余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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22. 道化師のカーテンコール

旧第3商業地区跡のホロウは、死んだように静まり返っていた。

 

不規則に突き出したビルの残骸が、まるで巨大な墓標のように、不気味なシルエットを夕暮れの空に描き出している。

 

リアムは、その光景を穏やかな笑みを浮かべたまま見渡していたが、その瞳の奥には、計算高い冷徹な光が宿っていた。

 

「先生、この辺りのはずですが…人の気配が感じられません」

 

レオが、周囲に薄く展開した自身のエーテルで気配を探りながら、リアムに報告する。

 

「うん~。人の歪みが、全然見えないよぉ」

 

イリスもまた、ふんわりとした口調で付け加える。

 

リアムは、二人の報告に静かに頷いた。

 

(…陽動か。あの男が、そう易々と尻尾を掴ませるはずがない)

 

その時、ヘッドホンをつけていたノエルが、ふと顔を上げた。

 

「…先生。音がする。たくさん…」

 

ノエルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲のビルの屋上や瓦礫の陰から、武装した兵士たちが一斉に姿を現した。

 

その数は、ざっと見て30人以上。

 

全員が、リアムたちに向けて銃口を構えている。

 

「あら、見ぃつけた。こんなところで何してるのかしら?」

 

兵士たちの中から、分隊長と思われる男が、拡声器も使わずに、やけに響く芝居がかった声で言った。

 

その独特な口調に、カインが顔をしかめて吐き捨てる。

 

「なんだ、あの喋り方…キメェな」

 

「あの人、男の人…?」

 

「なんで女の人の言葉なの…?」

 

ルカとルナが、不思議そうに首を傾げた。

 

「三人とも。油断するな」

 

レオが低く制する。

 

「歪みがすごく派手だぁ…」

 

イリスの分析にも、どこか困惑の色が混じっていた。

 

「おやおや、これは手荒い歓迎だね」

 

リアムは、子供たちの反応を意に介さず、穏やかな笑みを崩さぬまま、両手を上げて敵意がないことを示す。

 

「人探しをしているだけだよ。このホロウに、我々の仲間が連れ去られたという情報があってね。君たちは何か知らないかい?銀髪の、小さな女の子なんだが」

 

「人探しねぇ?」

 

分隊長は、リアムの言葉を鼻で笑った。

 

「生憎だけど、知らないわねぇ。あなたたちが探してるお嬢ちゃんが誰かは知らないけど、アタシたちの仕事の邪魔よ。悪いけど、帰ってくれるかしら」

 

分隊長の言葉には、軽薄さの裏に、確固たる拒絶の意志が込められていた。

 

彼らの任務は、リアムたちをここに引きつけ、可能な限り時間を稼ぐこと。

 

エイゼンから、そう指示を受けていた。

 

リアムは、そのあまりにも一方的な物言いに、ふっと笑みを漏らした。

 

「そういうわけにもいかないな。家族を助けるためなのだから。…どうやら、話し合いで解決、とはいかないようだね」

 

彼はゆっくりと、子供たちに向き直った。

 

その顔には、深い悲しみの色が浮かんでいる。

 

「みんな、聞こえたかい?彼らこそが、主任の手先だ。彼らは、新しい家族になるメグを、どこかに隠している。そして、我々が彼女を助け出すのを、こうして邪魔しに来たんだ」

 

「あらあら、ずいぶんとお上手な作り話ね。それって、あなたの自己紹介かしら?」

 

分隊長の、嘲笑を込めた声が響く。

 

その言葉に、カインが激昂する。

 

「てめえ!」

 

「カイン、待て」

 

レオが制するが、彼の瞳にも怒りの炎が宿っていた。

 

「「メグちゃんを返せ!」」

 

ルカとルナが、涙ながらに叫ぶ。

 

だが、ノエルだけが、俯いたまま小さく震えていた。

 

(…先生…?)

 

彼女の耳に聞こえてくるリアムの「音」は、子供たちの怒りを煽り、目の前の敵を攻撃させるための、冷たく計算され尽くした、不快な音だった。

 

敵であるはずのあの人の言う通りだ。

 

先生の言葉は、まるでどこかから借りてきたみたいに、嘘っぽく聞こえる。

 

この人にも、それが分かっているんだ…。

 

「さあ、みんな。メグくんを助け出すために、彼らに道を開けてもらおうか」

 

リアムのその言葉が、引き金となった。

 

「うおおおお!道を開けやがれ!」

 

カインが獣のような雄叫びを上げて、大地を蹴り、弾丸のように敵陣へと突っ込む。

 

「全員、援護しろ!」

 

レオの的確な指示が飛ぶ。

 

「あら、元気な子が来たじゃない!シールド上げなさい!あのでっかい坊やの突進、止めるわよ!」

 

分隊長の軽薄だが的確な指示の下、最前列の兵士たちが構えた特殊な盾が、青白い光を放って連結し、巨大なエネルギーの壁を形成する。

 

カインの剛腕がシールドに叩きつけられ、轟音と共に衝撃波が周囲に拡散するが、壁はびくともしない。

 

「なっ…硬え!」

 

カインが驚愕の声を上げる。

 

「ルカ、ルナ!シールドの側面から瓦礫を叩き込め!」

 

レオの指示を受け、双子が手をかざす。

 

「カインお兄ちゃんをいじめるな!」

 

「どっか行けー!」

 

周囲のコンクリートの塊や鉄骨が、唸りを上げて浮き上がり、シールドの側面へと殺到する。

 

だが。

 

「はいはい、お待ちかねのチャフよ。プレゼントだわ」

 

兵士の一人がグレネードランチャーを発射すると、無数の小さな金属片が空中に散布され、双子の念動力を乱す特殊な磁場を形成した。

 

浮き上がった瓦礫は制御を失い、あらぬ方向へと墜落していく。

 

「くそっ!こいつら、俺たちの動きを完全に読んでやがる!」

 

レオが、悔しそうに声を上げる。

 

(ほう…面白い)

 

リアムは、その光景を興味深そうに観察していた。

 

(子供たちのデータは、筒抜けというわけか。なるほど、彼は最初から私と事を構えるつもりで、手の内を晒してきた、と。だが、君は一つ見誤っているよ、エイゼン。データは、更新しなければ意味がないのだ)

