余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
焚き火の爆ぜる音だけが、薄暗い坑道に響いている。
クラヴィスと話し合ってから、どれくらい経っただろう。
一緒に戦おうと決めて、反撃の意思を固めて。それからヴォルフが依頼人に連絡を取りに行って、私はここで待っている。
私は岩壁に背中を預けて、ぼんやりと揺れる炎を眺めていた。
右足は、クラヴィスが治療してくれたおかげで、少しずつ感覚が戻り始めている。
まだ痛みはあるけれど、自分の足で立てるだけで十分だ。
シロが私の膝の上で丸くなって、微かな電子音を鳴らしている。
「……ピュイ」
「うん。大丈夫だよ、シロ」
頭を撫でると、シロは気持ちよさそうに目を細めた。
坑道の入り口の方を見やると、雅さんの小さな影が、闇に溶け込むようにして佇んでいる。
雅さんは、ずっとああして見張りを続けてくれている。
言葉は少ないけれど、行動の全てが「守る」という一点に向いている。
それが分かるだけで、安心できた。
《メグ。ヴォルフが戻ってくる》
クラヴィスの声が頭の中に響いた。
数拍遅れて、坑道の奥から足音が近づいてくる。
焚き火の明かりに照らされて、ヴォルフの長身がぬっと現れた。
額にはまだ包帯が巻かれているし、動くたびに肋骨を庇うような仕草をしている。
でも、その足取りに疲れはあっても、弱さはなかった。
「おかえり、ヴォルフ」
「……ああ」
ヴォルフはそっけなく答えると、焚き火を挟んで私の向かい側にどかりと腰を下ろした。
背中を壁に預け、長い足を投げ出す。
その動きだけで、肋骨が軋んだのか、わずかに顔をしかめていた。
「依頼人と話してたんでしょ? 何か言ってた?」
私が聞くと、ヴォルフはしばらく黙っていた。
焚き火の炎に照らされた彼の横顔は、いつもより険しく見えたけど、口元にはかすかに――本当にかすかにだけど――笑みが浮かんでいた。
「……気になることはあったが、まあ一つだけ確かなのは、依頼の失敗が許されなくなったってことだ」
「失敗が許されないって……元々そうだったんじゃないの?」
「甘いな、嬢ちゃん。賞金稼ぎの世界じゃ、依頼の失敗は金が入らないってだけの話だ。だが、今回は違う。あの旦那、本気で怒ってやがった」
ヴォルフは少しだけ肩をすくめて、焚き火の向こうの私を見た。
「伝言も預かってるぞ」
「伝言?」
「ああ。『ゴーストちゃんがバカなことをしないように、縛ってでも見張っておけ』だとよ」
「……えっ」
思わず目をぱちくりさせた。
縛る? 私を?
ヴォルフの依頼人は、私のことをどういう目で見てるんだろう。
「ほ、本当に……?」
私の動揺した顔を見て、ヴォルフはふっと鼻で笑った。
「冗談だ。あの旦那がそんな気の利いたこと言うわけねえだろ」
「もう……! 心臓に悪いよ!」
「反応が面白いからつい、な」
ヴォルフは肩を揺らして笑った。
でも、すぐにその笑みが静かなものに変わる。
焚き火の炎を見つめながら、彼はぽつりと呟いた。
「……お前は依頼人にかなり愛されてるな」
「え?」
「旦那の声には怒りがあった。それは俺に対してじゃねえ。お前を傷つけた連中に対する怒りだ。報酬のケタも変わった。……桁が一つ、じゃねえぞ。三つだ。三つ」
ヴォルフは、まるで信じられないものを見たような顔で指を三本立てた。
「正直、あの旦那が人間臭い感情を持ってるとは思ってなかったが、あの声は本物だった」
ヴォルフは、そこで一度言葉を切った。
焚き火の炎に照らされた彼の横顔に、一瞬だけ、暗い影がよぎる。
「……それと、もう一つ」
声のトーンが変わった。
さっきまでの、どこか楽しげな軽さが消えていた。
「旦那は、用件だけ言って、俺が返事する前に回線を切りやがった。普段なら怒鳴り返すところだがな」
ヴォルフは、腰のナイフの柄を親指で撫でた。
無意識の仕草に見えたけど、その指先には力がこもっていた。
「何年もこの稼業をやってりゃ分かる。依頼人が桁違いの金を先払いして、仕事も終わってねえのに回線を叩き切る。……そういう奴が、次にどうなるか」
彼は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「あれは、後始末の匂いがする。自分がいなくなった後のことを考えて、片付けてる奴特有のな」
私は息を呑んだ。
それはつまり、依頼人が――もう戻ってこないかもしれないと、覚悟しているということ?
