余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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19. 静寂が語る物語

旧第7工業地区の廃工場は、静寂に包まれていた。

 

ひかりは、おびただしい血痕の中心に落ちていたメグの上着を、ただ呆然と見つめていた。

 

その瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、膝から崩れ落ちた彼女の悲痛な叫びが、がらんどうの空間に虚しく響き渡る。

 

「メグ…!」

 

「ひかりお嬢様…」

 

ヴァレリウスが静かに彼女の傍らに膝をつき、その肩を支える。

 

ライカンは表情を変えずに周囲を警戒し、現場の状況を把握しようとしていた。

 

その絶望的な静寂を破ったのは、リンからの通信だった。

 

『ひかりさん、しっかりして!まだ終わってない!』

 

リンの力強い声が、ひかりの持つ通信端末から響く。

 

『この区画のシステムログにアクセスできたんだ!過去24時間分の監視記録、今から再生する!何か分かるかもしれない!』

 

リンの言葉に、ひかりははっと顔を上げた。

 

ライカンが頷き、近くにあったかろうじて通電しているモニターを指し示す。

 

「プロキシ様、映像をこちらに」

 

やがて、工場のモニターにノイズ混じりの断片的な映像と音声が再生され始める。

 

そこに映し出されていたのは、深手を負い、おびただしい血を流しながらも、必死に自らを治療しようとするメグの姿だった。

 

ひかりが贈った黒いコートの袖は赤黒く染まり、その下から血が滴り落ちている。

 

その痛々しい様子に、ひかりは息を呑んだ。

 

『メグ…!こんな酷い状態で、たった一人で…』

 

映像の中のメグは、誰かと必死に会話している。

 

だが、周囲には血に濡れたシロ以外、誰もいない。

 

モニターのスピーカーが、途切れ途切れに彼女の声を拾う。

 

『…腕、切り落とされるところだった…。大丈夫だよ、シロ。これくらい…いつものことだから』

 

『ねえ、ひかりさん、あの子、誰と話してるの…?』

 

リンが困惑した声を上げる。

 

ひかりとヴァレリウスは、息を詰めて画面を見つめた。

 

彼らは、メグの体内に未知のナノマシンが存在することは知っている。

 

だが、彼女が誰かと対話しているこの状況は、明らかに異常だった。

 

映像の中のメグは、錆びついた救急箱から消毒液を取り出すと、歯を食いしばり、躊躇なく傷口に振りかけた。

 

『…っつ!』

 

モニター越しにでも伝わる激痛に、ひかりは思わず顔をしかめる。

 

メグは痛みに耐えながら、血が滲むのを構わずに包帯をきつく巻き付けていく。

 

『後でいい。それより、ここが本当に安全か調べて。それが最優先』

 

メグが、誰もいない空間に向かって、はっきりとした口調で指示を出す。

 

「…ヴァレリウス」

 

ひかりが、か細い声で執事の名を呼んだ。

 

「はい、お嬢様」

 

「あの子…うちの屋敷にいた時も、こうだったわ。誰もいないのに、誰かと話しているみたいに…。ただの独り言にしては、あまりにも…」

 

ひかりは言葉を切る。

 

映像の中のメグは、的確に、論理的に、誰かに指示を出し、そして対話している。

 

あれは、幻を見ている者の言動ではない。

 

「…ええ、そうよ。あれは対話だわ。幻聴なんかじゃない。まるで…まるで、あの子の中に、もう一人…誰かがいるみたい…」

 

その言葉に、ヴァレリウスは息を呑む。

 

お嬢様の洞察力は、時としてご当主様をも凌駕する。

 

彼はただ、静かに頷くことしかできなかった。

 

『…そっか。…もし、私がここで死んじゃったら、この体は…にあげるよ…』

 

映像の中のメグが、ふっと笑う。

 

その諦めたような、それでいてどこか優しい声が、ひかりの心を抉った。

 

映像は続く。

 

メグが力尽きて意識を失う場面。

 

ひかりが「メグ!」と悲鳴を上げる。

 

だが、その直後、映像の中のシロが、それまでとは全く違う、機械的で効率的な動きで起動した。

 

『何あれ!?ボンプの動きが…!』

 

リンが驚きの声を上げる。

 

シロは一直線に医療室の跡地へ向かうと、小さな手で器用に瓦礫をどかし、薬品の瓶やガーゼを回収していく。

 

『…まるで、誰かが操っているかのようです』

 

ライカンの分析が響く。

 

ひかりは、メグの中にいる「誰か」が、シロを動かしているのだと直感した。

 

シロはメグの元へ戻ると、血だまりを躊躇なく進み、その白いボディを赤黒く染めながら、メグの腕にガーゼを強く押し当てる。

 

だが、出血は止まらない。

 

『ダメ…!止血が間に合ってない…!』

 

リンの悲痛な声。モニターに映し出されたメグの顔は、ますます青白くなっていく。

 

その時、ヴァレリウスがモニターのある一点を指さした。

 

「お嬢様、あれを…」

 

映像がメグの傷口をアップで捉える。

 

その縁に、極めて微細な、しかし禍々しい紫色の結晶が析出し始めていた。

 

「…エーテル結晶…!?エーテリアス化が始まっているの…!?」

 

ひかりが絶望に目を見開いた、まさにその瞬間。

 

映像の中のシロが、今度は近くの非常用動力炉へとケーブルを接続し、そのエネルギーをメグの身体へと流し込み始める。

 

『何する気!?そんなことをしたら感電しちゃうよ!』

 

リンが叫ぶ。

 

だが、次の瞬間、一行は信じられない光景を目撃した。

 

メグの身体が、淡い翠色の光に包まれ、傷口から溢れ出ていた紫色のエーテル結晶が、まるで逆再生のように体内へと吸い込まれていく。

 

そして、見る見るうちに傷が塞がり、失われたはずの血色が、彼女の頬に戻っていくのだ。

 

『嘘…でしょ…。エーテルで、人を治してる…?』

 

リンの声は、驚愕に震えていた。

 

『Fairy、この映像、早送りして!』

 

リンの指示で、モニターの映像が高速で再生されていく。

 

翠色の光は、メグの身体を包み込んだまま、何時間も、何時間も輝き続けていた。

 

