余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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35. スープの約束

焚き火の爆ぜる音だけが、薄暗い坑道に響いている。

 

クラヴィスと話し合ってから、どれくらい経っただろう。

 

一緒に戦おうと決めて、反撃の意思を固めて。それからヴォルフが依頼人に連絡を取りに行って、私はここで待っている。

 

私は岩壁に背中を預けて、ぼんやりと揺れる炎を眺めていた。

 

右足は、クラヴィスが治療してくれたおかげで、少しずつ感覚が戻り始めている。

 

まだ痛みはあるけれど、自分の足で立てるだけで十分だ。

 

シロが私の膝の上で丸くなって、微かな電子音を鳴らしている。

 

「……ピュイ」

 

「うん。大丈夫だよ、シロ」

 

頭を撫でると、シロは気持ちよさそうに目を細めた。

 

坑道の入り口の方を見やると、雅さんの小さな影が、闇に溶け込むようにして佇んでいる。

 

雅さんは、ずっとああして見張りを続けてくれている。

 

言葉は少ないけれど、行動の全てが「守る」という一点に向いている。

 

それが分かるだけで、安心できた。

 

《メグ。ヴォルフが戻ってくる》

 

クラヴィスの声が頭の中に響いた。

 

数拍遅れて、坑道の奥から足音が近づいてくる。

 

焚き火の明かりに照らされて、ヴォルフの長身がぬっと現れた。

 

額にはまだ包帯が巻かれているし、動くたびに肋骨を庇うような仕草をしている。

 

でも、その足取りに疲れはあっても、弱さはなかった。

 

「おかえり、ヴォルフ」

 

「……ああ」

 

ヴォルフはそっけなく答えると、焚き火を挟んで私の向かい側にどかりと腰を下ろした。

 

背中を壁に預け、長い足を投げ出す。

 

その動きだけで、肋骨が軋んだのか、わずかに顔をしかめていた。

 

「依頼人と話してたんでしょ? 何か言ってた?」

 

私が聞くと、ヴォルフはしばらく黙っていた。

 

焚き火の炎に照らされた彼の横顔は、いつもより険しく見えたけど、口元にはかすかに――本当にかすかにだけど――笑みが浮かんでいた。

 

「……気になることはあったが、まあ一つだけ確かなのは、依頼の失敗が許されなくなったってことだ」

 

「失敗が許されないって……元々そうだったんじゃないの?」

 

「甘いな、嬢ちゃん。賞金稼ぎの世界じゃ、依頼の失敗は金が入らないってだけの話だ。だが、今回は違う。あの旦那、本気で怒ってやがった」

 

ヴォルフは少しだけ肩をすくめて、焚き火の向こうの私を見た。

 

「伝言も預かってるぞ」

 

「伝言?」

 

「ああ。『ゴーストちゃんがバカなことをしないように、縛ってでも見張っておけ』だとよ」

 

「……えっ」

 

思わず目をぱちくりさせた。

 

縛る? 私を?

 

ヴォルフの依頼人は、私のことをどういう目で見てるんだろう。

 

「ほ、本当に……?」

 

私の動揺した顔を見て、ヴォルフはふっと鼻で笑った。

 

「冗談だ。あの旦那がそんな気の利いたこと言うわけねえだろ」

 

「もう……! 心臓に悪いよ!」

 

「反応が面白いからつい、な」

 

ヴォルフは肩を揺らして笑った。

 

でも、すぐにその笑みが静かなものに変わる。

 

焚き火の炎を見つめながら、彼はぽつりと呟いた。

 

「……お前は依頼人にかなり愛されてるな」

 

「え?」

 

「旦那の声には怒りがあった。それは俺に対してじゃねえ。お前を傷つけた連中に対する怒りだ。報酬のケタも変わった。……桁が一つ、じゃねえぞ。三つだ。三つ」

 

ヴォルフは、まるで信じられないものを見たような顔で指を三本立てた。

 

「正直、あの旦那が人間臭い感情を持ってるとは思ってなかったが、あの声は本物だった」

 