 

 

その時、イリスののんびりとした、しかし確信に満ちた声が響いた。

 

「レオ、落ち着いて。あの盾、繋がってるところがね、ちょっとだけ光が弱いよぉ。そこを、カインの力でどーんってすれば、壊れるかも」

 

「分かった!カイン、もう一度正面からだ!双子は俺に合わせろ!」

 

レオの指示に、カインが不敵な笑みを浮かべる。

 

「おうよ!今度はぶち抜く!」

 

「レオ、後ろから増援が来る!数は少ないけど、囲まれるよ!」

 

ノエルが、耳元のヘッドホンを抑えながら叫ぶ。

 

「分かっている!短期決戦で決めるぞ!」

 

カインが再びシールドへと突貫する。

 

分隊長は「あらあら、二度目はないわよ、坊や?」と肩をすくめながらも、部下たちに的確な指示を送る。

 

だが、その時にはもう遅かった。

 

「ルカ、ルナ、今だ!」

 

双子の瞳が強く輝く。

 

「「いっけー!」」

 

今度は小さな瓦礫ではない。

 

二人の念動力が、横転していた大型トラックそのものを持ち上げ、シールドの連結部目掛けて、巨大な槌のように叩きつけたのだ。

 

チャフ弾では拡散しきれない質量とパワー。

 

轟音と共にシールドに亀裂が走り、そこへカインの拳が突き刺さる。

 

「どけぇぇぇぇ!」

 

エネルギーの壁が、ガラスのように砕け散った。

 

陣形を崩された兵士たちは、訓練通りに散開し、応戦しようとする。

 

だが、レオの指揮は、彼らの動きのさらに先を読んでいた。

 

「イリス、敵の指揮官はどこだ!」

 

「えーっとねぇ、右から三番目の、偉そうな感じの人だよぉ」

 

「よし!ルカ、ルナ、あの男の足を止めろ!」

 

双子の念動力が、分隊長の足元の瓦礫を跳ね上げ、彼の動きを一瞬だけ封じる。

 

「カイン!そこだ!」

 

「もらったぁ!」

 

カインが、分隊長目掛けて突進する。

 

だが、分隊長は冷静だった。

 

彼は、迫りくるカインの拳を最小限の動きでいなすと、即座に部下たちに指示を飛ばす。

 

「あらら、乙女に殴りかかってくるなんて酷いわねぇ。でも、ここからが本番よ。散開!一人ずつ丁寧に潰すわよ!」

 

兵士たちは、レオの指揮によって先読みされているにも関わらず、その卓越した戦闘技術で子供たちの猛攻を凌ぎ続ける。

 

指揮官を失わず、統率を保ったエイゼンの部隊は、決して簡単には崩れない。

 

「ノエル、敵の通信をジャミングしろ!イリス、敵の銃火器の構造的な弱点を全員に共有!」

 

レオの指示が、戦況を再びリアムたちへと引き戻す。

 

ノエルの能力で敵の通信が乱れ、兵士たちの連携に僅かな隙が生まれる。

 

その隙を、イリスが見逃さない。

 

「みんな!あの人たちの持ってる銃、右側の冷却装置が弱いみたいだよぉ!」

 

その一言で、子供たちの攻撃が兵士たちの武器の弱点へと集中する。

 

レオの指揮のもと、双子の念動力が銃の冷却装置をピンポイントで破壊し、カインの剛腕が次々と銃身をへし折っていく。

 

「あらやだ、メインウェポンが!仕方ないわねぇ!」

 

分隊長は舌打ちすると、即座に次の手を打った。

 

「ライフルを持っている子は遠距離で狙撃しなさい!壊されちゃった子は、距離を詰めて、近接戦闘に切り替えるわよ!」

 

銃を失った兵士たちは、一切の躊躇なくそれを投げ捨てると、腰のコンバットナイフや特殊警棒を抜き放ち、子供たちへと襲いかかった。

 

狙撃と向かってくる敵の隙のない応酬により、レオの指揮が中断され、戦況は再び一進一退の均衡状態へと戻る。

 

子供たちの圧倒的な異能力と、エイゼンの部隊の統率された戦術と練度。

 

どちらも決定打を欠き、泥沼の消耗戦の様相を呈し始めていた。

 

リアムは、その光景を冷ややかに見つめていた。

 

(…思ったよりも敵の損耗が少ない。こちらの能力を把握した上で、被害を最小限に抑える動きに徹している。このままでは、ただ時間を稼がれるだけだ。奴の思う壺だな)

 

リアムは、これ以上の戦闘は無意味だと判断した。

 

「…そこまでだ、みんな」

 

その静かな、しかし有無を言わせぬ声に、子供たちの動きがぴたりと止まる。

 

困惑するレオたちを尻目に、リアムは再び分隊長の前に、穏やかな笑みを浮かべて歩み出た。

 

「…どうやら、君たちも、ただの鉄砲玉というわけではなさそうだ。実に訓練されている。素晴らしい兵士たちだね」

 

「あら、お褒めに預かり光栄だわ。で、降参する気になったのかしら?」

 

分隊長は警棒を構えながら軽口で返す。

 

「降参ではないよ。ただ、この戦いは不毛だと言っているんだ。君たちの目的は、我々をここに足止めすることだろう?違うかな?」

 

リアムの言葉に、分隊長は一瞬きょとんとした後、堪えきれないといった様子で吹き出した。

 

「ぷっ…あはは!足止めですって?やだ、あなた、自分が物語の主人公か何かだと勘違いしてない?自意識過剰よぉ」

 

分隊長は、楽しそうに肩を揺らしながら、リアムを指差す。

 

「アタシたちの任務は、とってもシンプル。この区画に侵入した害虫…つまり、あなたたちを駆除すること。ただそれだけよ。あなたたちが誰で、何を探してるかなんて、正直どうでもいいのよねぇ」

 

その挑発的な言葉に、リアムは穏やかな笑みを崩さなかったが、その瞳の奥の光は、より一層冷たくなった。

 

「そうかい?だが『主任』は、君が思うより狡猾な男だよ。君たちをこんな場所で無駄死にさせるほど、愚かではないはずだ。

 

君たちは私の足止めの他に、M-07を探しに来ているのではないかい?

