余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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20. 博士と少女と青い空

メグは雅からもらったレーションを食べ終えると、ゆっくりと立ち上がった。まだ少し身体は重いが、動けないほどではない。

 

その様子を見ていたシロが、メグの足元にすり寄り、小さな手で彼女のズボンをくいっと引っ張った。

 

「どうしたの、シロ?」

 

シロは、自分のボディに備え付けられたケーブルを、メグの手に差し出す。

 

「クラヴィスが何か残してくれてるの?」

 

メグがそう言うと、シロはその通りと言うように、身体を動かす。

 

メグは、シロが差し出してくれた、ケーブルを手に取る。

 

「いつもはクラヴィスの補助があったけど、ちゃんと読み取れるかな」

 

クラヴィスが眠っている今、自分一人でログデータにアクセスできるか、不安を感じていた。

 

だが、ケーブルを握りしめると、メグが意識を失ってからの情報が流れ込んでくる。

 

そこには、クラヴィスがメグを救うために行った、壮絶な戦いの記録が残されていた。

 

クラヴィスがシロに指示を出している様子、クラヴィスがメグの状態を分析している様子、そして、メグを治療するためにエーテルをエネルギー源としてナノマシンを活性化している様子。

 

(…クラヴィス…私のために、ここまで…)

 

メグは、改めて、自分がどれほど大きなものに守られていたかを知る。

 

そして、ログの最後に記された、クラヴィスのコアもナノマシンによって修復可能であるという事実に、安堵のため息を漏らした。

 

「ありがとう、クラヴィス」

 

クラヴィスは眠っているが、メグは今の気持ちをどうしても表に出したくなった。

 

メグはシロからの情報を把握すると、いま自分がいる場所を把握するために、一度外に出ることを考える。

 

「…シロ、行こう」

 

「ピュイ!」

 

雅が、心配そうに後をついてくる。メグは、自分が今どこにいるのかを確かめるために、部屋の外へと出た。

 

そこは、廃墟と化した小さな診療所だった。

 

そして、その外に広がる光景に、メグは息を呑む。

 

片側には、見慣れたホロウの歪んだ空が、そしてもう片側には、澄み切った青空が広がっていた。

 

ホロウと、ホロウ外の境界線。

 

そして、メグは、信じられない光景を目撃する。

 

エーテリアスである雅を模倣したドッペルゲンガーが、ホロウの外の青空の下に、平然と立っているのだ。

 

「…嘘…」

 

本来、エーテリアスはホロウの外に出れば、その存在を維持できずに消滅するはずだ。

 

だが、目の前の雅は、何の影響も受けていない。

 

(…ありえない。エーテリアスはホロウの外では生きられない。そのはずなのに…)

 

メグは、ゲームの知識と、この世界で得た経験の全てを総動員して、目の前の現象を理解しようと試みる。

 

(サクリファイス…?いや、違う。この子は、讃頌会とは関係ない、ホロウから生まれた純粋なエーテリアスのはず…)

 

他のエーテリアスと、この雅さんを模倣したドッペルゲンガーとの違いは?

 

(ドッペルゲンガーの性質は…対象の記憶を読み取って、その姿を模倣すること。あの子は私と戦うときに、私の記憶を読み取ることで、雅さんを模倣している。ここまでは何もおかしくない)

 

その後、私たちは雅さんと戦った。

 

でも、勝ち目がなくて、撤退しようとして…

 

メグの脳裏に、当時の戦闘の光景がフラッシュバックする。

 

鋭い刃が、自分の腕を切り裂いた、あの瞬間。

 

(…もしかして、私の血が原因…?)

 

他のエーテリアスと違う点。

 

それは、エーテリアスとの戦闘で私が負傷してるかどうか。

 

あのとき、雅さんが振るった刀には私の血が付いてるはず。

 

その刀もエーテルで作り出しているから、結果的に雅さんの体内に私の血が入り込むことになる。

 

(私の血にはナノマシンが含まれていて、クラヴィスは、私を治すためにエーテルを操作して、ナノマシンにエネルギーとして供給した…)

 

シロが教えてくれたログの記録が、パズルのピースのようにカチリとはまる。

 

(まさか…全部、繋がってる…?ドッペルゲンガーが私の記憶を読み取って生まれた繋がり。戦闘で私の血…ナノマシンが雅さんの身体に取り込まれたこと。そして、クラヴィスが私を救うために行った、ホロウ全体を巻き込むほどのエーテル操作。その三つが、奇跡みたいに重なって…?)

 

雅さんがホロウの外で活動できるのは、ナノマシンが、雅さん自身のエーテルを循環させて、ホロウ内部と同じ環境を擬似的に作り出しているから?

 

ナノマシンの詳しいことは良くわからないけど、私の治療ができるんだったら、私の遺伝子情報みたいなのも把握できてるはず。

 

そのナノマシンを介して、私の情報が雅さんに流れ込んで、ドッペルゲンガーの性質で記憶も読み取れたことで…意思を、獲得した…?

 

あまりにも突飛な仮説だった。だが、それ以外に、この不可解な現象を説明できる理屈が見当たらない。

 

雅さんが私に尽くしてくれようとするのも、ホロウの外で存在できるのも、全ては私の血が原因だとすれば…

 

メグはさらに深く思考に潜ろうとする。

 

そのとき、シロと雅が戯れているのに気づく。その光景を見ていたメグは思考を止めた。

 

(…今は、深く考えるのはやめよう)

 

雅のことも、クラヴィスのことも、そして自分の身体のことも。

 

わからないことだらけだ。

 

でもいまは雅さんが敵じゃないのなら、それでいい。

 

メグは診療所の入り口に立ち、改めて外の景色を注意深く観察した。

 

すると目の前には、巨大な黒いドーム…ホロウがすぐそこまで迫っていた。

 

だが、不思議なことに、メグがいるこの小さな診療所とその周りの僅かな土地だけが、その侵食を免れている。

 

ホロウの壁と、どこまでも続く荒野に挟まれた、僅かな隙間。そこには、穏やかな青空の下にあった。

 

「すごい…。この診療所をホロウが避けてるみたい…」

 

メグは感嘆の声を漏らした後、僅かな隙間から見える、霞んだ新エリー都の建物に目を凝らした。

 