ヴォルフは、そこで一度言葉を切った。

 

焚き火の炎に照らされた彼の横顔に、一瞬だけ、暗い影がよぎる。

 

「……それと、もう一つ」

 

声のトーンが変わった。

 

さっきまでの、どこか楽しげな軽さが消えていた。

 

「旦那は、用件だけ言って、俺が返事する前に回線を切りやがった。普段なら怒鳴り返すところだがな」

 

ヴォルフは、腰のナイフの柄を親指で撫でた。

 

無意識の仕草に見えたけど、その指先には力がこもっていた。

 

「何年もこの稼業をやってりゃ分かる。依頼人が桁違いの金を先払いして、仕事も終わってねえのに回線を叩き切る。……そういう奴が、次にどうなるか」

 

彼は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。

 

「あれは、後始末の匂いがする。自分がいなくなった後のことを考えて、片付けてる奴特有のな」

 

私は息を呑んだ。

 

それはつまり、依頼人が――もう戻ってこないかもしれないと、覚悟しているということ?

 

「ヴォルフ、それって……」

 

「あの旦那が何を考えてるかなんざ、俺にゃ分からん。だが」

 

ヴォルフは視線を焚き火に落とした。

 

「金を積まれた以上、仕事はきっちりやる。それが流儀だ」

 

口ではそう言っている。

 

でも、ヴォルフの声の奥には、ただの仕事の話じゃない温度があった。

 

依頼人との通信を、ただの依頼の確認としてではなく、もっと重い何かとして受け止めている。

 

そんな気がした。

 

ヴォルフの依頼人。

 

顔も名前も知らない。でも、胸の奥のどこかが、妙にざわつく。

 

こんなにも私のことを気にかけてくれるのは、なぜなんだろう。

 

知らない人のはず、なのに――この、かすかに引っかかる感覚は、何なんだろう。

 

そしてその人は今、もう戻れないかもしれない場所に向かおうとしている。

 

ヴォルフの言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

同時に、理由も分からないのに、きゅっと締め付けられるような痛みも感じた。

 

「……ありがとう、教えてくれて」

 

「礼を言うのは俺じゃなくてあの旦那にだろ。さて」

 

ヴォルフは姿勢を正すと、真剣な目で私を見据えた。

 

「依頼人の話はここまでだ。これからのことを話そう、メグ」

 

名前で呼ばれたことに、少しだけ驚いた。

 

いつも「嬢ちゃん」としか呼ばないヴォルフが、私の名前を使った。

 

それだけで、これから始まる会話の重さが伝わってくる。

 

「……うん。その前に、ヴォルフに伝えておきたいことがあるの」

 

私は膝の上のシロを撫でながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「……伝えておきたいこと?」

 

「これから一緒に戦うなら、隠し事はしたくないから」

 

私は深呼吸して、覚悟を決めた。

 

ヴォルフには、研究所にいたことや、追われていることは話してきた。

 

でも、クラヴィスのことだけは、誰にも話すつもりがなかった。

 

誰かを信じる気がなかったから。

 

唯一の例外は、ひかりさん。

 

あの人にだけは、話してもいいと思えた瞬間があった。

 

でも、言わなかった。

 

クラヴィスのことを知れば、ひかりさんは私を助けてくれようとする。

 

ひかりさんまで危険に巻き込むことになる。

 

あの人が穏やかに笑っていられる場所を、私が壊すわけにはいかなかった。

 

それに、クラヴィスの存在が知られたら、対策を打たれる。

 

今の私が逃げ延びてこられたのは、追手がクラヴィスの力を把握しきれていないからだ。

 

その情報が少しでも漏れれば、敵はクラヴィスを封じる手段を用意してくる。

 

だから、誰にも話さなかった。話す気もなかった。

 

でも、あの子を助けるためには、私が持っている手札を共有しなきゃ勝てない。

 

「私の脳の中に、AIがいるの」

 

焚き火が、パチリと音を立てて爆ぜた。

 

ヴォルフは、微動だにしなかった。

 

