余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
「うわああああっ!ちょ、ストップ!ストップやノエルちゃん!?」
リオンの悲鳴にも似た叫び声が、雑然とした研究室に響き渡った。
彼女が頭を抱えてしゃがみ込むのと同時に、実験台の上で唸りを上げていた奇妙な機械――『エーテル集音増幅機試作3号』が、プスプスと情けない音を立てて黒煙を吐き出し、沈黙した。
「……あーあ、また焦げてもうたわ」
リオンは煤けた顔を上げ、がっくりと肩を落とす。
その様子を見ていたノエルは、申し訳なさそうに、けれどどこか楽しげにヘッドホンをずらした。
「ごめんなさい、リオンさん。でも、さっきの出力だと、『キーン』って音がすごくて…頭の中でハチが暴れてるみたいだったから」
「ウチの計算やと完璧な周波数のはずやってんけどなぁ…」
リオンはぶつぶつ言いながら、工具を片手に機械の蓋をこじ開ける。
ノエルがリオンに保護されてから、しばらくの時が経っていた。
エイゼンに突き放され、リオンの研究室に転がり込んでからの日々は、ノエルにとって驚きの連続だった。
リアムの元にいた頃、「家族のため」と言われていた実験では、痛みに耐え、薬を飲まされ、自分の能力の限界を無理やり引き出されることだった。
けれど、リオンとの「実験」は、その時とまるで違っていた。
***
数日前。
リオンは、作りたての『自動追尾型エーテルジャマー』をノエルの前にドンと置いた。
「おチビちゃん。アンタのその『耳』は、ウチには聞こえへんエーテルのノイズを聞き分けられるんやろ?そんなら、こいつの調整を手伝ってほしいねん!」
リオンの瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラしていた。
利用されることへの恐怖が、一瞬ノエルの胸をよぎる。
だが、リオンの心臓の音――その『音』には、粘つくような悪意は一切混じっていなかった。
あるのは、純粋な好奇心と、自分の発明品を少しでも良くしたいという熱意だけ。
「…わかった。やってみる」
ノエルがおずおずとヘッドホンを当て、ジャマーの起動音に耳を澄ませる。
「……あの、右側の回路から、変な音がする。『ガリガリ』って…何かが引っかかってるみたいな、苦しそうな音」
「ほんまか!?どれどれ…うわっ、ホンマや!配線がちょっと干渉しとる!危なっ、これそのまま動かしてたら暴発しとったわ!」
リオンは顔を青くして、慌てて修正に取り掛かる。
数分後、再び起動したジャマーからは、先ほどまでの不快なノイズが消えていた。
「……うん。今は、すごく綺麗な音がする。澄んだ水が流れるみたいな、スムーズな音」
ノエルがそう伝えると、リオンはパァッと顔を輝かせ、オイルまみれの手でノエルの両手を握りしめた。
「よっしゃあ!完璧や!アンタのおかげやで、ノエルちゃん!ありがとうな!」
「……えへへ」
ノエルは、照れくさそうに笑った。
誰かに、自分の能力を「すごい」と言われること。
自分の力が、何かを直すために役に立ったこと。
それが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
***
「……よし、修理完了や!もっかい行くで!」
リオンの声で、ノエルは我に返る。
目の前のリオンは、煤で汚れた顔を拭きもせず、また新たな実験に目を輝かせている。
そんな彼女を見て、ノエルはくすりと笑った。
「はい、リオンさん。今度は、もっと優しく出力を上げてみて」
「おっしゃ、任しとき!」
その時だった。
研究室のスピーカーから、無機質な呼び出し音が鳴り響き、エイゼンの低い声が流れてきた。
『リオン。そこにいるな』
「げっ、鉄仮面」
リオンがあからさまに嫌そうな顔をする。
『研究資材の在庫が合わない。またガラクタに浪費したな』
「ガラクタちゃうわ!未来への投資や!」
『問答無用だ。不足分はお前の小遣いで補填しろ。今すぐルミナスクエアへ行き、リストにあるパーツを全て調達してこい。ノエルも連れて行け。荷物持ちくらいにはなるだろう』
一方的に告げられた命令に、リオンは「はぁぁ!?」と声を荒げる。
「なんでウチがパシリせなあかんねん!しかもルミナスクエアて!あっこまで行くのにどれだけ時間かかると思て…」
『行け。命令だ』
ブツン、と通信が切れる。
リオンは「あの野郎…!」と端末に向かって悪態をついたが、すぐに深いため息をついて、諦めたように肩を落とした。
「…しゃーないな。行こか、ノエルちゃん。久しぶりにシャバの空気でも吸いに行こ」
「…うん」
ノエルは頷きながら、ふと、先ほどのエイゼンの声の「音」を思い返していた。
相変わらず冷たくて、平坦な音。
でも、その奥底に、微かに聞こえた気がしたのだ。
何かを急いているような、それでいて、何かを遠ざけようとしているような――焦燥と安堵が入り混じった、複雑な響きが。
(エイゼンさん…?)
