余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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3. ホロウのネズミと最初の「奇跡」

脱出から、数週間が経った。

私とクラヴィスの奇妙な共生生活は、いつしか確立されたルーティンとなっていた。

 

昼は、地下鉄駅の奥深く、固く閉ざされた職員用仮眠室で、息を殺して眠る。

そして夜になると、私はクラヴィスの指示で、危険だが実りの多い「狩り場」――低レベルのホロウへと侵入する、一匹の「ネズミ」になるのだ。

 

歪んだネオンの光が、ありえない角度で空間をねじ曲げている。

 

空気は重く、鉄錆と、未知の植物が放つ甘ったるい匂いが混じり合っていた。

 

ホロウ。

 

それは、世界の法則が壊れた場所。

一歩足を踏み入れるだけで、肌がピリピリと粟立ち、鼓膜の奥で低く、不快な音が鳴り続ける。

 

《目標は旧文明の電子基板。この先の空間歪曲の先に、高確率で存在する。エーテル濃度は許容範囲内。ただし、活動限界時間は17分。それを超過すれば、ホストの身体汚染が危険域に達する》

 

「…わかった」

 

私が頷いた直後、右奥の方角から、肌が粟立つような不快な感覚が押し寄せてきた。

 

「…クラヴィス、何か…嫌な感じがする。あっち」

 

《肯定。ホストの脳辺縁系に異常な電気信号を検知。君が『ざわざわする』と表現するエーテリアスの存在反応だ。私にはその反応の強度は分かるが、正確な方向や距離は君の直感による補正が必要だ》

 

私は、自身の「アンテナ」が捉える感覚に意識を集中させる。それは、明確な形のない、ただ魂が拒絶するような感覚だった。

 

施設の実験で無理やりこじ開けられた知覚は、今や生存のための重要なセンサーとなっていた。あの地獄の日々が、皮肉にも今の私を生かしている。

 

「…うん。右の、コンテナの奥。複数いる感じがする」

 

《了解。君の感覚入力を基にルートを再計算。左手の通路へ迂回する。敵性反応との接触を98%回避できる》

 

私は、クラヴィスという完璧なナビゲーターを得て、危険なホロウ内を綱渡りのように探索するスキルを身につけていく。

 

エーテル適性が低い私の身体は、ホロウに長く滞在することを許さない。だが、クラヴィスの精密な演算と、私の脳が捉える歪な知覚が組み合わさることで、

 

私たちはかろうじて、この世界の理不尽さから身を守っていた。

 

瓦礫の山から、目的の電子基板を掘り出す。それを汚れたリュックに詰め込み、私はすぐに踵を返した。ここでの滞在は、一秒でも短い方がいい。

 

そんなある日、ホロウ探索中に、脳内に表示されていたマップが一瞬、砂嵐のように乱れた。視界の端に、ノイズが走る。

 

「…今の、なに?」

 

《警告。演算機能にエラーを検知。自己診断を実行…完了。論理回路の損傷が深刻化。応急処置ではこれ以上の機能維持は困難と判断》

 

「損傷が悪化してる…?でも、電子部品なら、いつも通り集めてるよ…?」

 

隠れ家に戻った後、私はリュックから取り出した基盤を砕き、その欠片を水と一緒に飲み下しながら尋ねた。

 

鉄の味が口の中に広がる。何度やっても慣れない、自分が人間ではなくなっていくような感覚。

 

《素材が不足している。加えて、現在の応急処置はナノマシンの自己判断によるものだ。より高度な修復…損傷回路の完全な再構築には、安定した高圧電流によるナノマシン群の強制再起動とシステム全体の再キャリブレーションが必要となる。最優先で、都市部の『第3変電施設』から電力を確保する》

 

それは、私がこれまで必死に避けてきた、人が活動しているエリアに近づくことを意味していた。

 

「人がいる場所は…嫌…だけど」

 

私の脳裏に、研究員たちの偽りの笑顔が蘇る。トラウマが、足に鉛の枷をつけたかのように、体を動かなくさせる。でも…。

 

脳内で沈黙を保つ、この冷徹な同居人のことを思う。彼は嘘をつかない。感情で私を騙したりしない。ただ、生きるための事実だけを告げる。彼が壊れたら、私も終わる。

 

「…あなたのためなら…」

 

誰にも聞こえない声でそう呟くと、私は重い足を持ち上げた。

 