ひかりたちは、その奇跡のような、しかしあまりにも長い治療の光景を、固唾を飲んで見守るしかなかった。

 

『…あ!待って、止めて!』

 

早送りされていた映像が、通常の速度に戻った。

 

画面の中で、メグを包む光が、ゆっくりと、そして確かに収束を始めていた。彼女は穏やかな寝息を立てている。

 

『この光が消えた時間…!』

 

リンは映像のタイムスタンプと、Fairyが記録していた外部のログデータを瞬時に照合する。

 

『さっき、わたしたちが追ってた信号が消えて、ホロウの活性化がピタッて静まったのと、全く同じタイミングだ!』

 

「…では、この治療が終わったのは…本当に、ついさっき…」

 

『そうだよ!ひかりさん!あの子、ほんの少し前までここにいたんだ!』

 

リンの叫びと同時に、映像の中で、工場の闇から一つの人影が音もなく現れる。

 

その影が現れた瞬間、強大なエーテルの奔流の影響で、カメラの映像は激しいノイズに覆われ、その人物の顔や姿を正確に捉えることができなくなっていた。

 

『うわっ、何これ!映像が…!』

 

だが、そのぼやけた映像は、決定的な瞬間を捉えていた。

 

人影が、倒れたメグを驚くほど丁重に、まるで宝物を扱うかのように抱きかかえ、工場のさらに奥へと消えていく様子を。

 

「誰…?」

 

ひかりが呟く。

 

敵か、味方か。分からない。

 

だが、映像は一つの事実を伝えていた。

 

メグは生きている。そして、誰かが彼女を連れて行った。

 

その事実が、絶望に沈んでいたひかりの心に、再び希望の灯をともした。

 

「リンさん、その人影が向かった先を追跡できますか!?」

 

『ごめん、ひかりさん…。カメラがやられちゃってて、これ以上は…。でも、この工場の動力システムはまだ生きてるみたい。さっき分析してみたんだけど、この壁の奥に、隠し区画があることも分かったよ!もしかしたらそこにいるのかも!』

 

リンの言葉に、ひかりは涙を拭い、力強く立ち上がった。

 

「行きましょう。メグは、この先にいる…!」

 

***

 

時は戻り、エーテルが活発化した工場の中で。リアムと6人の実験体たちもまた、慎重に歩みを進めていた。

 

通路の壁は湿った苔に覆われ、彼らの足音だけが不気味に反響している。

 

肌を刺すような高濃度のエーテルが、まるで重い外套のように一行の身体に纏わりついていた。

 

「先生、この辺りのはずですが…」

 

リーダー格であるレオが、周囲に薄く展開した自身のエーテルで気配を探りながら、リアムに報告する。

 

彼の能力は、仲間たちの状態を常に把握し、戦場を俯瞰していた。

 

「うん~。私の『構造分析』で見るとね、この先にひろーい場所があるみたいだよぉ。なんだか、あったかい感じがするかなぁ」

 

イリスが、ふんわりとした口調で付け加える。

 

彼女の瞳には、エーテルの流れが複雑な模様として映し出されており、物理的な障害物だけでなく、空間の歪みさえも見通していた。

 

リアムは穏やかな笑みを崩せずに頷いた。

 

「ありがとう、二人とも。だが、焦りは禁物だよ。主任の妨害が入る可能性も考えられるからね」

 

その名が出た瞬間、カインが忌々しげに拳を握りしめ、壁を殴りつけた。

 

コンクリートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

 

「あの野郎…!俺たちの仲間を、これ以上好きにはさせねえ!」

 

「カイン、落ち着け。力を無駄遣いするな」

 

レオが静かに制する。

 

その時、通路の奥から、甲高い、金属を引っ掻くような音が響いた。

 

「…来たよ」

 

ヘッドホンをつけていたノエルが、ふと顔を上げて呟く。

 

彼女の耳は、エーテリアスが発する不快なエーテルのノイズを、誰よりも早く捉えていた。

 

次の瞬間、通路の闇から、カマキリのような鋭利な腕を持つエーテリアスが複数、壁や天井を駆けながら一行に襲いかかってきた。

 

その動きは俊敏で、常人であれば反応すらできずに切り刻まれているだろう。

 

「雑魚は俺に任せな!」

 

カインが雄叫びを上げて飛び出す。

 

その拳に淡いエーテルのオーラが纏わりつき、コンクリートを砕いた膂力が、エーテリアスの硬い外殻を紙のように打ち砕いていく。

 

「ルカ、ルナ!援護を!」

 

レオの指示に、双子がこくりと頷く。

 

「「うん!」」

 

二人が手をかざすと、通路に転がっていた鉄パイプや瓦礫が宙に浮かび上がり、弾丸のように射出されてエーテリアスの動きを的確に封じた。

 

一体がカインに斬りかかろうとした瞬間、横から飛んできた瓦礫に体勢を崩し、がら空きになった胴体にカインの鉄拳がめり込む。

 

「イリス、弱点!」

 

レオが叫ぶ。

 

「右の肩だよぉ」

 

イリスののんびりとした声とは裏腹に、その指摘は恐ろしく正確だった。

 

レオが即座に叫ぶ。

 

「カイン!」

 

「おうよ!」

 

カインの一撃が、イリスの示した寸分違わぬ箇所に叩き込まれ、最大のエーテリアスが甲高い悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 

戦闘は、ほんの数十秒で終わった。彼らの連携は、完璧なまでに洗練されていた。

 

リアムは、その光景を満足げに眺めている。

 

「素晴らしい連携だ、みんな。だが、油断は禁物だよ」

 

戦闘が終わり、張り詰めていた空気が緩んだ、その時だった。

 

ふと、それまで肌を刺すように感じていた高濃度のエーテルの圧力が、霧が晴れるように薄らいでいくのを、レオが敏感に感じ取った。

 

「先生、エーテルの流れが…安定しました」

 

「おお?なんか空気が軽くなった気がすんぜ!」

 

カインが屈伸しながら言う。

 

「うん~。さっきまでぐにゃぐにゃしてた景色が、ぴたって止まったみたいだねぇ」

 

イリスもまた、空間の歪みが収まったことに気づき、ふんわりとした口調で付け加えた。

 

