余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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31. 騒がしい聖域、沈黙する王座

「うわああああっ!ちょ、ストップ!ストップやノエルちゃん!?」

 

リオンの悲鳴にも似た叫び声が、雑然とした研究室に響き渡った。

 

彼女が頭を抱えてしゃがみ込むのと同時に、実験台の上で唸りを上げていた奇妙な機械――『エーテル集音増幅機試作3号』が、プスプスと情けない音を立てて黒煙を吐き出し、沈黙した。

 

「……あーあ、また焦げてもうたわ」

 

リオンは煤けた顔を上げ、がっくりと肩を落とす。

 

その様子を見ていたノエルは、申し訳なさそうに、けれどどこか楽しげにヘッドホンをずらした。

 

「ごめんなさい、リオンさん。でも、さっきの出力だと、『キーン』って音がすごくて…頭の中でハチが暴れてるみたいだったから」

 

「ウチの計算やと完璧な周波数のはずやってんけどなぁ…」

 

リオンはぶつぶつ言いながら、工具を片手に機械の蓋をこじ開ける。

 

ノエルがリオンに保護されてから、しばらくの時が経っていた。

 

エイゼンに突き放され、リオンの研究室に転がり込んでからの日々は、ノエルにとって驚きの連続だった。

 

リアムの元にいた頃、「家族のため」と言われていた実験では、痛みに耐え、薬を飲まされ、自分の能力の限界を無理やり引き出されることだった。

 

けれど、リオンとの「実験」は、その時とまるで違っていた。

 

***

 

数日前。

 

リオンは、作りたての『自動追尾型エーテルジャマー』をノエルの前にドンと置いた。

 

「おチビちゃん。アンタのその『耳』は、ウチには聞こえへんエーテルのノイズを聞き分けられるんやろ?そんなら、こいつの調整を手伝ってほしいねん!」

 

リオンの瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラしていた。

 

利用されることへの恐怖が、一瞬ノエルの胸をよぎる。

 

だが、リオンの心臓の音――その『音』には、粘つくような悪意は一切混じっていなかった。

 

あるのは、純粋な好奇心と、自分の発明品を少しでも良くしたいという熱意だけ。

 

「…わかった。やってみる」

 

ノエルがおずおずとヘッドホンを当て、ジャマーの起動音に耳を澄ませる。

 

「……あの、右側の回路から、変な音がする。『ガリガリ』って…何かが引っかかってるみたいな、苦しそうな音」

 

「ほんまか!?どれどれ…うわっ、ホンマや!配線がちょっと干渉しとる!危なっ、これそのまま動かしてたら暴発しとったわ!」

 

リオンは顔を青くして、慌てて修正に取り掛かる。

 

数分後、再び起動したジャマーからは、先ほどまでの不快なノイズが消えていた。

 

「……うん。今は、すごく綺麗な音がする。澄んだ水が流れるみたいな、スムーズな音」

 

ノエルがそう伝えると、リオンはパァッと顔を輝かせ、オイルまみれの手でノエルの両手を握りしめた。

 

「よっしゃあ!完璧や!アンタのおかげやで、ノエルちゃん!ありがとうな!」

 

「……えへへ」

 

ノエルは、照れくさそうに笑った。

 

誰かに、自分の能力を「すごい」と言われること。

 

自分の力が、何かを直すために役に立ったこと。

 

それが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。

 

***

 

「……よし、修理完了や!もっかい行くで!」

 

リオンの声で、ノエルは我に返る。

 

目の前のリオンは、煤で汚れた顔を拭きもせず、また新たな実験に目を輝かせている。

 

そんな彼女を見て、ノエルはくすりと笑った。

 

「はい、リオンさん。今度は、もっと優しく出力を上げてみて」

 

「おっしゃ、任しとき!」

 

その時だった。

 

研究室のスピーカーから、無機質な呼び出し音が鳴り響き、エイゼンの低い声が流れてきた。

 

