余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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24. 守りたいもののために

女性研究員――リオンに背中を押されるがまま、ノエルは無機質な廊下を歩いていた。

 

リアム先生の研究所とは明らかに違う、冷たく、そして機能性だけを追求したような空間。

 

壁には無数のケーブルが這い、時折、唸りのような機械の稼働音が響いている。

 

さっきまでの恐怖と、偽物の爆発だと分かっていてもこびりつく血の匂いで、頭がくらくらした。

 

「…あの」

 

震える声で、隣を歩くリオンに話しかける。

 

彼女は「んー?」と気のない返事をしながら、通路の先をひょいと覗き込んだ。

 

「どうして…私を助けてくれたんですか?」

 

罠かもしれない。この人も、先生と同じように、自分を利用しようとしているだけかもしれない。

 

でも、聞かずにはいられなかった。

 

リオンは足を止めると、不思議そうな顔でノエルを見下ろした。

 

「そら、ちっこい子が大人に追い回されとったら、助けるやろ、普通」

 

その言葉の「音」は、あまりにも真っすぐで、ノエルは思わず目を見開く。

 

嘘じゃない。

 

この人は、本当にただそれだけの理由で、危険を冒してくれたんだ。

 

「…まあ」と、リオンは少しバツが悪そうに頭を掻いた。

 

「ただの善意100%ちゅーわけでもないんやけどな。ちょっとした目的もあったっちゅーか」

 

「目的…?」

 

「そ!アンタらを追いかけとった子供ら、なんか変な能力もっとるやろ?ウチの作った発明が、どこまで通用するんか、試してみたかったんよ。結果は見ての通り、大成功やったけどな!」

 

リオンは、ニッと悪戯っぽく笑う。

 

その言葉にも、やっぱり嘘の音は混じっていなかった。

 

子供だから助けたのも、自分の発明品を試したかったのも、全部本当のことなんだ。

 

「せやから、おチビちゃんは気にせんでええ。感謝もいらん。ウチは自分のやりたいことやっただけやから」

 

「…でも」

 

ノエルは、俯きかけた顔を上げた。

 

「ありがとうございました」

 

目的があったとしても、この人に助けられたのは事実だ。

 

そうでなければ、今頃先生に捕まって、もっと怖いことになっていたかもしれない。

 

「…ふはっ!まあ、お礼は受け取っといたるわ!」

 

リオンは一瞬きょとんとした後、満面の笑みでノエルの頭をわしわしと撫でた。

 

その手は少しだけ火薬の匂いがしたけれど、とても温かかった。

 

そんなやり取りをしているうちに、一つの重厚な扉の前にたどり着く。

 

「ほい、着いたで。ここがあの鉄仮面の仕事場や」

 

リオンは、まるで友達の部屋を訪ねるかのように、気安く認証パネルに手をかざした。

 

電子ロックの解除音と共に、重い扉が静かに開く。

 

部屋の中は、リアム先生の洗練された研究室とは対照的に、雑然としていた。

 

壁一面に広がる巨大なモニターには、意味不明な数式や設計図が絶えず流れ、デスクの上には分解された機械部品や、おびただしい数の資料が山積みになっている。

 

その中心に、一人の男が背を向けて座っていた。

 

「エイゼーン!お客さん連れてきたでー!」

 

リオンの呼びかけに、男がゆっくりと椅子を回転させる。

 

白衣を着た、鋭い目つきの男。

 

表情筋が死んでいるかのように、その顔には一切の感情が浮かんでいない。

 

彼が、エイゼン。

 

ノエルは、その鉄仮面のような無表情に、リアム先生とは質の違う、底知れない恐怖を感じた。

 

「…リオンか。お前が厄介事を持ち込む時は、大抵ろくなことにならん」

 

エイゼンは、ノエルを一瞥すると、心底面倒くさそうに呟いた。

 

その声は、低く、感情の起伏が全く感じられない。

 

「ひっどい言われようですなあ!まあ、今回は大当たりですわ。ほら、このおチビちゃん、追われてるとこをウチが助けたったんですわ」

 

リオンはエイゼンの冷たい態度を全く意に介せず、ノエルの背中をポンと押してエイゼンの前に突き出した。

 

「お前のその態度、子供がビビるからやめときーな」

 

リオンはそう言って、ノエルの肩にそっと手を置いた。

 

エイゼンは、その言葉を無視して、視線をノエルに固定する。

 