 

こんなに大規模な戦力を足止めだけに使うとは考えにくい。

 

貴重なサンプルの回収任務も受けているはずだ。

 

だが、君たちの様子を見ているとまだ見つかっていないらしい。

 

どうだろう、ここは私たちと協力しないかい?」

 

その言葉に、分隊長の背後にいた兵士たちは、ピクリとも反応しない。

 

ただ、冷徹な目でリアムを見つめているだけだ。

 

分隊長は、そんなリアムの様子を見て、さらに楽しそうに笑う。

 

「あらあら、必死になっちゃって。あなたが何を言おうと、アタシたちの任務は変わらないわ。…ねえ、坊やたち?」

 

その言葉は、リアムの子供たちだけでなく、部下たちにも向けられていた。

 

リアムの言葉は、巧みに兵士たちの忠誠心を揺さぶろうとしたが、分隊長はそれを逆手に取り、リアムの言葉をただの戯言として一笑に付した。

 

「そうかい。それは残念だ」

 

リアムは、肩をすくめると、子供たちに向き直った。

 

「…少し、薬が効きすぎるかもしれないが…」

 

彼は、子供たちに向かって、冷たい声で命じた。

 

「みんな、使いなさい。始まりの主が与えてくださった、聖なる力を」

 

その言葉に、レオたちが一瞬躊躇する。

 

カインでさえも、その言葉に僅かに顔をこわばらせた。

 

だが、ノエルは、ただ一人、静かに首を横に振った。

 

彼女は、注射器に手を伸ばそうとはしない。

 

リアムの有無を言わせぬ視線に、ノエルを除く5人は覚悟を決めた。

 

それぞれが、懐から禍々しい紫色の液体が入った注射器を取り出す。

 

「「「「「始まりの主よ、我が身に再創を」」」」」

 

彼らは、その言葉を詠唱するように呟くと、自らの首筋に、躊躇なく注射針を突き立てた。

 

「あらあら、芸がないわねぇ…」

 

分隊長は、子供たちの常軌を逸した行動に、驚くどころか、心底うんざりしたようにため息をついた。

 

彼の脳裏に、数年前の光景がフラッシュバックする。

 

エイゼンが主任になって間もない頃、当時の研究員が暴走させた実験体たちを、エイゼンと燻っていた自分二人で鎮圧した、あの日の記憶。

 

薬に改良が加えられているのか、以前よりもエーテルの量や、接種後の変化に違いは見られる。

 

しかしそれを除けば、全く同じ光景だった。

 

次の瞬間、子供たちの身体から、これまでとは比較にならないほどの、禍々しいエーテルの奔流が溢れ出した。

 

その瞳は赤く輝き、理性は破壊衝動に塗りつぶされていく。

 

「グ…アアアアアアア!邪魔だ!どけぇ!」

 

カインの身体は一回りも二回りも大きくなり、その拳はもはや人間のそれではなく、岩塊のような異形へと変貌していた。

 

彼は地面を殴りつけ、巨大なコンクリートの塊を軽々と兵士たちに向かって投げつける。

 

「…殺す…コロス…主任の手先は、皆殺しだ…!」

 

レオの口から、憎悪に満ちた言葉が漏れる。

 

もはや、冷静な指揮官の面影はどこにもなかった。

 

彼の周囲には不可視のエーテルの刃が渦巻き、近づくもの全てを切り刻んでいく。

 

「あは…あははは!ぜんぶ、壊れてるぅ…!ここも、そこも、ぜーんぶ!」

 

イリスは、その瞳に映る全てのものの「崩壊点」を見て、狂ったように笑いながら、指をなぞるだけで、兵士たちの武装を次々と破壊していく。

 

銃のボルトが弾け飛び、ヘルメットに亀裂が走り、防弾ベストのプレートが砂のように崩れ落ちる。

 

それは、物理的な攻撃ではない。

 

ただ、その物の構造的な終焉を、彼女が指先一つで引き寄せているだけだった。

 

双子のルカとルナは、ただ無邪気に、しかし恐ろしく巨大な念動力で、周囲の瓦礫を竜巻のように巻き上げていた。

 

「「みんなであそぼ?」」

 

その竜巻は、もはや敵を狙うというより、ただ純粋な破壊そのものを楽しむかのように、周囲のビルや地面を無邪気に削り取っていく。

 

ノエルは、暴走した仲間たちのエーテルが発するおぞましい音に耐えきれず、その場にうずくまって耳を塞いだ。

 

一方、リアムはその惨状を、恍惚とした表情で見つめていた。

 

手元の小型端末には、暴走する子供たちのバイタルデータやエーテル出力が、リアルタイムで記録されていく。

 

(素晴らしい…!データ通り、いやそれ以上だ。

 

カインの筋力増強率は180%超え、レオのエーテル放出量も3倍以上に。

 

しかし、連携と思考能力に著しい低下が見られるな。レオとカインは、主任への憎悪を核にして、明確な殺意を持って敵に向かっている。

 

それに対し、イリスと双子は違う。彼女たちは、ただ自らの能力がもたらす破壊そのものに酔いしれているようだ。

 

この差異は、個体差か?それとも、薬液に対する精神的な適性の違いか…?

 

特にイリスの能力は…ふむ、実に興味深い。

 

対象の構造的結末を早めるだけでなく、確率事象にまで干渉しているのか…?