「ヴォルフ、それって……」
「あの旦那が何を考えてるかなんざ、俺にゃ分からん。だが」
ヴォルフは視線を焚き火に落とした。
「金を積まれた以上、仕事はきっちりやる。それが流儀だ」
口ではそう言っている。
でも、ヴォルフの声の奥には、ただの仕事の話じゃない温度があった。
依頼人との通信を、ただの依頼の確認としてではなく、もっと重い何かとして受け止めている。
そんな気がした。
ヴォルフの依頼人。
顔も名前も知らない。でも、胸の奥のどこかが、妙にざわつく。
こんなにも私のことを気にかけてくれるのは、なぜなんだろう。
知らない人のはず、なのに――この、かすかに引っかかる感覚は、何なんだろう。
そしてその人は今、もう戻れないかもしれない場所に向かおうとしている。
ヴォルフの言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
同時に、理由も分からないのに、きゅっと締め付けられるような痛みも感じた。
「……ありがとう、教えてくれて」
「礼を言うのは俺じゃなくてあの旦那にだろ。さて」
ヴォルフは姿勢を正すと、真剣な目で私を見据えた。
「依頼人の話はここまでだ。これからのことを話そう、メグ」
名前で呼ばれたことに、少しだけ驚いた。
いつも「嬢ちゃん」としか呼ばないヴォルフが、私の名前を使った。
それだけで、これから始まる会話の重さが伝わってくる。
「……うん。その前に、ヴォルフに伝えておきたいことがあるの」
私は膝の上のシロを撫でながら、ゆっくりと口を開いた。
「……伝えておきたいこと?」
「これから一緒に戦うなら、隠し事はしたくないから」
私は深呼吸して、覚悟を決めた。
ヴォルフには、研究所にいたことや、追われていることは話してきた。
でも、クラヴィスのことだけは、誰にも話すつもりがなかった。
誰かを信じる気がなかったから。
唯一の例外は、ひかりさん。
あの人にだけは、話してもいいと思えた瞬間があった。
でも、言わなかった。
クラヴィスのことを知れば、ひかりさんは私を助けてくれようとする。
ひかりさんまで危険に巻き込むことになる。
あの人が穏やかに笑っていられる場所を、私が壊すわけにはいかなかった。
それに、クラヴィスの存在が知られたら、対策を打たれる。
今の私が逃げ延びてこられたのは、追手がクラヴィスの力を把握しきれていないからだ。
その情報が少しでも漏れれば、敵はクラヴィスを封じる手段を用意してくる。
だから、誰にも話さなかった。話す気もなかった。
でも、あの子を助けるためには、私が持っている手札を共有しなきゃ勝てない。
「私の脳の中に、AIがいるの」
焚き火が、パチリと音を立てて爆ぜた。
ヴォルフは、微動だにしなかった。
「名前は、クラヴィス。研究所で私の脳に埋め込まれた、人工知能なんだ」
沈黙。
ヴォルフの表情は読めなかった。
驚いているのか、呆れているのか。
怒っているのか、引いているのか。
「……クラヴィスは、ずっと私を守ってくれてた。脱出の時も、ホロウの中でも、私が死にそうになった時も。身体の制御を手伝ってくれたり、怪我を治してくれたり……。私がここまで生き延びられたのは、クラヴィスのおかげなの」
私は言葉を重ねる。
「ヴォルフが前に私と戦った時、私の動きが普通じゃないって感じたでしょ? あれは、クラヴィスが私の知覚や反射速度を引き上げてくれてたから。クラヴィスがいなかったら、あの時だって、私はヴォルフに勝てなかった」
全部話し終えて、息を吐く。
喉がカラカラだった。
ヴォルフは、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「なるほどな」
驚きが半分。でも残りの半分は、もっと違う感情だった。
納得、だ。
彼はバラバラだったパズルのピースが繋がるような顔をしていた。
「合点がいった。最初にお前と戦った時、途中から明らかに動きの質が変わったように見えた。怒りや恐怖で覚醒したとかいう話じゃなくてな。まるで、人が変わったみたいだった」
ヴォルフは腕を組んで天井を見上げた。