「あれが新エリー都なのは間違いない。でも…」

 

メグはまず、遠くに見える新エリー都の建物に目を凝らした。

 

廃工場のホロウから見えていた都市の輪郭とは、見える角度が全く異なっていた。

 

それに、距離が遥かに遠い。

 

まるで、街全体がミニチュアのように小さく見えた。

 

次にメグは周囲の風景に視線を移す。どこまでも続く荒野と、風に揺れる枯れ草。

 

工場があったような、無機質なコンクリートの残骸や、巨大な重機の骨格のようなものはどこにも見当たらない。

 

この光景、どこかで…。

 

「もしかして、ここって…郊外…?」

 

新エリー都の「外側」に広がる、治安局の管轄外である無法地帯。

 

郊外では、化石燃料の採掘を基盤にした経済圏が構築されていて、町に物資を行き渡らせるために、「走り屋連盟」の輸送網ができてるんだっけ。

 

「…雅さん、どうやってここまで運んでくれたんだろう。工場と郊外のホロウがつながってたっていうのも考えにくいよね。だからといって、ホロウの外を雅さんが歩いてたら、騒ぎになっているだろうし」

 

いまそのことを考えても仕方ないか。

 

「郊外で、都市からも離れてる。それに、この診療所はホロウが天然の要塞になってくれてるから、追手に見つかる可能性は低い。もし見つかっても、すぐにホロウに逃げ込める。拠点としては、これ以上ないくらい優秀かも」

 

メグの中で、一つの決意が固まった。

 

「よし、しばらくここを拠点にしよう。クラヴィスが起きるまで、ここで身を潜めながら、私にできることをしなくちゃ」

 

メグは、拳をぎゅっと握りしめた。

 

(…クラヴィスに頼ってばかりじゃ、ダメだもんね)

 

***

 

決意を固めたメグは、深く息を吸い込んだ。

 

澄んだ、少しだけ冷たい空気が肺を満たす。

 

(よし…!)

 

彼女は自らを鼓舞するように、心の中で強く頷いた。

 

だが、やるべきことは多い。メグは、一度冷静に頭を整理することにした。

 

(まずは、安全の確保。ここがどんな場所か、もっとちゃんと調べないと。食べ物とか、水とか、怪我した時のための医療品も必要だよね)

 

雅が持ってきてくれたレーションと水だけでは、いつまで持つか分からない。

 

(次に、情報。クラヴィスが何をしてくれたのか、ログでもう一度詳しく確認しないと)

 

そして、最後に。

 

(…力。クラヴィスがいない今、私が戦えないと意味がない。練習しないと)

 

「シロ、雅さん」

 

メグが声をかけると、二人がそばに寄ってくる。

 

「ちょっと、この中を見て回ろう。何か使えるものがあるかもしれないから」

 

***

 

メグたちは、診療所の中を慎重に探索し始めた。

 

目を覚ましたときに、確認しなかった場所を丁寧に見ていく。

 

まず目についたのは薬品庫の棚だった。

 

「消毒液、ガーゼ…痛み止めもある。そんなに汚れていないってことは、最近まで使われてたのかな」

 

次に食料庫。

 

ホロウに飲み込まれることを想定していたためか、いくつか保存状態の良い缶詰を見つけることができた。

 

「これだけあれば、しばらくは大丈夫そう」

 

最低限の安全が確保できたことに、メグはほっと胸を撫で下ろす。

 

その後、メグは部屋に戻り、シロに再びケーブルを繋ぎ、クラヴィスが残したログを、今度はより深く、詳細に分析し始めた。

 

特に、彼がエーテルを操作しナノマシンのエネルギー源にした部分を、何度も、何度も確認した。

 

(すごい…。こんなことできるんだ…。これを私がやるためにはどうしたら良いんだろう)

 

あまりにも高度で、緻密な制御の記録に、メグはただ圧倒される。

 

(…ううん、弱気になっちゃダメだ)

 

メグは頭を振ると、決意を固めて立ち上がった。

 

(見てるだけじゃ、何も始まらない。やらなきゃ)

 

***

 

彼女は診療所の外の、荒野が広がる空間へと再び足を踏み出す。

 

「よし…!」

 

自らを鼓舞するように、小さく声を上げる。

 

(まずは…この『アンテナ』の力を、もっと使えるようにならないと)

 

クラヴィスが残したログデータを思い返す。そういえば、クラヴィスがいつか言っていた。

 

『君と私では、アンテナの使い方が根本的に違う』と。

 

『君のアンテナは、周囲のエーテルやホロウの気配を、計算ではなく『感覚』で捉える。それは、私には模倣できない、生命だけが持つ特異な機能だ。私はその君の感覚をトリガーにして、膨大な演算を行うことで、アンテナの力を拡張できる。インターノットへの接続も、その一つだ』

 

クラヴィスは私を治療するために、アンテナの力を介して、初めてエーテルそのものに干渉した。

 

そして廃工場に着く前。下水道から廃工場へ向かっているとき。

 

クラヴィスは、この力にはホロウ空間の不安定な座標点に干渉するポテンシャルが秘められていると言っていた。

 

そのポテンシャルを発揮した結果が、エーテル操作だっていうなら。

 

「今までは、ただ感じるだけだった。でも、クラヴィスはアンテナを使って、エーテルを感じて操った。なら、演算がなくたって、似たようなことはできるはず」

 

メグは、『感覚』を頼りに、アンテナの感度を上げ、周囲に満ちる膨大なエーテルの奔流の中から、一本の細い流れを掴み取ろうと、そっと目を閉じ、意識を集中させた。

 

だが、いざ自分でやってみると、エネルギーは全く言うことを聞かなかった。

 

指先に集まったかと思うと、すぐに火花のように霧散してしまう。

 

まるで、水を素手で掴もうとするかのように、その感覚はあまりにも曖昧で、掴みどころがなかった。

 

「うーん、難しいな…」

 

何度か繰り返すうちに、メグは額に汗を浮かべ、肩で息をし始めた。

 

それだけではない。

 

演算という補助輪なしで、エーテルを操作しようとする反動か、頭の芯がズキズキと痛み始める。

 