 

もし、この力を人間に向ければ…その人間は、心臓の欠陥や脳の血管の破裂といった、ありとあらゆる『結末』を強制的に引き寄せられ、内側から崩壊するだろう。

 

一瞬で、ただの肉塊に成り果てる。

 

なんと恐ろしく、美しい力だ。

 

だが、今のイリスは、その力を無機物…銃や地面、鉄骨にしか向けていない。

 

なぜだ?無意識に、人間に直接使うことを避けているのか?それとも、まだ制御が不完全なだけか。

 

いずれにせよ、これは完成させる価値があるな)

 

 

 

分隊長は、子どもたちが引き起こした光景に再びため息をつくと、部下たちに冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で指示を飛ばした。

 

「ライフルが使える子は、鎮静弾に切り替えなさい!まだ撃っちゃダメよ、アタシの合図があるまで!残りの子たちはアタシと一緒に前に出るわよ!あの化け物たちのダンスのお相手をしてあげる!…ああ、それと、ヘッドホンの子は撃っちゃダメよ。あの子は何もしてないんだから」

 

「はっ!」

 

分隊長と銃を失った兵士たちは、特殊警棒を最大出力にし、暴走する子供たちへと突っ込んでいく。

 

彼らの目的は、もはや敵を倒すことではない。

 

仲間が鎮静弾を撃ち込むための、ほんの数秒を作り出すこと。その一点に集約されていた。

 

「まずは、一番元気な坊やからね!カインちゃん!」

 

分隊長は、投げつけられたコンクリート塊を軽やかに避けながら、カインの巨体へと肉薄する。

 

岩のような拳が、空気を切り裂いて分隊長に迫るが、彼はそれを紙一重でかわし、その勢いを利用して巨体の死角へと滑り込んだ。

 

「硬いじゃないの!」

 

関節部を狙った警棒の一撃は、分厚い筋肉に阻まれる。

 

だが、彼の目的はダメージではない。

 

カインの注意を自分一人に引きつけ、その巨大な身体で狙撃手たちの射線を塞ぐことだった。

 

他の兵士たちは、レオのエーテルの刃や双子の瓦礫の竜巻に多大な犠牲を払いながらも、必死でその猛攻を凌ぎ、狙撃手たちのための射線を作り出そうと奮闘していた。

 

「…今よ!撃ちなさい!」

 

分隊長が、カインの攻撃の隙を突いて指示を出す。

 

その一瞬を見逃さず、後方の狙撃手たちが鎮静弾を撃ち込んだ。

 

青い軌跡を描いた弾丸は、的確にカインの巨体に命中し、彼はうめき声を上げてその場に崩れ落ちた。

 

「次はアンタよ、リーダーくん!」

 

分隊長は息つく暇もなく、次なる標的、レオへと突貫する。

 

レオの周囲に渦巻く不可視の刃は、並の兵士では近づくことさえできない死の領域だ。

 

だが、分隊長はその刃の僅かな軌道の隙間を、まるで踊るようにすり抜けていく。

 

それは、死線の上でワルツを踊るような、常軌を逸した神業だった。

 

「なっ…!?」

 

「力に頼りすぎね。使い方がお粗末だわ」

 

驚愕するレオの懐に潜り込むと、分隊長は警棒の柄で彼の鳩尾を強かに打ち据えた。

 

一瞬だけエーテルの渦が途切れる。

 

「今!」

 

その隙を、狙撃手たちは見逃さなかった。

 

鎮静弾がレオの肩を撃ち抜き、彼もまた、地面に崩れ落ちた。

 

「さあ、最後はアンタたちよ!」

 

残る脅威は、最も厄介なイリスと、瓦礫の竜巻を操る双子。

 

分隊長は、狂ったように笑い続けるイリスへと狙いを定める。

 

「あはは!壊れろ、壊れろぉ!ぜーんぶ、ぜーんぶ、壊れちゃえ!」

 

イリスが両手を広げ、まるでオーケストラの指揮者のように指を振るう。

 

その動きに呼応して、周囲のビルが悲鳴を上げた。窓ガラスが一斉に砕け散り、壁に亀裂が走り、兵士たちの足元の地面が次々と陥没していく。

 

頭上からは、結末を早められた鉄骨が、雨のように降り注ぐ。

 

「やだ、面倒な能力ね!でも、アタシには通用しないわよ!」

 

分隊長は、落下してくる鉄骨を最小限の動きで見切り、それを足場に壁を蹴り、変幻自在の動きでイリスとの距離を詰めていく。

 

だが、その進路を阻むように、ルカとルナが操る瓦礫の竜巻が渦を巻き始めた。

 

「「アタシたちとあーそーぼ!」」

 

無邪気な声と共に、鋭い鉄片が分隊長を襲う。

 

「あら、おチビちゃんたちも混ぜてほしいのね!いいわ、まとめて遊んであげる!」

 

彼はその竜巻の中心へと自ら飛び込み、渦巻く瓦礫の嵐を、回転を利用して弾き飛ばしながらさらに加速。

 

常人離れした体捌きで渦を突き抜け、イリスの目の前へと躍り出た。

 

その超人的動きに、イリスの瞳に焦りの色が浮かぶ。

 

「来るな…!壊れちゃえ!」

 

イリスが恐怖に歪んだ顔で、分隊長に向けて指を突き出す。

 

その瞬間、分隊長の左腕の装甲が、内側から破裂するようにパキンと音を立てて砕け散り、鋭い痛みが走った。

 

装甲の下の戦闘服が裂け、鮮血が滲む。

 

「あら、やるじゃないの…!アタシに傷をつけるなんて、大したお嬢ちゃんね!」

 

だが、分隊長は怯まなかった。

 

左腕の負傷と引き換えに、彼はイリスの懐に潜り込むことに成功したのだ。

 

「捕まえたわ、お嬢ちゃん」

 

分隊長は、イリスの小さな身体を右腕で羽交い絞めにし、狙撃班に合図を送る。

 

「まずは一人!」

 

青い軌跡を描いた鎮静弾が、的確にイリスの肩に命中する。

 

彼女は小さく悲鳴を上げると、その場で意識を失った。

 

「「イリスお姉ちゃん!」」

 

イリスが倒れたのを見て、双子の無邪気な声色が、怒りと悲しみに染まる。

 

それまで無軌道に破壊を振りまいていた瓦礫の竜巻が、明確な殺意をもって分隊長ただ一人に牙を剥いた。

 

「お遊びは終わりよ、おチビちゃんたち」

 

分隊長は、意識を失ったイリスの身体を部下の一人に投げ渡すと、自ら竜巻の中心へと飛び込んでいく。

 

鋭い鉄片やコンクリートの塊が、彼の身体を容赦なく襲うが、その悉くを最小限の動きで弾き、あるいは受け流していく。

 

「「死んじゃえ!」」

 

双子の悲痛な叫びと共に、竜巻の勢いがさらに増す。

 

だが、その時すでに、分隊長は二人の目の前に立っていた。

 

