余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた   作:夜琥

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今回の話には、4章「ツール・ド・インフェルノ」のネタバレが含まれます。
ネタバレを避けたい方はご注意ください。


36. 鈍い白光の下で

薄曇りの空が、広いガレージの天窓を通して鈍い白光を落としていた。

 

鉄と油の匂い。どこかで電動工具が唸り声を上げ、金属板を叩く音が断続的にガレージ中に響いている。足元には工具箱や解体中のパーツが雑然と散らばっていて、走り屋たちの声がその隙間を縫うように飛び交っていた。

 

私は隅っこに置かれた簡易作業台の前にちんまりと腰を落とし、端末の画面を見つめていた。

 

写っているのは、ホロウの観測データ。

 

私はいま、ホロウで活動するための地図「キャロット」作成のために、観測データを分析していた。

 

ホロウの境界線に近い地帯から、郊外の幹線道路へと抜けるルート。

 

エーテル濃度の変動予測と、エーテリアスの活動パターン。

 

路面の傷みと物理的に通行できない区間。

 

それら全てを加味した上で、最適な走行ルートを弾き出す。

 

キャロットは、ホロウ内における地図であり、ボンプに読み込ませることで、安全にホロウを切り抜けるのに、必要なもの。

 

ホロウの中は時間が経つと、空間が変容するから、定期的に観測データを集めて、更新する必要がある。

 

キャロットという名前だけど、実物は、チップだから、このチップを読み込めるものがあれば、ボンプじゃなくても読み込める。

 

《計算に誤りはない。優先順位通りに提出していい》

 

「うん、分かった」

 

クラヴィスの声が、頭の中で響く。

 

画面を一通り確認して、データを落とし込む。

 

走り屋連盟『トライアンフ』のプロキシとして潜り込んで、まだ数日しか経っていない。

 

膝の上にシロが丸くなっていた。発光パーツには黒いカバーをかぶせて、存在感を消してある。

 

どこにでもいそうなサポートボンプに見えるよう、シロ自身も心がけてくれていた。

 

「ピュイ」

 

シロが小さく鳴く。

 

周囲への警戒を怠らないのは、ずっと変わらない。

 

私はフードを、もう少し深く被り直した。

 

顔の右半分から首にかけて、くすんだ色の包帯が幾重にも巻かれている。

 

走り屋たちや、ここを訪れる客には、包帯の隙間からひどい火傷痕が覗いているように見えているはずだ。

 

実際は、違う。

 

包帯越しの頬に、そっと指先を当てる。

 

人の肌とはほんのわずかに違う感触。体温に近い、でも微妙に表面張力が違う、そのぬくもり。

 

ドッペルゲンガーの雅さんが、ここにいる。

 

私の顔の輪郭を覆うように、溶け込んでいる。

 

「……ありがとう、雅さん」

 

声に出すと、ぬくもりがかすかに揺れた。

 

反射的にエーテルが動く感触だ。

 

ガレージの奥から、走り屋たちの笑い声が流れてきた。

 

***

 

――数日前のことを、思い出す。

 

廃坑道の焚き火の前で、ヴォルフは三本の指を立てた。

 

「現状の問題を整理するぞ」

 

朝が来たばかりの頃だった。

 

空はまだ夜の青さを残していた。

 

「作戦について話すぞ」と言って起こしに来たヴォルフの声に、私は「もう少し」と言いかけた。

 

疲れが溜まっていたのか、あるいは、安心できる環境だからなのか、心地よい眠気に誘われる。

 

それを察したのかシロは、「もっと寝よう?」と言うように、私の身体に軽く体重を掛けてくる。

 

それでも、眠気とシロの誘惑に打ち勝ち、起き上がると、クラヴィスが《おはよう》と静かに告げて、私の体の状態を簡潔に確認してくれた。

 

右足はクラヴィスが治してくれて、問題なく歩けるまで回復していた。

 

だけど、骨折した状態が続いたせいか、治ったのに、少しふらついたり、足に力が入らなかったりする。

 

焚き火の前まで移動し、私はその前に膝を揃えて座った。

 

「でかい問題が三つある」

 

ヴォルフは淡々と言い、まず一本目の指を折った。

 

「一つ目は人手だ」

 

焚き火の向こうで、ヴォルフが言葉を整理するように少し間を置く。

 

「奴らは手段を選ばない連中だ。俺たちだけで正面からぶつかれば、消耗戦になる。あいつらが傭兵を雇い、別の組織を動かせば、数で押し潰される。それを防ぐには、こっちも人手を確保する必要がある」

 

「思い当たる人は……いる。けど」

 

言いかけて、口が止まった。

 

無意識に、ひかりさんの顔が浮かんだ。

 

穏やかで、真っ直ぐな人。

 

頼りたいという気持ちは、ある。

 

ある、けれど――あの人の周りに、危険が近づくことを考えると、喉の奥で何かが固まる。

 

「……天宮だろ」

 

ヴォルフが、静かに言い当てた。

 

責めるような口調じゃなかった。ただ、淡々と事実を示す声だった。

 

「あそこで厄介になってたことは、依頼人から聞いてる。クローンの嬢ちゃんを助けに行くって決めたときから、声をかけるか悩んでたんじゃないのか」

 

「……知ってたんだね」

 

少しだけ、驚いた。

 