『リオン。そこにいるな』

 

「げっ、鉄仮面」

 

リオンがあからさまに嫌そうな顔をする。

 

『研究資材の在庫が合わない。またガラクタに浪費したな』

 

「ガラクタちゃうわ!未来への投資や!」

 

『問答無用だ。不足分はお前の小遣いで補填しろ。今すぐルミナスクエアへ行き、リストにあるパーツを全て調達してこい。ノエルも連れて行け。荷物持ちくらいにはなるだろう』

 

一方的に告げられた命令に、リオンは「はぁぁ!?」と声を荒げる。

 

「なんでウチがパシリせなあかんねん!しかもルミナスクエアて!あっこまで行くのにどれだけ時間かかると思て…」

 

『行け。命令だ』

 

ブツン、と通信が切れる。

 

リオンは「あの野郎…!」と端末に向かって悪態をついたが、すぐに深いため息をついて、諦めたように肩を落とした。

 

「…しゃーないな。行こか、ノエルちゃん。久しぶりにシャバの空気でも吸いに行こ」

 

「…うん」

 

ノエルは頷きながら、ふと、先ほどのエイゼンの声の「音」を思い返していた。

 

相変わらず冷たくて、平坦な音。

 

でも、その奥底に、微かに聞こえた気がしたのだ。

 

何かを急いているような、それでいて、何かを遠ざけようとしているような――焦燥と安堵が入り混じった、複雑な響きが。

 

(エイゼンさん…?)

 

だが、リオンに手を引かれたノエルは、それ以上深く考えることはできなかった。

 

リオンの温かくて少しだけ乱暴な手が、彼女を外の世界へと連れ出していく。

 

「ほら、行くで!ついでに美味いもんでも奢ったるわ!」

 

「わぁ…!ありがとう、リオンさん!」

 

ノエルは、リオンに手を引かれることに、確かな喜びを感じていた。

 

ここには怖い「音」はない。

 

騒がしくて、煤だらけで、でもとっても温かい、彼女の新しい日常がここにあった。

 

***

 

新エリー都でも有数の繁華街、ルミナスクエア。

 

巨大なスクリーンが極彩色の広告を映し出し、行き交う人々の喧騒と貨物船の汽笛が入り混じるこの場所は、常に活気に満ち溢れている。

 

その雑踏を見下ろすカフェのテラス席で、天宮ひかりは、手元の端末に表示された調査報告書に視線を落としていた。

 

人目を避けるためのつば広の帽子と、シンプルなワンピース。

 

「新エリー都の太陽」としてのオーラを極力消しているが、その瞳に宿る鋭い光までは隠しきれていない。

 

「…エイゼン博士の足取りは、依然として掴めないわね」

 

向かいの席に座るヴァレリウスが、静かにコーヒーカップを置いた。

 

彼もまた、執事服ではなく、老紳士然としたスーツ姿だ。

 

「はい。資金の流れ、通信記録、所在…全てが隠蔽されています。ここまで徹底されていると、逆に不自然さを感じるほどです」

 

「ええ。でも、手掛かりがないわけじゃない」

 

ひかりは、端末に表示された一つの名前を指先でなぞる。

 

そこには『リオン』という名前と、過去の研究論文の共著者リストが表示されていた。

 

「彼が過去に所属していた研究所の記録…そのほとんどで、この『リオン』という女性研究者と行動を共にしてる。彼女の足取りを追えば、いずれ博士に辿り着けるかもしれないわ」

 

ひかりは、このリオンという研究者がエイゼンにつながる鍵だと考えていた。

 

「左様でございますね。我々の調査班も彼女の行方を捜索中ですが……おや?」

 

ヴァレリウスの視線が、広場の一点に注がれる。

 

つられてひかりも顔を上げると、そこには一際目立つ二人組の姿があった。

 

「っしゃあ! これも買うたろ! 経費や経費! 全部ツケにしたるからなー!」

 