「名前は、クラヴィス。研究所で私の脳に埋め込まれた、人工知能なんだ」

 

沈黙。

 

ヴォルフの表情は読めなかった。

 

驚いているのか、呆れているのか。

 

怒っているのか、引いているのか。

 

「……クラヴィスは、ずっと私を守ってくれてた。脱出の時も、ホロウの中でも、私が死にそうになった時も。身体の制御を手伝ってくれたり、怪我を治してくれたり……。私がここまで生き延びられたのは、クラヴィスのおかげなの」

 

私は言葉を重ねる。

 

「ヴォルフが前に私と戦った時、私の動きが普通じゃないって感じたでしょ? あれは、クラヴィスが私の知覚や反射速度を引き上げてくれてたから。クラヴィスがいなかったら、あの時だって、私はヴォルフに勝てなかった」

 

全部話し終えて、息を吐く。

 

喉がカラカラだった。

 

ヴォルフは、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

 

「なるほどな」

 

驚きが半分。でも残りの半分は、もっと違う感情だった。

 

納得、だ。

 

彼はバラバラだったパズルのピースが繋がるような顔をしていた。

 

「合点がいった。最初にお前と戦った時、途中から明らかに動きの質が変わったように見えた。怒りや恐怖で覚醒したとかいう話じゃなくてな。まるで、人が変わったみたいだった」

 

ヴォルフは腕を組んで天井を見上げた。

 

「俺が初めて旦那から依頼を受けた時にな。旦那が変な質問をしてきたんだ」

 

「変な質問?」

 

「ああ。『お前が対峙したゴーストは……怯える子供だったか? それとも、冷たい機械だったか?』ってな」

 

私は息を呑んだ。

 

その質問は、クラヴィスの存在を知っている人にしか聞けない問いかけだ。

 

「あの時の俺には意味が分からなかったが、今なら分かる。旦那は、お前の中にいるAI……クラヴィスの状態を確認しようとしていたんだろうな。その判別が旦那には重要だったんだろう」

 

ヴォルフの推察に、クラヴィスが応えるように私の中で小さく呟いた。

 

《……鋭いな、この男》

 

私は、少しだけ嬉しくなる。

 

ヴォルフは気味悪がるどころか、冷静に分析してくれている。

 

「今そのクラヴィスとは、意思疎通は取れるのか?」

 

「うん。ずっとスリープ状態だったんだけど、ついさっき、起きたんだ」

 

「……道理で」

 

ヴォルフは小さく頷いた。

 

「峡谷から廃工場の戦いまで、お前の動きは前回やり合った時より最適化されてなかった。そういうことなら辻褄が合う」

 

私の戦い方の変化まで見抜いていたなんて。

 

やっぱりヴォルフは、プロなんだ。

 

「……気味悪いとか、思わないの?」

 

話し終えた安堵の隙間から、ふと不安がこぼれ落ちた。

 

ヴォルフは、心底呆れたという顔をした。

 

「気味悪い? 今さらだろ。ホロウの外を平気で歩いてるドッペルゲンガーを仲間扱いしてる嬢ちゃんが、脳内にAI飼ってるくらいで何を驚く」

 

「……そういう言い方する?」

 

「事実だろ」

 

ヴォルフはニヤリと笑い、すぐに真顔に戻った。

 

「まあ、打ち明けてくれたのは嬉しいがな。一つ聞かせろ。どうして俺に話した? 今まで誰にも話す気がなかっただろう」

 

私は、真っ直ぐにヴォルフを見つめた。

 

「うん。本当は、誰にも話すつもりなんてなかった」

 

焚き火の炎を見つめる。

 

自分の心を確かめるように、言葉を選んだ。

 

「でも、私はあの子に助けるって約束したから」

 

あの子。

 

同じ顔をして、痛みしか知らなかった、あの子。

 

「私ができることを、使える手札を、仲間に伝えなきゃ何も始まらないと思ったから」

 

ヴォルフは、その言葉を黙って聞いていた。

 