ただ、ヴォルフの依頼人はクラヴィスのことを追跡できていた。

 

だとすれば、過去の居場所が割れていても不思議じゃない。論理的に考えれば、納得できる。

 

《当然だな。抜け目のない依頼人なら、複数の手段でメグの動向を追っていたはずだ。情報を握ることは当然の行動だ》

 

クラヴィスの声に、微かな警戒の色があった。私も同じ気持ちだった。

 

「だが」

 

ヴォルフは焚き火に視線を落とし、続けた。

 

「人手を増やすために、わざわざ知り合いに頼む必要はない。俺たちがやられたことを思い出してみろ」

 

傭兵、と私は脳内で呟いた。

 

峡谷で伏撃してきた傭兵部隊。統率された動き、重装甲車両、飽和攻撃。

 

即席の寄せ集めではなく、計画された動き。

 

讃頌会の部隊が主力として動いていたのだと思うけど、車で逃げていたときに、追いかけてきたのは、明らかに現地のならず者に見えた。

 

「傭兵団や賞金稼ぎを雇えば……人は集まる」

 

「そう。金で動く人間はいくらでもいる」

 

ヴォルフは一度頷いてから、今度はまっすぐに私の目を見た。

 

「裏を返せば、俺達も金さえ出せば、同じことができる。だが、こちらから依頼を出せば、足がつく。たとえ筋を通した依頼でも、情報を買われちまえば、俺たちの動きは特定される」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「考え方を変える。依頼を出すんじゃなく、『組織』の一員として動く。『組織』が特定されても、その中の誰がどう動いているかは、なかなか割り出せない。もっと言うなら、奴らと『組織』がドンパチしてくれるなら、俺達が動きやすくなる。どこまで情報を漏らして、どこまで漏らさないか。そのバランスが作戦のキモだ」

 

なるほど、と思った。

 

でも……

 

「ヴォルフの作戦良いと思う。だけど……」

 

私は、焚き火の炎を見つめたまま口を開いた。

 

「その作戦は、私たちが原因で『組織』の人たちが傷つくことを前提にしてるよね」

 

「…そうだ」

 

ヴォルフはバツが悪そうに頷いた。

 

「俺たちが隠れ蓑にすれば、奴らの目はそっちに向く。戦闘になれば死人も出るだろう。いまの俺達は、誰かに泥を被ってもらう覚悟が必要だ」

 

重く、厳しい言葉だった。

 

でも、彼自身もそれを好んで言っているわけではないことが、その表情から伝わってくる。

 

「……関係のない人たちを巻き込むしかないのは分かってる」

 

私は顔を上げ、ヴォルフを真っ直ぐに見た。

 

「でも、犠牲を黙って見過ごすつもりはないよ。……だから、準備しよう」

 

ヴォルフが怪訝そうに眉をひそめる。

 

「情報と隠れ場所をもらう代わりに、私たちが彼らの『生存率』を上げる。私が危険を回避するルートを作って、それでも戦闘で深手を負う人が出たら、死なないように治療する。そのための準備と環境を、私たちが整える。……それなら、一方的に泥を被ってもらうだけの取引じゃなくなるよね?」

 

「……本気で言ってるのか?」

 

ヴォルフは小さく息を吐いたが、その目には鋭い光があった。

 

「本気だよ。私にはクラヴィスがいる。それに……」

 

私は言葉を区切り、足元で丸くなっているシロを見た。

 

「組織に潜り込んで、ルートを提供できる『理由』も、私から示すことができる」

 

「理由、ね」

 

「うん。……プロキシって、知ってる?」

 

私の言葉に、ヴォルフの目が僅かに細められた。

 

「ホロウの案内人か。違法だが、需要は尽きねえ商売だ。それがどうした」

 

「私がプロキシとしてキャロットを提供するの。私が、ホロウ内の状況を把握できるってことは、昨日話したよね。その情報と、シロが集めた観測データとすり合わせて、クラヴィスが演算するの。そうすれば……」

 

「……精度の高い『キャロット』が作れるってことか」

 

「そう。ホロウ内の安全なルートを示すキャロット。私たちは『腕のいいプロキシとその護衛』というカバーストーリーで組織に潜り込む。これなら、怪しまれずに情報を集められると思うんだ」

 

焚き火が、パチリと弾けた。

 

ヴォルフは腕を組んだまま、しばらく押し黙った。

 

炎に照らされたその横顔は、私の提案の実現性とリスクを天秤にかけているようだった。

 

「……悪くないカバーストーリーだ。逃亡者じゃなく、利益をもたらす客として潜り込む。組織にとっても、悪い取引じゃねえ」

 

ヴォルフの言葉に、私は小さく息を吐いて肩の力を抜いた。

 

敵がこちらに使ってきた手を、そっくりそのまま使う。

 

その上で、私たちらしい戦い方を組み込む。

 

「潜り込む先の話をするぞ」

 

ヴォルフが口を開いた。

 

「郊外の走り屋には、いくつものグループがある。で、その頂点に立つ人間がいる。『覇者』だ」

 

ヴォルフは焚き火に小枝をくべながら、淡々と続けた。

 

「今、郊外の覇者と呼ばれてるのは、ポンペイという男だ。『ツール・ド・インフェルノ』を勝ち抜いて、その地位を手にした」

 

「ツール・ド・インフェルノ……」

 