だが、リオンに手を引かれたノエルは、それ以上深く考えることはできなかった。
リオンの温かくて少しだけ乱暴な手が、彼女を外の世界へと連れ出していく。
「ほら、行くで!ついでに美味いもんでも奢ったるわ!」
「わぁ…!ありがとう、リオンさん!」
ノエルは、リオンに手を引かれることに、確かな喜びを感じていた。
ここには怖い「音」はない。
騒がしくて、煤だらけで、でもとっても温かい、彼女の新しい日常がここにあった。
***
新エリー都でも有数の繁華街、ルミナスクエア。
巨大なスクリーンが極彩色の広告を映し出し、行き交う人々の喧騒と貨物船の汽笛が入り混じるこの場所は、常に活気に満ち溢れている。
その雑踏を見下ろすカフェのテラス席で、天宮ひかりは、手元の端末に表示された調査報告書に視線を落としていた。
人目を避けるためのつば広の帽子と、シンプルなワンピース。
「新エリー都の太陽」としてのオーラを極力消しているが、その瞳に宿る鋭い光までは隠しきれていない。
「…エイゼン博士の足取りは、依然として掴めないわね」
向かいの席に座るヴァレリウスが、静かにコーヒーカップを置いた。
彼もまた、執事服ではなく、老紳士然としたスーツ姿だ。
「はい。資金の流れ、通信記録、所在…全てが隠蔽されています。ここまで徹底されていると、逆に不自然さを感じるほどです」
「ええ。でも、手掛かりがないわけじゃない」
ひかりは、端末に表示された一つの名前を指先でなぞる。
そこには『リオン』という名前と、過去の研究論文の共著者リストが表示されていた。
「彼が過去に所属していた研究所の記録…そのほとんどで、この『リオン』という女性研究者と行動を共にしてる。彼女の足取りを追えば、いずれ博士に辿り着けるかもしれないわ」
ひかりは、このリオンという研究者がエイゼンにつながる鍵だと考えていた。
「左様でございますね。我々の調査班も彼女の行方を捜索中ですが……おや?」
ヴァレリウスの視線が、広場の一点に注がれる。
つられてひかりも顔を上げると、そこには一際目立つ二人組の姿があった。
「っしゃあ! これも買うたろ! 経費や経費! 全部ツケにしたるからなー!」
ひかりが顔を上げると、人混みの中を、両手いっぱいに紙袋を抱えた白衣の女性が、大股で歩いてくる。
その特徴的な白衣姿と、資料にあった写真の面影。
「…まさか。あれが、リオン?」
ひかりは目を見張る。
探していた人物が、こんなにも無防備に、しかも目立つ形で現れるとは。
そして、その隣を歩く、大きなフードを目深に被った小さな少女の姿に、ひかりの思考が一瞬停止した。
「…あの子は」
ひかりの目が、フードの少女に釘付けになる。
小柄な体躯。おどおどとした歩き方。
フードの隙間から覗く横顔に、ひかりは見覚えがあった。
「…ノエルさん?」
ホロウの中で、一瞬だけ言葉を交わした、少女だ。
彼女は確か、リアムという男に付き従っていたはず。
なぜ、彼女がここに?
それに、なぜエイゼン博士の関係者と思われる女性と一緒に?
