余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
自ら泥を被る覚悟を決めたあの日から、あっという間に時間が過ぎていった。
いよいよ明日は、『ツール・ド・インフェルノ』の本番だ。
トライアンフに加入してから、私とヴォルフは反撃の準備を進めていた。
私は連日のように、ルシウス以外の走り屋たちと一緒にホロウへ出ていた。
キャロットを提供するだけでなく、私自身が案内役として彼らのバイクの後ろや、バギーの助手席に乗り込む。
「メグちゃんのおかげで、今日も大助かりだぜ! これで明日の親分の勝利も盤石だな!」
ホロウから抜け出した直後、ゴーグルを額に押し上げた若い走り屋が、屈託のない笑顔で私にペットボトルの水を投げてよこした。
「ありがとう」
受け取った水は生温かかったけれど、彼らの気さくな態度は、私の心に不思議な安心感をもたらしてくれた。
ポンペイさんという巨大な傘の下で、彼らはただ純粋に明日を信じ、仲間を信じて生きている。
だからこそ、胸の奥がチクリと痛む。
ルシウスがポンペイさんを裏切り、この場所を壊そうとしていることを。
彼らに共有できたらどんなに楽だろう。
でも、共有したところで意味がない。単に混乱を生むだけだ。
(彼らを守るためにも……私が、やらなきゃ)
生温かい水を喉に流し込みながら、私はギュッとペットボトルを握りしめた。
***
夕暮れ時。
拠点内は、いつもとは違うピリついた空気に包まれていた。
機材の影を歩いていると、走り屋たちのヒソヒソとした噂話が耳に入ってくる。
『おい、聞いたか? モルスのアニキが、カリュドーンの子の連中に盗聴器を仕掛けてたのがバレたらしいぞ』
『親分、カンカンだぜ……』
私は機材の影に息を潜めた。
ポンペイさんの近くのシロを経由して声が流れてくる。
『ポンペイの親分、これ。新しいルート割り当てのリストです。親分に言われた通り、新規開拓した輸送ルートの何本かはカリュドーンの子に振っておきましたよ』
ルシウスの穏やかな声。
『そこに置いておけ』
ポンペイさんの声は、地鳴りのように低く重かった。
『親分、あの新規ルートを拓くのにはけっこう骨を折ってきた気がするんですけど……良いんですか? 連中にあげちゃって』
『モルスの野郎が小賢しいマネをしなければ、不要な手間ではあったかもしれんな』
ポンペイさんの言葉に、室内の空気が張り詰めたのが音声だけでも伝わってきた。
『ところで、ヤツはこの件をあいつ自身の独断専行だと言っていたが……ルシウス、貴様はどう思う?』
『そりゃあ、親分……モルスだってまあ、あれでチームの利益を考えての行動だったわけで……』
『フン、答えになっとらんな。俺の気のせいか? 貴様はこの件にあまり動じていないと見える』
鋭い指摘。ポンペイさんは、ルシウスの腹の底にある淀みに気づきかけている。
『勝利に貪欲であることは、必ずしも悪ではない。だが俺たちは覇者なのだ。仁義に照らして、超えてはならん一線がある。走り屋連盟が強固であることは、油田の安全にとって必要なこと……それを無視して利益などというものはない。身内同士でゴタついている隙を、誰かにつけこまれんとも限らんだろう』
覇者としての、揺るぎない信念。
『それと貴様……ここのところ、ずいぶん都市の企業と懇ろにやっているみたいだな』
『お、親分! そんな言い方はないですよ……ハハ!』 ルシウスは慌てたように笑った。
『採油プラント用に手配した防護服に問題があったんですって。どうにかする必要に迫られてのことで……』
『そうだといいがな。ルシウス、貴様は頭が回り、野心もあるが……目先の利益を焦りすぎる。賢さにあぐらをかいて、道を誤るなよ』
『ゴホッ! ゴホッ……』
突然、ポンペイさんの激しい咳き込みが聞こえた。