そして、ゆっくりと息を吐くと、真剣な声で言った。

 

「メグ。一つ、はっきりさせておく」

 

彼の目に、冷たい光が宿った。

 

狩人としての、揺るぎない矜持の光。

 

「俺は賞金稼ぎだ。依頼のために、お前の近くにいる。依頼人が変われば、依頼内容も変わる。もし新しい依頼人が『そいつを捕獲しろ』と言えば、俺はその通りにする」

 

その言葉に嘘はなかった。

 

ヴォルフが本気で言っていることが分かる。

 

「つまり、俺にその情報を共有すること自体、リスクになり得るんだ。だから、俺のことを『仲間』だと認識するのは……辞めた方がいい」

 

ヴォルフは、わざと突き放すように言った。

 

診療所で会ったときもそうだった。

 

彼は自分を遠ざけようとしているんだ。

 

私のために。

 

私が傷つかないように。

 

「辞めないよ」

 

私は、迷わずに言った。

 

「私は、賞金稼ぎのヴォルフに言ってるんじゃない」

 

焚き火の向こうにいる彼を、真っ直ぐに見つめる。

 

「ただのヴォルフのことを、仲間だと思って言ってるんだから」

 

ヴォルフの表情が、一瞬だけ固まった。

 

言葉が出てこないみたいだった。

 

口をわずかに開きかけて、閉じて、また開きかけて、閉じる。

 

何か言い返そうとして、でも何を言えばいいのか分からない。

 

そんな、今まで見たことのないヴォルフの姿。

 

次の瞬間、彼は苛立ったように立ち上がり、焚き火を回り込んで私の前まで来ると。

 

「いった!?」

 

頬を、つねられた。

 

「生意気なことを言うのはこの口か」

 

「い、いひゃい! いひゃいって、ヴォルフ!」

 

「これくらいで痛がるな。骨折の半分も痛くねえだろ」

 

ヴォルフは頬をつねったまま、ぶっきらぼうに言った。

 

でも、その力加減はとても優しかった。

 

痛いというよりくすぐったくて、思わず噴き出しそうになる。

 

「ピュイ! ピュイッ!」

 

シロが抗議するように跳ね回り、ヴォルフの手首をぽかぽか叩いている。

 

「うるせえ。お前は黙ってろ、チビ助」

 

ヴォルフはシロを軽くあしらいながら、ようやく私の頬から手を離した。

 

私は、赤くなった頬をさすりながら、でも不思議と嫌な気持ちにはなれなかった。

 

ヴォルフは、焚き火を挟んだ自分の場所に戻ると、大きなため息をついた。

 

そして、しばらく天井を仰いだまま、目を閉じていた。

 

焚き火がパチパチと音を立てる。

 

長い沈黙。

 

やがて、ヴォルフは目を開けて、低い声で話し始めた。

 

「……俺は賞金稼ぎで、これからもそうだ。依頼があれば、誰であろうとそれを受ける。それは変わらねえ」

 

「うん」

 

「だが」

 

彼は、焚き火の向こうからまっすぐに私を見た。

 

「賞金稼ぎの依頼に、複数受けちゃいけないなんてルールはない」

 

その言葉の意味が分かるまで、数秒かかった。

 

分かった瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

ヴォルフは「仲間」という言葉を使わない。

 

「信頼」とも言わない。

 

その代わりに、彼は自分の世界の言葉で、自分のルールで、私のそばにいる理由を作ろうとしてくれている。

 

私は、その気持ちを尊重したかった。

 

彼が「仲間」と呼ばれることを避けるなら、私は無理にそう呼ばない。

 

でも、彼の差し出してくれた手は、ちゃんと握り返す。

 

「ヴォルフ」

 

私は背筋を伸ばして、できるだけ真剣な声で言った。

 

「私のことを、助けてほしい。あの子を助けるためには、私の力だけじゃ足りないから」

 

ヴォルフは、じっと私の目を見つめた。

 

試すような視線ではなく、見定めるような視線だった。

 

やがて、彼はかすかに頷いた。

 

