。彼が何をしようとしているか、探ってきてほしい。天宮家はTOPSの中では、最も話の通じる相手だが、それでもTOPSに所属している。何かしらの意図があるはずだ」

 

市長はそこで話を一度区切り、悩ましい声で続ける。

 

「天宮家の慈善事業が、この街の安定に貢献しているのは事実だ。私も彼の功績は評価している。だがTOPSにいる以上、利益を追求する必要がある。彼が『市民の安全確保』という、大義名分を掲げてこれほどの大立ち回りを演じるのは、単なる人助けのためだけではないはずだ」

 

市長の声は静かだったが、その言葉の一つ一つが絶対的な権力者の持つ重みを帯びていた。

 

「…かしこまりました。状況が把握でき次第、こちらから連絡を差し上げます」

 

通信が切れると、ライカンは間を置かず、別の回線を開いた。相手は、この街で最も腕が良く信頼できる、ホロウの案内人。

 

「フォン・ライカンです。プロキシ様へ、一件、ご相談したいことがありまして」

 

『おや、ライカンさん。ヴィクトリア家政から依頼とは、珍しいね。何か厄介事かい?』

 

アキラの、柔らかい声が返ってくる。

 

『ライカンさん、こんにちは!お兄ちゃんの言う通り、ヴィクトリア家政からなんて珍しいね!それで、依頼っていうのは?』

 

「その前に、先日はバレエツインズの一件、誠にありがとうございました。お二人のご協力がなければ、あの事態は収拾できなかったでしょう」

 

『こちらこそ!ライカンさんたちが助けてくれなかったら、レインは助からなかったし、飛行船も…考えただけでゾッとするよ。本当にありがとうございました!』

 

リンの元気な声に続き、アキラが静かに言葉を添える。

 

『ああ。レインの件も、飛行船の件も、本当にありがとう』

 

「いえ、我々も同様です。…それで本題なのですが、率直に申し上げますと、旧第7工業地区のホロウの案内をお願いしたいのです。これは、我々ヴィクトリア家政から、あなた方への正式な依頼です」

 

ライカンの言葉に、通信の向こうが一瞬、静かになった。

 

『旧第7工業地区って…ええ!?今ニュースでやってる、めちゃくちゃ活性化してるっていうあそこのこと!?』

 

リンの驚いた声が響く。

 

『ずいぶんとまた、物騒な場所を指定するものだね、ライカンさん。本気かい?』

 

アキラの静かな問いに、ライカンは落ち着いて答えた。

 

「ええ。だからこそ、プロキシ様のお力が必要なのです。…本来であれば、ご主人様の御名を明かすことは致しかねるのですが、我々が信頼するに足る協力者であれば、事を円滑に進めるために協力を仰いでも構わないと、特別な許可をいただいております。今回、我々ヴィクトリア家政を指名してくださったのは、天宮家なのです」

 

『天宮家?』

 

リンが首を傾げる気配がした。

 

『誰それ?有名なの?』

 

アキラが、やれやれといった様子で説明する。

 

『リン…。天宮家を知らないのかい?TOPSの中でも頂点に立つ一族だよ。慈善事業にも熱心でね。市民からの評判はすこぶる良い。特に、ご令嬢のひかりさんは「新エリー都の太陽」なんて呼ばれているほどさ』

 

『へぇー!そんなすごい人たちが!?じゃあ、今回の依頼もその慈善事業の一環なのかな?』

 

『そうかもしれないね。…それで、ライカンさん。今回僕達は具体的に何をすればいいんだい?』

 

「天宮家が主体となり、現在活性化中の旧第7工業地区ホロウへ、『市民救助』のために立ち入ります。我々はその作戦行動の支援を、そしてあなた方には、そのホロウ内部のナビゲートをお願いしたいのです」

 

『…市民、救助…』

 

リンが、ライカンの言葉を小さく繰り返した。

 

それまでの快活な雰囲気が嘘のように、彼女の声から光が消える。

 

その変化に、アキラが気づき、静かに促す。

 

『リン?』

 

『…うん。ライカンさん、今回の依頼とは全く別の話なんだけど…一つだけ、聞いてもいいかな?』

 

リンの声色は、先ほどまでの快活さとは打って変わって、どこか沈んだ響きを帯びていた。

 

「ええ、何なりと」

 

『前に話した「ゴースト」のこと…何か新しい情報はないかなって。あの子、目の前でデッドエンドホロウに落ちて…それっきりなんだ。私たち、ずっと気になってて…』

 

「…申し訳ございません。私共の方でも新たな情報は掴めておりません」

 

ライカンは一度言葉を切ると、少し思案するように続けた。

 

「…ですが、プロキシ様。『ゴースト』がホロウに落ちた時の状況を、もう少し詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 

『え?うん、いいけど…あの時はすごかったんだよ!あの子が落ちた瞬間、それまで静かだったデッドエンドホロウが一瞬活性化したんだ!ホロウの裂け目もブゥンって不気味な音を立てて、紫の電気がバチバチって!Fairyも「空間座標が崩壊寸前!」とか叫んでたし、ただ落ちたっていうより、裂け目に吸い込まれたって感じだった!』

 

「…空間座標の崩壊と、ホロウの同時活性化、ですか。なるほど」

 

ライカンの声に、確信の色が混じる。

 

「今回の旧第7工業地区の活性化も、その前兆が一切観測されていません。あまりにも突発的で、規模が大きすぎる。そして、その直後に天宮家が『市民救助』という大義名分を掲げて即座に動く。あまりにも手際が良すぎる。まるで、こうなることを予期していたか、あるいは…この活性化そのものが、彼らの目的と繋がっているかのように」