その名前が、私の記憶を刺激した。

 

バイクでホロウを突っ切るレース。

 

勝者が、旧油田エリアにおける走り屋連盟の「覇者」たる地位に就く。

 

「覇者は、郊外の他の走り屋グループに対して運送ルートの選定や安全管理を請け負う。つまり、覇者の下には情報が自然と流れてくる」

 

「情報不足も、そこで補うんだね」

 

「ああ」

 

人手も、情報も、ポンペイさんの組織『トライアンフ』に潜り込むことで一気に動かせる。

 

でも。

 

私の中で、別の記憶が動いていた。

 

「ポンペイさんは……」

 

無意識に口から出ていた。

 

「知ってるのか?」

 

「……名前だけ。義理堅くて、部下からの信頼も厚い人だって」

 

断片的に浮かぶ、ポンペイさんの結末。

 

彼はこれから行なわれる『ツール・ド・インフェルノ』で命を落とす。

 

その原因はルシウス。それとルシウスに忠誠を誓うモルス。

 

ポンペイさんの側近である彼らは、都市の企業と手を結んでいて、ビジネスのために、ポンペイさんにいなくなってほしかった。

 

ルシウスはポンペイさんにエーテル適性を下げる薬を盛ることで、ホロウの中でエーテリアス化を誘発させた。

 

だけど、『知っていた』としても、この記憶に頼りすぎるのは危険だ。

 

私がいま生きている世界は『物語』じゃないんだから。

 

でも、手がかりとして調べてもらうことはできる。

 

《メグ。ルシウスとモルスについて、裏付けが取れている情報がある》

 

クラヴィスが、私の考えを汲み取るように告げた。

 

《二人に関する不審な資金の流れと、都市部の企業との接点を確認済みだ。確度は高い》

 

私は顔を上げた。

 

「ヴォルフ。ポンペイさんは信頼できる人だと思う。……でも、周囲に気をつけなきゃいけない人がいる」

 

「誰だ」

 

「ルシウスとモルスっていう二人。クラヴィスが調べてくれたんだけど、不審な資金の流れがあった。都市の企業との繋がりも確認できてる。ポンペイさんの近くにいるけど、別の思惑で動いてる可能性が高いよ」

 

ヴォルフは腕を組んで、しばらく黙った。

 

「良い情報だ。覚えておく」

 

短い返答だけど、その目は確かに今の情報を刻み込んでいた。

 

「俺たちは今、プロキシとして組織に潜り込むと決めた。だからこそ、その組織のコネを使って地道に情報を集めるのが筋だ」

 

ヴォルフはそう言って、二本目の指を折った。

 

「ここで二つ目の問題、致命的な情報不足と罠のリスクの話に繋がる」

 

「今の俺たちは、敵がどこにいて何を考えているか、ほとんど分からない。クローンの嬢ちゃんがどこにいるかもな。下手に動けば罠にはまる」

 

私が知っていることは多い。

 

ゲームとしてプレイしていた記憶から、誰がどういう結末を迎えるのかも分かる。

 

でも、それは「ゲームとして存在した物語」の話であって、今この瞬間に讃頌会がどこで何をしているかは、分からない。

 

「……私が逃げ出した研究施設なら、場所は今でも覚えてる。そこに何か手掛かりがあるかもしれない」

 

「却下だ」

 

間髪入れず、ヴォルフが遮った。

 

「メグ、お前に逃げられてシステムをぐちゃぐちゃにされた後だぞ。そんな施設をそのまま使ってるとは考えにくい。そこへ直接探りに行くのは、まさに俺が言った『罠』に飛び込むようなもんだ」

 

「…そうだね」

 

ヴォルフは短く頷いた。

 

「焦って手掛かりに飛びつくより、トライアンフに流れてくる噂を拾い集める。地道だが、今はそれが一番確実だ。それに、奴らはお前を狙ってる。お前を探す痕跡が自然と残るはずだ」

 

ヴォルフは三本目の指を折った。

 

「三つ目の問題は、戦力と退路だ」

 

ヴォルフは厳しい顔で、自分の手持ちの装備を見やった。

 

「俺の車はスクラップになった。道具もこの前の戦闘でかなり消費した。やり合うためには、もっと準備する必要がある」

 

さらに、と彼は続ける。

 

「トライアンフに身を潜めるとはいえ、もしあそこに居られなくなった時や、作戦が泥沼化した時のことを考えれば、セーフハウスをいくつか見繕っておく必要もあるな」

 

「さっき話した、トライアンフの人たちのための治療環境とは別に、いざという時に私たちが外へ逃げ込むための拠点だよね」

 

私が確認するように言うと、ヴォルフは頷いた。

 

「そのセーフハウス探しなら、私のほうで力になれるよ」

 

私が言うと、ヴォルフの眉が微かに上がった。

 

「使えるかどうかは、実際に見に行かないと分からないけど、私の能力とクラヴィスの演算で候補があるんだ。シロ経由で送るね」

 

シロがトテトテとヴォルフの方に歩いて行き、短いケーブルで彼の端末と接続した。データが転送される。

 

ヴォルフが端末を覗き込む。

 

しばらく、何も言わなかった。

 

焚き火が、パチリと弾けた。

 

「……ここまで絞り込んで分かるもんなのか」

 

呆れたような声だった。

 