ひかりが顔を上げると、人混みの中を、両手いっぱいに紙袋を抱えた白衣の女性が、大股で歩いてくる。

 

その特徴的な白衣姿と、資料にあった写真の面影。

 

「…まさか。あれが、リオン?」

 

ひかりは目を見張る。

 

探していた人物が、こんなにも無防備に、しかも目立つ形で現れるとは。

 

そして、その隣を歩く、大きなフードを目深に被った小さな少女の姿に、ひかりの思考が一瞬停止した。

 

「…あの子は」

 

ひかりの目が、フードの少女に釘付けになる。

 

小柄な体躯。おどおどとした歩き方。

 

フードの隙間から覗く横顔に、ひかりは見覚えがあった。

 

「…ノエルさん?」

 

ホロウの中で、一瞬だけ言葉を交わした、少女だ。

 

彼女は確か、リアムという男に付き従っていたはず。

 

なぜ、彼女がここに?

 

それに、なぜエイゼン博士の関係者と思われる女性と一緒に?

 

「お嬢様、あれを」

 

ヴァレリウスが、目配せで二人の背後を示す。

 

人混みに紛れてはいるが、鋭い眼光を放つ数名の男たちが、一定の距離を保って二人をつけ狙っているのが見えた。

 

その視線は、明らかに善意のものではない。

 

「…つけられているわね」

 

「ええ。彼女たちは気づいていないようです」

 

リオンは、能天気なほど楽しそうにショーウィンドウを覗き込み、ノエルに何かを話しかけている。

 

その無防備な背中に、ひかりは危機感を覚えた。

 

事情は分からないが、メグに関わりのある少女と、エイゼン博士に繋がる重要人物が、危険に晒されている。

 

(接触するチャンスね)

 

ひかりは、瞬時に判断した。

 

彼女たちを助け出し、同時にエイゼン博士への糸口を掴む。

 

「行きましょう、ヴァル」

 

ひかりは、自然な動作で席を立つと、リオンたちが向かう方向へと歩き出した。

 

あくまで偶然を装い、すれ違いざまに接触を図る。

 

リオンが、抱えていた荷物の一つを、バランスを崩して落としそうになった。

 

「おっと!」

 

ひかりは、とっさに手を伸ばし、落ちかけた箱を支えた。

 

「……あ、おおきに! 助かったわー!」

 

リオンが屈託のない笑顔を向けてくる。

 

その隣で、ノエルがびくりと肩を震わせ、フードの下からひかりを見上げた。

 

視線が交差する。

 

ノエルの瞳が、驚きに見開かれた。

 

(……この音……)

 

ノエルの耳に、ひかりの心の音が飛び込んでくる。

 

嘘をついている時の、少しだけ速い鼓動。

 

けれど、その奥にある、暖炉の火のように揺るぎない、温かい意志の音。

 

それは、ホロウで聞いた音と同じだった。

 

「…あ」

 

ノエルが小さく声を漏らす。

 

ひかりは、笑顔を崩さずにリオンに荷物を手渡しながら、唇を動かさずに囁いた。

 

「気をつけてください。…後ろ、つけられていますよ」

 

それは、最低限の警告だった。

 

だが、リオンは一瞬きょとんとした後、ニカっと笑って大きな声で答えた。

 

「せやな! 今日は特売日やからな! 人が多くてかなわんわー!」

 

(…伝わらなかった?)

 

ひかりが不安に思った次の瞬間、リオンは悪戯っぽくウインクをした。

 

「ま、ウチは人気者やからしゃーないわ! ストーカーの一人や二人、ファンのうちに入らんってな! ガハハ!」

 

そのあまりにも能天気で、豪快な笑い声。

 

ひかりは呆気に取られた。

 

この女性は、本当に状況を理解していないのか、それとも…

 

「…ふふ。そうですね」

 

ひかりは外向きの丁寧な口調で返しつつ、一つの提案を口にした。

 

「あの、もしよろしければ、少しお茶でもいかがですか? 荷物もお持ちしますし、少し休憩されたほうが良いかと」

 