リアムは穏やかな笑みを浮かべて頷いたが、その内心は冷静な分析に支配されていた。

 

(…ホロウの活性化が、鎮静化した…?これほどの規模の現象が、何の兆候もなく収束するなど、ありえない。嵐の中心にあったエネルギーの奔流が、その役目を終えたかのようだ。…メグのナノマシンが、外部エーテルを吸収して自己修復を行うことはデータにある。彼女が致命傷を負い、その修復のためにホロウ全体のエーテルを強制的に吸収し、その治療が、今…終わったのだとしたら…)

 

彼の口元に、鋭い笑みが浮かぶ。

 

(好都合だ。おかげで探索はしやすくなった。だが、主任もこの変化に気づいているはず。急がねばな…)

 

リアムは内心の焦りを完璧に隠し、子供たちに向き直った。

 

「そうだね。…おそらく、メグの身体の中で起きていた『嵐』が、ようやく収まったのかもしれない。だが、焦りは禁物だ。主任のことだ、彼女が弱っている今こそ、何かを仕掛けてくるかもしれない」

 

「わかりました。先生行きましょう」

 

リアムは、その言葉に静かに頷いた。

 

「うん行こうか。…ノエル?どうかしたかい?」

 

リアムは、ノエルがまだ警戒を解いていないことに気づき、穏やかに問いかける。

 

「…先生。少し距離があるけど、まだ、音がする」

 

「エーテリアスかな?」

 

ノエルは小さく首を横に振った。

 

「ううん…もっと、規則正しい音。機械の音と…人の声、足音。こっちに向かってくる」

 

その報告に、レオが即座に指示を出す。

 

「全員、戦闘準備。イリス、敵の戦力分析を」

 

「うん、わかったぁ…。えーっとね、人の歪みが4つと、あと機械の歪みが1つかなぁ…。みんな、なんだかピリピリしてる感じがするよぉ」

 

イリスの瞳が、エーテルの流れを捉え、敵の力量を分析していく。

 

リアムは、その報告を聞いてもなお、穏やかな笑みを崩さなかった。

 

「ふむ…彼の手先にしては、数が少ないようだね」

 

「どうしますか、先生」

 

レオの問いに、リアムはゆっくりと両手を上げた。

 

「まずは、友好的に接触してみよう。我々に敵意がないことを示すんだ。いいね、みんな」

 

「…はい、先生」

 

レオたちは、警戒を解かず、リアムの言葉に従った。

 

***

 

Fairyが示した工場の隠し区画へと続く通路は、ひかりたちがこれまで進んできたどのルートよりも不気味な静寂に包まれていた。

 

壁からは無数のパイプが剥き出しになり、錆びた表面を伝って、時折、正体不明の粘着質な液体が滴り落ちて不気味な音を立てている。

 

通路はまるで迷路のように入り組んでおり、いたるところに小型のエーテリアスが巣くっていたが、ライカンの的確な指示と、ヴァレリウスの鉄壁の護衛、そしてリンの正確なナビゲートによって、一行は着実に奥へと進んでいく。

 

『…待って!この角の先、何かいる!数が多いよ!』

 

ひかりたちの通信機から、リンの切羽詰まった声が響く。

 

その瞬間、全員が足を止め、即座に臨戦態勢に入った。

 

ライカンとヴァレリウスがひかりを庇うように一歩前に出る。

 

ライカンの機械式の義足が、戦闘モードへと移行する微かな駆動音を立てた。

 

ひかりもまた、護身用の銃の安全装置を静かに外す。

 

一行は息を殺し、ゆっくりと角の向こうを覗き込んだ。

 

そこにいたのは、エーテリアスではなかった。

 

人の良さそうな穏やかな笑みを浮かべた白衣の男と、彼を護衛するように立つ、尋常ではない雰囲気を纏った6人の少年少女たちだった。

 

「…!」

 

双方の間に、張り詰めた、まるで剃刀の刃の上を歩くような空気が流れる。

 

ひかりは、彼らが放つ鋭い警戒心に息を呑んだ。

 

それは、エーテリアスが放つ純粋な破壊衝動とは違う、訓練された者だけが持つ、研ぎ澄まされた緊張感だった。

 

相手方の少年少女たちも、一瞬敵意を浮かべたが、白衣の男の一瞥でそれを収め、ただ静かにひかりたちを観察している。

 

ライカンとヴァレリウスは、ひかりを背後に庇いながら、いつでも動けるように重心を低く落とした。

 

一触即発の空気の中、まず動いたのはライカンだった。

 

彼はひかりの前に半歩出ると、あくまで紳士的な、しかし一切の隙を見せない態度で口を開いた。

 

「失礼ながら、皆様は?ここは現在、危険区域に指定されております。民間人の方であれば、我々が安全な場所まで誘導いたしますが」

 

ライカンの言葉に、レオが鋭く問い返す。

 

「貴様らこそ何者だ。その女を守っているようだが…主任の手先か?」

 

レオの言葉に、カインが「だったら容赦しねえぞ!」と拳を鳴らす。

 

その険悪な雰囲気を、白衣の男が穏やかな声で制した。

 

「待ちなさい、レオ、カイン。失礼だよ」

 

男は穏やかな笑みを崩さぬまま、両手を上げて敵意がないことを示した。

 

「やあ、これはご丁寧に。驚かせてしまったようだね、すまない。僕はリアム。この子たちの保護者みたいなものさ。僕たちは、ある人物を探していてね」

 

リアムの言葉を受け、今度はひかりが前に出た。

 

「わたくしは天宮ひかりと申します。今回のホロウの突発的な活性化を受け、市民の救助活動のために参りました。あなた方が探している人物も、この災害に巻き込まれた方でしょうか?」

 

ひかりは、自らの立場を堂々と明かすことで、相手の出方を探る。

 

リアムは、ひかりの名を聞くと、僅かに目を見張り、そして深く頷いた。

 

「これはこれは、天宮のお嬢様でしたか。ああ、君の言う通りだよ。この騒ぎで、はぐれてしまった大切な家族…『メグ』という女の子を探しに来たんだ」

 

その名を聞き、ひかりの心臓が大きく跳ねた。

 

ひかりは、驚きの表情を浮かべそうになるのを必死でこらえ、冷静さを装った。

 