「距離もそこそこ、セーフハウスからセーフハウスへの移動も考慮できてる。ホロウ経由の移動ルート付きか。こりゃ、頭が上がらねえな」

 

どこか感心したような、悔しそうな声に、私は少しだけ嬉しくなった。

 

「昨日話した報酬、こっちにしても良いよ?」

 

私が笑って言うと、ヴォルフは鼻で笑った。

 

「はっ、お断りだ」

 

彼は昨日の夜、私と交わした「スープ」と「生きて帰る」という約束を思い出したように、口角を少しだけ上げた。

 

「この情報を基に、俺がセーフハウスの確認をしてくる。それに加えて、裏工作と物資調達は俺がやるが、時間がかかる。その間、メグ、お前は向こうでプロキシとしての仕事をこなしながら、組織に溶け込んでおけ」

 

ヴォルフは意地悪く笑った。

 

「新入りの腕が立つプロキシとなれば、現場の連中から色々と声がかかるはずだ。中には、お前の能力に目を引かれて『強引』に利用しようと近づいてくるやつも出てくるだろう。そういうやつは大抵、面白い情報を持ってる」

 

私が頷くと、ヴォルフは満足げに鼻を鳴らした。

 

「連絡用に、この端末を渡しておく。情報共有以外にも、いざとなったら連絡しろ」

 

ヴォルフから差し出された端末を受け取る。

 

「任せて。分かったことがあったら、適宜連絡するね」

 

その言葉を合図にするように、ヴォルフは少しだけ空気を変えた。

 

焚き火から視線を外し、私の顔を真っ直ぐに見据える。

 

「最後は、顔の偽装だ」

 

「4つ目もあるんだね」

 

「…まぁいいだろ」

 

ヴォルフの声が一段低くなった。

 

「メグ、そのままの顔で潜り込むのはリスクが高すぎる。讃頌会はお前のデータを流してるはずだ。トライアンフの中に写真を持ってるやつがいれば、すぐに紐付けられる」

 

「……うん」

 

「ただの目視なら、フードを被るなり、マスクを付けるなりで誤魔化せるかもしれないが、相手は都市部の企業と繋がってるような連中だ。監視カメラの顔認証システムを通されたら、骨格データでバレる。メイク程度じゃどうにもならねえ」

 

骨格のデータ。

 

その言葉に、私は思わず自分の顔に触れた。

 

「本来なら、闇医者に頼んで顔のパーツをイジってもらうところだが……」

 

ヴォルフはそこで言葉を区切り、忌々しそうに舌打ちをした。

 

「だが、闇医者に骨格を弄らせれば後戻りはできねえし、ダウンタイムも長すぎる。最悪、今ここで俺がナイフでお前の顔を切り裂いて、強引に輪郭を変えるって手もあるが……」

 

彼はそこまで言って、口をつぐんだ。

 

私の顔をじっと見つめ、わずかに眉間を寄せている。

 

プロとして最善かつ確実な方法を口にしながらも、彼自身、できればそんな手段は取りたくないのだということが痛いほど伝わってきた。

 

彼が私のために非情になろうとしているなら、私は、彼にそんな選択をさせたくない。

 

物理的に顔を傷つけずに、骨格データを歪める方法。

 

「……」

 

私は答えを探しながら、自然と壁に背中を預けている雅さんの方へ視線を向けた。

 

雅さんは腕を組んで、静かにこちらを見つめていた。

 

いつも通りの言葉の少ない気配。ただ、その目は確かに私を見ていた。

 

エーテリアス・ドッペルゲンガー。

 

対象の記憶を読み取り、外見や動きを模倣するエーテリアス。

 

いまは雅さんを模倣しているけど、「模倣する前」はどういう形をしていたっけ。

 

ゆらゆらとエーテルの身体が揺らぐ。

 

思い出した。

 

ドッペルゲンガーの模倣する前は、たしか、スライム状の、エーテルの塊。

 

形が定まっていない、流動体。

 

だとすれば、模倣できるのは人の全体だけじゃない。

 

部分的にだって、大きさだって、変えられるはずだ。

 

「雅さん」

 

私は立ち上がり、彼女の前に歩み寄った。

 

薄い瞳が、静かに私を見下ろす。

 

「私と一つになれる?」

 

問いかけながら、私は自分の両手で、顔全体を覆うように触れた。

 

「人間の形じゃなくて……元の流体に戻って、私の顔を全部覆ってほしいの」

 

雅さんは小首を傾げた。

 

どういう意図あるのか分からないと言うように。

 

「それでね、私の顔をこんな風に変えてほしいんだ」

 

私は雅さんに向かってさらに一歩踏み込み――少し背伸びをするようにして、彼女の額に、自分の額をそっと合わせた。

 

雅さんは、驚いたようにピクリと動きを止めた。

 

目を閉じると、皮膚の接触面から、じわりと温かいものが広がっていく。

 

エーテルの脈動が、私の意志を読み取るように同調し始める。

 

「……おい」

 

ヴォルフの低く、警戒するような声が聞こえた。

 

次の瞬間、額のぬくもりが溶けて崩れた。

 

星見雅という人間の輪郭が、音もなく液状に崩壊していく。

 

形を失った紫がかった半透明の流体が、ゆっくりと私の肌に沿って這い上がってくる。

 

冷たくはない。

 