『フン……この書類の束には終わりというものがない! 近頃はいつにも増して疲れやすいが……俺も歳には逆らえないということか?』
『またまた……近頃は「ツール・ド・インフェルノ」のことにかかりきりですからね。そっちに気を持っていかれているんですよ』
『ククク……それもそうだ。あのシーザーって小娘はなかなか面白いが……まだ俺も取って代わらせてやるつもりはないからな』
『ですが、親分……もうそろそろ、働きすぎもほどほどにしてもらわないと。何たって――』
コトリ、と。グラスをテーブルに置くような音がした。
『最高に盛り上がるイベントが控えてるのに……ガス欠になられちゃ困りますから』
その言葉を聞いて、私の心臓が冷たく跳ねた。
ルシウスの計画が、また一つ取り返しのつかない形で進行していく。
ポンペイさんの命が、削られていく。
でもまだだ。ここで動いちゃいけない。
***
夜。
私たちに割り当てられた、油の匂いが染み付いた薄暗い部屋。
ガラクタで作られた簡素なテーブルにホロウの立体地図を広げ、ヴォルフがランタンの灯りの下でコンバットナイフの手入れをしていた。
部屋の隅では、雅さんが流体化を解いて静かに佇み、シロはベッドの端で丸くなっている。
「いよいよ、明日だね」
自分でも驚くほど、硬い声が出た。
ベッドに腰掛けた私は、無意識のうちに自分の両手を強く、ひどく強く握りしめていた。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みを感じるほどに。
「ああ」
ヴォルフは手元のナイフから視線を外さず、布で刃を拭いながら低い声で応えた。
「俺たちはスタートを見届けたらすぐにホロウに入る。ルートはお前の『目』と頭の中にあるキャロット頼みだ。ルシウスが仕掛ける罠の先回りをして、ポンペイを引っこ抜く」
「……うん」
私は握りしめていた拳を、そっと開いた。
掌には、爪の跡が三日月のように残っている。
『心拍数の上昇を確認。メグ、過度の緊張は判断を鈍らせる。深呼吸を推奨する』
脳内で響くクラヴィスの冷静な声に、私はゆっくりと息を吐き出した。
「私たちが何もしなければ、ポンペイさんは死ぬ。……郊外の火が、消えちゃうから」
ヴォルフはナイフを鞘に収めると、鋭い眼光で私を見据えた。
「なら、やるだけだ。俺達はポンペイを回収して、ホロウの外で侵食の治療をする。お前が調べてくれた拠点は確認済みだ。シンダーグローレイクとの距離を考えれば、ここが一番近い」
「……うん。絶対に、助けよう」
小さく頷いた時、自分の手がもう震えていないことに気がついた。
ルシウスの悪意も、ポンペイさんの運命も、私たちが全部ひっくり返す。
ポンペイさんを救い出し、この郊外のトライアンフの火を守るために。
***
『ツール・ド・インフェルノ』開幕の朝。
スタート会場は、熱狂の坩堝と化していた。
「親分! ぶっちぎってきてくだせえ!!」
「トライアンフ! トライアンフ!」
私たちトライアンフの陣営はもちろん、他の走り屋たちや、郊外の住人たちが喉が裂けんばかりの歓声を上げている。
私とヴォルフは、その熱狂の渦から少し離れた機材トラックの影に立っていた。
怪しまれないよう、スタート前のポンペイさんたちを見送るためだ。
群衆の中心には、覇者たる風格を漂わせるポンペイさんの姿があった。
そしてその少し後ろには、涼しい顔をしてバイクに跨るルシウスと、無言の圧力を放つモルス。
ポンペイさんが手を上げると、地鳴りのような歓声がさらに一段階跳ね上がった。
私は深く被ったフードの奥から、そっと視線を横へずらした。
そこにはレースに出場する「カリュドーンの子」の面々が陣取っている。
リーダーのシーザー。頭脳のルーシー。 そして――無敗のチャンピオン、ライト。