「俺が初めて旦那から依頼を受けた時にな。旦那が変な質問をしてきたんだ」
「変な質問?」
「ああ。『お前が対峙したゴーストは……怯える子供だったか? それとも、冷たい機械だったか?』ってな」
私は息を呑んだ。
その質問は、クラヴィスの存在を知っている人にしか聞けない問いかけだ。
「あの時の俺には意味が分からなかったが、今なら分かる。旦那は、お前の中にいるAI……クラヴィスの状態を確認しようとしていたんだろうな。その判別が旦那には重要だったんだろう」
ヴォルフの推察に、クラヴィスが応えるように私の中で小さく呟いた。
《……鋭いな、この男》
私は、少しだけ嬉しくなる。
ヴォルフは気味悪がるどころか、冷静に分析してくれている。
「今そのクラヴィスとは、意思疎通は取れるのか?」
「うん。ずっとスリープ状態だったんだけど、ついさっき、起きたんだ」
「……道理で」
ヴォルフは小さく頷いた。
「峡谷から廃工場の戦いまで、お前の動きは前回やり合った時より最適化されてなかった。そういうことなら辻褄が合う」
私の戦い方の変化まで見抜いていたなんて。
やっぱりヴォルフは、プロなんだ。
「……気味悪いとか、思わないの?」
話し終えた安堵の隙間から、ふと不安がこぼれ落ちた。
ヴォルフは、心底呆れたという顔をした。
「気味悪い? 今さらだろ。ホロウの外を平気で歩いてるドッペルゲンガーを仲間扱いしてる嬢ちゃんが、脳内にAI飼ってるくらいで何を驚く」
「……そういう言い方する?」
「事実だろ」
ヴォルフはニヤリと笑い、すぐに真顔に戻った。
「まあ、打ち明けてくれたのは嬉しいがな。一つ聞かせろ。どうして俺に話した? 今まで誰にも話す気がなかっただろう」
私は、真っ直ぐにヴォルフを見つめた。
「うん。本当は、誰にも話すつもりなんてなかった」
焚き火の炎を見つめる。
自分の心を確かめるように、言葉を選んだ。
「でも、私はあの子に助けるって約束したから」
あの子。
同じ顔をして、痛みしか知らなかった、あの子。
「私ができることを、使える手札を、仲間に伝えなきゃ何も始まらないと思ったから」
ヴォルフは、その言葉を黙って聞いていた。
そして、ゆっくりと息を吐くと、真剣な声で言った。
「メグ。一つ、はっきりさせておく」
彼の目に、冷たい光が宿った。
狩人としての、揺るぎない矜持の光。
「俺は賞金稼ぎだ。依頼のために、お前の近くにいる。依頼人が変われば、依頼内容も変わる。もし新しい依頼人が『そいつを捕獲しろ』と言えば、俺はその通りにする」
その言葉に嘘はなかった。
ヴォルフが本気で言っていることが分かる。
「つまり、俺にその情報を共有すること自体、リスクになり得るんだ。だから、俺のことを『仲間』だと認識するのは……辞めた方がいい」
ヴォルフは、わざと突き放すように言った。
診療所で会ったときもそうだった。
彼は自分を遠ざけようとしているんだ。
私のために。
私が傷つかないように。
「辞めないよ」
私は、迷わずに言った。
「私は、賞金稼ぎのヴォルフに言ってるんじゃない」
焚き火の向こうにいる彼を、真っ直ぐに見つめる。
「ただのヴォルフのことを、仲間だと思って言ってるんだから」
ヴォルフの表情が、一瞬だけ固まった。
言葉が出てこないみたいだった。
口をわずかに開きかけて、閉じて、また開きかけて、閉じる。
何か言い返そうとして、でも何を言えばいいのか分からない。
そんな、今まで見たことのないヴォルフの姿。
次の瞬間、彼は苛立ったように立ち上がり、焚き火を回り込んで私の前まで来ると。
「いった!?」
頬を、つねられた。
「生意気なことを言うのはこの口か」
「い、いひゃい! いひゃいって、ヴォルフ!」
「これくらいで痛がるな。骨折の半分も痛くねえだろ」
ヴォルフは頬をつねったまま、ぶっきらぼうに言った。
でも、その力加減はとても優しかった。
痛いというよりくすぐったくて、思わず噴き出しそうになる。
「ピュイ! ピュイッ!」
シロが抗議するように跳ね回り、ヴォルフの手首をぽかぽか叩いている。
「うるせえ。お前は黙ってろ、チビ助」
ヴォルフはシロを軽くあしらいながら、ようやく私の頬から手を離した。