「残念だけど、タイムアップよ」

 

狙撃班の銃口が、無防備になった二人に向けられる。

 

数発の鎮静弾が撃ち込まれ、ルカとルナもまた、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

 

リアムは、その一連の光景を、もはや穏やかな笑みを浮かべることなく、冷徹な分析の目で見つめていた。

 

(…鎮静弾だと?あの薬液に対する中和剤を、こうも的確に…?エイゼンの奴、私の研究データをどこまで把握している…?それに、あの分隊長、あれほどの戦闘能力を持つ者が、なぜ今まで表に出てこなかった?何者だ、あいつは…)

 

リアムは、今回の作戦が完全に失敗に終わったことを悟った。

 

だが、その表情に憎悪や焦りの色はない。

 

(奴らの動きを見るに、やはり陽動か。そうでなければ都合よく鎮静弾など持ち合わせていないだろう。M-07の手掛かりは最初からここにはなかったのだな)

 

リアムは冷静に思考を切り替え、その場からの離脱を最優先事項とした。

 

(まあいい。暴走時の貴重な戦闘データは取れた。エイゼンの手駒の戦力も把握できた。収穫はあったと考えるべきだな)

 

子供たちを無力化した分隊長が、ゆっくりとリアムへと歩み寄る。

 

その左腕からは血が流れ落ちているが、彼の表情は余裕綽々といった様子だった。

 

「あら、あなたで最後ね」

 

分隊長は、特殊警棒の先端に付着した血を軽く振り払うと、リアムに向かって妖艶に微笑んだ。

 

リアムは、その嘲笑にも動じず、静かに、しかし乾いた拍手を送った。

 

「ははは…見事だよ。完敗だ。君のような素晴らしい兵士がエイゼンの下にいたとはね。驚いたよ」

 

「褒めても拳しかでないわよ。降参する気になったかしら?」

 

分隊長は、リアムの言葉を軽くいなす。

 

「ああ、今回は素直に引かせてもらおうかな」

 

リアムはそう言うと、耳元の極小通信機に触れた。

 

「…こちらリアム。指定座標まで、迎えに来てくれ」

 

『…了解しました』

 

部下からの、短い応答があった。

 

その様子を見て、分隊長はさらに嘲るように言った。

 

「あらあら、可哀想に。大事な『ご家族』なんでしょ?自分だけさっさと逃げる準備して、この子たちは置いていくのかしら?」

 

「まさか。もちろん連れて帰るとも。この子たちは、私にとって何よりも大切な『家族』だからね。君たちの主任にも、よろしく伝えておいてくれ。今日のデータは、有意義だった、と」

 

「あら、潔いのかと思えば、やっぱりただの外道じゃないの」

 

分隊長は、リアムの言葉に心底うんざりしたようにため息をつく。

 

「まあいいわ。その子たちを回収するつもりなかったし。でも…アンタみたいな害虫は、ここで駆除した方が世のためだと思うのよねぇ」

 

分隊長はそう言うと、顎でくいと部下たちに合図を送る。

 

即座に、周囲の兵士たちが一斉にリアムへと銃口を向けた。

 

その、殺意に満ちた光景を前にしても、リアムは少しも動じなかった。

 

それどころか、彼は楽しそうに口元に笑みを浮かべた。

 

「いいのかい?君たちが私を攻撃するということは、主任が私を攻撃することと同義。加えて、君たちに私を排除する権限があるのかい?彼の失脚の理由が増えることになると思うが」

 

「面白いことを言うのね。先に作戦を邪魔してきたのはあなたでしょうに。まぁでもあなたの言う通りね。残念だけどアタシの部下はあなたみたいな研究員様を撃つ権限はないわ」

 

分隊長自身が、楽しそうに警棒を構え直す。

 

「でも、アタシは別よ」

 

その言葉と共に、分隊長は一瞬でリアムとの間合いを詰めた。

 

その動きは、先ほど暴走した子供たちを制圧した時と同じ、人間離れした速度だった。

 

警棒がリアムの喉元を狙って鋭く突き出される。

 

だが、その切っ先がリアムに届く寸前、彼の白衣の襟元に付けられた小さなブローチが淡い光を放った。

 

「…おっと、危ないね」

 

リアムがそう呟くと同時、彼の周囲に目に見えないエネルギーの壁が展開される。

 

分隊長の警棒は、まるで透明なガラスに阻まれたかのように、甲高い音を立てて弾かれた。

 

「ふーん」

 

分隊長は、その光景にも大して驚いた様子を見せず、弾かれた勢いを利用して華麗に後方へ跳躍すると、ただ感心したように呟いた。

 

「自分の身を守る対策は、ちゃんと持ってるってワケね。さすが、ただの研究員じゃないわ」

 

その時だった。

 

上空から、ステルス機能を持つ小型輸送機の微かな駆動音が聞こえ始める。

 

「さて、迎えが来たようだ。茶番は終わりだね」

 

リアムは、まるで舞台役者のように優雅に一礼すると、分隊長に背を向けてその場を離れていく。

 

そして、リアムは、崩れ落ちた子供たちを一瞥すると、唯一立っているノエルへと視線を移した。

 

その瞳には、何の感情も浮かんでいない。

 

「…ノエル。君は、なぜ使わなかった?」

 

その冷たい問いに、ノエルの身体がびくりと震える。

 

仲間たちが苦しみ、倒れていく中、リアムはただ端末を眺め、何かを記録しているだけだった。

 

心配する素振りも、助けようとする気配もない。

 

その姿は、ノエルがずっと信じてきた「優しい先生」ではなかった。

 

(…また、だ…)

 

ノエルの脳裏に、廃工場の光景が蘇る。

 

メグが残した、苦しくて、悲しくて、でも温かい『音』。

 

それを、先生は悲劇の物語だけに塗り替えてしまった。

 

あの時感じた、僅かな違和感。

 

そして今、目の前で仲間たちが苦しんでいるのに、先生はただ冷静にデータを取っている。

 

「あの…先生…みんなの『音』が、すごく苦しそうだったから…だから、わたし…」

 

ノエルは、必死に弁明しようとする。

 

すると、リアムはふっと表情を和らげ、いつもの優しい声で言った。

 

「そうか。…君のその優しさは、時に弱さにもなるけれど、何よりも尊いものだ。私は、そんな君の判断を尊重するよ」

 

リアムは、ノエルの頭を優しく撫でた。

 

その声も、仕草も、ノエルが知っている「優しい先生」そのものだった。

 

だが、ノエルの心には、以前のような温かい感情は生まれなかった。

 

優しい言葉。優しい仕草。

 

でも、仲間たちが苦しんでいる時、先生はただデータを取っていた。

 

あの注射器を使うことを、躊躇いもしなかった。

 

その矛盾が、ノエルの心を掻き乱す。

 

どっちが本当の先生なの?