「うぅ…頭が、割れそう…」

 

脳に直接、膨大な負荷がかかっているのが分かった。

 

クラヴィスがいかに高度な制御を行っていたか、そして自分という存在をどれだけ守ってくれていたかを、改めて痛感する。

 

その様子を、診療所の入り口に寄りかかって、雅がじっと見ていた。

 

彼女は、疲弊したメグの近くに寄ると、自らの手でエーテルを操る様を見せる。

 

その手の中に現れたのは、小さく、しかし安定して輝く光の球だった。

 

そして、雅はぽつりと呟く。

 

「…こう、する」

 

だが、頭痛と焦りでいっぱいのメグには、その意図が上手く読み取れない。

 

「すごいね」と力なく返すだけだった。

 

雅は、自分の意図が伝わらないことにもどかしさを感じているのか、今度はメグの袖をくいっと優しく引っ張った。

 

そして、もう一度自分の手の中の光の球を見せ、今度はメグの手を指さし、こくこくと頷く。

 

その必死な様子は、まるで「あなたもやってみて」とせがんでいるかのようだった。

 

だが、メグにはどうしても、その姿が、自分を励まそうとしてくれているか、あるいは構ってほしくて甘えているようにしか見えなかった。

 

「…えへへ。ありがとう。でも、難しいんだ」

 

メグは思わず笑みをこぼし、感謝を込めて、雅の頭を優しく撫でた。

 

雅は、撫でられたことに驚いたように目を見開いたが、されるがままになっている。

 

その無表情の奥で、瞳が嬉しそうに揺れているように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

 

彼女は、心地よさそうに目を細めると、メグの手にそっと自分の頬をすり寄せた。

 

その、あまりにも無防備で、子供のような仕草を見て、メグの心は温かくなる。

 

しばらくそうしていると、雅は名残惜しそうにメグの手から顔を離す。

 

すっと立ち上がり、座っているメグの後ろに回り込んだ。

 

そして、そっと、メグの身体を後ろから優しく抱きしめた。

 

(え…?)

 

メグが驚いて身体を硬直させる。

 

雅は、メグの肩に顎を乗せると、彼女の腕に自分の腕を、彼女の手に自分の手を、ぴったりと重ね合わせた。

 

そして、雅がエーテルを操る動きを始めると、驚くべきことに、メグの身体が、まるで導かれるように、雅と全く同じ動きを始めたのだ。

 

「これ…!」

 

メグは気づく。

 

雅の動きが、そのまま自分の身体に反映されている。

 

エーテルの流れ、指先の微細な動き、力の込め方。

 

その全てが、まるで自分の意志であるかのように、身体に直接刻み込まれていく。

 

これこそが、雅が本当に伝えたかったことなのだと、メグはようやく理解した。

 

これは、雅の身体を通して、エーテル操作の正しい感覚を直接自分の身体に刻み込むための、訓練なのだと。

 

「すごい…これが、雅さんの…」

 

メグは、感動と驚きに満ちた声で、背後にかすかに聞こえるように呟いた。

 

その瞳に、新たな決意の光が宿る。

 

「…これなら、私も…」

 

夕暮れの光が、荒野の向こうから差し込み始める。

 

それはメグと雅の新たな始まりを告げる光だった。

 

***

 

ヴァレリウスと合流したひかりたちは、リンのナビゲートに従い、工場の壁に隠されたメンテナンス用の通路へと足を踏み入れた。

 

分厚い防爆扉の先は、先ほどまでの混沌としたホロウとは打って変わって、奇妙なほど静まり返っていた。

 

「ここが、隠し区画…」

 

ひかりは息を呑む。

 

そこは、明らかに何者かによって長年放棄された、古びた研究室だった。

 

壁際には埃をかぶったサーバーラックが整然と並び、中央には巨大なホログラムテーブルが鎮座している。

 

まるで、都市の喧騒も、ホロウの脅威も、何もかもが届かない、忘れられた聖域のようだった。

 

『うわー、何ここ…。メグちゃん、こんなところにいたの?』

 

リンが、通信機越しに困惑した声を上げる。

 

「いえ…」

 

ひかりは、静かに首を横に振った。

 

「ここには誰かがいた気配がありません。ですが…重要なものが、この場所に眠っている気がします」

 

ヴァレリウスが、手元の端末で内部のネットワークにアクセスを試みる。

 

「お嬢様、この区画のネットワークは、工場のメインフレームからも、外部のインターノットからも完全に独立しています。そして…極めて古い、ですが高度なセキュリティがかけられているようですな」

 

『ねえFairy、解析できる?』

 

リンの言葉に、通信機からFairyの少し不機嫌そうな合成音声が響いた。

 

『この施設のネットワークはインターノットから完全に遮断されています。このFairyの万能なアクセス能力も、物理的な接続がなければ意味を成しません』

 

『そっか。じゃあどうすれば…』

 

『マスター、そこのコンソールにイアスを接続してください。物理的な媒介があれば、どのような前時代的なセキュリティであろうと、このFairyにとっては赤子の手をひねるようなものです』

 

その返答を聞くと、リンはイアスを操作しコンソールに接続した。

 

『つなげたよ!』

 

『把握しました。これより、システムの完全掌握を開始します。30秒で完了します』

 

Fairyの自信に満ちた声が響いた。

 

その言葉通り、宣言から30秒も経たないうちに、研究室の全てのモニターが一斉に青白い光を放って起動した。

 

中央のホログラムテーブルにも、膨大な量の研究データが立体的に浮かび上がる。

 

「これは…」

 

ひかりは、数あるファイルの中から、一つだけフォルダの色が違うデータに目を奪われた。

 

「エーテル共生理論に関する一考察」

 

ヴァレリウスがそのファイルを開くと、そこには、ホロウとエーテリアスの根幹に関わる、仮説が記されていた。

 

「…ホロウを、一つの巨大な生命体と仮定する…。そして、エーテリアスは、その生命体を守るための免疫システム…?」

 

ひかりが、信じられないといった様子で呟く。

 

『ええ!?何それ!じゃあ、あいつらは、ただバイキンをやっつけてるだけってこと!?わたしたちがバイキン!?』

 

リンが、素っ頓狂な声を上げる。

 