(あの人たちが、私が引いたルートを通る……)
何も知らない彼らが、ルシウスの張った罠に突っ込んでいく。
それを分かっていながら見送る罪悪感で、胸が締め付けられそうになり、私は無意識に彼らをじっと見つめてしまっていた。
その時だった。
スッ、と。
マシンの調整をしていたライトが顔を上げ、一直線にこちらを見た。
(……っ)
フードを深く被り、顔の右半分の「火傷痕」を隠すように俯き加減で立っている私は、どう見ても不審者だっただろう。
彼と一瞬、はっきりと目が合った。
サングラス越しの彼の視線は鋭く、私の存在を正確に捉えていた。
「……おい、メグ。目立ってどうする」
横に立つヴォルフが、私の肩をポンと叩いた。
ハッとして視線を下げると、スタートのシグナルが鳴り響いた。
鼓膜を破るような爆音と共に、ポンペイさんたちと、カリュドーンの子のバイクは走り出す。
「……よし、行くぞ」
「うん」
私たちは熱狂する群衆に紛れるようにして、静かにその場を離脱した。
大会運営の監視カメラや、他の走り屋たちの目を避け、あらかじめ見繕っておいた死角からホロウへと向かう。
「乗れ。振り落とされるなよ」
ホロウの境界線を前に、ヴォルフはエンジンを低く唸らせながら言った。
私はヴォルフの後ろに跨り、彼のジャケットをしっかりと掴む。
私の顔を覆う雅さんの流体が、ホロウの空気に触れてわずかに引き締まるのを感じた。
「ルートのナビは頼んだぜ、メグ」
「任せて」
耳に装着したインカムのスイッチを入れる。
ヴォルフのバイクが、深い闇とエーテルの粒子が漂うホロウの内部へと一気に跳躍した。
『メグ。事前のキャロットデータと現在の地形の差異は許容範囲内だ。このまま直進後、二つ目の分岐を左だ』
「ヴォルフ、そのまま直進。次の次の分岐を、左」
脳内に響くクラヴィスの演算結果と、私自身の「アンテナ」が捉えるエーテルの流れを統合し、インカム越しにヴォルフへ的確な指示を出していく。
「了解だ。……後ろの乗り心地はどうだ?」
「悪くないよ。でもちょっとだけお尻が痛いかも」
「はっ、それはどうしようもないな!」
インカム越しに聞こえるヴォルフの軽口に、少しだけ肩の力が抜ける。
複雑な地層と、うねるような道の隙間を、ヴォルフのバイクは針の穴を通すような正確さで駆け抜けていく。
私たちは、ルシウスが仕掛けた罠のポイントを迂回し、一気にポンペイさんの元へ向かう「裏道」を着実に進んでいた。
順調だった。
このままいけば、最悪の事態が起こる前に間に合う。
そう思っていた。
――その時だ。
『……っ!?』
前方の遠くから、重く鈍い音が響いた。
物理的な爆発音だけじゃない。
それよりも早く、私の脳を直接殴りつけるような、強烈なエーテルの揺らぎが押し寄せてきた。
「くっ……!」
急激なエーテルのゆらぎ。
視界がぐにゃりと歪み、強烈な眩暈に襲われる。
私は耐えきれず、クラッとしてヴォルフの広い背中に額を打ち付けた。
「メグ! どうした!?」
インカムからヴォルフの焦った声が響き、バイクの速度が落ちる。
「平気……っ。今の大きな爆発で……酔っただけ……!」
息を整えながら、私はギュッと目を閉じた。
爆発があった方角。
そこは、私がルシウスに危険だと教えたポイントと一致している。
ルシウスが、罠を作動させたんだ。
「カリュドーンの子」が、あの爆発の直撃を受けた。
(……大丈夫。彼らは無事なはずだよ。ゲームでも、あの爆発で彼らはやられたりしなかった)
自分にそう言い聞かせようとして、ふと、嫌な考えが脳裏をよぎる。
原作のルシウスの罠は、どこか甘かった。
でも、今回は違う。
私が、もっとも効果的で、もっとも逃げ場のない「正確なルート」をルシウスに提供してしまった。
私のせいで、罠の精度が上がっていたとしたら?