「…リアムの実験体か。なぜここに?」

 

「そら、この子に聞かな分からんやろ。こういうごちゃごちゃしたことの処理、アンタ得意やんか」

 

リオンに促され、ノエルは震えながらも、自分が聞いたこと、見てきたことの全てを話した。

 

リアム先生の裏切り、長官との会話、そしてメグの身に迫る危険。

 

エイゼンは、腕を組んだまま、ただ黙ってその話を聞いていた。

 

全てを話し終え、ノエルは息を飲んだ。

 

リアムがメグを「サクリファイスを安定して量産するための、最高の素材」と呼んでいたことまで、ありのままに伝えた。

 

その瞬間、部屋の空気が、まるで凍てついたかのように、ずしりと重くなった。

 

エイゼンの表情は変わらない。

 

だが、ぴりぴりとした圧力が、無表情な彼から静かに放たれ、ノエルの肌を刺す。

 

ノエルは、理由の分からない恐怖に、知らず知らずのうちに体を震わせた。

 

長い沈黙の後、エイゼンはゆっくりとノエルに視線を戻す。

 

その瞳に映るのは、憐憫でも同情でもなく、ただ現象を分析するかのような、冷え切った色だった。

 

「話はそれだけか?」

 

あまりにも突き放した短い問いに、ノエルは息を詰らせる。

 

そんな彼女の反応など待たず、エイゼンは温度のない言葉を続けた。

 

「結論から言おう。お前も、メグも、私の知ったことではない」

 

その言葉に続けて、エイゼンはリオンに視線を移した。

 

「そいつを連れて行け。ここは長居していい場所ではない」

 

あまりにも無慈悲な、追い払うかのような言葉。

 

優しさも同情も一切含まない、最後の希望を打ち砕く一言だった。

 

信じていた人に裏切られ、仲間にも信じてもらえず、必死の思いでたどり着いた場所からの、完全な拒絶。

 

瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 

「こら、エイゼン!あんたなあ…!」

 

リオンが、怒りの声を上げようとした、その時だった。

 

エイゼンは、ノエルの涙にも、リオンの抗議にも一切頓着せず、事務的に言葉を続けた。

 

「この部屋は人の出入りが多い。早くしろ」

 

「…は?」

 

リオンの動きが止まる。

 

ノエルも、しゃくりあげながら顔を上げた。

 

今、この人は、何て…?

 

「ほんま、言葉が足らんねん、アンタは!つまり場所を移して、この子を匿えっちゅーことやろ!」

 

エイゼンが何を言いたかったか理解したリオンが、呆れたように、しかしどこか楽しそうに笑う。

 

エイゼンは、さらに言葉を重ねる。

 

「リアムの知覚から完全に消せ。奴の実験体でも見破れないレベルでな」

 

淡々とした、しかし有無を言わさぬ命令。それは、リオンへ向けたある種の信頼を示す言葉でもあった。

 

「はいはい、お安い御用やで!アンタが前にくれたデータで作った発明品のおかげで、ここまで連れてくるのも楽勝やったしな。この子を完全に『消す』準備も万端や!」

 

リオンは自信満々に胸を叩くと、エイゼンの無茶振りに応えるように、悪戯っぽくニヤリと笑った。

 

「よし、まず顔やな!これはもう仮面で完全に隠すしかないやろ!声も変声チョーカーで別人みたいにして…と。体格は、フード付きの黒いローブで全身を覆うんはどうやろ…。いや、ローブだけやと、体の小ささでバレてまうか。…せや!そのローブの中でパワードスーツでも着せて、ガタイをごまかすか!これなら完璧やん!」

 

彼女のアイデアは止まらない。

 

「ついでに見た目だけの手枷とか足枷もつけといたろか!『ヤバすぎて厳重管理されとる実験体』っちゅー演出や。誰も迂闊に手出しせんやろ!ローブの裾とか仮面の端っこに、わざと血糊つけとくのもええな!もっとヤバさが増すやろ!」

 

呆然としながら、ノエルは二人のやり取りを見つめる。

 

追い出されるんじゃ…なかったの…?『知ったことではない』って、そう言ったのに…。

 

その時、ノエルははっと気づいた。

 

エイゼンの声の「音」を、もう一度注意深く聞いてみる。

 

嘘の音は、全く聞こえない。そこにあるのは、感情を排した、どこまでも平坦な冷たい音。

 

けれど、その冷たさの中には、不思議と嫌悪や侮蔑といった、心を刺すような棘は感じられなかった。

 