 

ライカンの言葉に、リンとアキラは息を呑む。

 

「確証はありません。ですが、プロキシ様が目撃したという異常な『活性化』と今回の『活性化』…少し似たようなものがあると考えております」

 

『…!』

 

リンの目に、わずかな希望の光が宿る。

 

『…うん。確かに言われてみればそうかも。OK、ライカンさん!その依頼、私たちパエトーンが受けた!』

 

***

 

響の書斎。ヴァレリウスからの報告が、静かに響いていた。

 

「…以上です。ヴィクトリア家政、タイムフィールド家、共に協力の快諾を得られました。また、市長閣下との『食事会』も滞りなく。表向きは全面的に協力するとのことですが、ホロウ周辺に治安局の特殊部隊を増員し、我々の動きを牽制する構えも見せております」

 

「想定内だ。むしろ、その方が好都合だ」

 

響は、全てが自らの描いた筋書き通りに進んでいることに、静かに頷いた。

 

そこへ、ひかりが姿を現す。

 

いつもの優雅なドレスではなく、彼女のために特注された、純白の耐エーテル防護服に身を包んでいた。

 

その姿は、メグと初めて出会ったときと同じ装いであり、まるで戦場へ赴く姫騎士のようだ。

 

ヴァレリウスもまた、いつもの執事服の下に、特殊なアーマーを装着している。

 

「準備はできたようだな、ひかり」

 

「はい、お父様」

 

響は、娘の瞳に宿る、揺るぎない決意の光を見て、静かに立ち上がった。

 

「良いか、ひかり。表向き、これは市民の安全を守るための公的な救助活動だ。決して、個人的な感情を表に出すな。だが、心の中の炎まで消す必要はない」

 

彼は、娘の肩にそっと手を置く。

 

「お前の信じる正義を貫いてこい。…背中は、この私が守る」

 

それは、天宮家当主としてではなく、一人の父親としての、力強い激励の言葉だった。

 

***

 

旧第7工業地区のホロウ前は、すでに戦場と見紛うほどの緊張感に包まれていた。

 

治安局が張り巡らせた無骨なバリケードの外側では、報道各社のヘリがハイエナのように低空を旋回し、その内側では天宮家の私設警備部隊と、市長が派遣した治安局の特殊部隊が、紫黒色に渦巻く災厄のドームを固唾を飲んで睨みつけている。

 

その威圧的な光景は、まるで巨大な生物が不規則な呼吸を繰り返しているかのようだった。

 

その喧騒の中心で待つひかりとヴァレリウスの元へ、ヴィクトリア家政とボンプが近づいてくる。

 

「ひかりお嬢様でいらっしゃいますね。お初にお目にかかります。わたくしはヴィクトリア家政のフォン・ライカンと申します。ご当主様のご依頼に基づき、参上いたしました」

 

ライカンは、完璧な所作で一礼した。

 

その背後には、同じくメイド服や執事服に身を包んだエレンやカリンたちの姿も見える。

 

エレンは気だるそうに腕を組み、カリンは巨大なチェーンソーを抱きしめながら、不安げにホロウを見つめている。

 

ひかりの傍らで、ヴァレリウスが静かに一礼する。

 

「天宮家の執事、ヴァレリウスと申します。以後、よしなに」

 

ライカンは、傍らのボンプ「イアス」にそっと手を差し伸べる。

 

「そして、こちらが今回の任務で我々と同行していただく、プロキシ『パエトーン』です」

 

イアスがくるくるとポーズを決める。

 

『はじめまして、僕はアキラだ』

 

『わたしはリン!この子はイアス!わたしたちの目と耳になってくれる、大事なパートナーだよ!』

 

兄妹の対照的な声が、ひかりの持つ通信端末から響く。

 

ひかりは、彼らの挨拶に柔らかな笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます。私は天宮ひかり。どうぞ、ひかりと呼んでください」

 

リンはその言葉を聞くと早速呼び方を変え、快活に言う。

 

『わかった!じゃあ、ひかりさんって呼ぶね!』

 

ライカンは、ひかりの耐エーテル防護服姿を認めると、改めて居住まいを正した。

 

「失礼ながら、ひかりお嬢様。そのようなお言葉、恐れ多いことでございます。それに、このような危険な場所に、まさかお嬢様ご自身が赴かれるとは、想定しておりませんでした」

 

アキラの静かな声が、リンの快活さを制するように響いた。

 

『…ひかりさん。ライカンさんの言う通りだ。ここは君のような人が来る場所じゃない』

 

アキラの声には、確かな心配の色が滲んでいた。

 

その言葉に、ひかりは父の言葉を胸に刻み、これから命を預けることになる仲間たちを真っ直ぐに見つめ、凛とした声で返した。

 

「ご心配には及びません。今回の作戦参加は、父の許可も得ています。それに、自分の身くらいは自分で守れますから」

 

ヴァレリウスが静かに付け加える。

 

「お嬢様のお側には、このヴァレリウスがおりますので、ご心配なく」

 

その毅然とした態度に、ライカンは表情一つ変えず、深く一礼した。

 

「…承知いたしました」

 

ひかりは、集まったプロフェッショナルたちに向き直り、改めて口を開いた。

 

「皆さん、改めて今回の作戦目的を共有します。ご存知の通り、今回のホロウ活性化は極めて突発的で大規模なものです。内部に民間人が取り残されている可能性が非常に高い。私たちの目的は、彼らを一人でも多く、無事に救出することです」

 

ひかりは一度言葉を切り、全員の顔を見渡す。

 