「……ヴォルフ」
嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、私は前方の岩場を睨みつけた。
裏道を進む私たちのルートは、ルシウスの罠が仕掛けられた峡谷のポイントを上部から見下ろす形で交差する。
立ち込める黒煙と、鼻を突く焦げた匂いが、ホロウの空気と混ざり合って息苦しかった。
「……下だ。見下ろすなよ、メグ」
ヴォルフがインカム越しに低く警告した。
でも、私は見ずにはいられなかった。
自分のしたことの「結果」から、目を背けられるほど私は図太くなかったからだ。
崖の縁を走り抜ける一瞬。
土煙の向こう側に、私の「アンテナ」ははっきりと彼らの姿を捉えた。
(嘘……)
視界の端に映った惨状に、私は息を呑んだ。
本来であれば、彼らは爆発に巻き込まれるものの、バイクは致命的な損傷負わないはずだった。 しかし、転がっている彼らのバイクは、無惨にひしゃげ、炎を上げて大破していた。
シーザーの盾は大きく割れ、彼女自身も膝をついて肩で息をしている。
いつも余裕を見せているライトでさえ、額から血を流し、周囲を警戒し油断なく構えていた。
そして、何よりも私の心臓を冷たく掴んだのは――
シーザーの背後に庇われるようにして、ルーシーが倒れていた。
頭部と脇腹から夥しい血を流し、ぐったりと動かない。
彼女のイノシシのシリオンたちが、パニックを起こしたように周囲をうろついている。
『メグ。対象の生命反応が低下している。致命傷に至る確率は――』
「分かってる……!」
私はクラヴィスの無機質な報告を遮り、両手でヴォルフのジャケットをきつく握りしめた。
痛いのは嫌だ。誰かが痛がっているのを見るのも嫌だった。
それなのに、私が彼らをこんな目に遭わせた。
私が、ルシウスに「正確」なデータを渡してしまったから。
『……お前が引いたルートで、「カリュドーンの子」は罠に嵌まる。お前が加害者になった事実は変わらねぇ』
前日、拠点で作戦を立てていた時のヴォルフの声が、脳内にフラッシュバックする。
泥を被る覚悟はできていたつもりだった。
でも、実際に自分の手で誰かを死の淵に追いやってしまった現実の重みは、想像を絶していた。
「……ヴォルフ」
震える声で、私は彼を呼んだ。
「ルートを……変えて。カリュドーンの子たちを……先に助けよう」
バイクのエンジン音が、一瞬だけ唸りを上げた。
『……メグ、お前の考えていることは大体分かる』
インカムから響くヴォルフの声は、氷のように冷たく、そして鋭かった。
『あえて言うぞ。今ここで寄り道すれば、ポンペイのところへ着く時間が確実に遅れる。ポンペイがエーテリアス化して、助けられなくなるかもしれない』
分かっている。ヴォルフの言うことは全て正しい。
でも、このまま見捨てて行くことは、絶対にできない。
「分かってる……っ、でも、このままじゃ……! ……医療物資だけでも、渡させて……!」
震える声だったが、私の言葉には、自分でも驚くほどの熱がこもっていた。
数秒の重い沈黙。
バイクは崖の縁を走り続け、彼らの姿が後方へと遠ざかろうとしていた。
『……チッ』
インカム越しに、ヴォルフが盛大に舌打ちをする音が聞こえた。
『お前のその甘さ……嫌いじゃねえよ。けどな覚えとけ。その甘さが報われねぇこともある。本当に助けたい相手を『選ぶ』ことも必要だ』
ヴォルフの声は厳しかったが、どこか私の不器用な願いを尊重してくれているような響きがあった。
『今回はとことん付き合ってやる。だが勘違いするなよ、優先すべきはポンペイの命だ! これでポンペイが死んだら、俺たちが腹を括った意味が全部パーになる。こっからは1秒も無駄にはできねえぞ!』