(メグのことを知ってる?ということは、メグは彼らの…)

 

ひかりはリアムと彼に付き従う子どもたちを観察する。

 

彼らの間には、確かに家族のような温かい絆が見える。

 

だが、だからこそひかりの疑念は深まった。

 

ひかりの脳裏に、天宮家で初めてメグが目を覚ました時の光景が蘇る。

 

人の優しさに恐怖しているかのように、怯え、警戒し、小さな物音にさえ肩を震わせていたあの姿。

 

リアムが言うような、「大切な家族」に囲まれて育った少女の反応とは、到底思えなかったのだ。

 

父の言葉が、脳裏をよぎる。『正義を貫くには、力だけでなく、知恵も必要だ』と。

 

(ここで問い詰めるのは得策ではないわね。まずは、相手に喋らせないと…)

 

ひかりは、ヴァレリウスとライカンにだけ分かるように、微かに目配せを送った。

 

二人は無言で、しかし確かに頷き返す。

 

ひかりは、心配そうな、しかしどこか他人事のような絶妙な表情を作って見せた。

 

「まあ…このような場所で、ご家族とはぐれてしまったなんて、さぞご心配でしょう。どのような方なのですか?特徴などを教えていただければ、私たちもお力になれるかもしれません」

 

ひかりは、あえてメグを知らない体で、情報を引き出そうと試みる。

 

リアムは、ひかりの言葉に悲しげな笑みを浮かべた。

 

「ああ、本当に…。この子たちは、妹同然の彼女のことをとても心配していてね。歳は15くらいだけれど、少し痩せていて、実年齢よりも幼く見えるかもしれない…。銀色の髪に、薄紫の瞳をした、とても優しい子なんだ」

 

その言葉に、ひかりの背筋が凍る。

 

銀髪に薄紫の瞳。それは間違いなくメグの特徴だ。

 

この男は、メグのことを知っている。

 

同時に、ひかりは今まで気づかなかった事実に衝撃を受けていた。

 

(…15歳…?あの子が…私より、ほんの少し年下なだけ…?)

 

その華奢な身体つきと、怯えた小動物のような仕草から、ひかりは無意識に、メグを守るべき存在だと思い込んでいた。

 

だが、違った。

 

彼女は、自分とほとんど変わらない年齢で、想像を絶するような過酷な現実を、たった一人で生きてきたのだ。

 

ヴァルから聞いた、メグの身体に刻まれていたという、おびただしい実験の痕が彼女の「日常」を表しているのなら。

 

私が天宮という家で、当たり前の「日常」を享受している間、メグは、暗い闇の中をさまよい続けていたということ。

 

その事実に気づいた瞬間、ひかりの中で、自分への不甲斐なさと、メグをそんな目に遭わせた見えざる敵への、燃え盛るような怒りが爆発した。

 

(許せない。絶対に)

 

ホロウに入る前に誓った決意が、より一層強く、鋭く、彼女の胸に刻まれる。

 

必ずあの子を救い出さなければならない。

 

そして、目の前の男への疑念も、同時に深まっていく。

 

ひかりの視線が、リアムの後ろに控える子供たちに向けられる。

 

彼らは皆、健康そうで、その瞳にはリアムへの絶対的な信頼が宿っている。

 

メグとはあまりにも対照的だ。

 

彼らの外見から、ひかりと同年代か、それ以上の者もいる。

 

かと思えば、あの双子のように、こんな危険な場所にいるにはあまりにも幼すぎる子も…

 

彼らをホロウに連れてきているということは、なにかしらの戦闘能力を持っていて、それはメグと同様にエーテルに由来するものではないかとひかりは推測していた。

 

(この子供たちも、メグの「家族」だというのなら、なぜメグとこれほどまでに違うの?それに先ほど見たカメラの映像…エーテルで傷を治すなんて、常識では考えられない。まるでエーテルを操作しているかのような現象。彼らが同じ組織の人間なら、メグと同等か、それ以上の力を持っていてもおかしくない)

 

ひかりの思考が、一つの結論へと行き着く。

 

(推測に過ぎないけれど、仮に彼らが特殊な力を持っていて、リアムに付き従っているのなら、メグを探す必要はないはず。それでもなお、メグを探しているのなら…。この子たち以上に、あるいは比べ物にならないほどの価値を持っているということ。もし彼らの手にメグが渡ってしまったら…?)

 

ひかりは最悪の状況を思い浮かべる。

 

メグから話を聞くまでは、彼らへの警戒を決して解いてはならない。

 

ひかりは、はっと息を呑むような、それでいて希望を見出したかのような演技で続けた。

 

「銀色の髪に、薄紫の瞳…。もしかしたら、その方の痕跡を見つけたかもしれません。私たちが先ほど調査した区画で、その方のものと思われる血痕を…」

 

その言葉に、リアムの背後にいた子供たちの表情が険しくなる。

 

「本当ですか!?」

 

レオが、思わず前に乗り出す。

 

「ええ。ですが、残念ながら、そこにその方の姿はありませんでした。周囲も調査しましたが何も…ただ、ご家族であるあなた方が見れば、私たちでは気づけない何かが分かるかもしれません。よろしければ、私たちがその場所までご案内しますが」

 

ひかりは、リアムの真意を探るべく、あえて協力を申し出た。

 

「ありがとう。ぜひ、その場所まで案内してはもらえないだろうか」

 

そしてリアムは、ひかりの提案に快く応じた。

 

ひかりは頷くと、自らの仲間たちに向き直った。

 

「リンさん、ライカンさん、ヴァレリウス。二手に分かれましょう。私は、ライカンさんと共に、先ほどの場所まで戻ります」

 

『え、ひかりさん、大丈夫なの!?』

 

リンが心配そうな声を上げる。

 

「ええ。ヴァル、あなたはリンさんと共に、引き続き市民の救助を続けて。ホロウの活性化は収まったけれど、危険な状況なのは変わってない。まだ助けを待っている方がいるはずよ。万が一の時は、あなたの判断が頼りよ」

 

ひかりは、ヴァレリウスに市民救助の継続を託すことで、自然な形でチームを分ける。

 

ヴァレリウスは一瞬ためらったが、ひかりの強い意志と、その裏にある策略を汲み取り、深く一礼した。

 