「…だとしたら、あまりにも厄介な自浄作用ですね」

 

ライカンが、冷静に、しかしどこか感心したように呟いた。

 

ヴァレリウスは、黙って報告書の続きを読み上げていく。

 

「…『人間や機械は、ホロウという生命体にとって外部から侵入した異物(細菌)と認識され、免疫システムであるエーテリアスによって排除されているのではないか』…。なんと…」

 

ひかりは、そのあまりにも壮大な仮説に言葉を失った。

 

もちろん、ホロウの本質についてはこれまで数多の理論が提唱されてきた。

 

だが、ここに記された論理は、彼女がこれまで触れてきたどの説よりも精密で、恐ろしいほど筋が通っているように感じられた。

 

「…続きがあります」

 

ヴァレリウスが、さらにファイルをスクロールさせる。そこには「応用理論」という項目があった。

 

「『この仮説が正しいならば、ホロウを支配することは理論上可能となる。すなわち、エーテリアスという免疫システムを騙し、対象を異物と認識させない技術…あるいは、対象そのものをホロウの一部として誤認させる『擬態』技術を確立することである。その鍵となるのが、極めて高いエーテル親和性を持つ、特殊な触媒の存在だ』…」

 

『触媒…?』

 

リンが訝しげに呟く。

 

「…『その触媒は、人間でありながらホロウの一部として機能し、エーテルの流れを自在に制御する『アンテナ』の役割を果たす。理想的な触媒は、体内にエーテルを循環させるためのナノマシンを有し、エーテリアス化することなく、エーテルを直接生命活動に利用できる特性を持つ個体である』…」

 

ヴァレリウスは、補足資料として添付されていた別のテキストファイルを開いた。

 

「…『ただし、ホロウの膨大なエーテル情報を処理し、自在に制御するためには、人間の脳では演算能力が絶対的に不足している。実行した場合、被験者の脳は確実に焼き切れるだろう。これを回避するには、外部からの演算補助、あるいは脳そのものを生体CPUとして最適化する何らかの補助装置が不可欠となる』」

 

「…『擬態技術の応用として、エーテリアスにこの触媒の因子を移植する実験も考えられる。成功すれば、対象のエーテリアスはホロウの免疫システムから外れ、我々の制御下に置くことが可能となる。さらに、この因子を移植されたエーテリアスは、既存のホロウの免疫システムから完全に独立し、逆に触媒を中心とした新たな小規模の生態系…いわば、触媒を守護するための『私的免疫システム』として機能する可能性がある。この状態を確立できれば、触媒本人を直接制御下に置くことで、間接的にホロウの操作が実現できる可能性がある。しかし、この理論はあくまで机上の空論に過ぎない。なぜなら、この実験の根幹をなす『理想的な触媒』が、現時点では発見されていないからである』…」

 

その一文一文が、ひかりの背筋に氷のような悪寒を走らせた。

 

「ナノマシン…エーテルをエネルギーに…アンテナ…そして、脳を補助する装置…?」

 

先ほど監視カメラの映像で見た、メグの身に起きた奇跡。

 

ホロウのエネルギーで傷を癒す、常識では考えられない現象。

 

そして、彼女の中にいた「誰か」

 

全てが、この理論と結びついていく。

 

「まさか…メグが…その『触媒』だって言うの…?そして、あの子の中にいたのは、脳の負荷を肩代わりするための装置…?」

 

ひかりの思考が、結論へとたどり着く。

 

メグを追っている組織の目的は、単なる被検体の回収ではない。

 

この理論を完成させ、ホロウそのものを支配するための、かけがえのない「鍵」として、メグを管理するつもり…?

 

彼女は、研究記録の最後に記された、電子署名に視線を落とした。

 

「…この記録は、一体誰が…?」

 

そこに記されていたのは、一つの名前だけだった。

 

『エイゼン・フォークト』

 

「エイゼン・フォークト…知らない名前ね。天宮の情報網にもなかったはず…」

 

ひかりの思考が、急速に繋がり始める。

 

この論文は、理想の触媒が見つかっていない段階で書かれている。

 

つまり、このエイゼンという研究者は、理論だけを完成させ、それを実現させるための「触媒」…メグを探していた。

 

「そして、メグを見つけたからこそ、リアムたちの組織に…?だとしたら、リアムたちが話していた『主任』という人物は…このエイゼン・フォークト…?でも、彼らは主任からメグを救い出すと言っていたわ。話が、まるで噛み合わない…」

 

ひかりの脳裏に、リアムの穏やかな笑顔が浮かぶ。

 

彼が語った「家族」という言葉と、メグの怯えた姿が、どうしても結びつかない。

 

「この研究の存在を知っている以上、彼らも無関係ではないはず。彼らの本当の目的は、一体何…?」

 

ひかりは、ぞっとするような寒気を覚えながらも、静かに闘志を燃やした。

 

「…リンさん、この記録を全て、バックアップできますか?」

 

ひかりの声に、リンが即座に応じる。

 

『もちろん!Fairy!全データをこっちのサーバーに転送して!』

 

『肯定。マスター、データ転送を開始します』

 

Fairyの声と共に、ホログラムテーブルのデータが目まぐるしく動き始める。

 

だが、その直後だった。

 

ブツン、という音と共に、研究室の全てのモニターが一斉に暗転した。

 

さっきまで膨大な情報を映し出していたホログラムテーブルも、ただのガラスの机へと戻っている。

 

『え…?なにこれ!?』

 

リンの驚愕の声が響く。

 

『…全データ削除を確認。これはシステムの単純な機能停止ではありません。…マスター、信じられませんが…全てのデータが、今この瞬間、完全に消去されました』

 

Fairyの声には、焦りと驚愕の色が混じっていた。

 

『消去!?なんで!?』

 

『…不明。外部からのアクセス痕跡は一切ありません。施設のシステム内部から、最高位の権限で実行された、あまりにもクリーンな消去コマンドです。このFairy監視網をすり抜けて…いえ、私の存在そのものを完全に把握した上で、実行された可能性があります』

 

その言葉に、ひかりたちは背筋が凍る思いだった。

 

この研究室の主…エイゼン・フォークトは、自分たちがここにいることを知っている。

 

そして、自分たちが何を知ったのかも、全て。

 

(読ませるだけ読ませて、証拠は全て消し去る…。なんて、悪趣味な…!)