むしろ不思議なほど穏やかで、温かく包まれるような感覚があった。

 

薄く広がったエーテルの流体が、私の顔全体をすっぽりと覆い尽くし、ピタリと定着する。

 

表面が粟立ち、赤黒く変色していく。

 

「おい!待て!ストップだ!」

 

ヴォルフが勢い良く立ち上がる音がした。

 

「大丈夫だよ」

 

私は振り返って言った。

 

「顔全体を火傷痕にすれば、絶対に私だとはバレないはず」

 

「……まじかよ。やりすぎだ、メグ」

 

ヴォルフは顔を引きつらせ、言葉を失っていた。

 

今の私は、顔のパーツが焼け爛れて判別できない状態にあった。

 

「バレないのは確かだが、それじゃ逆に目立ちすぎる。そんな顔全面がぐちゃぐちゃな奴が来たら、やべぇ奴が来たって無駄に警戒もされる」

 

言われてみれば、たしかに。

 

ホラーゲームとかで出てくるキャラでそんな人がいたら、絶対追いかけられるって思っちゃうもんね。

 

「…そうだな。顔の右半分くらいでいい。調整してみろ」

 

私が念じると、顔の左半分を覆っていた流体がするすると退き、右の頬から首筋にかけての部分だけに留まった。

 

「クラヴィス、これでシステムは誤魔化せる?」

 

《肯定。いまの君は、右の頬骨と顎の輪郭に『厚み』ができている。顔の半分だけでも、骨格データの特徴点は完全に歪む。システム認証は不一致となる》

 

私がそれを伝えると、ヴォルフは深い息を吐き、足元のバックパックを引き寄せた。

 

「システムを欺けるならそれでいい。傷を丸出しにするより、半分だけにして隠す方が、相手の『同情』を引けるんだ」

 

「同情?」

 

「ああ。人間ってのは、あまりにも痛ましい傷跡を見ると、無意識にそこから目を逸らすんだ。完全に隠すより、包帯の隙間からひどい傷がチラついてる方が、『これ以上は深く聞かないでおこう』って心理が働く。……同情と遠慮の壁を作らせるんだよ」

 

ヴォルフは医療キットの中から、使い古されたような薄汚れた色の包帯のロールを取り出した。

 

私の前に立つと、無言で顔の右半分を覆うように、手際よく包帯を巻き始める。

 

右目を塞ぎ、頬骨のラインを隠し、首筋までしっかりと。

 

引き攣れたような火傷痕が、包帯の布地の隙間から痛々しく覗くよう、絶妙なバランスで計算されていた。

 

「……これでいい」

 

最後に、ヴォルフは私の着ているコートのフードを深く被せた。

 

「これで、お前は『重傷を負って逃げ込んできた、ワケあり新人プロキシ』だ。誰も深く詮索しようとは思わなくなる」

 

プロの仕事だった。

 

顔全体を潰すという私の極端な思考を、ヴォルフが『人間の心理』を利用したものに補正してくれた。

 

鏡がなくても、自分が今どういう姿になっているのか想像できる。

 

痛々しくて、近寄りがたい雰囲気を纏っているはずだ。

 

「ありがとう、ヴォルフ」

 

私がそう言うと、ヴォルフは一歩下がり、私の全身を改めて見つめる。

 

「メグ、お前の思考の回り方は、前より格段に鋭くなってる。戦闘だけの話じゃない。フィジカルじゃどうにもならないことを、手持ちの駒でどうにかする。それを実行する判断速度と肚のすわり方は、お前自身のものだ。……ただ、人間の機微については、もう少し学べ。心臓に悪い」

 

「…善処するよ」

 

「それ、しないやつだろ」

 

バレた。

 

私は少しだけ笑った。

 

***

 

トライアンフの拠点に向かったのは、その翌日だった。

 

郊外の旧油田エリアの奥深く。

 

巨大なガレージには、むせ返るようなオイルと排気ガスの匂い、そして走り屋たちの熱気が充満していた。

 

怒声のような笑い声と、金属を叩く重い音が響く中を、私たちは歩いていく。

 

フードを深く被り、右目を隠すように包帯を巻いた私の姿は、周囲の荒くれ者たちの奇異の視線を引いた。

 

けれど、誰も深くは突っ込んでこない。

 

ヴォルフが言った通り「関わらない方がいい厄介者」として、無意識の同情と遠慮の壁が機能しているのが分かった。

 

ガレージの最奥。

 

そこに、彼らを取りまとめる『覇者』がいた。

 

ポンペイさん。

 

巨大な体躯と、歴戦の凄みを感じさせる威圧感。

 

でも、その瞳には野盗のような卑しさはなく、確かな理知と誇りが宿っていた。

 

ヴォルフが、近くにいた若い走り屋に声をかけた。

 

「ポンペイに話がある。取り次いでもらえるか」

 

走り屋は一瞬ヴォルフを値踏みするように見て、それから私の顔に視線を移した。

 

包帯の隙間から覗く、赤黒く爛れたような皮膚。

 

走り屋は一瞬ハッとして、気まずそうに目を逸らした。

 

「……待ってろ」

 

走り屋は短く言って、報告のために奥へ向かった。

 

彼が戻ってくるまでの間、周囲の作業の手が止まり、遠巻きに私たちを窺う視線がいくつも突き刺さってくる。

 