「お嬢様、あれを」
ヴァレリウスが、目配せで二人の背後を示す。
人混みに紛れてはいるが、鋭い眼光を放つ数名の男たちが、一定の距離を保って二人をつけ狙っているのが見えた。
その視線は、明らかに善意のものではない。
「…つけられているわね」
「ええ。彼女たちは気づいていないようです」
リオンは、能天気なほど楽しそうにショーウィンドウを覗き込み、ノエルに何かを話しかけている。
その無防備な背中に、ひかりは危機感を覚えた。
事情は分からないが、メグに関わりのある少女と、エイゼン博士に繋がる重要人物が、危険に晒されている。
(接触するチャンスね)
ひかりは、瞬時に判断した。
彼女たちを助け出し、同時にエイゼン博士への糸口を掴む。
「行きましょう、ヴァル」
ひかりは、自然な動作で席を立つと、リオンたちが向かう方向へと歩き出した。
あくまで偶然を装い、すれ違いざまに接触を図る。
リオンが、抱えていた荷物の一つを、バランスを崩して落としそうになった。
「おっと!」
ひかりは、とっさに手を伸ばし、落ちかけた箱を支えた。
「……あ、おおきに! 助かったわー!」
リオンが屈託のない笑顔を向けてくる。
その隣で、ノエルがびくりと肩を震わせ、フードの下からひかりを見上げた。
視線が交差する。
ノエルの瞳が、驚きに見開かれた。
(……この音……)
ノエルの耳に、ひかりの心の音が飛び込んでくる。
嘘をついている時の、少しだけ速い鼓動。
けれど、その奥にある、暖炉の火のように揺るぎない、温かい意志の音。
それは、ホロウで聞いた音と同じだった。
「…あ」
ノエルが小さく声を漏らす。
ひかりは、笑顔を崩さずにリオンに荷物を手渡しながら、唇を動かさずに囁いた。
「気をつけてください。…後ろ、つけられていますよ」
それは、最低限の警告だった。
だが、リオンは一瞬きょとんとした後、ニカっと笑って大きな声で答えた。
「せやな! 今日は特売日やからな! 人が多くてかなわんわー!」
(…伝わらなかった?)
ひかりが不安に思った次の瞬間、リオンは悪戯っぽくウインクをした。
「ま、ウチは人気者やからしゃーないわ! ストーカーの一人や二人、ファンのうちに入らんってな! ガハハ!」
そのあまりにも能天気で、豪快な笑い声。
ひかりは呆気に取られた。
この女性は、本当に状況を理解していないのか、それとも…
「…ふふ。そうですね」
ひかりは外向きの丁寧な口調で返しつつ、一つの提案を口にした。
「あの、もしよろしければ、少しお茶でもいかがですか? 荷物もお持ちしますし、少し休憩されたほうが良いかと」
「え? お茶?」
「ええ。すぐそこのカフェなら、落ち着いて話せますから。『ファン』の方々の視線も、気にならなくなると思いますよ」
ひかりは意味深に微笑む。
人目のある店に入れば、尾行者たちも容易には手出しできない。
そして何より、リオンから話を聞く時間が作れる。
リオンは少し考えた後、パッと顔を輝かせた。
「ええな! 実は喉カラカラやってん! 奢ってくれるなら断る理由あらへんわ!」
「ええ、もちろん。行きましょう」
ひかりは、リオンの荷物の一部をヴァレリウスに持たせると、二人を誘導するように歩き出した。
ノエルが、不安そうにリオンの袖を掴む。
リオンはそんな彼女の頭をポンと撫で、大丈夫だと言うように笑いかけた。
(エイゼン博士のこと、そしてノエルさんがなぜここにいるのか…)
ひかりは、前を向いて歩きながら、静かに決意を固める。
この縁を手繰り寄せ、必ずメグに繋がる真実を見つけ出してみせる。
***
リオンとノエルの気配が、研究エリアから完全に遠ざかったことを確認すると、エイゼンはモニターから視線を外し、深々と椅子に背を預けた。
静まり返った研究室。
無数のモニターの駆動音だけが、彼の鼓動のように一定のリズムで響いている。
「…これでいい」
エイゼンは、手元のコンソールを操作し、別の回線を開いた。
相手は、彼の直属部隊の分隊長。
「…私だ、ヴィクター」
『あらぁ、ボス?珍しいじゃない、自分からかけてくるなんて』
スピーカーから聞こえてきたのは、野太くも艶めかしい、独特なオネエ口調の男の声だった。
以前、リアムの前に立ちはだかった、分隊長、ヴィクターだ。