私は、赤くなった頬をさすりながら、でも不思議と嫌な気持ちにはなれなかった。
ヴォルフは、焚き火を挟んだ自分の場所に戻ると、大きなため息をついた。
そして、しばらく天井を仰いだまま、目を閉じていた。
焚き火がパチパチと音を立てる。
長い沈黙。
やがて、ヴォルフは目を開けて、低い声で話し始めた。
「……俺は賞金稼ぎで、これからもそうだ。依頼があれば、誰であろうとそれを受ける。それは変わらねえ」
「うん」
「だが」
彼は、焚き火の向こうからまっすぐに私を見た。
「賞金稼ぎの依頼に、複数受けちゃいけないなんてルールはない」
その言葉の意味が分かるまで、数秒かかった。
分かった瞬間、胸の奥が熱くなった。
ヴォルフは「仲間」という言葉を使わない。
「信頼」とも言わない。
その代わりに、彼は自分の世界の言葉で、自分のルールで、私のそばにいる理由を作ろうとしてくれている。
私は、その気持ちを尊重したかった。
彼が「仲間」と呼ばれることを避けるなら、私は無理にそう呼ばない。
でも、彼の差し出してくれた手は、ちゃんと握り返す。
「ヴォルフ」
私は背筋を伸ばして、できるだけ真剣な声で言った。
「私のことを、助けてほしい。あの子を助けるためには、私の力だけじゃ足りないから」
ヴォルフは、じっと私の目を見つめた。
試すような視線ではなく、見定めるような視線だった。
やがて、彼はかすかに頷いた。
「……賞金稼ぎに依頼をするってことは、報酬も大事だ。お前が俺に支払えるものは?」
来た。
ここからは、ヴォルフの土俵だ。
"仲間"の言葉ではなく、"契約"の言葉で話さなきゃいけない。
私は、自分が持っている手札を、正直に並べた。
「私の力。この前の戦闘でも使ってたんだけど、私はエーテルを少しだけ操れるの。だから、ホロウ内の状況を把握できるし、相手が見えていなくても、気配を感じ取れる。奇襲されそうな時にも使えるよ。あとは、ホロウから外に出るためのナビゲートもできる」
ヴォルフは腕を組んだまま、黙って聞いている。
「私の力は、ヴォルフが仕事をする時にきっと役立つと思う。この報酬で、どう?」
自信を持って言えた。
これは、クラヴィスと二人で積み上げてきた力だ。
安売りするつもりはない。
だから、ヴォルフの返事にも、自信を持って待てる。
「ダメだな」
心の準備をしていたのに、あまりにもあっさり却下された。
「え?」
「報酬はバランスが大事だ。その報酬だと、俺に利がありすぎる」
想像と真逆の理由だった。
てっきり「そんなもんじゃ足りない」と言われるかと思ったのに。
「バランス……? どうしてそれがダメなの?」
本気で分からなかった。
私はヴォルフを信頼しているし、ヴォルフに力を貸すことに何の迷いもない。
私が首を傾げると、ヴォルフは腕組みしたまま、真面目な顔で説明した。
「ホロウの状況をリアルタイムで更新できて、敵の位置も把握できて、奇襲を事前に察知できるレーダーを専属で使えるんだぞ?しかもナビゲート付きだ。誰にとっても、喉から手が出るほど欲しい能力だ。そんなものを対価に使われたら、俺はお前に頭が上がらなくなる」
「これは報酬なんだから、気にしなくていいのに。私はヴォルフを信頼してるから、いつまでだって力を貸すつもりだよ。どうしてヴォルフが『得しすぎる』なんて気にする必要があるの?」
ヴォルフの顔が、分かりやすく歪んだ。
言葉に詰まっている。
計算高い交渉じゃなくて、ただの信頼をぶつけられて、困っているみたいだった。
「……はぁ」
大きな、大きなため息。
ヴォルフは片手で顔を覆って、心底参ったという声を絞り出した。
「お前な……そういうのは、『重い』って言うんだよ」
「重い?」
「賞金稼ぎには賞金稼ぎの流儀がある。借りっぱなしは、性に合わねえんだ」
あくまで自分の矜持の問題だと言い張る。
でも、本当はそうじゃないって、私にだって分かる。
ヴォルフは、私に借りを作りたくないんじゃない。
私が一方的に差し出すことで、いつか私が損をするのが嫌なんだ。
診療所で会ったときから変わらない。
この人は、不器用に、でも確かに、私のことを気に掛けているのが分かった。