警戒と、値踏みするような目。

 

それでもヴォルフは動じることなく堂々と立ち、私もフードの下で静かに息を整えて待った。

 

しばらくすると、走り屋が戻ってきた。

 

「来い」

 

それだけ言って、先を歩く。

 

ポンペイさんは私たちが近づいても動かなかった。

 

腕を組んだまま、ただこちらを見下ろしている。

 

包帯とフードで隠された私の顔。

 

その鋭い目が、何かを測っているみたいだった。

 

「話があって来た」

 

「聞こう」

 

短い返事だった。

 

「俺はヴォルフ。こっちは護衛対象のプロキシだ」

 

ヴォルフが私の方へ顎をしゃくると、ポンペイさんの視線が再び私へ向いた。

 

フードの下の包帯を一瞬だけ見て、すぐにヴォルフへ戻る。覇者である彼でさえ、無意識に傷への詮索を避けている。

 

「デカい組織に追われてる。逃げ場がなくなって、ここに来た」

 

ヴォルフは単刀直入に言った。

 

「しばらくの間、あんたらのシマに身を置かせてくれないか」

 

ポンペイさんは腕を組んだまま、動かない。

 

重い沈黙が落ちた。ヴォルフも急かさず、私も黙っていた。

 

やがてポンペイさんが、地の底から響くような低い声で言った。

 

「追われてる奴を匿うのは、俺も慣れてる。火の粉が降ってくるなら、それを振り払うだけの力も俺達にはある」

 

そこで言葉を切り、私を一瞥してから、小さく息を吐いた。

 

「そこの小娘一人なら、二つ返事で奥のベッドに寝かせてやった。怪我して逃げ回ってる子供を見捨てるほど、俺達も薄情じゃない」

 

だが、と。

 

ポンペイさんの纏う空気が、一気に鋭く張り詰めた。

 

その鋭利な視線が、今度はヴォルフだけを射抜く。

 

「貴様はどうだ? 賞金稼ぎの小僧」

 

ポンペイさんの口から出た言葉に、私は息を呑んだ。

 

最初から、ヴォルフのことを知ってたんだ。

 

「シマの境界を越えた時点から、貴様が嗅ぎ回ってるって報告は上がってた。それに数日前、郊外で起きた派手なドンパチ……あの現場に、貴様が居たらしいな」

 

「……ああ」

 

ヴォルフは表情を崩さないが、その目がわずかに細められた。

 

「賞金稼ぎが、なぜ怪我をした子供を連れている? 護衛だと言い張るが、俺にはそうは見えない。貴様がデカい獲物を狙ってヘマをし、小娘を巻き込んだんじゃないのか?」

 

ポンペイさんの言葉が、重く圧しかかる。

 

だが、ヴォルフはポンペイさんの圧を真っ向から受け止めながら、淡々と返した。

 

「まず、あんたの言う通り、俺は賞金稼ぎだ。だがいまはこいつの護衛でもある。一緒にいるのはそれが理由だ。そう見えなくてもそれが事実だ」

 

ヴォルフは一呼吸置き、続けて答える。

 

「次に、巻き込んだって話だが、俺等は『巻き込まれた』ってのが正しい。俺もこいつもその影響を受けているだけだ」

 

手札切るかのように、話を続ける。

 

「もしそれでも、俺のことが怪しいって言うなら、いくつか仕事を任せてくれ。危険な仕事でも構わない。あんたらの信頼を得られるなら安いもんだ」

 

ポンペイさんは鼻で笑い、地の底を這うような低い声を出した。

 

「……俺は貴様が名の通った賞金稼ぎだと知っている。どんな汚れ仕事だろうが涼しい顔でこなすだろう。だが、それが何の証明になる?」

 

ポンペイさんの視線が、刃のようにヴォルフを射抜く。

 

ヴォルフの実力を認めているからこそ、小手先の交渉じゃ一切なびかない。

 

取り付く島もなかった。

 

その圧倒的なプレッシャーと揺らがない意思の前に、ヴォルフの表情に微かな焦りの色が走った。

 

彼は思わずといった様子で、隣に立つ私を一瞥した。

 

「……なら、これならどうだ」

 

この場を切り抜けるために、咄嗟に切ってしまったカード。

 

「俺たちが提供できるのは、荒事だけじゃない。この嬢ちゃんはプロキシだ。こいつのナビゲート能力があれば、あんたらのホロウでの活動が格段に安全になる。精度の高いキャロットとナビゲート……互いに悪くない取引のはずだ」

 

「……取引だと?」

 

ポンペイさんの低い声が、ガレージの空気を凍らせた。

 

「小僧、当たり前のように『こいつの能力』だの『俺たち』だのと言っているが、その小娘は、貴様が身を隠すための取引の道具か?」

 

ポンペイさんが一歩、前に出る。

 

巨大な岩が迫るような圧迫感と、明確な殺気がガレージを制圧した。

 

周囲にいた走り屋たちが、一斉に武器へ手をかける。

 

「他人のシマに転がり込むための『ダシ』として、小娘を利用してるんだとしたら……俺が貴様を生かしておく義理はない」

 

「……」

 

ヴォルフは何も言わない。

 

何も言えないんだ。

 

たしかに、私たちはこの「傷」を利用して、同情と遠慮の壁を作ろうとした。

 