「…御意」

 

ライカンも、ひかりの意図を察し、静かに頷く。

 

「承知いたしました。お嬢様の護衛は、お任せください」

 

ライカンは、ヴァレリウスに向かって、頷きとともに一礼をした。

 

ひかりはリアムに向き直ると、優雅な笑みを浮かべた。

 

「では、リアムさん。行きましょうか」

 

リアムは、ひかりの笑みに穏やかな笑みで返すと、背後に控える子供たちに向き直った。

 

「みんな、聞こえたね。ひかりさんたちが、メグの手がかりを知っているそうだ。これは大きな前進だ。ご厚意に甘えて、案内していただこう」

 

「はい、先生」

 

レオが代表して答える。その瞳にはまだ警戒の色が残っていた。

 

リアムは、そんなレオの心中を見透かすように、優しく、ひかりたちには聞こえない程度の声で続けた。

 

「レオ、君は隊列の後方から、常に周囲を警戒しなさい」

 

「承知しました。後方は俺に任せてください」

 

「イリスは、ひかりさんたちのエーテルの流れに不審な点がないか、常に気を配って」

 

「はぁい。よーく見ておくねぇ」

 

「カイン、君は先頭で、いつでも動けるように。いいね?」

 

「りょ~かい」

 

「おうよ、先生!」

 

カインが力強く拳を打ち合わせる。

 

「ノエル、ルカ、ルナは、私のそばを離れないように」

 

「…うん…わかった…」

 

ノエルが小さく呟き、双子も「「はい、先生!」」と元気よく返事をした。

 

リアムは、子供たち一人ひとりの顔を見渡すと、最後にひかりに向き直った。

 

「準備できたよ、ひかりさん。行こうか」

 

ひかりは頷き、歩みを進める。

 

ひかりはリアムへの疑念を拭えないまま、しかしこの場で彼らと争うのは得策ではないと判断した。

 

しかしその疑念は、レオたちの警戒心を刺激することとなった。

 

レオが、仲間たちだけに聞こえるように、エーテルを介して思考を送る。

 

『…イリス、ノエル。天宮ひかりの様子はどうだ?』

 

レオの問いに、イリスがふんわりとした声色とは正反対の、鋭い分析を返す。

 

『うん…なんだか、ちぐはぐな感じがするかなぁ。笑ってるのに、心の中がチクチクしてるみたい。エーテルの流れが、すごく乱れてるよぉ』

 

『…音も、変。心臓の音が、速くなったり、遅くなったり…嘘をついてる時の音に近い…かも』

 

ノエルが、おずおずと付け加える。

 

『やはりか。先生を試すような真似を…。油断するな。先生の指示通り協力はするが、いつでも動けるようにしておけ』

 

レオの警告に、仲間たちは無言で頷いた。

 

彼らの特殊な感覚は、ひかりがリアムに抱いている深い疑念を、明確に捉えていた。

 

ひかりもまた、彼らの警戒心が和らいだわけではないことを肌で感じていた。

 

メグを見つけ出すという共通の目的のため、一行は一時的に行動を共にすることになる。

 

だが、その協力関係は、互いの背中に突きつけられた、冷たい不信の刃の上でかろうじて成り立っていた。

 

***

 

ひかりとライカンが先導し、リアムと6人の子供たちがそれに続く。

 

二つのグループの間には、奇妙な緊張感が漂っていた。

 

メグを見つけ出すという目的は同じはずなのに、互いの腹を探り合うような、冷たい空気が通路に満ちている。

 

ひかりは、時折背後を振り返り、リアムと、彼に絶対の信頼を寄せる子供たちの様子を観察した。

 

やがて一行は、ひかりたちが先ほど発見した、凄惨な痕跡が残る広場へとたどり着いた。

 

「ここです」

 

ひかりの言葉に、レオたちが息を呑む。

 

広範囲にわたって黒くこびりついた、おびただしい量の血痕。

 

ひかりは、リアムたちの反応を窺うように、注意深く彼らの表情を観察した。

 

「…ひどい…」

 

ノエルが、小さな声で呟く。

 

カインは、怒りに顔を歪ませ、ゴキリと拳を鳴らした。

 

「なんてことを…!メグは、ここで一人で戦ったというのか…!」

 

ライカンは、カインの言葉に静かに首を横に振った。

 

「いえ、カイン様。この現場には、戦闘痕がほとんど見られません。血痕の状況から見ても、外部で戦闘を行い、ここで身体を休めていたのではないかと思います」

 

その分析に、カインはぐっと言葉を詰まらせる。

 

リアムは、その惨状を静かに見渡すと、穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で指示を出した。

 

「みんな、落ち着きなさい。感傷に浸っている場合ではないよ。メグを見つけ出すためにも、まずは状況を正確に把握しよう」

 

「はい、先生」

 

レオたちは、先生の言葉に即座に反応し、それぞれの役割を開始した。

 

「イリス、この痕跡から、何が分かる?」

 

「うん~…」

 

イリスは、ふわりとした様子で血痕や破壊の跡に近づくと、その瞳に集中するように、じっと見つめ始めた。

 

彼女の瞳には、常人には見えないエーテルの残滓が、色とりどりの光の粒子として見えている。

 

「エーテルの流れが、すごく大きいねぇ…。一つは、メグちゃんのものだと思うんだけど…もう一つが、なんだかよく分からないや。すごく大きくて、怒ってる感じ…。まるで、世界で一番大切なものを奪われたみたいに、悲しくて、怒ってる…」

 

その言葉に、カインが「なんだと!?」と声を荒げる。

 

イリスは、困ったように首を傾げた。

 

「でもね、変なんだ。ここからは、戦いの跡は感じられない。ただ、メグちゃんの力が、どんどん弱くなっていく感じだけがする…。だけどそれだけじゃ怒りの流れが説明できないの。メグちゃんの流れとなんだか噛み合ってないみたい」

 

「レオ、ノエル。何か残っていないか調べてくれ」

 

「はい。…この辺りのエーテルの残滓を探ります。…イリスの言う通りだ。戦闘の痕跡はない。ここは、彼女が傷を負った場所じゃない。傷を負った後、ここにたどり着いて…力尽きた場所だ」

 

レオは、悔しそうに歯を食いしばった。

 