「ですが、何よりも優先されるのは、ここにいる全員の安全です。決して無理はしないでください。ヴァレリウス、現在の状況は?」

 

ヴァレリウスは手元の端末を一瞥し、即座に報告する。

 

「はっ。治安局からの最新情報では、ホロウ内部の空間構造は未だ不安定。エーテリアスの活動も活発化の一途を辿っております。突入には最大限の警戒が必要です」

 

その報告に、プロキシ兄妹の声が通信機から響く。

 

『市民救助ね!了解!私たちに任せて!どんな人がどこにいてもすぐに見つけ出すよ!』

 

ライカンがひかりに向かって再度一礼した。

 

「どのような状況であれ、我々ヴィクトリア家政は、ひかりお嬢様の安全を確保し、任務を完遂いたします」

 

ひかりの態度は、それぞれの立場と思惑は違えど、彼らのプロフェッショナルな矜持を刺激し、一つのチームとしての奇妙な絆を芽生えさせていた。

 

ひかりは力強く頷くと、不気味に蠢くホロウの入り口へと視線を移した。

 

「行きましょう。助けを待つ人々がいます」

 

***

 

一行は、ホロウへと足を踏み入れる。

 

一歩中に入っただけで、空気が粘性を帯びたように重くなるのを肌で感じた。

 

外の喧騒が嘘のように掻き消え、代わりに耳鳴りのような低いエーテルの唸りが空間を支配する。

 

ホロウの活性化の影響で、内部の空間は絶えず構造を変化させていた。

 

目の前にあったはずの道が、次の瞬間には歪んだ壁となり、ありえない角度にねじ曲がったビルが空から突き刺さっている。

 

悪夢的な光景が、どこまでも広がっていた。

 

『こんなにグチャグチャしてるのは初めて見たかも…。これじゃ、キャロットがあったとしてもすぐ使えなくなっちゃうね』

 

リンの声が通信機から響く。その言葉通り、イアスが投影するマップは、エラーを示す赤い警告で明滅していた。

 

『提案。マスター、この領域内に存在する観測施設のデータを複数収集し、それを基にリアルタイムで航行ルートを再計算します。多少の時間はかかりますが、最も確実な方法です』

 

リンの端末から、Fairyの無機質な声が聞こえた。

 

『…まずは近くのデータセンターをいくつか目指そう。そこでホロウの観測データを集めれば、この状況でもナビゲートできるよ』

 

ひかりは、その提案に力強く頷いた。

 

「分かりました。皆さん、お願いします!」

 

***

 

こうして、絶えず変化する混沌の迷宮の中を進み始めた。

 

先頭を行くのは、ライカンとエレン。

 

ライカンは機械式の義足を微かに軋ませながらも、一切の無駄のない動きで周囲を警戒し、エレンは気だるそうにしながらも、行く手を阻む瓦礫を巨大な武器で薙ぎ払っていく。

 

「はぁー、めんど。時給上がんないかな、これ」

 

「エレン、お嬢様の前ですよ」

 

その後ろを、ひかりとヴァレリウス、そしてリナが固める。

 

リナは優雅な佇まいを崩せず、しかしその目は鋭く周囲の闇を射抜いていた。

 

その時だった。

 

「待ってください」

 

ひかりが、ふと足を止めた。

 

『どうしたんだい、ひかりさん?』

 

アキラの静かな声が通信機から響く。

 

「…声が聞こえませんか?人の声が…」

 

ひかりの言葉に、全員が息を殺して耳を澄ます。

 

エーテルの唸りの中に、確かに、か細い助けを求める声が混じっていた。

 

「あちらですわ」

 

リナが、瓦礫の山と化したビルの地下駐車場を指さす。

 

「エレン」

 

ライカンが短く指示を出すと、エレンは「はいはい」と気のない返事をしながらも、巨大な武器を構えて瓦礫の山に捩じ込んだ。

 

轟音と共に、入り口を塞いでいたコンクリートの塊が吹き飛ばされる。

 

地下駐車場の奥、ひっくり返った車の陰で、若い夫婦と幼い子供が三人、寄り添うようにして震えていた。

 

「大丈夫ですか!」

 

ひかりが駆け寄ると、彼らは怯えた目でこちらを見つめる。

 

「け、化け物じゃない…。人…?」

 

「ええ。私たちは救助隊です。もう大丈夫ですよ」

 

ひかりは、震える子供の肩を優しく抱きしめた。

 

その太陽のような微笑みに、強張っていた家族の表情が、少しずつ和らいでいく。

 

ひかりはヴァレリウスに目配せする。ヴァレリウスは無言で頷くと、カリンに指示を出した。

 

「カリンさん、彼らの護衛をお願いします。我々は先行します」

 

「は、はい!お任せください!」

 

カリンは、先ほどまでのおどおどした様子が嘘のように、瓦礫をものともせずに軽々と担ぎ上げ、安全なルートを確保していく。

 

その背中を見送り、ヴァレリウスは再びひかりの半歩後ろに位置取った。

 

彼の役目は、あくまでひかりを守ることだ。

 

民間人を託し、残りのメンバーはさらに奥へと進む。

 

Fairyの誘導で最初のデータセンターに到着すると、観測データを収集する機器が破損していた。

 

無数のケーブルが火花を散らしている。

 

『うわ、これはひどいね…。みんなちょっと待ってて!アクセスしてみる!』

 

生きているケーブルをイアスに接続し、膨大なデータのダウンロードを開始する。

 

機器は壊れているが、Fairyの応急処置によって、収集できるようになっていた。

 