「え? お茶?」

 

「ええ。すぐそこのカフェなら、落ち着いて話せますから。『ファン』の方々の視線も、気にならなくなると思いますよ」

 

ひかりは意味深に微笑む。

 

人目のある店に入れば、尾行者たちも容易には手出しできない。

 

そして何より、リオンから話を聞く時間が作れる。

 

リオンは少し考えた後、パッと顔を輝かせた。

 

「ええな! 実は喉カラカラやってん! 奢ってくれるなら断る理由あらへんわ!」

 

「ええ、もちろん。行きましょう」

 

ひかりは、リオンの荷物の一部をヴァレリウスに持たせると、二人を誘導するように歩き出した。

 

ノエルが、不安そうにリオンの袖を掴む。

 

リオンはそんな彼女の頭をポンと撫で、大丈夫だと言うように笑いかけた。

 

(エイゼン博士のこと、そしてノエルさんがなぜここにいるのか…)

 

ひかりは、前を向いて歩きながら、静かに決意を固める。

 

この縁を手繰り寄せ、必ずメグに繋がる真実を見つけ出してみせる。

 

***

 

リオンとノエルの気配が、研究エリアから完全に遠ざかったことを確認すると、エイゼンはモニターから視線を外し、深々と椅子に背を預けた。

 

静まり返った研究室。

 

無数のモニターの駆動音だけが、彼の鼓動のように一定のリズムで響いている。

 

「…これでいい」

 

エイゼンは、手元のコンソールを操作し、別の回線を開いた。

 

相手は、彼の直属部隊の分隊長。

 

「…私だ、ヴィクター」

 

『あらぁ、ボス?珍しいじゃない、自分からかけてくるなんて』

 

スピーカーから聞こえてきたのは、野太くも艶めかしい、独特なオネエ口調の男の声だった。

 

以前、リアムの前に立ちはだかった、分隊長、ヴィクターだ。

 

「任務だ。リオンとノエルがルミナスクエアへ向かった。お前たちの部隊で護衛しろ」

 

『お使いの護衛?あたしたちを便利屋か何かと勘違いしてない?』

 

ヴィクターは軽口を叩きながらも、その声色にはプロフェッショナルな色が混じり始めていた。

 

「リアムの手駒が動く可能性がある。二人を傷つけさせるな」

 

『ふぅん。で、ボス。あんたはどうすんの?』

 

唐突な問いかけに、回線の向こうでヴィクターが気配を変えたのが分かった。

 

『分かってるわよ。今日、あのタヌキ親父…長官がここに来るんでしょ?』

 

ヴィクターの声から、戯けた色が消える。

 

長官の来訪は極秘事項だ。

 

だが、ヴィクターのような勘の鋭い現場指揮官には、基地内の異様な空気の変化は隠せない。

 

『あたしたちを外に出すってことは…あんた、一人で相手するつもり?』

 

問いかけに対し、エイゼンは沈黙で答えた。

 

肯定も否定もしない。

 

その沈黙こそが、何よりも雄弁な肯定だった。

 

『馬鹿ねぇ。戦力が必要なら、あたしたちが残った方がいいんじゃないの?あの子たちの護衛なんて、B班に任せれば…』

 

「不要だ」

 

エイゼンは短く、冷淡に切り捨てた。

 

「お前たちがいても邪魔なだけだ。私の指示に従え」

 

『……』

 

ヴィクターはしばらく黙り込んでいたが、やがて、呆れたように、しかしどこか優しさを含んだため息をついた。

 

『…はぁ。相変わらず、可愛げのない男ね』

 

多くを語らないボスの、その言葉の裏にある意図。

 

巻き込みたくないという不器用な配慮を、ヴィクターは正確に感じ取っていた。

 

『分かったわよ。あの子たちは、あたしが責任持って守ってあげるわ。…荷物を届けた後は?』

 