 

***

 

ひかりたちは、もはや何のデータも残っていない研究室を後にした。

 

そこにメグの姿も、彼女に繋がる新たな手がかりも、もはや残されてはいなかった。

 

ホロウの外へ出ると、ヴィクトリア家政の別動隊と合流した。

 

カリンに護衛されていた民間人たちも無事だった。

 

『ひかりさん…。ごめんね、せっかくあんな大事なデータを見つけたのに、わたしのせいで…。Fairyがついてて、絶対大丈夫だと思ってたのに…』

 

通信機から聞こえるリンの声は、悔しさに滲んでいた。ひかりは、そんな彼女に優しく微笑みかける。

 

「いいえ、リンさんのせいではありません。相手の方が一枚上手だった、それだけのことです。それに、データは消されてしまいましたが、私たちは、この目で真実のかけらを見ることができました。それだけでも、大きな収穫です」

 

ひかりは、今回の任務に協力してくれたプロキシ兄妹とヴィクトリア家政のメンバーに向き直ると、深く、深く頭を下げた。

 

「皆さん、今回は本当にありがとうございました。…つきましては、改めてお礼と、詳しいお話がしたいのです。今夜、私の家へお越しいただけませんか?」

 

その真摯な申し出を、断る者はいなかった。

 

***

 

新エリー都の地下深く、冷たい光だけが満たす無機質な一室。

 

壁一面のモニターには、旧第7工業地区ホロウの内部構造がリアルタイムで表示されていた。

 

主任エイゼンは、その中央に表示された、リアムたちの部隊を示すマーカーを、一切の感情を読み取らせない瞳で見つめていた。

 

「…やはり食いついたか、リアム」

 

エイゼンは小さく呟くと、傍らに控えていた腹心の部下に、淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で指示を出す。

 

「計画通り、B班を旧第3商業地区跡のホロウへ向かわせろ。武装は最大限、可能な限り派手に動け。主任直属の部隊が動いたと、誰の目にも明らかになるようにな」

 

「…よろしいのですか。リアムの監視網に、こちらの動きが筒抜けになりますが」

 

「それが狙いだ」

 

エイゼンは、モニターから目を離さずに答える。

 

「あの男は、私がメグを回収し、別の場所へ移送したと考えるだろう。奴の意識を、一時的にでもこちらから逸らすことができれば、それでいい」

 

「はっ。直ちに」

 

部下は一礼し、部屋を出て行った。

 

エイゼンは、リアムたちのマーカーが表示されているモニターから、別のモニターへと視線を移す。

 

そこには、旧第7工業地区の入り口付近、治安局が張ったバリケードの内側で展開する、もう一つの部隊の様子が映し出されていた。

 

それは微細な偵察ドローンからの映像だった。

 

「…天宮の娘か。クラヴィスの位置情報から、メグがあの家に厄介になっていたことは把握していたが…まさか、ここまで首を突っ込んでくるとはな」

 

映像の中心にいたのは、純白の防護服に身を包んだ、天宮ひかりだった。

 

その隣には、ヴィクトリア家政と、小さなボンプの姿も確認できる。

 

「厄介だが、リアムよりは、まだ扱いやすい駒か」

 

彼の指がコンソールを叩き、廃工場に仕掛けられたセンサーの映像へと切り替える。

 

そこに映し出されたのは、ひかりたちが気づかなかった、廃工場に仕掛けられた複数の微細なセンサーからの映像とデータだった。

 

それらは、彼が讃頌会に身を置くよりも遥か昔、廃墟にて、ただ独りでホロウの研究に没頭していた頃に設置した、過去の遺物だ。

 

メグが、偶然にもその古い観測拠点の一つにたどり着いていたとは、皮肉な巡り合わせだった。

 

(…メグの意識レベルは低下しているが、バイタルは安定域に移行したか。クラヴィスの治療は成功したと見るべきだな)

 

エイゼンは、送られてくるデータを冷静に分析する。

 

だが、次の瞬間、彼の思考は驚愕に貫かれた。

 

(…なんだ、この個体は。エーテリアス…いや、ドッペルゲンガーか。この姿は…対ホロウ6課の星見雅だと?ドッペルゲンガーが、なぜあの女の姿を)

 

モニターには、映像の中で、新エリー都で絶大な人気と知名度を誇る公人、星見雅の姿を模倣したエーテリアスが、丁重にメグを抱きかかえる様子が記録されていた。

 

(…メグの記憶を読み取ったのか。だが、なぜだ?メグが、あれほど高名な公人を、これほど鮮明に記憶しているとは。二人に接点でもあったというのか?いや、それよりも…)

 

彼の思考は、さらに深い驚愕へと至る。

 

(対象に対し、敵性行動を示さず、保護するような動き…。そして、この映像の後、別のセンサーがホロウ境界線を超えて移動するドッペルゲンガーの反応を捉えていた。…ホロウの外で活動しているだと…?まさか。机上の空論が…現実になったというのか?)

 

エイゼンの脳裏に、自らが記した研究記録の一節が鮮烈に蘇る。

 

『擬態技術の応用として、エーテリアスにこの触媒の因子を移植する実験も考えられる…成功すれば、対象は触媒を守護するための『私的免疫システム』として機能する可能性がある』

 

(メグが負傷していた原因がドッペルゲンガーなら、奴はメグの血を取り込んだ…。

 

つまり、『触媒の因子』であるナノマシンが、偶発的に移植された。

 

結果、あの個体はホロウの免疫システムから外れ、メグを守る存在へと変質した、と。

 

それだけではない。

 

ホロウの外で存在を維持できている…?

 

通常のエーテリアスならばありえん。

 

…そうか、ナノマシンか。

 

あれは単なる修復ユニットではない。

 

エーテルをエネルギー源とする、自己増殖可能な微小機械群だ。

 

奴の体内に取り込まれたナノマシンが、メグの遺伝子情報を基に自己増殖し、エーテルを取り込み、そして循環させることで、奴の身体そのものを一つの閉じた『小規模ホロウ』へと変質させたというのか…!