「…音も、変だよ」

 

ノエルもまた、ヘッドホンに耳を澄ませながら、困惑した表情で続けた。

 

「すごく苦しい音がする。身体が、もうダメだって叫んでるみたいな…。その奥に、すごく…温かい音もする。なんだか、安心して、眠っちゃったみたいな…変な感じ…。苦しいのに、温かいなんて…」

 

ノエルはそこで一度言葉を切ると、さらに眉をひそめた。

 

「それだけじゃない…。もっと、別の音がする…。すごく、すごく怒ってる音。何かをめちゃくちゃに壊してる音。一方的に、ぐちゃぐちゃにしてる…ひどい音。そのあと…すごく静かになって…今度は、自分を責めてるみたいな、悲しい音がする。『私のせいだ』って…。消えちゃいたい、みたいな…」

 

ノエルは、怯えたように自分の身体を抱きしめる。

 

「その最後に…また、温かい音がするの。さっきのとは違う、もっと明るくて…泣いてるのに、苦しいのに、嬉しいみたいな…」

 

その言葉に、レオが訝しげに眉をひそめる。

 

「温かい音?それに、怒ってる音?どういうことだ、ノエル。話が滅茶苦茶だぞ」

 

「わからない…。でも、そう聞こえるの…!」

 

リアムは、子供たちの報告を静かに聞きながら、ひかりに向き直った。

 

その顔には、深い悲しみの色が浮かんでいる。

 

「…ひどい。おそらく、主任が差し向けた何者かによって深手を負わされ、必死にここまで逃げてきたのでしょう。メグは、たった一人でこの苦痛に耐え、最後の最後に、安らかな眠りだけでもと願ったのかもしれない。この子たちが、間に合っていれば…」

 

その言葉に、ひかりだけでなく、ノエルもまた違和感を覚えていた。

 

彼女はヘッドホンを少しずらし、リアムの横顔をじっと見つめる。

 

(…違う。先生の言っていることと、私が聞いた音は、少し違う…)

 

確かに、苦しくて悲しい音はした。

 

でも、それだけじゃなかった。最後に聞こえたのは、温かくて、どこかほっとしたような、優しい音だったはずだ。

 

苦しいのに、温かい。その矛盾した響きこそが、ノエルを混乱させていた。

 

だが、先生は、その「温かい音」には一切触れず、ただメグの悲劇だけを語っている。

 

まるで、そうであってほしいと願うかのように。

 

ノエルは、リアムの言葉と自分の聞いた音との間に生まれた僅かなズレに、小さな胸騒ぎを覚えていた。

 

リアムの言葉は、ノエルだけでなくひかりの疑念をも深めた。

 

(この男…子供たちの報告を、全て都合のいい物語に当てはめている…?それに彼らの報告…推測通り、特殊な力を持っているのね)

 

ひかりは、リアムの言葉に同調するように、悲しげな表情を作って見せた。

 

「なんて、酷いことを…。メグさんは、きっと助けを待っていたはずです。私たちも、もっと早くここへたどり着けていれば…」

 

その時だった。リアムの耳に装着された、極小の通信機が微かに振動する。

 

彼の瞳が一瞬だけ、ひかりたちから外れ、虚空を見つめた。

 

『リアム様、報告です』

 

部下からの通信だった。ひかりたちには、何も聞こえない。

 

『主任の研究所に動きがありました。つい今しがた、武装した部隊が、別のホロウ…旧第3商業地区跡へと向かった模様です』

 

(…なんだと?)

 

リアムは、主任の研究室の周辺に、常に部下を配置し、その動向を監視させていた。

 

(このホロウの活性化は、陽動…?あるいは、私をここに誘い出すための罠か?いや…現場の状況から見て、すでにM-07は回収されたと考えるのが妥当か。そして、奴は今、別の場所で次の手を打とうとしている…?どちらにせよ、奴の狙いは、もはやここにはない、ということか…)

 

リアムが内心で舌打ちした、まさにその時、ひかりの通信機からリンの声が響いた。

 

『ひかりさん!ライカンさん!例の隠し区画の入り口を見つけたよ!』

 

ひかりとリアムは、互いに視線を交わす。それは、双方にとって絶好の機会だった。

 

リアムは、ひかりに向かって、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「ひかりさん、申し訳ない。今、別の場所で緊急事態が発生したとの連絡が入った。どうやら、急を要する事態のようだ。我々はそちらへ向かわなければならない」

 

その言葉は、ひかりにとって渡りに船だった。

 

(好都合だわ…。メグと同じような子供たちが、これほどいること。それに、メグを狙う敵の存在もわかった。これ以上、この場で情報を引き出そうとするのは欲張りすぎね。一度、ヴァルたちと合流して、態勢を立て直すべきだわ)

 

ひかりは、リアムの真意を探るように、その瞳をじっと見つめ返した。

 

「…分かりました。こちらも、この場所とは別に、行方不明者がいる可能性のある区画が見つかったところです。一刻を争います。何か見つけ次第ご連絡します。どうか、お気をつけて」

 

「ああ、君たちもね」

 

リアムは頷くと、レオたちに向き直った。

 

「みんな、急ごう!」

 

その号令のもと、レオ、イリス、カイン、そして双子のルカとルナは一切の躊躇なく、ひかりたちに背を向け、通路の闇へと駆け出していく。

 

リアムは最後にひかりに軽く一礼すると、すぐに彼らの後を追った。

 

だが、ノエルだけが、その場に立ち尽くしていた。

 

彼女は、何か言いたそうに、ひかりと、仲間たちが消えていった暗い通路を交互に見つめている。

 

「ノエル、何をしているんだい。行くよ」

 

通路の奥から、リアムの少しだけ苛立ったような声が響く。

 

その声にびくりと肩を震わせたノエルは、意を決したように、ひかりの元へと駆け寄った。

 

「あの…」

 

ひかりは、怯える小動物のような少女に、できるだけ優しい声で問いかける。

 

「どうかしたの?」

 

「…あなたが、探してる人…」

 

その言葉に、ひかりは息を呑んだ。

 

知らないふりをしていたことなど、とっくに見抜かれていたのだ。

 

「…ええ」

 

「その人の音…最後に、誰かと一緒になった音がするの」

 