「よっしゃ、テンション上がってきたわ!ほな、おチビちゃん、こっちや!ウチのガラクタ置き場とはちゃう、とっておきの隠れ家に案内したる!」

 

リオンはノエルの手を引こうとして、ふと動きを止め、部屋の主に振り返る。

 

エイゼンは既にモニターの光の中に意識を沈めていた。

 

「なあ、エイゼン。アンタ、さっきの話どないすんの?あのイケメンの件もやけど…アンタが気にしてんのは、メグちゃんの方やろ」

 

リオンの言葉には、ただの確認ではない、何かを知る者だけが持つ確信のような響きがあった。

 

エイゼンは振り返らない。モニターに視線を固定したまま、静かに答える。

 

「…やるべきことをやるだけだ」

 

「ほんまに愛想のないやっちゃな。まあ、その言葉が聞けただけで十分や」

 

リオンは肩をすくめると、今度こそノエルの手をしっかりと握った。

 

「ほな、行こか!」

 

---

 

リオンはノエルを連れ、リアムたちと会った区画とは別の場所へと向かった。

 

ノエルが最初に隠れていたガラクタ置き場のような研究室を通り過ぎ、さらに奥へ。

 

たどり着いたのは、リオンの私室と思われる部屋の、一見するとただの壁にしか見えない場所だった。

 

リオンが壁の一部に特殊な操作をすると、音もなくスライドし、隠し部屋への入り口が現れた。

 

「どうやった、エイゼンは?」

 

隠し部屋のベッドにノエルを座らせながら、リオンが尋ねる。

 

「…怖い人かと思ったけど…よく、分かりません」

 

それが、ノエルの正直な気持ちだった。

 

リオンは、その答えを聞いて、満足そうに笑った。

 

「せやろ?口は悪いし、態度はもっと悪いし、愛想は最悪や。でも、根は悪いヤツやない。アイツはただ、口やのうて、行動で示すだけやねん」

 

「エイゼンさんは、いつもあんな感じなんですか…?」

 

ノエルは、おずおずと尋ねた。

 

先生の偽りの優しさとは違う、エイゼンの感情の読めない冷たさが、まだ心のどこかに引っかかっていた。

 

「んー?せやな、昔っからああやな。笑ったとこも見たことないわ」

 

リオンはあっけらかんと言い放つと、ふと思い出したように言葉を続けた。

 

「…あー、でも、メグちゃんと一緒におった時は、別やったかな。前の研究所におった頃やけど…あの頃は、今よりはなんぼかマシな顔しとったわ」

 

リオンはそこで一度言葉を切り、ノエルの目を真っ直ぐに見つめた。

 

「せやけど、アイツは嘘はつかへん。言ったことは絶対にやるし、やるべきことからは絶対に逃げへん。ただ、めちゃくちゃ不器用で、言葉が足らんだけや」

 

リオンの言葉を聞きながら、ノエルはリアムのことを思い出す。

 

いつも優しくて、いつも笑顔で、いつも甘い言葉をかけてくれた。

 

でも、今になってみれば、その言葉の裏にある「音」が、本当はずっと冷たくて、嘘にまみれていたことに気づいてしまう。

 

それに対して、エイゼンは笑わない。

 

優しい言葉もかけてくれない。彼の言葉はナイフのように冷たくて、心を突き刺す。

 

彼の「音」に嘘はなかったけれど、それでもあの人を信じていいのか、ノエルにはまだ分からなかった。

 

でも、リオンの「音」は、真っ直ぐで温かい。

 

この人は、自分を助けてくれた。

 

そんなリオンが、エイゼンのことを「嘘はつかない」と言う。

 

今はまだ、エイゼンという人がどんな人なのか分からない。

 

怖い人だという気持ちも消えない。

 

だけど、自分を救ってくれたこの人の言葉なら、信じてみよう。

 

ノエルは、リオンの温かい手を握り返しながら、そう心に決めた。

 

---

 

深い夜の帷が降りた頃。

 

私は一人、書斎へと足を向けた。

 

大きな窓からは新エリー都の夜景が一望でき、無数の光が瞬く様は、まるで地上に降りた星空のようだった。

 

しかし、その美しい景色に目を向ける余裕は、今の私には全くない。

 

デスクの上には、膨大な資料が山積みになっている。

 

研究所のリスト、人事記録、そして無数のメモ。

 