 

体組織をエーテル伝導体として利用し、外部環境に依存しない自己完結型のエーテル循環システムを構築する。

 

私の理論の中でも、最も実現性が低いと考えていた部分だ。

 

それを、この偶発的な事象が、証明した…!)

 

「…私の理論は、間違っていなかったというわけか」

 

主任の口元に、科学者としての純粋な歓喜と、自らの理論が引き起こした未知の現象への畏怖が入り混じった、歪んだ笑みが浮かぶ。

 

モニターに映る、雅に抱えかかえられたメグの穏やかな寝顔。

 

その小さな姿が、彼の脳裏に焼き付いた遠い日の記憶を呼び覚ます。

 

燃え盛る旧都、崩れ落ちる瓦礫、そして…必死に伸ばした自分の手から、すり抜けていった小さな娘の手の感触。

 

あの日、ホロウは彼の全てを奪った。

 

この研究は、その復讐だ。

 

二度と誰にも同じ絶望を味わわせないための、狂気的なまでの支配欲の果てに生まれた理論。

 

そしてもう一つ。

 

讃頌会に入って間もない頃の、無機質な白い部屋の記憶だった。

 

***

 

メグはまだ、ただの子供だった。

 

検査台に腰掛け、小さな足を揺らしながら、後に彼女を苛むことになる怯えなど、まだその瞳には宿していなかった。

 

彼は彼女のエーテル親和性を測定していた。

 

苦痛などない、ただの検査。

 

被検体は、彼の理論を証明するための、貴重なサンプル。

 

それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

不意に、少女が顔を上げて、彼に問いかけた。

 

「ねえ、博士。どうして空は青いの?」

 

あまりにも凡庸で、あまりにも子供らしい質問。

 

その一言が、彼の思考を完全に停止させた。

 

彼は、光の散乱がどうのと、論理的に答えた記憶がある。

 

だが、少女は少しだけつまらなそうに唇を尖らせた。

 

「ふーん…。本物の空、見てみたいな」

 

その何気ない一言が、彼の心の奥底に、深く、深く突き刺さった。

 

そうだ、この子は、本物の青空を知らないのだ。ホロウに覆われた旧都の残骸で生まれ育ち、そしてこの白い部屋しか知らない。

 

その瞬間からだ。被検体が、ただのサンプルではなく、空の色を夢見る一人の子供…『メグ』になったのは。

 

彼は、衝動的に、しかし静かな声で言った。

 

「…ああ。必ず見せてやろう。私が、この手でな」

 

「ほんと?」

 

「ああ。ホロウのない、お前がどこまでも自由に歩いていける、本物の青い空を」

 

それは、旧都陥落で家族を失ったあと、彼が初めて口にした、人間的な『約束』だった。

 

ホロウへの復讐のため、それを支配する道具を作り出すため、彼はこの少女を研究の世界に引き入れた。

 

だが、その時から、彼の目的は静かに変質していた。

 

この約束を果たすことこそが、彼の新たな存在理由になってしまったのだ。

 

だが、その純粋な目的は、讃頌会という組織の歪んだ論理の中で、徐々に蝕まれていくことになる。

 

当時、エイゼンはまだ一介の研究員に過ぎず、彼に組織内での権力はなかった。

 

メグの持つ類稀なエーテル親和性は、当時の研究主任、そしてリアムをはじめとするサクリファイスの研究員たちの目にも留まったのだ。

 

彼らは、エイゼンの管理下にあるメグに直接手を出すことはできなかったが、彼の目を盗んでは、巧妙な手口で彼女を自分たちの実験へと引きずり込んでいった。

 

リアムのような男が、優しい笑顔で彼女に近づき、「痛くない、特別な検査だよ」と甘い言葉で誘う。

 

その「優しさ」の先には、いつも過剰な精神負荷をかけるシミュレーションや、得体のしれない薬剤を混ぜ込まれた食事が待っていた。

 

結果、メグの精神は徐々に摩耗し、かつての快活さは影を潜めていった。

 

優しくされること、笑顔を向けられることそのものが、次に来る痛みを予感させる恐怖の引き金となったのだ。

 

誰が本当の味方で、誰が敵なのか。

 

その区別さえも曖昧になり、やがて彼女は、唯一の信頼を寄せていたはずのエイゼンに対しても、怯えた瞳を向けるようになってしまった。

 

ある日、定期検査のために彼女の部屋を訪れたエイゼンは、その変わり果てた姿に言葉を失った。

 

「メグ、私だ」

 

彼が声をかけると、メグはびくりと肩を震わせ、ベッドの隅で小さくうずくまった。

 

その虚ろな瞳は、もはやエイゼンを認識してすらいない。

 

ただ、白衣を着た何者かというだけで、恐怖に支配されている。

 

「…いや…いやです…もう…痛いのはやだ…。ごめんなさい、ごめんなさい…ちゃんとするから、いい子でいるから…だから、もう…頭の中、見ないで…お願い…」

 

メグは、意味の無い言葉を繰り返しながら、小さな身体で必死に許しを乞うていた。

 

あの、青空を夢見ていた瞳から光が消えていくのを、彼はただ無力に見ていることしかできなかった。

 

その日を境に、エイゼンの中で何かが変わった。

 

彼は自らの研究室に籠り、狂ったように成果を出し始めた。

 

彼の提出する論文は、常に讃頌会の誰よりも先進的で、的確だった。

 

そして、彼はその圧倒的な成果を武器に、当時の主任とリアムたちの杜撰な実験計画を、理事会の席で、木っ端微塵に論破してみせたのだ。

 

そうして、彼は力づくで「主任」の座を奪い取った。

 

全ては、メグを、誰にも触れさせないために。

 

***

 

(メグ…お前は、私の理論を証明するための『理想的な触媒』であり、失ったはずの人間性を取り戻させてくれた、唯一の観測対象だ…。そうだ、それだけのはずだった。だが、いつからだ。この冷え切った思考の中に、お前という存在が、ただのサンプルではない、別の何かとして根付いてしまったのは)

 

エイゼンは、込み上げてくるメグに対する思いを、もはや否定しようとはしなかった。

 

(…天宮ひかり。あの娘の行動原理は、計算も、打算もない。だが、その予測不能な善意こそが、今のメグには必要なのかもしれない。私が決して与えることのできない、唯一のものだ)

 

私の管理下に置けば、メグはまた、格好の的となるだろう。

 

私が奴らを叩き潰したこともあって、恨んでいるものも多い。

 

だが、天宮の庇護下ならば?