「そのまま、現地で待機だ。次の指令があるまで、戻ってくるな」

 

それは、事実上の「解散」と「逃亡」の命令だった。

 

エイゼン自身に何かあれば、リオンたちがそしてヴィクターたちが戻る場所はなくなる。

 

それを悟った上で、ヴィクターはふっと笑った。

 

『了解、ボス。土産話、楽しみにしてるわよ』

 

通信が切れる。

 

「土産話」などできる保証はない。

 

それでも、部下なりの粋な別れの言葉だと、エイゼンは理解していた。

 

エイゼンはコンソールに向き直り、長官に関する調査データを呼び出した。

 

長官の背後には、前主任ヴェルナーの影が見え隠れしていた。

 

彼はエイゼンへの嫉妬に狂う一人の研究者。

 

彼らは手を組み、エイゼンが開発したナノマシン技術、そしてクラヴィスのAI技術を奪取しようとしている。

 

さらに、調査の過程で判明した事実は他にもあった。

 

長官は、エイゼンに従う研究員たちに対し、家族を人質に取って脅迫を行い、エイゼンの研究の横流しをさせていたようだった。

 

スパイのマネごとをさせられていた研究員は、自らエイゼンに報告し、自分はどうなってもいいから、家族を助けてほしいと懇願してきたことで、その事実が発覚した。

 

エイゼンは一度深く息を吐くと、別の暗号化された回線を開いた。

 

モニターに「接続中」の文字が表示され、やがてノイズ混じりの音声が繋がった。

 

『…よう、旦那』

 

不機嫌そうな、しかしどこか安堵したような声。

 

賞金稼ぎ、ヴォルフだ。

 

「報告を」

 

エイゼンは、挨拶も抜きに本題に入る。

 

『相変わらず愛想がねえな。……まあいい。嬢ちゃんたちは無事だ。今は郊外の廃坑道近くに身を隠してる』

 

ヴォルフの報告に、エイゼンの表情は変わらない。

 

デスクの上で組まれた指に、僅かに力がこもる。

 

『それと…一つ、厄介なもんを見つけた』

 

ヴォルフの声色が少し低くなる。

 

『嬢ちゃんと同じ顔をした、ガキだ。全身拘束具だらけで、兵器みてえに使われてた』

 

「同じ顔だと?」

 

エイゼンの眉がピクリと動いた。

 

メグと同じ顔。

 

そんな個体が存在するなど、聞いたこともない。

 

彼の研究計画において、クローンや模造品を作成した事実はなく、そのような噂すら耳にしたことはなかった。

 

「詳しく話せ。外見、能力、その全てだ」

 

エイゼンの声に、冷たさが生まれる。

 

メグは彼にとって唯一無二の「約束」であり、特別な存在だ。

 

その彼女を模した何かが、何者かの手によって作られ、兵器として運用されている。

 

それは、エイゼンにとって看過できない事態だった。

 

『ああ。見た目は瓜二つだが、中身はボロボロだ。エーテルの爆弾みてえなもんだが……嬢ちゃんは、そいつを助ける気満々だ』

 

ヴォルフは言葉を続ける。

 

『嬢ちゃんのクローンが暴走して周りをぶっ壊そうとした時も、嬢ちゃんは逃げなかった。それどころか、呼びかけて、正気を取り戻させやがった。…敵だとか味方だとか、そんなもん、嬢ちゃんにはねえらしい』

 

エイゼンの脳裏に、自分の研究室から盗み出されたデータと、メグに行なわれた実験のことがよぎる。

 

おそらくヴェルナーたちが作り出した、メグの模造品。

 

メグの持つ親和性を再現しようとしたのか。

 

『嬢ちゃんは、絶対にあいつを助け出すと言って聞かねえ。…俺も、ここまで来たら付き合ってやるつもりだがな』

 

ヴォルフの言葉に、エイゼンは一瞬目を伏せた。

 

メグならそうするだろう。

 

自分と同じ痛みを持つ存在を見捨てることなどできない。

 