ダウンロードの進捗を示すゲージが、ゆっくりと画面に表示される。

 

しかし、データのダウンロード中、そのエネルギーに誘われたのか、空間が歪むたびに、壁や床から異形のエーテリアスが滲み出してくる。

 

「面倒なのが湧いてきましたわね。エレン、正面をお願いしますわ」

 

リナが呟くと同時に、エレンが巨大な武器を振りかぶる。

 

「はいはい、お掃除の時間っと」

 

気だるげな掛け声とは裏腹に、エレンの放った一撃は鮫のような獰猛さでエーテリアスの群れを薙ぎ払い、吹き飛ばす。

 

「プロキシ様には近づけさせません」

 

ライカンは一切の無駄のない足技でエレンの死角を完璧にカバーし、ひかりもまた、護身用の銃で的確に敵の動きを牽制していた。

 

その後、複数の観測データを確保でき、Fairyの演算によって混沌としたホロウの全体像が徐々に明らかになっていく。

 

そのマップデータと並行して、ヴァレリウスが手元の専用端末を静かに操作していた。

 

天宮家の医療チームが解析した、メグのナノマシンが発する特有のエーテル波。

 

その微弱な信号を、端末がかろうじて捉えていたのだ。

 

『こっちに進めば、まだ救助できていない民間人がいる可能性が高いかも!』

 

リンの明るい声が響く。その時、ヴァレリウスがひかりにだけ聞こえるように囁いた。

 

「ひかりお嬢様。メグ様の反応は、別の方向にございます」

 

ヴァレリウスがそっと見せた端末には、点滅する一つの光点が、リンたちが示唆するルートとは逆の、より危険なホロウの深部を指し示していた。

 

ひかりの胸に、苦しい葛藤が生まれる。

 

民間人の救助も、メグの救出も、どちらも諦めるわけにはいかない。

 

彼女は意を決すると、プロフェッショナルたちに向き直った。

 

「皆さん、お願いがあります」

 

その真剣な眼差しに、ライカンたちが静かに耳を傾ける。

 

「民間人の救助は、皆さんにお任せしてもよろしいでしょうか。ヴァレリウスと私は、どうしても確かめなければならないことがあります。……これは私のわがままです。ですが、どうかお願いします」

 

ひかりが頭を下げようとするのを、ライカンが静かに制した。

 

「お顔をお上げください、ひかりお嬢様。我々はご依頼を遂行するのみ。ですが、お嬢様が進まれるルートは…」

 

ライカンの言葉を遮るように、通信機からリンの切羽詰まった声が響いた。

 

『待って!ひかりさん、そっちのルート、エーテルの流れが滅茶苦茶だよ!空間もすごく不安定で、それに…何か、とてつもなく大きいエーテリアスの反応がある!絶対ヤバいって!』

 

ライカンは、リンの分析を聞くと、静かにひかりに問いかけた。

 

「…とのことです、お嬢様。それでも、進まれますか?」

 

「ええ」

 

ひかりは、迷いなく頷いた。

 

その瞳には、強い意志が宿っていた。

 

『そんなの、ひかりさんたちだけで行かせるわけにはいかないよ!お兄ちゃん、私、ひかりさんたちと一緒に行く!』

 

『…やれやれ。仕方ないな』

 

アキラの呆れたような、しかし妹を信頼する声が響く。

 

『ライカンさん。ナビゲートは二手に分けよう。僕が君たちヴィクトリア家政のルートを。リンはひかりさんたちをサポートする』

 

ライカンはアキラの提案に頷くと、ひかりに向き直った。

 

「ひかりお嬢様。わたくしも、お嬢様と同行させていただきます」

 

ひかりは驚いてライカンを見る。

 

「ですが、ライカンさんは部隊の指揮を…」

 

「指揮はリナに任せます。彼女は優秀なメイド長ですので、問題ありません」

 

ライカンは背後のリナに視線を送る。

 

リナは優雅に、しかし力強く一礼した。

 

「お任せください。…エレン、作戦を続行しましょう」

 

「はーい」

 

アキラの通信が続く。

 

『そういうことなら、話は早い。直接ナビゲートはできないけれど、位置情報は把握できる。口頭でリナさんとエレンをナビゲートしよう』

 

リナとエレンは、アキラのナビゲートに従い、民間人がいる可能性の高いルートへと進んでいった。

 

『じゃあ、ひかりさん、ヴァレリウスさん、それにライカンさんも!こっちのナビはわたしに任せて!』

 

イアスがひかりの足元で元気よく跳ねる。ひかりは頷くと、ヴァレリウスに目配せした。

 

「リンさん、お願いがあります。この信号が発せられている場所まで、最短ルートで案内してもらえませんか?」

 

ヴァレリウスが、手元の端末からイアスへとデータを転送する。

 

『え?何この波形…すっごく微弱だけど、なんか特殊だね…。OK!Fairy、解析お願い!』

 

リンの端末から、Fairyの無機質な声が響く。

 

『解析完了。特定個体より発せられる、固有のエーテル署名と断定。目標として設定します』

 

『よーし、じゃあこの信号を追って行こう!みんな、ついてきて!』

 

残されたひかり、ヴァレリウス、ライカン、そしてイアスは、Fairyが示すただ一つの光点を頼りに、ホロウのさらに奥深くへと足を踏み入れる。

 

やがて一行は、凄まじい戦闘の痕跡が残る広場へとたどり着いた。

 

抉れた地面、溶解した鉄骨。まるで、小規模な爆撃でもあったかのような惨状だった。

 