「……賞金稼ぎに依頼をするってことは、報酬も大事だ。お前が俺に支払えるものは?」

 

来た。

 

ここからは、ヴォルフの土俵だ。

 

"仲間"の言葉ではなく、"契約"の言葉で話さなきゃいけない。

 

私は、自分が持っている手札を、正直に並べた。

 

「私の力。この前の戦闘でも使ってたんだけど、私はエーテルを少しだけ操れるの。だから、ホロウ内の状況を把握できるし、相手が見えていなくても、気配を感じ取れる。奇襲されそうな時にも使えるよ。あとは、ホロウから外に出るためのナビゲートもできる」

 

ヴォルフは腕を組んだまま、黙って聞いている。

 

「私の力は、ヴォルフが仕事をする時にきっと役立つと思う。この報酬で、どう?」

 

自信を持って言えた。

 

これは、クラヴィスと二人で積み上げてきた力だ。

 

安売りするつもりはない。

 

だから、ヴォルフの返事にも、自信を持って待てる。

 

「ダメだな」

 

心の準備をしていたのに、あまりにもあっさり却下された。

 

「え?」

 

「報酬はバランスが大事だ。その報酬だと、俺に利がありすぎる」

 

想像と真逆の理由だった。

 

てっきり「そんなもんじゃ足りない」と言われるかと思ったのに。

 

「バランス……? どうしてそれがダメなの?」

 

本気で分からなかった。

 

私はヴォルフを信頼しているし、ヴォルフに力を貸すことに何の迷いもない。

 

私が首を傾げると、ヴォルフは腕組みしたまま、真面目な顔で説明した。

 

「ホロウの状況をリアルタイムで更新できて、敵の位置も把握できて、奇襲を事前に察知できるレーダーを専属で使えるんだぞ?しかもナビゲート付きだ。誰にとっても、喉から手が出るほど欲しい能力だ。そんなものを対価に使われたら、俺はお前に頭が上がらなくなる」

 

「これは報酬なんだから、気にしなくていいのに。私はヴォルフを信頼してるから、いつまでだって力を貸すつもりだよ。どうしてヴォルフが『得しすぎる』なんて気にする必要があるの?」

 

ヴォルフの顔が、分かりやすく歪んだ。

 

言葉に詰まっている。

 

計算高い交渉じゃなくて、ただの信頼をぶつけられて、困っているみたいだった。

 

「……はぁ」

 

大きな、大きなため息。

 

ヴォルフは片手で顔を覆って、心底参ったという声を絞り出した。

 

「お前な……そういうのは、『重い』って言うんだよ」

 

「重い?」

 

「賞金稼ぎには賞金稼ぎの流儀がある。借りっぱなしは、性に合わねえんだ」

 

あくまで自分の矜持の問題だと言い張る。

 

でも、本当はそうじゃないって、私にだって分かる。

 

ヴォルフは、私に借りを作りたくないんじゃない。

 

私が一方的に差し出すことで、いつか私が損をするのが嫌なんだ。

 

診療所で会ったときから変わらない。

 

この人は、不器用に、でも確かに、私のことを気に掛けているのが分かった。

 

「むぅ。じゃあ、ヴォルフは何が欲しいの? 私、お金は持ってないよ」

 

ヴォルフは、腰に下げたナイフの柄を指先で弾いた。

 

考えるふりをしている。

 

もう答えは決まっているみたいだった。

 

「スープだ」

 

「……え?」

 

「二日酔いの朝に飲んだ、アレだ」

 

ヴォルフはまっすぐに私を見て、真剣な声で言った。

 

「この仕事が終わったら、もう一度あれを作れ。具材は俺が一番高いのを用意してやる。……それで手を打ってやるよ」

 

あまりにも予想外の答えに、私は言葉を失った。

 

あの時のスープ。

 

ヴォルフが二日酔いで起き上がれなくて、何も食べられなくて。

 

私がありあわせの材料で作った、ただのスープ。

 

《……まさか、スープが報酬になるとはな》

 