その優しさが、彼女を苦しめる。

 

エイゼンは、無言で手元のキーボードを叩いた。

 

『…あ? おい、なんだこれ』

 

ヴォルフが端末を見て声を上げる。

 

『口座に…おい、桁が間違ってんぞ。何考えてやがる』

 

送金された額は、依頼料の残金だけではない。

 

今後数年は遊んで暮らせるほどの、法外な金額だった。

 

「先払いだ。色を付けておいた」

 

『先払いだと? まだ仕事は終わってねえぞ』

 

「依頼を遂行しろ」

 

それだけ言うと、エイゼンはヴォルフの返事も待たずに回線を切断した。

 

これ以上の言葉は不要だ。

 

ヴォルフのような男には、金と、短い命令の中に込めた信頼だけで十分伝わる。

 

エイゼンは、しばらく思考をまとめると、モニターに一つの映像を呼び出した。

 

地下深くに隠された格納庫。

 

そこには、鋭角的なフォルムを持つ漆黒の機体――彼が密かに開発を進めていた、ステルス航空機が翼を休めていた。

 

AIによる自律航行が可能で、いかなるレーダーにも捕捉されない「空の要塞」

 

元々、その箱舟は、脱出艇でも、ましてや兵器でもなかった。

 

かつて、空の色を知らない少女と交わした「本物の青空を見せる」という約束。

 

ただそれだけを果たすためだけに、持てる技術の粋を集めて、この鋼鉄の翼を鍛え上げたものだった。

 

エーテルの干渉を無効化し、汚染された雲海でさえ突き抜け、どこまでも自由に飛べる翼を。

 

いつか、少女を乗せて飛び立つその日のために。

 

エイゼンがホロウの支配に固執していなければ、ここまでしていなかっただろう。

 

かつて愛する家族を奪った災害への、煮えたぎるような憎悪。

 

その執念があったからこそ、エイゼンは、メグという存在に、世界への復讐の鍵と、失った家族の面影を重ね合わせた。

 

もし彼にその狂気がなければ、メグを特別視することも、地下の実験室で交わした『青空を見せる』という約束が、これほどまでに重い意味を持つこともなかった。

 

メグに対する実験も、メグをこの空へ解き放つための翼の建造も。

 

エイゼンにとって、自身のエゴを貫き通すための営みだった。

 

だからこそ、最後までエゴを貫き通す。

 

機内には既に、長官の脅迫を受けていた研究員たちや、エイゼンが信頼する少数の部下たちが収容されている。

 

リオンを最初からこの機体に乗せなかったのは、彼女へのマークが厳しすぎるゆえの判断だ。

 

彼女はエイゼンがスカウトした人材ということもあり、その行動は逐一監視されていた。

 

たとえエイゼン管轄の研究室にいたとしても、その監視網の隙を突くことは難しい。

 

ゆえに、エイゼンはリオンたちに研究所の外へ出てもらった。

 

追跡はされるだろう。

 

だが、ヴィクターたちによって、その追手は痛い目を見ることになる。

 

そしてほとぼりが冷めた頃、ヴィクターがリオンを箱舟まで『護衛』する手筈になっている。

 

全ての手は打った。

 

守るべきものは全て、自分の手から離した。

 

エイゼンは、研究室の照明を落とす。

 

暗闇の中、モニターの青白い光だけが彼の顔を照らし出す。

 

彼はゆっくりと椅子を回転させ、入り口の重厚な扉へと向き直った。

 

間もなく、ここへ「客」が来る。

 

エイゼンの研究成果を、彼の部下たちを食い物にしようとする、貪欲な獣たちが。

 

エイゼンは、静かに目を閉じた。

 

その脳裏に、かつて約束した「青い空」と、笑顔を見せてくれた少女の顔が一瞬だけよぎる。

 

「さあ、来い」

 

彼は、たった一人、王座のような椅子に深く腰掛け、静かにその時を待った。

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