ヴォルフはバイクを急旋回させ、崖の急斜面を一気に駆け下り始めた。
「ヴォルフ……!」
『近づけば確実にドンパチすることになる。戦闘を避けて、どうやって物資を渡す気だ?』
斜面を滑り降りながら、私は急いで背負っていたバッグから、ポンペイさんのために準備した医療キットを取り出した。
「クラヴィス! カリュドーンの子の通信を拾って、次の動きを教えて!」
『了解した。パエトーンの専用回線の暗号通信を浅いレイヤーで傍受……対象はルーシーの応急処置のため、現在地から最も安全な右方の岩棚エリアへの一時退避を試みると予測される』
「ヴォルフ、あっちの右の岩棚のルートに寄って! 彼らが来るより先に、道筋に物資を置いていく!」
『ああ!』
ヴォルフのバイクが咆哮を上げ、瓦礫を蹴散らしながら、彼らが向かうであろう退避ルートを先回りする。
私は岩棚の中央にある、嫌でも目につく平らな岩を見つけ、渾身の力を振り絞って医療キットの入ったバッグを放り投げた。
岩の上にバッグが着地したのを見届けると同時に、ヴォルフはバイクのアクセルを全開にし、一気に加速した。
遠ざかる背後で、先行して退避ルートを探っていたパエトーンのボンプ『イアス』がバッグを発見し、シーザーたちに知らせている気配が、アンテナの感覚でわずかに分かった。
「……ありがとう、ヴォルフ」インカム越しに伝えると、ヴォルフは鼻で笑った。
『ここから先は俺の運転でロスタイムを取り戻す。舌噛むなよ!』
ヴォルフのバイクは、エンジンの悲鳴のような音を上げながら、シンダーグローレイクを目指して限界速度で駆け抜けていく。
私は顔の右半分で熱を帯びる雅さんの流体を感じながら、前方の深い闇を見据えた。
***
ヴォルフのバイクがシンダーグローレイクへと迫っていく。
その道中、クラヴィスがルシウスの通信を傍受し、現地の音声が私に届く。
『カリュドーンの子め。決着をつけると息巻いておきながら…なんとも退屈なレースだったな』
息も絶え絶えなポンペイさんの声。
『せっかく親分が目をかけてやっていたのに…シーザーめ、やる気がないにもほどがありますねえ』
ルシウスの白々しい同調。
『フン、だが退屈も結構なことだ。少なくとも数年は、火の湖を心配しなくていいのだからな』
カラン、と。
何か重たいものが投げ込まれる音がした。ポンペイさんが「火打石」を投げ入れた音だ。
『……どういうことだ? エーテル結晶が大量に現れたぞ!?』
『「エーテル重合融媒」……遊離状態にあるエーテル粒子の結晶化を促す代物です。都市の企業が、エーテルの生産量を増やすために開発した技術ですよ。この場所の特異な環境では、さぞ効果があるでしょうねえ』
『ルシウス、まさか貴様――』
『そうですよ、ポンペイの親分。あなたの火打石は僕がすり替えておきました。火の湖はまもなく完全に消えます。……ああ、そうそう。この触媒を使うと、付近のエーテル濃度が急激に上昇するんです。特に「エーテル適応体質異常」の人には……深刻な結果をもたらすでしょうね』
『うぐっ――!! ルシウス、貴様よくも――断じて許さぬ!』
直後、肉を斬り裂くような音と、ルシウスのくぐもった呻き声が聞こえた。
「……っ!」
ヴォルフのバイクがシンダーグローレイクにつながる空洞へ飛び込んだ瞬間、肌を刺すような異常なエーテル圧に、私は思わず息を呑んだ。
空間全体が紫色に歪んで見えるほど、周囲のエーテル濃度が爆発的に高まっている。
そして視界の先、熱気を放つ巨大な火口の淵に、片膝をついてうずくまる巨体があった。