《危険予測を再計算。このまま不完全な状態でホロウ探索を続けるリスクは23%。変電施設へ潜入し、警備に見つかるリスクは11%。後者が合理的だ。実行する》

 

クラヴィスの言葉に、反論の余地はない。彼はいつだって正しい。そして、彼の機能が停止することは、私の死を意味する。

 

私は、深くフードを被り直し、重い足取りで、光と音が溢れる世界へと再び踏み出した。

 

***

 

都市部の『第3変電施設』。それは、旧市街の工業エリアの片隅で、忘れ去られたように佇む巨大な鉄の塊だった。

 

ホロウではない。けれど、正常な場所でもない。

 

錆びついた金網のフェンスはところどころ破れ、コンクリートの壁には意味不明のグラフィティがスプレーで描かれている。巨大な変圧器が「ブゥゥン」という低い唸りを昼夜問わず響かせ、空気はオゾンの匂いと、湿ったコンクリートの匂いが混じり合っていた。

 

治安局の巡回ルートからも外れた、無法者たちの格好の隠れ家。だからこそ、クラヴィスはここを選んだのだろう。

 

私は、変電施設に隣接する古びた制御室に、猫のように音もなく潜入していた。

 

目の前には、埃を被った、複雑な配電盤が広がっている。壁の隙間からは、すぐ近くで起きている銃撃戦の音が微かに聞こえてきて、心臓が早鐘を打つ。

 

《この区画全体の旧式セキュリティシステムを一時的に無効化すれば、主電源に直接アクセスできる。私がハッキングの補助を行う。手をターミナルに》

 

「…触るだけでいいの?」

 

私の疑問に、クラヴィスは即座に答えた。

 

《肯定。私のナノマシンは君の体内を循環している。君の指先が物理的なインターフェイスとなる。君が触れることで、私がナノマシンを介して対象の電子回路に直接接続し、操作する。君は、私にとっての生体ケーブルだ》

 

生体ケーブル。その言葉が、私の人間としての輪郭をまた少し、曖昧にさせた。

 

私は、言われるがままに、冷たいターミナルのパネルに手を伸ばす。指先が、恐怖で震えていた。

 

指がパネルに触れた瞬間、微かな静電気が走るような感覚があった。目には見えないけれど、指先から何かが流れ出て、機械と繋がっていくような、不快で奇妙な感覚。

 

《接続完了。…3、2、1…実行》

 

クラヴィスのカウントダウンと共に、私の指先から膨大な情報が流れ込むのを感じた。

 

瞬間、足元の床がビリビリと震え、制御室の古い照明が一瞬だけ激しく明滅する。目の前の配電盤から「ジジジッ!」という鋭い音と、焦げ付くような匂いがした。

 

***

 

その頃、第3変電施設のすぐ近くの倉庫街は、怒号と銃声に包まれていた。

 

「キリがないわね!稼ぎ時だってのに邪魔しないでちょーだい!アンビー、裏は!?」

 

邪兎屋のリーダー、ニコ・デマラは、コンテナの影から身を乗り出し、派手なピンク色の銃弾をばら撒きながら叫ぶ。

 

「ダメ。電子ロック。開かない」

 

アンビー・デマラは、冷静に状況を報告する。彼女のブレードが閃き、迫ってきた敵を的確に無力化していく。

 

「フン、悪党どもめ!だが、このスターライト・キッドがいる限り、悪の栄えた試しはないぜ!聖なる星の光を浴びろ!」

 

ビリー・キッドが、特撮ヒーローのようなポーズを決めながら二丁拳銃を乱射する。そのほとんどは明後日の方向に飛んでいくが、威嚇にはなっているようだった。

 

「…で、リーダー、どうする?」

 

クライアントからの依頼品を回収したはいいが、敵対組織に情報を掴まれ、完全に包囲されてしまっていた。数で劣る邪兎屋は、一つの倉庫に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥っていた。

 

「あーもう、じれったい!こうなったら正面突破よ!見てなさい、あたしがケリをつけるわ!」

 

「ニコ、無理はしないで」

 

アンビーが静かに制止するが、ニコは聞かない。

 

「派手に稼がせてもらうわ!」

 

彼女が銃を構え直し、扉に向かって駆け出そうとした、その瞬間だった。

 

倉庫内の照明が一瞬だけ明滅し、どこか遠くで低い唸りが響いた。

 

ガチャン!