「むぅ。じゃあ、ヴォルフは何が欲しいの? 私、お金は持ってないよ」
ヴォルフは、腰に下げたナイフの柄を指先で弾いた。
考えるふりをしている。
もう答えは決まっているみたいだった。
「スープだ」
「……え?」
「二日酔いの朝に飲んだ、アレだ」
ヴォルフはまっすぐに私を見て、真剣な声で言った。
「この仕事が終わったら、もう一度あれを作れ。具材は俺が一番高いのを用意してやる。……それで手を打ってやるよ」
あまりにも予想外の答えに、私は言葉を失った。
あの時のスープ。
ヴォルフが二日酔いで起き上がれなくて、何も食べられなくて。
私がありあわせの材料で作った、ただのスープ。
《……まさか、スープが報酬になるとはな》
クラヴィスが内心で呆れたような、でもどこか感心したような声を漏らした。
「……そんなので、いいの?」
思わず拍子抜けした声が出てしまった。
すると、ヴォルフの目が鋭くなった。
「『そんなので』だと?」
怒ったみたいに眉を吊り上げる。
「俺の指定したギャラにケチをつけるな」
その声は、冗談のようにも本気なようにも聞こえた。
スープ一杯に、自分の命を賭ける報酬としての価値を見出している。
ううん、違う。
スープそのものに価値があるんじゃない。
ヴォルフが言っているのは――
「それと、もう一つ条件がある」
ヴォルフは冗談の色を、完全に消した。
焚き火に照らされた彼の瞳は、峡谷を走り抜けた時よりも、傭兵部隊と戦った時よりも、ずっと真剣な光を湛えていた。
「必ず、生きて払え」
一拍の沈黙。
「俺は、死人からの支払いは受け付けてねえんだ」
――ああ、そうか。
やっぱり、そうだった。
スープが報酬なんじゃない。
「生きて帰ること」。それが、この契約の本当の意味だ。
ヴォルフは、「仲間」とは言わない。
「守る」とも言わない。
その代わりに、賞金稼ぎの言葉で、「お前は死ぬな」と言ってくれている。
回りくどいのが、ヴォルフらしくて。
胸の奥が、温かいものでいっぱいになった。
泣きそうになるのを、ぐっと堪える。
ここで泣いたら、きっとヴォルフは困る。
だから、私は笑った。
力強く、はっきりと。
「分かった。ありがとう、ヴォルフ」
私は右手を差し出した。
「約束するよ。絶対に、生きて払う。世界一おいしいスープを、作ってみせるから」
ヴォルフは、差し出された手を見つめた。
その視線が、一瞬だけ、とても優しくなったのを、私は見逃さなかった。
彼の大きな手が、私の小さな手を包み込むように握った。
ゴツゴツした、傷だらけの手。
でも、とても温かかった。
「……上等だ」
それだけ言って、ヴォルフは手を離した。
焚き火が、パチリと弾けた。
坑道の入り口で見張りをしていた雅さんが、いつの間にかこちらを振り返っていた。
無表情のまま、でもどこか安心したような気配が、かすかに漂っている。
シロは私の膝の上で、満足そうに目を細めていた。
「ピュイ……」
《……良い契約だと思う》
クラヴィスの声が、静かに響いた。
《あの男は信頼できる。論理ではなく、直感でそう思う。……随分と、私も変わったものだな》
(……うん。私も、そう思うよ)
焚き火の炎が揺れる。
東の空は、まだ暗い。
でも、ほんの少しだけ、夜が薄くなり始めていた。
「さて、次はあの嬢ちゃんを助けるための具体的な動きについてだな」
ヴォルフが膝を叩いて身を乗り出す。
「だが、今日はここまでにしとけ。お前の足はまだ完治してねえし、頭も使いすぎだ。作戦会議は明日だ」
「でも……」
「急いては事を仕損じる、だ。焦って動いて死んだら、俺のスープ代はどうなる」
「……分かった」
ヴォルフの言う通りだ。
今は、できることをやって、休める時に休む。
それが、生き延びるってことだから。
私は壁に背を預けて、目を閉じた。
シロが胸の上で丸くなり、温かい。
雅さんが、静かに見守ってくれている。
ヴォルフの気配が、焚き火の向こうにある。
そして、クラヴィスが、私の中にいてくれる。
一人じゃない。
だから、眠れる。
安心して、眠れる。
(……待ってて。必ず、助けに行くから)
あの子の顔を想い浮かべながら、私は静かに意識を手放した。