ルシウスは自身の右頬から流れる血を拭いながら、悪びれずに笑い声を上げた。
薬で力を奪われながらも、ポンペイさんが反撃した証だ。
「おいおい……よくも僕の右頬に傷を増やしてくれたな! 怪物め……ここまで侵蝕が進んでいて、まだこれだけのパワーがあるとは!」
「貴様なんぞに期待していたとは……俺の目はとんだ節穴だったようだ。都市のエーテル企業と結託することが……どんな結果をもたらすか貴様は分かっているのか?」
「やだなあ親分……みんながみんな、あんたみたく古臭い自由と仁義を信じてるなんて……まさか思ってないよな? 弱者も、能無しも、もうとっくに時代から見捨てられてるんだよ! エーテルの力さえあれば、僕はリーダーのいない郊外に新たな秩序を打ち立てられる! 僕の指先ひとつで動く王国をな!」
その時、ルシウスの通信端末が鳴った。別行動をとっているモルスからの報告だ。
『ボス、カリュドーンの子の痕跡です。奴らはもうすぐシンダーグローレイクに到達するかと』
「なに? あれだけの火薬があって、奴らを葬り去れなかったのか?」
ルシウスが忌々しそうに舌打ちした瞬間。
「ポンペイさん!」
私が叫ぶと同時に、ヴォルフがバイクをスライドさせながら急ブレーキをかける。
ルシウスが、私たちの乱入に弾かれたように振り返った。
「なっ……お前たちが、なんでここにいる!!」
ルシウスの張り付けていた余裕の笑みが剥がれ、驚愕に顔を歪ませた。
私たちがここに来ることなんて、彼の計画には存在しなかったはずだ。
「テメェに教える義理はねえよッ!!」
バイクが完全に止まるより早く、ヴォルフが地を蹴った。
同時に射出されたヴォルフがいつも使っているワイヤーアンカーが、殺気を纏ってルシウスの喉元へ迫る。
「チィッ……!」
ルシウスが咄嗟に身を躱し、腕のプロテクターでワイヤーの先端を弾き返す。
火花が散り、激しい金属音が響き渡る。
そのままヴォルフがワイヤーを操り、彼を強引に引きつけている隙に、私はバイクから飛び降りてポンペイさんの元へ走った。
「ポンペイさん! しっかりして!」
「……プロ、キシ……か」
ポンペイさんが、濁り始めた瞳で私を見た。
その声は掠れ、ひどく苦しそうだった。
その首筋から顔の半分にかけて、無機質な紫色のエーテル結晶が皮膚を突き破るように生え出している。
荒い呼吸をするたびに、口からは黒い靄のような濃密なエーテルが吐き出されていた。
ポンペイさんが苦悶に顔を歪める。 私はポンペイさんの背中に手を添えた。
「いいから、話さないで! 今、なんとかするから……!」
「よせ……俺から、離れろ……っ。巻き込まれるぞ……」
ポンペイさんは私を突き放そうとしたが、もう腕に力が入っていないようだった。
彼の視線が、私の肩越しに、火の勢いが弱まりつつあるシンダーグローレイクの火口へと向けられる。
「俺は、もう……ダメだ。だが……火を、絶やしてはならん。あの火は、郊外の……命だ……。シンダーグローレイクを……頼む……」
覇者としての責任だけが、かろうじて彼を人間の形に留めているようだった。
その言葉を聞いて、私は火口を見つめた。
エーテル結晶の浸食によって、天然ガスの炎が今にも消えかかっている。
(火打石……特殊燃料が詰められたあの箱を投げ入れないと、火が消えちゃう!)
でも、私の手元にはない。
あの火打石を持っているのは、レースに出場している二つのチームだけだ。
さっきルシウスたちの通信で聞いた通り、カリュドーンの子は間違いなくこちらに向かってきている。
(でも……あんな大怪我をしたルーシーを抱えて、本当に間に合うの……?)