全ては、一人の研究者――エイゼン・フォークトという男の足跡を辿るためのものだった。

 

私は、椅子に深く腰を下ろすと、目の前のメモに視線を落とした。

 

旧工業地区の隠れ家で見つけた、エイゼンの研究記録――私たちがデータを転送しようとした瞬間、エイゼン自身の手によって完全に消去された、あの記録のこと。

 

タイトルは『エーテル共生理論に関する一考察』。

 

データは失われてしまったけれど、あの時読んだ内容は、私の記憶の中に鮮明に刻まれている。

 

ホロウを巨大な生命体と見立て、エーテリアスを免疫システムとする理論。

 

そして、メグのような『理想的な触媒』があれば、ホロウそのものを支配できるという仮説。

 

私は、あの記録に記されていた内容を頼りに、エイゼン博士の足跡を辿ろうとしていた。

 

その時、書斎のドアが静かに開いた。

 

「お嬢様、まだお休みになられないのですか?」

 

ヴァレリウスだった。

 

彼は、銀色のトレイに乗せた温かいお茶と軽食を運んできてくれた。

 

「ヴァル…ごめんなさい、もう少しだけ」

 

私は申し訳なさそうに微笑むと、トレイを受け取った。

 

「無理はなさらないでください。お嬢様のお体が心配です」

 

ヴァレリウスの声には、いつもの冷静さの中に、わずかな温かさが滲んでいる。

 

「ありがとう。でも、これだけはどうしても調べたいの」

 

私は、メモを指差した。

 

「エイゼン博士…この人が、メグに何をしたのか、それを知りたいの」

 

ヴァレリウスは、私の隣に立つと、メモに目を通した。

 

「あの記録の署名にあった名前ですね…」

 

「ええ。データは消されてしまったけれど、名前だけは確認できた。お父様に頼んで、この名前の研究者について調べてもらったわ」

 

私は、別の資料を広げた。

 

「エイゼン博士は、過去10年の間にいくつもの研究所を転々としているみたいなの」

 

「…研究所を?」

 

「それだけじゃないの、ヴァル」

 

私は、エイゼン博士が過去10年間に所属していた研究所のリストを見せた。

 

「見て。エイゼン博士は、少なくとも5つの異なる研究所を転々としてる」

 

指でリストをなぞりながら、私は声に出して読み上げる。

 

「最初は『エリドゥ先端技術研究所』。次が『ニューエリドゥ総合研究所』。その次が『先端エーテル研究機構』。それから『オーロラ・サイエンス』。最後が『ベリオス医療技術研究所』」

 

「5つも…10年足らずで、ですか」

 

ヴァレリウスの声に、わずかな驚きが混じる。

 

「これは異常です。一般的に、研究者は一つの研究所に長く留まるものです。特にこれだけの論文を書いているような優秀な研究者なら、むしろ引き止められる立場にあるはずですが…」

 

「そうよね。だから、私は思ったの。エイゼン博士は…追い出されていたんじゃないかって」

 

「追い出された…?」

 

「理由は分からないけれど、何度も研究所を転々としてる。それは、決していい形ではなかったんじゃないかって」

 

私は、別の資料――研究所の人事記録を取り出した。

 

「エイゼン博士はどの研究所でも『問題児』として扱われてた。共同研究を拒否し、他の研究員とのコミュニケーションを取らず、上層部の指示を無視することも多かったって」

 

「…なるほど。結果を出せておらず、周囲との関係も悪かったのなら、転々としていた理由にはなりますな」

 

ヴァレリウスが頷く。

 

「私もそう思った。でも、違うみたいだわ」

 

私は、エイゼン博士に関する研究成果の記録を再び指差した。

 

「エイゼン博士の研究は、どれも高い評価を受けてる。これは追い出されたであろう研究所から出しているものよ。特にエーテルとナノマシンに関する研究は、他の追随を許さないレベルだわ」

 

「…評価は高いのに、追い出される。確かに矛盾していますね」

 

ヴァレリウスが、腕を組んで考え込む。

 

「人間関係の問題だけではない、何か別の理由がありそうです」

 

「ええ。だから、もっと詳しく調べようと思って」

 

私は、『ベリオス医療技術研究所』の情報を広げた。

 

「エイゼン博士は、この研究所を最後に…」

 

資料の端に赤いマーカーで引いた部分を見つめる。

 

「…足取りが一切掴めなくなってる」

 

「一切、ですか」

 