クラヴィスが内心で呆れたような、でもどこか感心したような声を漏らした。

 

「……そんなので、いいの?」

 

思わず拍子抜けした声が出てしまった。

 

すると、ヴォルフの目が鋭くなった。

 

「『そんなので』だと?」

 

怒ったみたいに眉を吊り上げる。

 

「俺の指定したギャラにケチをつけるな」

 

その声は、冗談のようにも本気なようにも聞こえた。

 

スープ一杯に、自分の命を賭ける報酬としての価値を見出している。

 

ううん、違う。

 

スープそのものに価値があるんじゃない。

 

ヴォルフが言っているのは――

 

「それと、もう一つ条件がある」

 

ヴォルフは冗談の色を、完全に消した。

 

焚き火に照らされた彼の瞳は、峡谷を走り抜けた時よりも、傭兵部隊と戦った時よりも、ずっと真剣な光を湛えていた。

 

「必ず、生きて払え」

 

一拍の沈黙。

 

「俺は、死人からの支払いは受け付けてねえんだ」

 

――ああ、そうか。

 

やっぱり、そうだった。

 

スープが報酬なんじゃない。

 

「生きて帰ること」。それが、この契約の本当の意味だ。

 

ヴォルフは、「仲間」とは言わない。

 

「守る」とも言わない。

 

その代わりに、賞金稼ぎの言葉で、「お前は死ぬな」と言ってくれている。

 

回りくどいのが、ヴォルフらしくて。

 

胸の奥が、温かいものでいっぱいになった。

 

泣きそうになるのを、ぐっと堪える。

 

ここで泣いたら、きっとヴォルフは困る。

 

だから、私は笑った。

 

力強く、はっきりと。

 

「分かった。ありがとう、ヴォルフ」

 

私は右手を差し出した。

 

「約束するよ。絶対に、生きて払う。世界一おいしいスープを、作ってみせるから」

 

ヴォルフは、差し出された手を見つめた。

 

その視線が、一瞬だけ、とても優しくなったのを、私は見逃さなかった。

 

彼の大きな手が、私の小さな手を包み込むように握った。

 

ゴツゴツした、傷だらけの手。

 

でも、とても温かかった。

 

「……上等だ」

 

それだけ言って、ヴォルフは手を離した。

 

焚き火が、パチリと弾けた。

 

坑道の入り口で見張りをしていた雅さんが、いつの間にかこちらを振り返っていた。

 

無表情のまま、でもどこか安心したような気配が、かすかに漂っている。

 

シロは私の膝の上で、満足そうに目を細めていた。

 

「ピュイ……」

 

《……良い契約だと思う》

 

クラヴィスの声が、静かに響いた。

 

《あの男は信頼できる。論理ではなく、直感でそう思う。……随分と、私も変わったものだな》

 

(……うん。私も、そう思うよ)

 

焚き火の炎が揺れる。

 

東の空は、まだ暗い。

 

でも、ほんの少しだけ、夜が薄くなり始めていた。

 

「さて、次はあの嬢ちゃんを助けるための具体的な動きについてだな」

 

ヴォルフが膝を叩いて身を乗り出す。

 

「だが、今日はここまでにしとけ。お前の足はまだ完治してねえし、頭も使いすぎだ。作戦会議は明日だ」

 

「でも……」

 

「急いては事を仕損じる、だ。焦って動いて死んだら、俺のスープ代はどうなる」

 

「……分かった」

 

ヴォルフの言う通りだ。

 

今は、できることをやって、休める時に休む。

 

それが、生き延びるってことだから。

 

私は壁に背を預けて、目を閉じた。

 

シロが胸の上で丸くなり、温かい。

 

雅さんが、静かに見守ってくれている。

 

ヴォルフの気配が、焚き火の向こうにある。

 

そして、クラヴィスが、私の中にいてくれる。

 

一人じゃない。

 

だから、眠れる。

 

安心して、眠れる。

 

(……待ってて。必ず、助けに行くから)

 

あの子の顔を想い浮かべながら、私は静かに意識を手放した。

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