 

固く閉ざされていた電子ロックが、間の抜けた音を立てて解除された。

 

「…開いた」

 

アンビーが、小さく呟く。

 

ビリーが、目を見開いて叫んだ。

 

「なっ…!俺の正義の心が、ついに扉まで開けたのか!」

 

「ほら見なさい!あたしの強運の前にはロックなんて無力なのよ!今のうちにとんずらするわよ、あんたたち!」

 

ニコは、一瞬の驚きの後、すぐさま得意げな笑みを浮かべて叫んだ。

三人は、その一瞬の隙を突いて、あっけにとられる敵を尻目に、倉庫から脱出した。

 

***

 

邪兎屋の車が、倉庫街を猛スピードで走り抜けていく。後方で鳴り響いていた銃声が遠ざかるにつれて、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。

 

「はーっ、危なかったぜ!だが、悪は必ず滅びる!俺様こそ、スターライトナイトゥ!」

 

ビリーが運転席で高らかに笑う。アドレナリンがまだ抜けていないのだろう。

 

「あんたの弾、ほとんど当たってなかったけどね」

 

助手席のニコが、バックミラーで身だしなみをチェックしながら、素っ気なく返す。

 

「なっ…!あれは威嚇射撃だ!戦術なんだぜ、戦術!」

 

「はいはい。で、アンビー。さっきの、どう思う?」

 

後部座席で黙ってブレードの手入れをしていたアンビーに、ニコが問いかける。

 

「…システムのエラー。確率としては低いけど、ゼロじゃないわ」

 

「でも、タイミングが良すぎない?あたしたちが突っ込む、まさにその瞬間よ?」

 

「…偶然。そう結論づけないと説明できない」

 

アンビーは淡々と答えるが、その声には僅かな迷いが含まれているようだった。

 

「ふーん…」

 

ニコは意味ありげに口角を上げた。

 

「偶然、ねぇ…。プロキシあたりが、こっそりサービスしてくれたのかしらね?後で追加料金とか請求してこなきゃいいけど」

 

アジトに戻った後、邪兎屋は報酬の分配を終えていた。

 

「見たかアンビー!俺の正義の心が奇跡を呼んだんだ!まさにスターライト・ミラクル!」

 

ソファに深く沈み込んだビリーがまだ言っている。

 

「あんたのミラクルでディニーが稼げるなら、いくらでも起こしなさいよ」

 

ニコはアンビーが答える前にディニーを数えながらあしらう。その指先には、金運アップのネイルが光っていた。

 

「…原因はわからないけどビリーのおかげではないことは確かよ。任務は完了した。いまはそれで十分」

 

アンビーは、ハンバーガーを頬張りながら、いつも通り冷静に事実だけを述べた。

 

ニコは、指で数えていたディニーの動きを止め、ふっと息をついた。

 

プロキシ兄妹に連絡してみようかとも思ったが、貸しを作るのも癪だ。それに、もし本当に彼らのおかげなら、そのうち請求書が回ってくるだろう。

 

「ま、どっちにしろタダより高いものはないってことね」

 

彼女はそう呟くと、今日の儲けを金庫にしまい、端末の電源を落とした。

 

***

 

『第3変電施設』での作業のあと、私は隠れ家に戻っていた。変電施設から引き込んだ電力のおかげで、仮眠室の古いランプが、頼りなげながらも確かな光を放っている。

 

《自己修復シークエンス、開始。推定完了時間、3時間。その間、私は最低限の機能を除きスリープモードに移行する》

 

「…わかった」

 

私は小さく頷く。脳内に響いていたクラヴィスの声が途絶え、完全な静寂が訪れた。

 

それは、施設にいた頃には決して味わえなかった、本当の「一人」の時間だった。

 

けれど、安らぎはなかった。システムに介入した時の、脳が焼けるような感覚がまだ残っている。私は壁に寄りかかり、疲労困憊した体を丸めた。

 

三時間後、私はランプの光を見つめたまま、じっと動かずにいた。

 

《自己修復完了。全システム、正常に稼働。生存確率、7%上昇》

 

クラヴィスの声が、三時間ぶりに脳内に響く。

 

「…そう」

 

私は、ただ小さく頷いた。自分の行動が、すぐ近くで誰かの運命を変えたことなど知る由もなかった。

 

私にとって、それはただ明日を生き延びるための、一つのタスクが終わったに過ぎなかったのだから。

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