「誰かと…?」

 

ひかりは驚愕する。

 

(誰かと一緒になった…?この子、どうしてそのことを…?カメラの映像は、この子たちには見せていないはずなのに)

 

「すごく静かで…すごく優しい音だったの。そっと…大切なものを、守ってるみたいな…そんな音だった」

 

ノエルは、自分の感じたままを必死に伝えようとする。

 

「先生は、主任がメグさんをって言ってたけど…でも、主任の音は、もっと冷たくて、嫌な音だから…。違う、と思う…。ご、ごめんなさい!よくわかんないこと言って…!」

 

ノエルは、それだけ言うと、脱兎のごとくリアムたちの後を追い、通路の闇へと消えていった。

 

あっという間に、彼らの気配は完全に消え去る。

 

残されたのは、ひかり、ライカン、そして通信の向こうのリンだけだった。

 

『…行っちゃったね。今のどう思う、ひかりさん?』

 

リンの呟きに、ひかりは険しい表情で頷いた。

 

「『優しくて、守っている音』か…」

 

ひかりは、ノエルが消えていった暗い通路を見つめながら、その言葉を反芻する。

 

ライカンが、静かに、しかし鋭い視線でひかりに問いかけた。

 

「ひかりお嬢様。先ほどの少女…ノエルと申しましたか。彼女の言葉、信じると?」

 

「信じる、信じないではありません。あの映像…メグを連れ去った謎の人影の動き…ノエルの言葉は、それを裏付けています」

 

ひかりは、カメラの記録を思い出していた。

 

不鮮明な映像の中で、人影は確かに、メグを壊れ物のように丁重に抱きかかえていた。

 

「リアムという男は、主任がメグを連れ去ったと、子供たちに信じ込ませている…。でも、メグを連れ去ったのは、主任ではない別の誰か…そして、その人物に敵意はない…」

 

ひかりの呟きに、通信機の向こうのリンが思案した声で呟く。

 

『状況をまとめると、私たちは少なくとも三つの勢力と対峙していることになるね。主任、リアム、そしてメグちゃんを保護した謎の第三者…か』

 

ひかりは、きりりと表情を引き締める。

 

「…考えをまとめるのは後にしましょう。ひとまず、ヴァレリウスと合流しましょう。リンさん、隠し区画の入り口まで案内をお願いできますか」

 

『OK!任せて!通信越しだけど、ナビゲート開始するよ!』

 

ライカンが、ひかりの前に立ち、周囲を警戒しながら静かに頷いた。

 

「承知いたしました。お嬢様、参りましょう」

 

ひかりは力強く頷き、リアムたちが消えたのとは別の、より深く暗い通路へと、迷いなく足を踏み出した。

 

***

 

意識が、ゆっくりと浮上する。

 

最後に感じていたのは、クラヴィスとシロの気配に包まれた、不思議な安心感だったはずだ。

 

失血で朦朧とする中、自分の身体をクラヴィスにあげると言って、彼のどこか焦ったような声を聞きながら、私はきっと、眠ってしまったのだろう。

 

重い瞼をゆっくりと開ける。

 

視界に飛び込んできたのは、廃工場の冷たいコンクリートではなく、清潔なシーツと、簡素だがチリ一つなく整えられた部屋の天井だった。

 

硬い金属の匂いではなく、微かに消毒液と清潔なリネンの匂いがする。

 

空気が澄んでいる。ここは、ホロウの中ではないのだろうか。

 

「…ここは…?」

 

掠れた声が、静かな部屋に小さく響く。

 

身体を起こそうとして、メグは自分の状態に気づく。

 

あれほど酷かった腕の傷の痛みが、嘘のように消えている。

 

恐る恐る腕に触れると、ざらりとした再生の感触はあるものの、動脈まで達していたはずの深い傷があったとは思えないほどに滑らかだった。

 

(…治ってる…?でも、どうして…)

 

最後に見た時、あの傷はナノマシンでも再生が追いつかないほどの重傷だったはずだ。

 

(クラヴィスが、何か…すごいことをしてくれたんだ…)

 

メグの脳裏に、意識を失う直前の、クラヴィスの必死な声が蘇る。

 

(クラヴィス、いるんでしょ?)

 

心の中でいつものように呼びかける。

 

だが、いつも即座に返ってくるはずの無機質な声は、完全に沈黙していた。

 

(…そっか。そういえば、地下鉄の隠れ家にいた時も、こうなったことがあったっけ)

 

あの時も、クラヴィスは自分の修復のためにスリープモードに入っていた。

 

今回もきっと、私のために無理をしてくれたのだろう。

 

(…寝てるんだね)

 

少しの寂しさと、彼への感謝の気持ちを感じながら、メグは思考を切り替えた。

 

「ピュイ…」

 

その時、傍らで小さな音がした。

 

すやすやと眠っていたシロが、メグの動きに気づいて小さく鳴いたのだ。

 

その白いボディを見つけ、メグは少しだけ安堵する。

 

周囲の確認しようとした時、部屋の隅に佇む人影に気づき、メグの全身が凍りついた。

 

心臓が氷の手に掴まれたように冷たく収縮する。

 

そこに立っていたのは、メグと戦闘をしていた、雅に模倣したドッペルゲンガーだった。

 

「…っ!」

 

咄嗟に身構え、ベッドの上を後ずさる。

 

だが、雅は攻撃を仕掛けてくるでもなく、ただ静かに、心配そうな瞳でこちらを見つめているだけだった。

 

以前対峙した時のような、全てを破壊し尽くさんばかりの凶暴な殺意は、その姿からは微塵も感じられない。

 

その無表情は変わらないが、瞳の奥に宿る光は、明らかにあの時とは違っていた。

 

メグは混乱しながらも、震える声で問いかけた。

 

「…あなた、は…何で、ここに…」

 

雅は何かを伝えようと口を開くが、出てくるのは、断片的な言葉だけだった。

 

「…敵じゃ、ない」

 

その声は「雅」そのもの。

 

私の記憶を読み取っているのだから、それは分かる。

 

だけど、おかしい。

 

ドッペルゲンガーは、ただ姿や動きを模倣するだけのはず。

 

こんな風に、意思を持って言葉を紡ぐなんて…。

 