「任務だ。リオンとノエルがルミナスクエアへ向かった。お前たちの部隊で護衛しろ」
『お使いの護衛?あたしたちを便利屋か何かと勘違いしてない?』
ヴィクターは軽口を叩きながらも、その声色にはプロフェッショナルな色が混じり始めていた。
「リアムの手駒が動く可能性がある。二人を傷つけさせるな」
『ふぅん。で、ボス。あんたはどうすんの?』
唐突な問いかけに、回線の向こうでヴィクターが気配を変えたのが分かった。
『分かってるわよ。今日、あのタヌキ親父…長官がここに来るんでしょ?』
ヴィクターの声から、戯けた色が消える。
長官の来訪は極秘事項だ。
だが、ヴィクターのような勘の鋭い現場指揮官には、基地内の異様な空気の変化は隠せない。
『あたしたちを外に出すってことは…あんた、一人で相手するつもり?』
問いかけに対し、エイゼンは沈黙で答えた。
肯定も否定もしない。
その沈黙こそが、何よりも雄弁な肯定だった。
『馬鹿ねぇ。戦力が必要なら、あたしたちが残った方がいいんじゃないの?あの子たちの護衛なんて、B班に任せれば…』
「不要だ」
エイゼンは短く、冷淡に切り捨てた。
「お前たちがいても邪魔なだけだ。私の指示に従え」
『……』
ヴィクターはしばらく黙り込んでいたが、やがて、呆れたように、しかしどこか優しさを含んだため息をついた。
『…はぁ。相変わらず、可愛げのない男ね』
多くを語らないボスの、その言葉の裏にある意図。
巻き込みたくないという不器用な配慮を、ヴィクターは正確に感じ取っていた。
『分かったわよ。あの子たちは、あたしが責任持って守ってあげるわ。…荷物を届けた後は?』
「そのまま、現地で待機だ。次の指令があるまで、戻ってくるな」
それは、事実上の「解散」と「逃亡」の命令だった。
エイゼン自身に何かあれば、リオンたちがそしてヴィクターたちが戻る場所はなくなる。
それを悟った上で、ヴィクターはふっと笑った。
『了解、ボス。土産話、楽しみにしてるわよ』
通信が切れる。
「土産話」などできる保証はない。
それでも、部下なりの粋な別れの言葉だと、エイゼンは理解していた。
エイゼンはコンソールに向き直り、長官に関する調査データを呼び出した。
長官の背後には、前主任ヴェルナーの影が見え隠れしていた。
彼はエイゼンへの嫉妬に狂う一人の研究者。
彼らは手を組み、エイゼンが開発したナノマシン技術、そしてクラヴィスのAI技術を奪取しようとしている。
さらに、調査の過程で判明した事実は他にもあった。
長官は、エイゼンに従う研究員たちに対し、家族を人質に取って脅迫を行い、エイゼンの研究の横流しをさせていたようだった。
スパイのマネごとをさせられていた研究員は、自らエイゼンに報告し、自分はどうなってもいいから、家族を助けてほしいと懇願してきたことで、その事実が発覚した。
エイゼンは一度深く息を吐くと、別の暗号化された回線を開いた。
モニターに「接続中」の文字が表示され、やがてノイズ混じりの音声が繋がった。
『…よう、旦那』
不機嫌そうな、しかしどこか安堵したような声。
賞金稼ぎ、ヴォルフだ。
「報告を」
エイゼンは、挨拶も抜きに本題に入る。
『相変わらず愛想がねえな。……まあいい。嬢ちゃんたちは無事だ。今は郊外の廃坑道近くに身を隠してる』
ヴォルフの報告に、エイゼンの表情は変わらない。
デスクの上で組まれた指に、僅かに力がこもる。
『それと…一つ、厄介なもんを見つけた』
ヴォルフの声色が少し低くなる。
『嬢ちゃんと同じ顔をした、ガキだ。全身拘束具だらけで、兵器みてえに使われてた』
「同じ顔だと?」
エイゼンの眉がピクリと動いた。
メグと同じ顔。
そんな個体が存在するなど、聞いたこともない。
彼の研究計画において、クローンや模造品を作成した事実はなく、そのような噂すら耳にしたことはなかった。
「詳しく話せ。外見、能力、その全てだ」
エイゼンの声に、冷たさが生まれる。
メグは彼にとって唯一無二の「約束」であり、特別な存在だ。
その彼女を模した何かが、何者かの手によって作られ、兵器として運用されている。
それは、エイゼンにとって看過できない事態だった。
『ああ。見た目は瓜二つだが、中身はボロボロだ。エーテルの爆弾みてえなもんだが……嬢ちゃんは、そいつを助ける気満々だ』