ヴァレリウスの声に、緊張が走る。

 

「ええ。学会への参加も、公式な活動記録も、全部途絶えてる。まるで、突然この世界から消えてしまったみたいに」

 

「それはいつからですか?」

 

「約8年前。エイゼン博士がベリオス医療技術研究所を去ったのが、ちょうどそのタイミング」

 

私は、ヴァルが入手してくれた内部資料を手に取った。

 

そこには、エイゼン博士が密かにまとめていた研究記録の断片が記されている。タイトルは『生体適応型ナノマシンの自己修復機構とエーテル依存性』。

 

「この研究記録の内容…本当にすごいわ。ナノマシンがエーテルをエネルギー源として使えるなんて、当時は誰も考えてなかった。でも、エイゼン博士はこれを表には発表しなかった。研究を推し進めることを優先したんだわ」

 

「…だからこそ、危険視されたのかもしれません」

 

ヴァレリウスが、静かに言葉を添える。

 

「そうね。おそらく、この危険な研究内容が原因で、エイゼン博士は研究所を追われた。そして…」

 

私は、資料の山の中から、一枚のメモを取り出した。

 

それは、父から受け取った、極秘情報だ。

 

「…表の世界から姿を消した。どこかの組織に身を寄せたんだと思う」

 

その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が一変した。

 

ヴァレリウスの表情が、一瞬だけ険しくなる。

 

「組織…ですか」

 

「そうよ。お父様の調査でも、最後の研究所を去った約8年前を境に、彼の記録が完全に途絶えているの」

 

私は、メモを握りしめた。

 

「もう表の世界では誰も彼を受け入れなくなった。だから…研究を続けさせてくれる組織に身を寄せたんだと思うわ」

 

「…つまり、エイゼン博士は」

 

「おそらく、研究を続けるために裏の世界に入った。あるいは、どこかの組織に引き抜かれた。どちらにしても、表の世界から姿を消して、彼らの施設で研究を続けてるんだと思うわ」

 

私は、エイゼン博士の研究記録と、メグの身体に残された実験の痕を思い出す。

 

「そして、メグは…その研究の、実験体だったんでしょうね」

 

その結論に至った瞬間、胸が締め付けられるような痛みが走った。

 

メグは、15年間もの間、誰かの実験対象として、監禁され、実験され続けていたのだ。

 

エイゼン博士がその加害者なのか、それともあのリアム自身なのか。

 

まだ確証はないけれど、メグが過酷な実験を受けていたという事実は変わらない。

 

「お嬢様…」

 

ヴァレリウスが、私の肩にそっと手を置く。

 

その手は、冷たいはずなのに、不思議と温かく感じた。

 

「でも、まだ分からないことがあるの」

 

私は、気を取り直し、資料に向き直った。

 

あのホロウの隠し区画で読んだ研究記録を思い出す。

 

「エーテル共生理論」。ホロウを支配するための、恐ろしいほど精緻な理論。

 

そして、メグが『理想的な触媒』である可能性。

 

エイゼン博士は、メグが『理想的な触媒』だから、彼女に実験を施したのよね。

 

でも…それだけなのかしら

 

私は、エイゼンの顔写真――研究所の人事記録から抜き出したものを見つめた。

 

そこには、無表情で、感情の読めない、冷たい目をした男が映っていた。

 

「この人は、メグを苦しめた敵なのか、それとも…メグを守ろうとしている別の何かなのか」

 

その時、書斎のドアが再びノックされた。

 

「ひかり、まだ起きているのか?」

 

父――響の声だった。

 

「お父様…」

 

私は驚いて振り返る。

 

響は、普段着のまま書斎に入ってきた。

 

こんな遅い時間に、父が直接訪ねてくるのは珍しい。

 

「ヴァレリウスから聞いた。エイゼンという研究者について自分なりに深く調べているそうだな」

 

「はい…ごめんなさい、遅くまで起きてて」

 

「謝ることはない。お前の気持ちは分かる」

 

響は、私の隣に座ると、デスクの上の資料に目を通した。

 

「私の情報をもとに、ここまでまとめたのか」

 

「…お父様が調べてくださった情報から、エイゼン博士の行動パターンが見えてきました」

 

「そうか。私も独自に、エイゼンという人物について更に調べてみた」

 

響は、懐から一枚の紙を取り出した。

 

「エイゼンは、確かに優秀だが、同時に『異端』として扱われていた。彼の研究は、常に倫理の境界線上にあり、時にはそれを越えることもあった」

 