 

メグをあそこまで想ってくれている娘のそばならば、誰も容易には手出しできまい。

 

(以前立てた、リアムの部隊と接触させ、メグとクラヴィスの進化を観測するという計画…それは、今の彼女には過ぎた負荷だ。クラヴィスはスリープモードに入り、彼女自身も消耗している。今必要なのは、闘争による進化ではない。安定した環境下での『保全』だ)

 

研究の進捗は一時的に停滞する。

 

だが、それがどうした。

 

あの子がほんの少しでも、あの頃の娘が生きていたかもしれない日常に近いものを手に入れられるのなら…。

 

いや、違うな。

 

これもまた、最も貴重なサンプルを最適な環境で保全するための、合理的な判断に過ぎん。

 

そうだ、そうでなければならない。

 

彼の視線が、再びドッペルゲンガーの映像に戻る。

 

(…そして、このイレギュラーな護衛か。私の理論が生み出した、最強の盾。実に興味深い)

 

メグは、彼が探し求めていた理論を完成させるための『理想的な触媒』であり、同時に、彼が守ると誓った存在だ。

 

そして、その彼女は今、理論上でのみ存在するはずだった究極の従者を、偶然にも手に入れた。

 

彼の指がコンソールを叩き、クラヴィスの位置情報のログを呼び出す。

 

光の点が、天宮家のタワーから旧第7工業地区の廃工場へと移動し、そして今はホロウ境界区域の外縁部で静止している。

 

(天宮家から自ら姿を消し、単身でホロウへ向かったのか)

 

エイゼンは、その行動の裏にある、不器用な少女の思考を正確に読み取っていた。

 

(天宮を巻き込むことを恐れたか。自分一人が闇にいれば済むと、そう考えたのか?…どこまでも、お人好しで、合理的ではない娘だ)

 

エイゼンはメグと穏やかな時間を過ごしていた頃を思い出していた。

 

その愚直なまでの優しさが、主任の胸に微かな痛みを走らせる。

 

エイゼンは、一瞬、天宮家に連絡を取り、メグの本当の居場所を告げるという選択肢を思考する。

 

だが、すぐにそれを却下した。

 

(いや、駄目だ。それはメグの決意を無にすることになる。あの子は、友人を守るために、自ら孤独を選んだのだ。その選択を、私が踏みにじるわけにはいかない)

 

ならば、次に打つべき手は決まっている。

 

全ての外部干渉を排除し、彼女が穏やかな環境で安定するまでの時間を稼ぐ。

 

(リアムのようなハイエナどもを排除し、安全な道筋だけを残す。その上で、天宮の娘が自力でメグを見つけ出すというのなら…その時は、もはや私が介入すべきことではない。それが、お前たちが選んだ道だというのならな)

 

それこそが、研究を、いや、あの約束を果たすための、唯一の選択だ。

 

その決断を胸に、エイゼンは、通信端末を手に取った。

 

相手は、そのための最も優秀な「道具」…この街で最も腕が立つが、最も気まぐれな男、賞金稼ぎヴォルフ。

 

「…私だ。状況が変わった」

 

『…何の用だ。前回の仕事のせいで、俺の評判はガタ落ちなんだがな』

 

スピーカーの向こうから、ヴォルフの不機嫌そうな声が響く。

 

「お前が『ゴースト』は死んだと報告したが、生きて戻った。私の予測の方が、お前の感想より正確だっただけの話だ」

 

『何…?生きてただと…?あのデッドエンドホロウからかよ!チッ…相変わらず嫌な言い方しやがる。で、何の用だ?次の『狩り』の時間か?』

 

「新たな依頼だ。今度こそ、私の指示を正確に理解しろ。今回はゴースト…いや、『メグ』のアシストに回ってもらう」

 

『メグ、だと?…ああ、ゴーストちゃんが、あんたの言ってた『メグ』だったってわけか。で、アシスト?聞き捨てならねえな。あんたは前回、『確保』しろって言ったはずだぜ』

 

「私の指示は『可能な限り無傷で確保しろ』だったはずだ。だが、結果はどうだ?お前は他の賞金稼ぎどもを駒のように扱い、彼女をデッドエンドホロウに追い詰めた。制御もできん駒に、あの娘を傷つけさせた挙句にな。違うか?」

 

その的確な指摘に、ヴォルフはぐっと言葉を詰らせる。

 

確かに、あの時の自分は他の賞金稼ぎを駒として使い、少しばかり強引に追い詰めすぎた。

 

結果として、制御しきれなかった駒がターゲットに不要な傷を負わせ、また、ターゲットもその状況から逃げるために、自傷覚悟で自身の拠点を爆破したことを思い出す。

 

「…まあいい。前回の失態は、私の言葉が足りなかったせいでもある。だから、今回は貴様でも理解できるよう、明確に伝える。メグ本人と、彼女を保護しているドッペルゲンガーには、手を出すな。お前の役目は、あくまで彼女の安全を確保するための障害排除だ。今回は、何があってもだ」

 

『…あんた、本気で言ってるのか?俺に護衛の真似事をしろってのか?』

 

「お前は、前回の失態でこちらに大きな『借り』があるはずだがな。それに、これは単なる護衛ではない。汚名返上の機会をやると言っているんだ。考えてみろ。天宮が動き出すほどの事態だ。この依頼をこなせば、お前の落ちた評判も回復するどころか、以前以上のものになるだろう。まあ、断るというのなら、それでも構わんが…その『借り』は、別の形で返してもらうことになる」

 

『…チッ、分かったよ。話に乗ってやる』

 

「一つだけ言っておく。メグは、極めて貴重なサンプルだ。次に余計なことをして傷一つでもつけてみろ。その時は、お前の報酬から、その損害分をきっちり差し引かせてもらう。…利子も付けてな」

 

エイゼンは、それだけ言うと、一方的に通信を切った。

 