 

私が信じてきた優しい先生?

 

それとも、仲間を道具のように扱う、冷たい研究者…?

 

(…わからない…)

 

リアムに向けられていた絶対的な信頼に、音もなくひびが入っていくようだった。

 

***

 

夕暮れの光が、荒野を茜色に染めていた。

 

雅との訓練を終えたメグは、ズキズキと痛む頭を押さえながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

エーテルを直接制御しようとする試みは、たとえ、雅のアシストがあったとしても、脳に直接ナイフを突き立てられるような激しい負荷を伴っていた。

 

「…うぅ…頭痛い…」

 

「ピュイ…」

 

シロが心配そうにメグの足元にすり寄る。

 

「大丈夫だよ、シロ。…雅さんも、ありがとう。今日はもう、休もうかな」

 

メグが雅に向かって微笑みかけると、雅は無言でこくりと頷いた。

 

日が落ち、夜の闇が迫っている。

 

診療所に戻ろう。

 

そう思った、その時。

 

荒野の暗がりから、カツ、カツ、と規則正しい足音が聞こえてくる。

 

一人だ。その足音は、迷いなくまっすぐにこちらへ向かってきていた。

 

メグとシロの身体に、瞬時に緊張が走る。

 

その気配を察した雅も、抜き身ではないものの、腰の刀にそっと手を添えた。

 

闇から現れたのは、長身痩躯の男だった。

 

月明かりに照らされたその顔を見て、メグは息を呑んだ。

 

間違いない。以前、自分を『ゴースト』と呼び、執拗に追い詰めてきた、あの腕利きの賞金稼ぎ。

 

「よう。また会ったな、『ゴースト』ちゃん」

 

男…ヴォルフは、以前と変わらない、どこか人を食ったような笑みを浮かべて言った。

 

メグは、一歩後ずさりながら、震える声で答える。

 

「…また、私を捕まえに来たんだ」

 

「まあ、そう警戒すんなよ。気持ちは分かるがな」

 

ヴォルフはやれやれといった様子で両手を広げ、敵意がないことを示す。

 

「今回は、ちと依頼内容に変更があってな。捕まえに来たわけじゃないんだ」

 

メグは、彼の言葉を信じることができず、ただ黙って彼を睨みつける。

 

ヴォルフは、その真っ直ぐな不信の眼差しに、困ったように頭を掻いた。

 

(…まあ、そうなるわな。エイゼンの野郎からは『アシストに回れ』なんて言われたが、ついこの前まで追い回してた相手に『今日からお前を護衛する』なんて言って、信じるわけがねえ)

 

ヴォルフは、どう説明したものかと内心で舌打ちする。

 

一番手っ取り早いのは、依頼内容を正直に話すことだ。

 

だが、それは最も信憑性がない。

 

(…仕方ねえ。少し、話を合わせるか。『護衛』じゃなくて、もっとプロっぽい、それらしい理由…そうだ、『観察』なら、まだ信じるかもしれねえ)

 

「…信じられねえのも無理はねえか。まあ、聞けよ。単刀直入に言うと、前回の仕事で、俺はあんたを追い詰めすぎた。おかげでクライアントの旦那をえらく怒らせちまってな。『次にあの娘に傷一つでもつけたら殺す』だとよ。で、今回の新しい依頼は、あんたの『確保』じゃなくて、『観察』だ」

 

「観察…?」

 

「ああ。だが、あんたのことだ。こそこそ嗅ぎまわってても、どうせすぐに気づくだろ?だったら、最初から正直に話した方が、お互いのためかと思ってな」

 

ヴォルフは、そう言って肩をすくめてみせた。

 

そのあまりにもざっくばらんな物言いに、メグは逆に警戒を強める。

 

「…ただ見てるだけってこと?」

 

「まあ、そういうこった。あんたが何をしてるか、どこへ行くか、危険な目にあってないか…。そういうのを見守るのが、今回の俺の仕事だ」

 

「見守る…?あなたが?」

 

メグの視線が、あからさまな不信感を物語っている。

 

ヴォルフは居心地悪そうに鼻の頭を掻いた。

 

「依頼だからな。俺もプロだ。クライアントの言うことは絶対だ」

 

「そのクライアントって、私のことすごく詳しいんだね。どうして私がここにいるって分かったの?」

 

「さあな。そこまでは知らねえ。俺はただ、指定された座標に来て、あんたを見つけ出しただけだ」

 

「ふーん…。私のことを見張ってて、でも手は出すな、と。それで、何かあったらその人に報告するの?」

 

「そういうこった」

 

ヴォルフがこともなげに頷くと、メグは心底呆れたように、そして少し軽蔑したように、ため息をついた。

 

「…あなたの依頼人って、ストーカーみたいだね」

 

その一言に、ヴォルフの顔から血の気が引いた。

 

さっきまでの人を食ったような笑みが凍りつき、まるで致命的な失言をしてしまったかのように、その表情が硬直する。

 

「す、ストーカー!?いや、待て、それは違う!断じて違う!」

 

(やっべえ…!何言ってんだこの嬢ちゃんは!あいつに、俺が『クライアントはストーカーだ』なんて誤解を植え付けたって知られたら…!依頼関係なく、マジで、物理的に、消される…!)