「倫理の境界線…」

 

「彼は、人間をホロウ環境に適応させるという、極めて危険な研究に取り憑かれていた。そのためには、人体実験も辞さないという姿勢だった」

 

響の言葉に、私の心は凍りつく。

 

「それだけではない」

 

響は、別の資料を広げた。

 

「エイゼン博士は、複数の研究所で『小さな女の子に対して何らかの実験を行っている』と内部告発を受けていた記録がある。詳細は秘匿されているが、その告発が最後の研究所を追われる直接の原因になったようだ」

 

「小さな女の子に…」

 

私の脳裏に、メグの小さな身体に刻まれていた無数の実験の痕が蘇る。

 

もしかして、その女の子が…メグ?

 

「そして、表の世界で研究を続けられなくなった彼は、その研究を受け入れてくれる組織に身を寄せた。おそらく8年前のことだ。それ以降、彼は完全に裏の世界で研究を続けているようだ」

 

私は、その言葉を噛みしめる。

 

エイゼン博士は、表の世界から完全に追放された。それでも研究を止めなかった。何が彼をそこまで駆り立てるのだろう?

 

響は、少し間を置いてから、静かに続けた。

 

「彼の研究の動機については、興味深い情報があった」

 

「え…?」

 

響は、資料の中から一枚の古い新聞記事を取り出した。

 

「これは、エイゼンがまだ若い研究者だった頃の記事だ。彼は10年前の旧都陥落で、家族を失っている」

 

「家族を…失った?」

 

「ああ。妻と、幼い子供を。その時からエイゼンの研究は、明らかに方向性が変わった」

 

響は、エイゼンの顔写真を見つめた。

 

「『ホロウを支配する』――それがエイゼン博士の研究目的だ。彼は、家族を奪ったホロウに対する復讐のために、狂気的なまでにその研究に没頭するようになったようだ」

 

その言葉に、私の心に何かが引っかかる。

 

「お父様、エイゼンは…メグを守ろうとしてるのでしょうか?それとも…」

 

「分からない。だが、少なくとも、エイゼンにとってメグは単なる実験対象以上の何かである可能性はある」

 

響は、私の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「ひかり、お前は今、エイゼンを敵だと思っているか?」

 

「…分からないです」

 

私は、正直に答えた。

 

「メグを苦しめた張本人かもしれない。でも、同時にメグを守ろうとしてるのかもしれない。矛盾してるけれど…どちらも本当のような気がするのです」

 

「その感覚は、おそらく正しい」

 

響が頷く。

 

「人間は、単純な善悪では割り切れない。エイゼンもまた、そういった複雑な存在なのだろう」

 

私は、エイゼン博士の記録を再び手に取った。

 

「だとしたら、私はエイゼン博士と話をしたい。彼がメグに何をしたのか、そして何を望んでいるのか。それを直接聞きたいわ」

 

「危険です」

 

ヴァレリウスが、即座に反対する。

 

「エイゼン博士が所属している組織は、おそらく秘密裏に活動している集団です。彼らに接触することは、お嬢様の身を危険に晒すことになります」

 

「でも…」

 

「ヴァレリウスの言う通りだ」

 

響も、厳しい表情で私を見る。

 

「だが、ひかりの気持ちも分かる。だから、私が動こう」

 

「お父様…?」

 

「エイゼンと接触する方法を探る。そして、可能であれば、彼と話をする機会を設ける。お前は、その時まで待っていてくれ」

 

響の言葉に、私は少し安心した。

 

父なら、きっと何とかしてくれる。

 

「ありがとうございます、お父様」

 

「礼には及ばない。お前が守りたいと願うメグを、私も守りたいと思っている」

 

響は、優しく微笑むと、立ち上がった。

 

「さあ、今夜はもう休みなさい。明日も長い一日になるだろう」

 

「はい…おやすみなさい、お父様」

 

響とヴァレリウスが部屋を出ていった後、私は一人、窓の外を見つめた。

 

エイゼンという謎の研究者。リアムという不可解な男。

 

そして、誰が敵で誰が味方なのかもわからない、複雑に絡み合った過去。

 

でも、私にとって大切なのは、そんなことじゃない。

 

「メグ…また話を聞かせて。あなたの言葉で」

 

どんなに複雑な真実が待っていても、どんなに危険な道のりでも、私は諦めない。

 

大切な友人のために。

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