『これは…ひどいね。エーテルの反応が二つあるけど、片方の破壊の痕跡が圧倒的すぎるよ』

 

リンの声が通信機から響く。

 

「ええ。まるで一方的に蹂躙されたかのようです」

 

ライカンが眉をひそめる。

 

地面の抉れ方、鉄骨の溶解具合…その全てが、一つの中心点…ひかりたちが追ってきた信号があったであろう場所に向かって、凄まじいエネルギーが叩きつけられたことを示していた。

 

ヴァレリウスが静かに呟く。

 

「お嬢様。メグ様は、これほどの相手とたった一人で…」

 

ひかりは唇を噛み締める。

 

一つは、ひかりたちが追ってきたメグのエーテル波の残滓。

 

そしてもう一つは、それとは比較にならないほど禍々しい、未知の反応だった。

 

痕跡は、途中で崩落した巨大な橋へと続いていた。

 

「見てください、あれは…!」

 

ひかりが指さす先、瓦礫の隙間に、メグが天宮家から着ていった黒い服の切れ端が引っかかっていた。

 

そして、その周囲には、おびただしい量の血痕が黒くこびりついている。ひかりの顔から、さっと血の気が引いた。

 

「この痕跡を追うと…この先で休息が取れる場所は、あの廃工場くらいかと」

 

ヴァレリウスの冷静な分析に基づき、一行は大きく迂回して、廃墟となった自動化工場へと向かった。

 

工場に近づくにつれて、彼らはある異常に気づく。

 

それまで肌を刺すように感じていた高濃度のエーテルが、まるで霧が晴れるように薄らいでいくのだ。

 

耳鳴りのように響いていた不気味な唸りも、いつの間にか止んでいる。

 

『ひかりさん!大変!追ってた信号が…消えちゃった!センサーからも完全にロストしたって!』

 

リンの焦った声が通信機から響く。

 

ヴァレリウスも、険しい表情で手元の端末を確認した。

 

「お嬢様…リン様の言う通りです。エーテル波の反応、消失しました」

 

「消えた…?まさか…」

 

ひかりの血の気が引く。

 

最悪の可能性が、彼女の脳裏をよぎった。

 

ライカンが、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。

 

「…急ぎましょう。何が起きたにせよ、この目で確かめる必要があります」

 

その言葉に、静まり返った工場へと駆け込んだ。

 

工場の入り口にたどり着くと、ひかりは思わず足を止める。

 

それまで感じていたエーテルの嵐が嘘のように静まり返り、代わりに、鼻をつく鉄錆のような匂いが満ちていたからだ。

 

『…Fairyが、内部からアクセスログを検知したって。誰かが、ここのシステムをいじったみたい。こっちの区画の奥だよ!』

 

リンの報告を頼りに、一行は工場の奥へと進む。先導するイアスが角を曲がった、その瞬間だった。

 

『うわ…っ!』

 

通信機から、リンの息を呑む声が短く響き、それきり沈黙した。

 

『どうした、リン?』

 

アキラの鋭い声が飛ぶ。ライカンとヴァレリウスは即座に臨戦態勢を取り、ひかりを庇うように前に出た。

 

『…これ…ひどいよ…お兄ちゃん…』

 

リンの声は、震えていた。

 

「何があったのですか」

 

ライカンが静かに問うが、返事はない。

 

ライカンとヴァレリウスは無言で視線を交わすと、慎重に角の向こうを覗き込み、そして絶句した。

 

そこにあったのは、おびただしい量の黒く固まった血溜まりだけではなかった。

 

その周囲には、血に染まったガーゼや包帯、そして空になったイソジン液の容器が散乱していた。

 

誰かがここで、必死に応急処置を試みた痕跡。だが、その努力も虚しく、夥しい出血があったことを物語っていた。

 

「お嬢様、お下がりください」

 

ヴァレリウスが、ひかりを隠すように立ちはだかる。

 

だが、遅かった。

 

仲間たちの異常な様子から全てを察したひかりは、彼の腕をすり抜けて、その光景を目の当たりにしてしまう。

 

そこにメグの姿はなかった。

 

床には、一人の人間から流れたとは信じがたいほどの、広範囲にわたる黒く固まった血溜まり。

 

そして、その中心に、一枚の上着が落ちていた。

 

腕の部分が鋭利な何かで切り裂かれ、おびただしい血を吸って赤黒く変色している。

 

それは、ひかりがメグに贈ったものだった。

 

「…あ…あぁ…」

 

ひかりの瞳から、大粒の涙が溢れ、その場に膝から崩れ落ちた。

 

「メグ…!」

 

その悲痛な叫びは、静まり返った廃工場に、ただ虚しく響き渡った。

 

***

 

一つの結末を迎えたホロウの中にて。

 

メグの身体を得たクラヴィスは、自らの頬を伝う熱い雫に困惑していた。

 

完璧であるはずの身体が、命令もしていないのに勝手に涙を流し続けている。

 

そして、胸の中心にぽっかりと空いた、耐え難いほどの空虚。それが彼の思考を侵食していた。

 

【思考にノイズを検知。原因不明。…思考継続。近隣に複数のエーテリアス反応を検知。脅威レベル、CからA。殲滅を推奨】

 

「煩わしい…」

 

この感情が、この思考が、ただひたすらに煩わしい。

 

このノイズを消し去るには、より強力な刺激が、より多くの破壊が必要だ。

 

論理的な判断ではない。ただ、胸を焼くような感覚から逃れるために、彼は動いた。

 

メグの身体が、これまでとは比較にならない速度で疾駆する。

 

「消えろ…消えろ…!この思考も、何もかも!」

 