 

ヴォルフの脳裏に、エイゼンの執着に満ちた声が蘇り、背筋に冷たい汗が流れる。

 

「旦那はそんな、プライベートに踏み込むような男じゃねえ!もっとこう、理知的っつーか、研究熱心っつーか…!とにかく、そういうんじゃない!」

 

「でも、私のことを見張っててって…」

 

「そ、それはあくまで研究対象としてだな!決して個人的な感情では…!」

 

「じゃあ、なんで?」

 

メグの純粋な問いが、ヴォルフの弁解の余地を完全に塞ぐ。

 

パニックになった彼の思考回路が、最悪の逃げ道を選択した。

 

「ああ、もう!だから、旦那じゃねえ!むしろ、俺だ!そう、俺があんたに個人的に興味があって、観察したかったんだよ!」

 

ヴォルフは、自らが何を口走ったのかを理解した瞬間、頭を抱えたくなった。

 

その必死すぎるフォローは、火に油を注ぐ最悪の一手だった。

 

メグは、さっと顔を青ざめさせると、さらに一歩、また一歩と後ずさり、ヴォルフから距離を取る。

 

その瞳に浮かんでいるのは、もはや賞金稼ぎへの警戒心ではない。

 

心底気味の悪いものを見る、侮蔑と嫌悪の色だった。

 

「そ、そうなんだ…。そういえば、あの時…私の隠れ家の場所、正確に知ってたよね」

 

「それは基本だ!プロならターゲットの巣くらい把握しとかねえとな!」

 

「じゃあ、私がどのホロウによく出入りしてたかとか、どれくらいの時間で戻ってくるかとかも?」

 

「ターゲットの行動範囲と周期を読むのは索敵の基本だろ!」

 

「シロと一緒に戦闘訓練してた場所まで知ってたのは?」

 

「敵の能力を事前に把握するのは賞金稼ぎの常識だろうが!」

 

「私が寝るとき、絶対うつ伏せじゃないと眠れないのは?」

 

「ターゲットの睡眠の質を把握するのもプロの仕事で…って、いや待て!なんで俺がそんなこと知ってんだよ!寝てるとこまで見てるわけねえだろ!お前に気づかれちまうだろうが!」

 

「じゃあ、私が濡れタオルで身体を拭く時にいつも鼻歌で歌ってる、あの変な歌のタイトルは?」

 

「だから知るかぁ!俺はそこまで覗く趣味はねえぞ!って、そうじゃねえ!誤解だ!ただの行動分析だって言ってんだろ!」

 

しどろもどろに弁解を重ね、最後には自分でも何を言っているのか分からなくなったヴォルフの姿を見て、メグの中で張り詰めていた緊張の糸が、ふっと切れた。

 

「…ふっ…あはは!」

 

思わず、笑い声が漏れた。

 

それは、くすくすという小さな笑いではなく、堰を切ったような、心からの大笑いだった。

 

そのあまりにも場違いな反応に、ヴォルフは呆気に取られて固まる。

 

「な、何がおかしい…!」

 

「だ、だって…!あはは!あなた、そんな人だったっけ…?もっと、怖くて、冷酷な人だと思ってたのに…!」

 

メグは、お腹を抱えて笑い転げる。

 

恐怖と緊張で張り詰めていた心が、彼のあまりにも人間臭い狼狽ぶりで、一気に解きほぐされてしまったのだ。

 

ひとしきり笑うと、メグは涙の滲んだ目でヴォルフを見つめた。

 

(変な人…。でも…)

 

メグは冷静に状況を分析する。

 

以前戦った時、彼はワイヤーアンカーでこちらの逃げ道を塞ぎ、他の賞金稼ぎを駒として使い、自分の姿を必要以上には晒さなかった。

 

もし本気で自分を捕まえるつもりなら、今度もそうするはずだ。

 

こんな風に、たった一人で、正面から姿を現すなんて、あまりにも非効率的で、彼らしくない。

 

「…本気で捕まえるつもりなら、もっとやりようがあったはず。人をたくさん雇ってくるとかさ。でもそうしなかった。…依頼人が怒って、任務が『観察』に変わったっていう話、信じるよ」

 

メグはそう言うと、小さく頭を下げた。

 

「…ストーカーなんて言って、ごめんね」

 

「…お、おう…」

 

ヴォルフは、完全に調子を崩された様子で、曖昧に頷く。

 

「…だがな、嬢ちゃん。あんまり人を簡単に信じねえ方がいい。俺みたいなのが、一番危ねえんだぜ」

 

「警戒されたくない人は、警戒しろなんて言わないよ」

 

メグの真っ直ぐな言葉に、ヴォルフは再び言葉を失う。

 

「それで、これからどうするの?ずっとここで私を見張ってるの?」

 

「まあ、そういうことになるな。お前の生活の邪魔にならんよう、少し離れたところから…」

 

「それじゃあ、やっぱりストーカーみたいじゃん」

 

メグはくすくすと笑いながら、診療所を指差した。

 

「部屋、いっぱい余ってるし、あなたも使っていいよ。その方が、お互い楽でしょ?」

 

その、あまりにも無防備な提案に、今度はヴォルフの眉間に深いシワが刻まれた。

 

「おいおい、本気で言ってんのか、嬢ちゃん…」

 

ヴォルフは呆れて言葉を失う。

 

彼はちらりと、メグの背後で静かに佇む雅に視線をやった。

 

(…あれが、あいつの言っていた『ドッペルゲンガー』か。あの姿…『虚狩り』の星見雅を模倣しているのか?とんでもねえ護衛がついたもんだな)

 

確かに、あの女がいれば、並大抵の敵は寄せ付けないだろう。だが、それでもだ。

 

(俺は賞金稼ぎだぞ…?この前まで自分を追い回してた男だ。それを、縄張りに招き入れるなんて、正気か?)