***

 

ヴォルフとの通信を終えたエイゼンは、再び廃工場の監視モニターに意識を戻した。

 

映像の中では、天宮ひかりたちが、リアムたちが去っていった通路とは別の、隠された区画へと向かっている。

 

(…見つけたか、あの場所を)

 

彼の指がコンソールを操作し、隠し区画…彼がかつて「研究所」と呼んだ場所の、内部カメラへと映像を切り替える。

 

そこは、彼が讃頌会に身を置くよりも遥か昔、旧都の廃墟でただ独り、ホロウの謎に取り憑かれていた時代の聖域だった。

 

ひかり、ライカン、ヴァレリウス、そしてプロキシのボンプ「イアス」が、分厚い防爆扉の先へと足を踏み入れる。

 

『うわー、何ここ…。メグちゃん、こんなところにいたの?』

 

通信機越しに、リンの困惑した声が響く。

 

「いえ…。あの子の気配は、ここにはありませんわ。ですが…何か、とても重要なものが、この場所に眠っている気がします」

 

ひかりの言葉を聞きながら、エイゼンは静かに目を閉じた。

 

(天宮の娘…お前のその直感は、ある意味で私の計算よりも厄介だ)

 

ヴァレリウスが、ネットワークが完全に独立していることを報告する。

 

リンがFairyにハッキングを命じ、イアスが物理的にコンソールへ接続する。

 

その一部始終を、エイゼンは自らが仕掛けたバックドアを通して、静かに監視していた。

 

(…面白いAIだ。私の作ったセキュリティを、こうも容易く突破するとはな)

 

Fairyがシステムを掌握した瞬間、エイゼンの手元のコンソールにも、彼らがアクセスしているファイル名がリアルタイムで表示される。

 

『エーテル共生理論に関する一考察』

 

「…ホロウを、一つの巨大な生命体と仮定する…。そして、エーテリアスは、その生命体を守るための免疫システム…?」

 

モニターの向こうで、ひかりが信じられないといった様子で呟くのが、集音マイクを通して聞こえてくる。

 

(そうだ。そこまでは、他の研究者でもたどり着けるかもしれん)

 

ヴァレリウスが、論文の核心部分…「応用理論」を読み上げていく。

 

ナノマシン、『アンテナ』、そして脳を補助する装置の必要性。

 

(…天宮ひかり。お前は、どこまで理解できる?)

 

エイゼンは、試すようにモニターの向こうの少女を見つめていた。

 

メグを想うという、非合理的な感情だけで動く娘。

 

彼女がこの論文の本当の恐ろしさを理解できなければ、メグを任せるには値しない。

 

悪意なく、その善意だけで、メグをより危険な状況に追い込む可能性すらある。

 

だが、ひかりの反応は、彼の予想を僅かに上回っていた。

 

モニター越しの彼女の口元が、論文のキーワードをなぞるように微かに動くのが見えた。

 

『ナノマシン…エーテルをエネルギーに…アンテナ…そして、脳を補助する装置…?』

 

彼女は、ただ情報を聞いているだけではない。

 

監視カメラで見たメグの奇跡的な治療と、彼女の中にいた「誰か」の存在、そしてこの論文の内容を、驚異的な速度で結びつけ、分析している。

 

『まさか…メグが…その『触媒』だって言うの…?そして、あの子の中にいたのは、脳の負荷を肩代わりするための…』

 

ほう。ただのお嬢様ではないか。

 

メグが『触媒』であるという結論に、こうも早くたどり着くとはな。

 

だが、本当の価値はそこからだ。この情報を、お前はどう使う?

 

ひかりの思考は止まらない。

 

彼女は、論文の署名と、先ほど遭遇したリアムたちの言葉を結びつけ、さらに深い考察へと至る。

 

『リアムたちが話していた『主任』という人物は…このエイゼン・フォークト…?でも、彼らは主任からメグを救い出すと言っていたわ。話が、まるで噛み合わない…』

 

エイゼンは思わず、モニターの前で息を呑んだ。

 

驚嘆すべきはその洞察力。

 

彼女は、リアムの言葉の矛盾に気づき、その真意を探ろうとしている。

 

『この研究の存在を知っている以上、彼らも無関係ではないはず。彼らの本当の目的は、一体何…?』

 

その鋭い分析力に、エイゼンは、天宮ひかりという人間を再評価した。

 

この娘は、単なる善意の塊ではない。

 

彼女は、この論文の科学的な意味だけでなく、その裏に渦巻く人間たちの政治的な思惑まで、正確に理解しようとしている。

 

この娘ならば、この理論を悪用することはないだろう。

 

むしろ、この情報の意味を正しく理解し、メグを守るための最善手を考えるはずだ。

 

「…リンさん、この記録を全て、バックアップできますか?」

 

ひかりの声に、リンが即座に応じる。

 

『もちろん!Fairy、お願い!全データをこっちのサーバーに転送して!』

 

『肯定。マスター、データ転送を開始します』

 

その瞬間、エイゼンの指がコンソールの上を滑る。

 

(そこまでだ、天宮ひかり。お前に真実の一端を見せるのはいい。だが、このデータそのものが外部に流出することは、看過できん)

 

この理論は、あまりにも危険すぎる。

 

もしリアムや讃頌会の他の派閥、あるいは市長のような男たちの手に渡れば、メグは今度こそ、ただの道具として利用され尽くされるだろう。

 

(お前がどれだけ固く口を閉ざそうと、データは盗まれる。奪われる。ならば、初めから存在しない方がいい)

 

エイゼンは、躊躇なくデータの完全消去コマンドを実行した。

 

ブツン、という音と共に、研究室の全てのモニターが一斉に暗転する。

 

『え…?なにこれ!?』

 

リンの驚愕の声。Fairyの焦ったような分析。

 

『…私の存在そのものを完全に把握した上で、実行されたとしか考えられません』

 

(そうだ。お前たちの能力は認める。だが、ここは私の領域だ)

 

モニターの中で、ひかりたちが呆然と立ち尽くしている。

 

(それでいい、天宮ひかり。証拠は消えた。だが、お前の頭の中には、消えない真実が刻まれたはずだ。…メグを頼む)

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