ヴォルフは言葉を続ける。
『嬢ちゃんのクローンが暴走して周りをぶっ壊そうとした時も、嬢ちゃんは逃げなかった。それどころか、呼びかけて、正気を取り戻させやがった。…敵だとか味方だとか、そんなもん、嬢ちゃんにはねえらしい』
エイゼンの脳裏に、自分の研究室から盗み出されたデータと、メグに行なわれた実験のことがよぎる。
おそらくヴェルナーたちが作り出した、メグの模造品。
メグの持つ親和性を再現しようとしたのか。
『嬢ちゃんは、絶対にあいつを助け出すと言って聞かねえ。…俺も、ここまで来たら付き合ってやるつもりだがな』
ヴォルフの言葉に、エイゼンは一瞬目を伏せた。
メグならそうするだろう。
自分と同じ痛みを持つ存在を見捨てることなどできない。
その優しさが、彼女を苦しめる。
エイゼンは、無言で手元のキーボードを叩いた。
『…あ? おい、なんだこれ』
ヴォルフが端末を見て声を上げる。
『口座に…おい、桁が間違ってんぞ。何考えてやがる』
送金された額は、依頼料の残金だけではない。
今後数年は遊んで暮らせるほどの、法外な金額だった。
「先払いだ。色を付けておいた」
『先払いだと? まだ仕事は終わってねえぞ』
「依頼を遂行しろ」
それだけ言うと、エイゼンはヴォルフの返事も待たずに回線を切断した。
これ以上の言葉は不要だ。
ヴォルフのような男には、金と、短い命令の中に込めた信頼だけで十分伝わる。
エイゼンは、しばらく思考をまとめると、モニターに一つの映像を呼び出した。
地下深くに隠された格納庫。
そこには、鋭角的なフォルムを持つ漆黒の機体――彼が密かに開発を進めていた、ステルス航空機が翼を休めていた。
AIによる自律航行が可能で、いかなるレーダーにも捕捉されない「空の要塞」
元々、その箱舟は、脱出艇でも、ましてや兵器でもなかった。
かつて、空の色を知らない少女と交わした「本物の青空を見せる」という約束。
ただそれだけを果たすためだけに、持てる技術の粋を集めて、この鋼鉄の翼を鍛え上げたものだった。
エーテルの干渉を無効化し、汚染された雲海でさえ突き抜け、どこまでも自由に飛べる翼を。
いつか、少女を乗せて飛び立つその日のために。
エイゼンがホロウの支配に固執していなければ、ここまでしていなかっただろう。
かつて愛する家族を奪った災害への、煮えたぎるような憎悪。
その執念があったからこそ、エイゼンは、メグという存在に、世界への復讐の鍵と、失った家族の面影を重ね合わせた。
もし彼にその狂気がなければ、メグを特別視することも、地下の実験室で交わした『青空を見せる』という約束が、これほどまでに重い意味を持つこともなかった。
メグに対する実験も、メグをこの空へ解き放つための翼の建造も。
エイゼンにとって、自身のエゴを貫き通すための営みだった。
だからこそ、最後までエゴを貫き通す。
機内には既に、長官の脅迫を受けていた研究員たちや、エイゼンが信頼する少数の部下たちが収容されている。
リオンを最初からこの機体に乗せなかったのは、彼女へのマークが厳しすぎるゆえの判断だ。
彼女はエイゼンがスカウトした人材ということもあり、その行動は逐一監視されていた。
たとえエイゼン管轄の研究室にいたとしても、その監視網の隙を突くことは難しい。
ゆえに、エイゼンはリオンたちに研究所の外へ出てもらった。
追跡はされるだろう。
だが、ヴィクターたちによって、その追手は痛い目を見ることになる。
そしてほとぼりが冷めた頃、ヴィクターがリオンを箱舟まで『護衛』する手筈になっている。
全ての手は打った。
守るべきものは全て、自分の手から離した。
エイゼンは、研究室の照明を落とす。
暗闇の中、モニターの青白い光だけが彼の顔を照らし出す。
彼はゆっくりと椅子を回転させ、入り口の重厚な扉へと向き直った。
間もなく、ここへ「客」が来る。
エイゼンの研究成果を、彼の部下たちを食い物にしようとする、貪欲な獣たちが。
エイゼンは、静かに目を閉じた。
その脳裏に、かつて約束した「青い空」と、笑顔を見せてくれた少女の顔が一瞬だけよぎる。
「さあ、来い」
彼は、たった一人、王座のような椅子に深く腰掛け、静かにその時を待った。