 

この少女は、自分がどれだけ危険な世界で生きているのか、全く理解していない。

 

その無防備さが、いつか彼女の命取りになる。

 

エイゼンが躍起になって守ろうとする理由も、少しだけ分かった気がした。

 

「…嬢ちゃん、世の中にはな、あんたが思ってるよりも、ずっと悪い奴らがいるんだよ」

 

「うん。知ってるよ」

 

「口先だけだろ。この前まであんたを追い詰めてた俺を目の前にして、よくそんなことが言えるな」

 

「だって、あなたはもう私を捕まえに来たんじゃないんでしょ?それに、私を傷つけたら、依頼人に殺されるって言ってたし」

 

「それはそれ、これはこれだ!もしクライアントが『殺せ』って言ったら、俺は躊躇なくあんたを殺す。それが賞金稼ぎだ。そんな奴を、安々と自分のテリトリーに入れるべきじゃねえ」

 

「でも、今は違うんでしょ?」

 

メグは、こてんと首を傾げた。そのあまりにも純粋な瞳に、ヴォルフはぐっと言葉を詰まらせる。

 

「分かってねえな!だからこう言ってるんだろうが!」

 

ヴォルフは、思わず声を荒げた。

 

このままではダメだ。

 

言葉だけでは、この少女には何も伝わらない。

 

ならば、身体で教えるしかない。

 

プロの「狩り」が、どれほど速く、無慈悲であるかを。

 

ヴォルフは、彼女に灸を据える必要があると感じた。

 

彼は、瞬時に腰のホルスターからワイヤー射出機を抜き放つと、メグの足元めがけて、ワイヤーアンカーを射出した。

 

本気で傷つけるつもりはない。

 

ただ、反応すらできない速度で、彼女の自由を奪ってみせる。

 

それだけで、十分な脅しになるはずだった。

 

「少しは痛い目見ねえと分からねえようだな!」

 

だが、そのアンカーがメグの足元に突き刺さることはなかった。

 

ヴォルフがワイヤーを射出した瞬間、メグの背後にいたはずの雅の姿が、ふっと掻き消える。

 

直後、メグの足元でキィン!という甲高い金属音が響き、射出されたワイヤーアンカーが真っ二つになって地面に転がった。

 

ヴォルフがその神業に目を見張る暇もなかった。

 

突如、目の前に現れた影。

 

気づいた時には、冷たい鋼の感触が、彼の喉元に突きつけられていた。

 

雅が、音もなくヴォルフの間合いに踏み込み、その刃を寸分の狂いもなく彼の頸動脈に添えていたのだ。

 

メグは、自分の足元でワイヤーが切断されたことに驚き、顔を上げた。

 

そして、少し離れた場所に立つヴォルフの喉元に、雅の刀が突きつけられているのを見て、血の気が引いた。

 

「…雅さん、ストップ!」

 

メグの切羽詰まった声が響く。

 

雅の動きが、ぴたりと止まった。

 

ヴォルフの喉元に当てられた刀の切っ先が、ほんの数ミリだけ食い込み、首筋に一本の赤い線を描く。

 

そこから、一筋の血がゆっくりと流れ落ちた。

 

もし、メグの声があと一瞬でも遅れていたら、自分の首は胴体から離れていたであろうことを、ヴォルフは肌で理解した。

 

冷たい汗が、背中を滝のように伝う。

 

「…大丈夫?切られてない?」

 

メグが、心配そうにヴォルフの顔を覗き込むと、彼の首筋から流れる一筋の血に気づき、はっと息を呑んだ。

 

「あ…血が出てる…!」

 

「…ああ、かすり傷だ。問題ねえよ」

 

ヴォルフはぶっきらぼうに答える。

 

「…悪かったな、急に。だがな、嬢ちゃん。やっぱ安易に自分のテリトリーに知らねえヤツを入れるのは、やめた方がいい。たとえ、そこの嬢ちゃんみたいな、とんでもねえ護衛がいたとしてもな」

 

「うん、分かってるよ。でも、あなたなら、大丈夫だと思ったから」

 

その、あまりにも真っ直ぐな信頼の言葉に、ヴォルフは、もう何も言えなかった。

 

(…くそ、調子が狂うな)

 

彼は大きくため息をつくと、がしがしと頭を掻いた。

 

「…はぁー…。分かったよ。嬢ちゃんの言う通りだ。だったら、厄介になるぜ。その方が、俺も依頼を遂行しやすいしな」

 

ヴォルフは、差し出されたメグの小さな手を、少しだけ躊躇ってから、固く握り返した。

 

「私はメグ。あなたは?」

 

「…ヴォルフだ」

 

こうして、少女と、かつて彼女を狩るはずだった賞金稼ぎの、奇妙な共同生活が始まった。

 

***

 

診療所に戻ると、メグは棚から救急箱を取り出した。

 

「じっとしてて」

 

「あ?何すんだ」

 

メグは、ヴォルフの返事も聞かずに、彼の首筋にそっと濡れたガーゼを当てた。

 

雅の刀で切れた、細い一筋の傷から、まだ血が滲んでいる。

 

「…チッ、こんなもん、唾つけときゃ治る」

 

ヴォルフはぶっきらぼうに言うが、メグは構わず消毒液を染み込ませた脱脂綿で傷口を優しく叩いた。

 

「しみるよ」

 

「…っ!…だから、いらねえって言ったんだ…」

 

ヴォルフは顔をしかめるが、されるがままだ。

 

メグは、その傷をじっと見つめながら、救急箱をごそごそと漁る。

 

「よし、できた」

 

メグは満足そうに頷くと、ヴォルフの首筋に何かをぴたりと貼り付けた。

 

それは、シロをデフォルメしたような、なんとも気の抜けるイラストが描かれた絆創膏だった。

 

ヴォルフは、自分の首に貼られたそれに気づき、絶句する。

 

「…おい。なんだこりゃ」

 

「絆創膏だけど?」

 

メグがきょとんとした顔で答える。

 

「そうじゃねえ!この絵だよ、絵!ふざけてんのか!?」

 

「えー、かわいいでしょ?これしか綺麗なのがなかったんだもん」

 

「かわいくねえ!俺は賞金稼ぎのヴォルフだぞ!こんなもん貼ってられるか!」

 

ヴォルフは絆創膏を剥がそうとするが、メグは真剣な顔でその手を止めた。

 

「ダメだよ。傷口が開いちゃう。ちゃんと貼っとかないと」

 

その、純粋に心配する瞳に、ヴォルフはぐっと言葉を詰らせる。

 

「…くそ…。分かったよ…貼っときゃいいんだろ、貼っときゃ…」

 

ヴォルフは、そっぽを向きながら悪態をついた。

 

その様子を見て、メグは堪えきれずにくすくすと笑った。

 

その笑顔は、彼が賞金首として追っていた『ゴースト』の時には、決して見ることのできなかった、年相応の少女の顔だった。

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