「敵じゃないって…でも、あなたは私を…」

 

言いかけて、メグは言葉を飲み込んだ。

 

目の前の雅は、自分の言葉が上手く伝らないことにもどかしさを感じているのか、必死に身振り手振りで何かを訴えかけてくる。

 

違う、そうじゃない、とでも言うように、ぶんぶんと首を振り、自分の胸をぽんぽんと叩いて、それからメグの治った腕を指差した。

 

その必死な様子は、まるで言葉を覚えたての子供のようだった。

 

エーテリアスは、人間だった頃の動きをすることがある。

 

だけど基本的には攻撃的で、特に、エーテリアスになり得る生きた生物や機械には積極的に襲い掛かる習性がある。

 

本来であれば、意思の疎通などできるはずがない。

 

なのに、目の前の存在は、明らかに何かを伝えようとしている。

 

「…あなたが、手当てを?」

 

雅は、こくりと力強く頷いた。

 

メグは自分の腕を改めて見つめる。

 

傷はクラヴィスが治してくれたはず。

 

だがそれ以外の、傷の周囲にこびりついていたはずの血は綺麗に拭き取られ、新しい清潔なガーゼが優しく巻かれており、自分が着ている服も、血と泥で汚れたものではなく、簡素だが清潔な衣服に変わっていた。

 

これを雅さんがやってくれたってこと?

 

その、あまりにも献身的な行動に、メグの混乱は深まるばかりだった。

 

メグの戸惑う視線にありありと浮かんでいた。

 

メグの視線に気づいた雅は、悲しそうに眉を寄せ、力なく首を横に振った。

 

その表情は、本当に心を痛めているように見えた。

 

「敵じゃない」その言葉に嘘をついているようには、どうしても思えなかった。

 

雅は、おぼつかない足取りで部屋の隅に歩み寄ると、そこに置かれていた桶と、赤黒く汚れた布を指差した。

 

そして、メグが着ていたボロボロの上着を、丁寧に折り畳んでその横に置いた。

 

「…あなたが、体を拭いて、着替えさせてくれたの…?」

 

雅は、再びこくりと頷く。

 

その瞳は、メグの反応を窺うように、不安げに揺れていた。

 

さらに雅は動けないメグのために、どこからか見つけてきたのであろう綺麗な水の入ったボトルと、包装されたレーションを、メグの前にそっと差し出した。

 

その姿は、まるで主君に仕える従者のように献身的で、甲斐甲斐しいものだった。

 

メグは、その差し出された水と食料を、ただ呆然と見つめていた。

 

(何が、どうなってるの…?)

 

頭の中が、疑問符で埋め尽くされる。

 

目の前にいるのは、紛れもなく自分を殺しかけた存在。

 

その事実は揺るがない。

 

なのに、今の彼女からは、あの時感じた肌を焼くような殺意も、憎悪も、全く感じられない。

 

(もし、雅さんが私を殺すつもりなら…)

 

意識を失っていた間、私は無力だったはずだ。

 

今だって、まともに動ける状態じゃない。

 

雅さんがその気なら、私はもうここにはいないはず。

 

でも、雅さんはそうしなかった。

 

それどころか、血を拭き、服を着替えさせ、こうして食料まで差し出している。

 

その行動に、敵意は見出せない。

 

「…そっか」

 

メグの中で、一つの結論が形になる。

 

「理由はわからない。けど、あなたはもう、私の敵じゃないんだね」

 

その考えに至ると、身体の奥深くに刻み込まれていた警戒心が、ふっと和らぐのを感じた。

 

恐怖よりも先に、目の前の不可解な存在への興味が湧いてくる。

 

メグは、ゆっくりと手を伸ばし、雅が差し出したボトルに、そっと指先で触れた。

 

雅の肩が、ぴくりと小さく震える。

 

メグは、その反応に少しだけ驚きながらも、ボトルを手に取った。

 

そして、雅の目をじっと見つめ返しながら、はっきりと呟いた。

 

「…ありがとう」

 

その一言に、雅の瞳が、ほんの少しだけ、子供のように無邪気に見開かれた。

 

彼女は何も言わず、ただメグがボトルのキャップを開け、渇いた喉を潤すのをじっと見つめている。

 

その視線には、敵意も、殺意もない。

 

メグが水を一口飲むと、雅の口元が、ほんの僅かに、緩んだように見えた。

 

それは、笑みと呼ぶにはあまりにも些細な変化だったが、彼女の元になったはずの「雅」が滅多に見せなかった表情であると同時に、エーテリアスが見せるとは到底思えない表情。

 

その二重の驚きが、メグの心を揺さぶった。

 

まるで、褒められて嬉しいとでも言うように、その場の空気がふわりと温かくなった。

 

メグは、差し出されたレーションにも手を伸ばす。

 

まだ身体は本調子ではないが、何か口にしなければ、という思いがあった。

 

ぎこちない手つきで包装を開けていると、雅がそっと手を差し伸べ、慣れない手つきで、しかし丁寧にそれを開けてくれた。

 

「…ふふ。ありがとう」

 

メグが思わず笑みをこぼすと、雅は不思議そうに、しかしどこか嬉しそうに、こてんと首を傾げた。

 

「ピュイ?」

 

シロが、ベッドの脇からひょっこりと顔を出し、雅の足元にすり寄っていく。

 

雅は一瞬驚いたように身体を硬直させたが、やがておずおずと手を伸ばし、シロの丸い頭をそっと撫でた。

 

シロは、気持ちよさそうに目を細めている。

 

その光景は、あまりにも穏やかで、あまりにも非現実的だった。

 

数時間前まで殺し合っていた相手と、こんな風に静かな時間を過ごしている。

 

(変なの…)

 

メグは、レーションを一口かじりながら、思う。

 

(でも、悪くないかも)

 

張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れる。

 

この不思議な存在の前では、もう警戒する必要はないのかもしれない。

 

この部屋はどこなのか。

 

ドッペルゲンガーはどうして私の味方をしてくれるのか。

 

クラヴィスはいつ目覚めるのか。

 

分からないことだらけだ。

 

けれど不思議と焦りはなかった。

 

メグは、雅とシロの姿を静かに見つめながら、胸の奥に灯った小さな温かさを、ただ静かに感じていた。

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