ダシにしているというポンペイさんの指摘は、半分当たっている。

 

それに、今のヴォルフはポンペイさんの圧に押され、実際に私を交渉の「ダシ」として提示してしまった。

 

だから、下手に言い訳をしてボロを出さないようにしてるんだ。

 

ヴォルフは、コートの下でかすかに重心を落とした。

 

一触即発の状況。

 

この空気を黙って見過ごすわけにはいかない。

 

同情を引こうとしたのは事実だ。

 

でも、私はヴォルフに脅されているわけでも、無理やり連れ回されているわけでもない。

 

「違います」

 

私の声が、ガレージに響く。

 

ポンペイさんの視線が、私に突き刺さった。

 

「この人は、私を傷つけたり、脅して利用したりなんてしていません」

 

「ほう?」

 

「情報と拠点が必要で……私が、彼を雇ったんです。それに数日前の争いは、私が原因で起こったもので、私が彼を巻き込みました」

 

ポンペイさんは、少しだけ目を細めた。

 

名のある賞金稼ぎを巻き込み、数日前の戦いを起こした元凶が、私だって言うんだ。

 

普通なら信じられない。

 

それでも、威圧感に押し潰されそうになりながらも、私は視線を逸らさなかった。

 

「私の言葉じゃ信じてもらえないと思ったから、彼に交渉を頼みました。ポンペイさんに不快な思いをさせたのならごめんなさい。……でもこれは本当です。私は誰かに利用されてる道具じゃない。私自身の意志で、ここに来たんです」

 

威圧感に耐えながら、私は言葉を紡ぐ。

 

「私ができることは全部やります。ホロウの観測も、ルート計算も。もし怪我人が出たら、治療のお手伝いだってします」

 

追手から逃げ切るためにここに来たんじゃない。

 

「ただ身を隠して、震えて過ごすための場所を探しに来たわけじゃありません。自分たちの足で立ち向かうために来たんです。……だから」

 

大きく、息を吸い込む。

 

「私たちを、ここに置いてください。戦うための準備をするために、トライアンフという足場が必要なんです」

 

静まり返ったガレージに、自分の声だけが響いた。

 

隣で、ヴォルフが微かに息を呑む気配がした。

 

ポンペイさんは、じっと私の目を見下ろしたまま動かなかった。

 

嘘や虚勢を暴こうとするような、鋭く重い眼光。

 

私はそれに耐え、決して視線を逸らさなかった。

 

十秒、あるいはそれ以上の重い沈黙。

 

やがて、ポンペイさんはフッと短く息を吐いた。

 

ガレージを支配していた張り詰めた殺気が、ゆっくりと霧散していく。

 

「逃げ隠れるための穴ぐらじゃなく……戦うための足場を探しに来た、か」

 

「はい」

 

私が真っ直ぐに頷くと、ポンペイさんは短く鼻を鳴らした。

 

「万が一、俺たちのせいでトライアンフに火の粉が降りかかるようなことがあれば――その時は迷わず俺たちを追手に売ってくれて構わない」

 

ヴォルフが、私の覚悟を裏打ちするように静かに言い、情報端末を差し出した。

 

「嬢ちゃんの言葉がハッタリかどうか。まずはこいつが作ったキャロットを見て判断してくれ」

 

端末を受け取ったのは背後に控えていたルシウスだった。

 

画面を見た彼の目が、驚きに見開かれる。

 

「……親分。恐ろしい精度です。輸送ルートのために俺達が調査していたデータと照らし合わせても、齟齬がない。それどころか……このキャロットのルートを使えば、物資の輸送回数を増やせそうだ」

 

ポンペイさんが画面を一瞥し、私に尋ねた。

 

「小娘、本当に貴様が作ったのか。なぜこんなに精度が出る」

 

「データの読み方です」

 

私は慎重に答えた。

 

「エーテル濃度の変動は、前日の変動量も引きずります。それを重ねて予測を立て、道の傷みや水没区間を避ければ、自然とルートが絞れます」

 

本当は、シロの観測データに加えて、私の『アンテナ』が拾うホロウの気配をクラヴィスが演算しているからこその精度だ。

 

だけど、今はそれ以上の種明かしは必要ない。ポンペイさんたちが「精度が高い」と感じてくれればそれで十分だ。

 

ポンペイさんはしばらく黙考し、懐から煙草を取り出して火をつけた。

 

紫煙がゆっくりと天窓の光の中を流れていく。

 

やがて煙草を指に挟み、私を見た。

 

「トライアンフは、貴様らを歓迎しよう」

 

一拍、置いた。

 

「だが、小娘。それは貴様のキャロットがあるからじゃない」

 

「え……?」

 

「逃げ場を探して震えてるだけの奴でも、俺たちは見捨てない。牙を折らない奴なら、なおさらだ。俺はいま、貴様らの『覚悟』を見た。必要なだけ頼ればいい。見返りなんぞ求めない」

 

私はポンペイさんのことを物語の中でしか知らなかった。

 

彼が慕われている理由も文字でしか知らなかった。

 

でも、今は違う。

 

ポンペイさんが慕われている理由は、きっとこういうところだ。

 

『価値』じゃなくて、『人』として見てくれる。

 

『カリスマ』があるっていう言葉は少しだけ陳腐すぎるかもしれないけど。

 