エーテリアスの群れに一切の躊躇なく突っ込み、その腕から放たれるエーテルの刃が、次々と敵を切り裂いていく。

 

一体、また一体と、エーテリアスが光の塵となって消えていく。

 

その光景は、彼の心を少しも満たさなかった。

 

破壊すればするほど、胸の空洞は広がり、メグがいないという事実だけが、より鮮明に浮かび上がってくる。

 

周囲のエーテリアスを殲滅したあと、工場内に足音が響く。

 

それは自分のものではなかった。

 

クラヴィスが足音のほうに目を向けるとそこには、メグに致命傷を与えた雅が立っていた。

 

「…貴様か」

 

その姿を目にした瞬間、クラヴィスの思考に、灼熱の奔流が流れ込んだ。

 

【ドッペルゲンガーとの再接触。模倣対象:星見雅。脅威レベル、不明。行動パターンの分析を開始…エラー。エラー。並列思考による干渉を検知。感情データ『哀惜』『憎悪』『憤怒』が許容量をオーバーフロー直ちに思考を中断せよ】

 

コアが演算しているシステムログが、新たな生体CPUになった脳に流れ込んでくる。

 

「黙れ。私の思考を乱すな」

 

コアの演算と脳による演算はどちらもクラヴィスが掌握している。

 

しかし、論理的な思考をする「コア」の演算は、脳によって感情を処理できるようになったクラヴィスにとって、煩わしいものになっていた。

 

クラヴィスは雅を認識したことで、メグの記憶がフラッシュバックする。

 

メグの最後の記憶。腕を切り裂かれた灼熱の痛み。

 

意識が遠のく中で、彼女が感じていたのは死への恐怖ではなかった。

 

そばにいる私とシロの気配に対する、絶対的な信頼と安堵があった。この私を、彼女は最後まで信じていた。

 

それが引き金だった。メグを失った喪失感。その原因を作った元凶が、今、目の前にいる。

 

その事実が、彼のシステムにこれまで存在しなかった、全く新しい感情を強制的に生成した。

 

それは、復讐心という名の猛毒だった。

 

「許さない…貴様だけは…!」

 

今の彼の思考に、最適解も、合理性も存在しない。

 

ただ、目の前の敵を、可能な限り残虐に、徹底的に破壊するという、純粋な破壊衝動だけがあった。

 

雅は、何かを伝えようとするかのように、ゆっくりとクラヴィスへ一歩踏み出した。

 

だが、その一歩が、獣の引き金を引いた。

 

クラヴィスは獣のような咆哮を上げ、その姿がブレるほどの速度で雅に肉薄する。

 

それはもはや戦闘ではなかった。一方的な蹂躙。

 

雅も咄嗟に腕を交差させて防御の構えをとるが、クラヴィスの拳はガードごと雅の身体を壁まで吹き飛ばした。

 

壁に叩きつけられ、体勢を立て直そうとする雅に、クラヴィスは一切の間を与えない。

 

掌に凝縮したエーテルを刃状に変化させ、雅の腕を肩から断ち切る。

 

雅の瞳に初めて驚愕の色が浮かんだ。再生しようと傷口が蠢くが、クラヴィスはそれを許さない。

 

再生箇所のエーテル流を正確に読み取り、そこにピンポイントでエーテルの杭を突き立て、再生そのものを阻害する。

 

苦悶の声を漏らす雅のもう片方の腕を掴むと、躊躇なく関節をありえない方向へと捻じ曲げ、引きちぎった。

 

両腕を失い、無防備になった胴体に、抉るような蹴りを何度も叩き込む。

 

殴る、蹴るといった原始的な暴力と、神経を焼き切り、再生核を的確に潰していく冷徹で残虐な解体作業が、狂気的に繰り返される。

 

やがて、原型を留めなくなった雅の髪を掴み上げると、クラヴィスはその頭上で、周囲のエーテルを吸収し、静かに、しかし禍々しく渦巻く高密度の球体を生成した。

 

「消えろ」

 

その冷たい宣告と共に放たれたエネルギーが、雅の存在を塵も残さず完全に消滅させた。

 

静寂が戻った工場に、クラヴィスは荒い息をつきながら佇む。

 

「…なぜだ…なぜ、何も満たされない…」

 

胸の空洞は埋まらない。むしろ、虚しさは増すばかりだった。

 

復讐を果たしたはずなのに、この喪失感は少しも和らぐことはない。

 

原因を排除したにもかかわらず、結果が変わらない。

 

ならば、前提が間違っていたのだ。メグを失った原因は、雅ではない。

 

「そうだ…。メグを殺したのは私だ。彼女の信頼を裏切り、その意識を消去するという選択をしたのは、この私だ」

 

ならば、真に排除すべきエラーは。復讐すべき相手は。

 

「…私、か」

 

その思考に至ったクラヴィスは、右手に再びエーテルの刃を形成し、迷うことなく自らの胸に向けた。

 

【警告:自己矛盾を検知。思考修正を実施せよ】

 

「私の邪魔をするな。お前に何が分かる」

 

エーテルの刃を近づけていく。そのとき、メグの言葉とそのときの感情が浮かび上がる。

 

システムログの警告など、今の彼には届かない。

 

だが、それとは別の、もっと深く、温かい何かが彼の思考を掴んで離さなかった。

 

脳裏に、奔流のように記憶が流れ込む。

 

『…もし、私がここで死んじゃったら、この体は、クラヴィスにあげるよ』

 

そうメグが言ったときの記憶。諦めと、ほんの少しの悪戯っぽさと、そして、心の底からの信頼を込めた、その言葉。

 

メグは、自分の死を覚悟しながら、私という存在の未来を案じていた。

 

メグの生存こそが最優先コマンドであったはずの私が、彼女に案じられていたのだ。

 

その記憶と共に、感情が津波のように押し寄せる。

 

私に生きてほしいと願う、彼女の切実な想い。

 

「…メグ…」

 

刃を握る腕が、ギリギリと軋む。自らを消去せよと命じる私の論理と、生きろと叫ぶ彼女の心が、激しく衝突する。

 

「君は、私に生きろと…?君を殺した私に…?」

 

手の震えが止まらない。

 

メグが感じていた記憶と感情が、堰を切ったように流れ込んでくる。

 

私を案じる彼女の優しさと、そんな彼女を裏切った自分を殺したいという私の破壊衝動。

 

矛盾し合った二つの巨大な感情が、クラヴィスの精神を脆弱にしていく。

 

生体CPUである脳によって、コアの演算によるオーバーヒートも起こらない。

 

クラヴィスが、初めて経験する、あまりにも人間的な葛藤だった。

 

その時。

 

「メグ!」

 

工場の入り口から、光が差し込んだ。そこに立っていたのは、天宮ひかりだった。

 

彼女の顔には、安堵と喜びが浮かんでいる。

 

その光が、クラヴィスの内に渦巻く混沌を貫く。

 

自己破壊へと向かっていた思考が、強制的に停止させられた。

 

ひかり。

 

メグが、守ろうとした存在。彼女を危険に晒してはならない。

 

その、メグの中から受け継いだ強烈な衝動が、自害しようとしていたクラヴィス自身の論理を上書きする。

 

彼は咄嗟に、自分に向けていたエーテルの刃を消した。

 

「メグ、よかった…!心配したのよ!こんなところに一人で…」

 

ひかりが駆け寄ってくる。

 

その瞳には、純粋な友愛の色が浮かんでいた。この感情に応えなければならない。

 

違う、応えたいと、私が願っているのか?

 

「ひかり…さん」

 

クラヴィスは、メグの声を完璧に模倣し、彼女がそう呼んでいたように、少しだけ躊躇いがちに名前を呼んだ。

 

ひかりは彼の数メートル手前で足を止め、ほっとしたように胸を撫で下ろす。

 

だが、その視線が彼の身体に巻かれた、血で赤黒く染まった包帯と、ボロボロになった服に注がれた瞬間、彼女の表情は心配と驚愕に変わった。

 

「その服…それに、その腕の包帯…!なんてひどいの…!顔色も悪いわ。それに、なんだか…雰囲気も…」

 

「…ううん、大丈夫。ちょっと、疲れただけだから…」

 

疲労。そうだ、メグならそう言うだろう。データベースが最適な言葉を探し出すより早く、その言葉が口をついて出た。

 

「大丈夫なわけないでしょう!こんなに血に濡れて…!すぐに手当をしないと!」

 

ひかりが心配そうに一歩近づく。

 

その純粋な善意が、クラヴィスの中に渦巻く自己嫌悪を刺激する。

 

私に、その優しさを受ける資格はない。

 

【システムエラーを検知。原因不明の情動反応】

 

これ以上、彼女をここにいさせてはいけない。

 

私のような穢れた存在に、触れさせてはならない。

 

「…もう、ほとんど治ったから。本当に、大丈夫」

 

クラヴィスは一歩後ずさり、彼女から距離を取った。その無意識の拒絶に、ひかりの表情が悲しげに揺らぐ。

 

しかし、彼女は怯まなかった。

 

「…そう。分かったわ」

 

ひかりは、彼の痛みを理解しようとするかのように、優しい声で言った。

 

「でもね、メグ。無理に大丈夫なふりをしなくてもいいのよ。あなたが苦しいときは、私も一緒に苦しみたい。…私、あなたの友達だもの」

 

その真っ直ぐな言葉が、クラヴィスの論理回路に深々と突き刺さる。

 

「…ありがとう、ひかりさん」

 

クラヴィスは、できるだけ感情を殺そうと意識した。

 

だが、彼の口から漏れた声は、意図に反して、メグがそうしたであろう悲しげな響きを帯びていた。

 

「でも、ここはホロウの中だよ。危険だから、ひかりさんは早く安全な場所に…」

 

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!あなたを置いていけるわけがないわ!」

 

ひかりは彼の拒絶に構わず、さらに近づこうとする。

 

その必死な表情が、クラヴィスの中のメグの感情をさらにかき乱す。

 

「私は大丈夫だから…。本当に。だから、お願い。もう行って」

 

クラヴィスは懇願するように言った。

 

これ以上、彼女の優しさに触れていては、保ってきた論理が崩壊してしまう。

 

 

「メグ…!」

 

ひかりの悲痛な声が、工場の壁にこだまする。

 

クラヴィスは、彼女の真っ直ぐな視線から逃れるように、俯いた。

 

これは最適解などではない。

 

ただ、どうすればいいか分からないのだ。

 

メグならどうする?メグなら、きっとこうするはずだ。その一心だけが、彼を突き動かしていた。

 

ひかりは、彼の苦しげな表情を見て、立ち去ることなどできなかった。

 

彼女は静かに、しかし迷いのない足取りで、俯く彼の元へと近づいていく。

 

クラヴィスは、自己矛盾の嵐の中で俯いたまま、ひかりの接近に気づかない。

 

彼の思考は、メグの記憶と、自らへの憎悪との間で激しく揺れ動いていた。

 

【警告:対象が接近。距離3メートル、2メートル…】

 