この人に付いていきたいと思わせる、確かな器の大きさがそこにあった。

 

「……ありがとうございます」

 

声が少しかすれた。

 

ポンペイさんは短く頷き、ヴォルフと一度だけ視線を交わして、奥の作業場へと戻っていった。

 

***

 

「―――おい、メグ。聞いてるか?」

 

不意に鼓膜を叩いた声に、私は意識を現実へと引き戻された。

 

『メグ』

 

私の名前は、すでにトライアンフの中で広がっていた。

 

本当は適当な偽名を使うつもりだったけど、ポンペイさんの重圧に耐え抜いた後だったからか、思わず本当の名前を口にしてしまった。

 

だけど今思えば、あそこで偽名を使っていれば、ポンペイさんに簡単に見透かされ、切り捨てられていたかもしれない。

 

だから、結果的に良かったんだ。

 

そういうことにしておこう。

 

鼻腔を突くのは、変わらない鉄と油の匂い。

 

だが、耳に届く電動工具の音や走り屋たちの声は、数日前のように私を威圧するものではなくなっていた。

 

「……ごめん。ちょっと考え事してた。なんだっけ、トウカ」

 

私が振り返ると、油まみれのスパナを片手に持ったトウカが、呆れたような顔で立っていた。

 

彼女のもう片方の手には、よく冷えた缶の栄養飲料が握られている。

 

トウカは、ポンペイさんとの交渉の後、張り詰めた糸が切れて座り込みそうになった私を、無言で支えて休む場所を手配してくれた人だ。

 

それ以来、このガレージで何かと私のことを気に掛けてくれている。

 

「ほら、休憩しろ。根を詰めすぎだ」

 

「ありがとう」

 

受け取ろうと、端末から目を離して立ち上がった瞬間、身体がかすかにふらついた。

 

クラヴィスが治してくれた右足。痛みはもうない。

 

なのに、折れたまま過ごした記憶が身体に染みついているのか、ふとした拍子にバランスが崩れる。

 

無意識に右足をかばう癖が、まだ抜けない。

 

「おっと……大丈夫か。そこ座ってろ」

 

トウカが慌てて手を伸ばし、私を木箱へ座らせ直した。

 

そのまま彼女も私の隣に腰を下ろし、冷えた缶を押し付けてくる。

 

受け取った缶の冷たさが、熱を持っていた思考を少しだけ冷やしてくれた。

 

トウカはモニターに表示された私がたった今完成させたキャロットのデータを顎でしゃくった。

 

「さっき先発の輸送組が帰還したんだが……アンタのキャロット、本当に別格だな。予定より二時間も早かったぞ。しかも無傷だ」

 

《当然だ。私の演算と君の観測に狂いはない》

 

脳内でクラヴィスの誇らしげな声が響く。私は少しだけ口元を緩めた。

 

「エーテルの濃いエリアを迂回できる道を見つけたんだ。でも、それをあのスピードで突破できるのは、トライアンフの運転技術があってこそだよ」

 

私がそう口にすると、ガレージの奥でバイクの整備をしていた若い走り屋たちが、一斉にこちらを向いてニヤリと笑った。

 

「おうよ! メグちゃんのナビがあれば、目隠ししてたってかっ飛ばせるぜ!」

 

「今度、街に出たら美味いもんでも奢らせてくれや!」

 

口々に飛んでくる荒っぽい、けれど裏表のない労いの言葉。

 

「そういう律儀なところ、嫌いじゃないけどな。素直に褒められとけよ」

 

トウカは短く笑うと、ふと声を落とし、私の顔の右半分――包帯とフードの影に視線を向けた。

 

「……これだけ優秀な腕を持って、まだこれからだってのに」

 

トウカが前を向いたまま、静かに言う。

 

「事情は深く聞かないが……そんな重傷を負わせた奴には、腹が立つよ。でも、ここにいる間は安全だ。親分が一度匿うと決めたら、誰がどう言っても追い出さない。……だから、ここではもう遠慮なんかいらない。うちのバカ共も、すっかりアンタの腕に惚れ込んでるしな」

 

私は何も言わず、ただ短く頷いた。

 

膝の上で息を潜めていたシロが、空気の緩みを感じ取ったのか「ピュイ」と小さく鳴いて、私の手首にすり寄ってきた。

 

私は、偽装した火傷痕を隠すために深く被っていたフードを、ほんの少しだけ後ろにずらした。

 

それだけで、ガレージの鈍い白光が少しだけ明るく感じられる。

 

ここに来て、まだ数日。

 

トライアンフのみんなは、私を年齢や境遇ではなく、出した『結果』を評価し、輪の中に入れてくれた。

 

ガレージの隅では、ヴォルフがいつも使っているワイヤーアンカーの手入れをしながら、静かに目を光らせている。彼もまた、あの交渉の後から「荒事」を自ら引き受け、その実力で周囲を黙らせていた。

 

缶のプルタブを開け、冷たい液体を喉に流し込む。

 

ひんやりとした感覚と共に、胸の奥に確かな実感が広がっていく。

 

逃げ回るだけの日々は終わった。

 

あの子を助けるために。

 

圧倒的な暴力や権力に対抗するためには、まず自分が立つための強固な地盤がいる。

 

むせ返るようなオイルの匂いと、荒削りな笑い声が響くこのガレージ。

 

ここが今の、私の足場だ。

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