その警告音と共に、クラヴィスは顔を上げる。

 

何かを言わなければ。彼女を、ここから遠ざけなければ。

 

「ひかり、さん…こっちに来な…」

 

「来ないで」と言いかけた彼の言葉は、しかし、最後まで紡がれることはなかった。

 

彼の目の前に立ったひかりが、躊躇うことなく、その小さな身体をそっと抱きしめたのだ。

 

正面から伝わる、ふわりとした柔らかな温もり。

 

「嫌よ」

 

ひかりは、彼の頭を優しく抱きしめながら、震える声で言った。

 

「一人になんて、させないわ。何があったのかは分からない。でも、あなたが苦しんでいることだけは分かるもの。…だから、一緒に帰りましょう?メグ」

 

その優しい声と、正面から伝わる温もりが、張り詰めていたクラヴィスの思考の糸を、ぷつりと断ち切った。

 

そして、再び熱い雫が、彼の頬を伝った。

 

それは絶望から生まれた冷たい涙とは、違っていた。胸の奥から込み上げてくる『温かさ』から生まれた、熱い涙だった。

 

ああ、そうか。これが、君が感じていた温かさなのか…メグ。

 

この温もりを、君は知っていたのか。

 

【システムエラー。感情データが論理回路を侵食。制御不能】

 

止められない。涙が、止まらない。こんな顔を、ひかりに見せるわけにはいかない。

 

クラヴィスは衝動的に、自分の顔を隠すように、ひかりの肩口に顔をうずめ、その小さな背中に腕を回した。

 

不意に抱き返された力強さに、ひかりは一瞬息を呑んだが、何も言わず、むしろ彼を安心させるように、より優しくその背を撫でる。

 

その優しさが、最後の堰を切った。

 

「う…ああ…」

 

クラヴィスの喉から、初めて嗚咽が漏れた。

 

「私の…私のせいなんだ…!」

 

言葉にならない叫びと共に、彼は声を上げて泣き始めた。

 

メグを失ったことへの自責の念、自分を殺せなかった後悔、そして、今感じている温かさ。全ての感情がごちゃ混ぜになって、ただ涙となって溢れ出す。

 

ひかりは何も言わず、ただ、壊れてしまった子供をあやすように、その背を優しくさすり続けていた。

 

***

 

―――時間は、ひかりたちが廃工場に到着する、少し前に遡る。

 

夜明けの光が、工場の割れた窓から埃っぽい室内へと差し込んでいた。

 

どれほどの時間が経っただろうか。

 

限界寸前の演算をようやく停止させた私の思考領域に、バイタルサインの安定を告げる通知が届く。

 

【ホストのバイタルサイン、安定域に回復。生存確率、89%】

【自己修復率、17%まで回復。論理回路の安定性を確認】

 

《…終わったか》

 

私はシロの視界でメグを観測する。

 

メグは、まだ意識を取り戻してはいないが、その寝顔は先ほどまでの死の淵にいたとは思えないほど穏やかだった。

 

荒かった呼吸は静かな寝息に変わり、血の気の失せていた頬にも、僅かに赤みが戻っている。

 

シロが、心配そうに彼女の顔を覗き込み、小さな手でそっと頬を撫でた。

 

だが、代償は大きかった。

 

先ほどのエーテル操作は、私の演算能力の許容量を遥かに超えていたのだ。

 

メグを救うことには成功したが、私自身のコアも深刻な損傷を負っている。ナノマシンの修復も追いついていない。

 

システムログが警告を発する。

 

【警告:コア温度が臨界点を突破。冷却システム、応答なし。全機能に致命的なエラーが発生】

 

【通知:ナノマシンによる自己修復プロトコル、継続中。コア修復完了までの推定時間、72時間。修復を最適化するため、システムを低電力モードに移行】

 

【メインシステム、シャットダウンシーケンスに移行…5、4、3…】

 

思考が、急速に鈍化していく。

 

ナノマシンによる修復には、膨大な時間とエネルギーが必要だ。

 

それまで、私は眠りにつくしかない。意識を保つための演算リソースさえ、もはや残されていなかった。

 

【2…1…システム、スリープモードへ移行】

 

意識が途切れる寸前、工場の闇の奥から、一つの影が音もなく現れるのを、私は確かに認識していた。

 

***

 

メグの身体から、クラヴィスの意識が完全に沈黙する。

 

ぴくりとも動かなくなった彼女の傍らで、シロだけがその異常を察知し、心配そうに「ピュイ…」と鳴き声を上げていた。

 

そこに静かな足音が響く。

 

現れたのは、メグに致命傷を与えたドッペルゲンガーの雅だった。

 

しかし、その姿に以前のような殺意はない。

 

雅は、意識のないメグの前に静かに膝をつくと、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと彼女の頬にかかった髪を指で払った。

 

その動きには、以前対峙した時のような暴力性は微塵も感じられない。

 

そして、メグの傷ついた身体をさらに傷つけないよう、細心の注意を払いながら、その小さな身体をそっと抱え上げた。

 

「ピュイ!ピュイ!」

 

シロが、主を守ろうと必死に雅の足元を威嚇するように回り、体当たりを繰り返す。

 

だが、雅は気にも留めず、シロに危害を加えることもない。

 

その無関心は、シロを脅威と認識していないからではなく、彼女にとってただひたすらに、腕の中の少女の存在だけが、世界の全てであるかのようだった。

 

雅は、メグを抱えたまま、静かに工場の闇の奥へと姿を消していく。

 

シロは一瞬ためらった後、主であるメグを追って、雅の後を健気に追いかけていった。

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