ポンペイさんの侵蝕は、秒単位で進行している。
このままじゃ、ポンペイさんがエーテリアスになって、火も消えてしまう。
私とヴォルフだけでは、この火をどうすることもできない。
「……ッ、チィ! 時間切れだ!」
ヴォルフと鍔迫り合いをしていたルシウスが、後方へ跳躍して距離を取った。
彼は忌々しそうに頬の血を拭い、うずくまるポンペイさんを冷酷に見下ろした。
「カリュドーンの子が来るなら、ひとまず撤退するしかないか。この目で火の湖の消滅を拝めたら90点だったんだけど……これじゃいいとこ60点だ。それに、ここでお前たちの相手をしてる暇もない」
ルシウスは一歩下がりながら、まるで路傍の石を蹴り飛ばすような軽薄な口調で言った。
「すみませんねぇ、ポンペイの親分。どうやらお別れしなくちゃいけないみたいなんで……いまラクにしてあげますよ、と言いたいところですが」
ルシウスはワイヤーを構え直すヴォルフを忌々しそうに一瞥し、そして口角を醜く歪ませた。
「ハハハ……! 親分、これで終わっちゃうのは悔しいですよねえ? 『カリュドーンの子』と決着をつけないままってのは。親分がエーテリアスになって、そこの邪魔者ごとあいつらを片付けてくれれば一石二鳥だ。せいぜい、最後まで僕の役に立ってくださいよ」
ルシウスが、暗闇の奥へ素早く撤退していく。
ヴォルフが舌打ちをして追おうとしたが、私はそれを強い声で引き止めた。
「ヴォルフ!!」
振り返ったヴォルフと、視線が交差する。
ポンペイさんを助け、火を守るために、今誰が何をすべきか。
「予定変更! ポンペイさんを運び出してる時間はない!今ここで治療するよ!」
「……ッ、ここでか!? このエーテル濃度じゃ、お前までどうにかなっちまうぞ!」
「火を守るためにいま無理しないといけないの! 私は実験のおかげで耐性があるから大丈夫!カリュドーンの子のフォローに行って! 彼らを、絶対にここまで連れてきて!」
ヴォルフは険しい顔で舌打ちをした後、獰猛な笑みを浮かべた。
「ハッ!」
ヴォルフはバイクに跨りながら、鋭い視線で私を射抜いた。
「……本当に、やれんだな?」
「信じて!」
私は真っ直ぐ力強い声で頷いた。
「……死ぬなよ!」
ヴォルフがバイクを反転させ、凄まじい爆音と共にカリュドーンの子たちがいる方向へと走り去っていく。
私はポンペイさんに向き直り、大きく息を吸い込んだ。
「……大丈夫。ポンペイさんは死なせないし、火も消させない。私がやるんだ」
私は顔の右半分に意識を集中した。
偽装していた火傷痕が、ドロリと崩れて流体となり、私の傍らで人の形を成していく。
これまでは、私の記憶にある最強の虚狩り、星見雅の姿を模倣していた。
けれど。
私の血と、ナノマシンと、彼女自身の意志。
流体が組み上がり、新たな形をとる。
星見雅の面影は消え去り――そこに立ったのは、濃密な黒と薄紫のエーテルを纏った、少女の姿だった。
重々しいものじゃない。
エーテルが人の輪郭を成し、夜の闇が揺らめくように彼女を包み込んでいる。
その顔立ちには私の面影が強く残っていたけど、ふわりと揺れる薄紫のエーテルの髪は私とは違い、足元まで届くほど長くたなびいている。
身体を覆う影も私の着ているコートの形ではなく、星の瞬く夜空――私がこれまで幾度となく見上げてきたあの夜の闇を、しなやかなドレスのように纏った、凛とした姿だった。
私の血から生まれ、私と重なり合って生きる、幻ではない現実の家族。
「護衛は、お願いね。雅さん……ううん、『カサネ』」
カサネは、声なき声で応えるように小さく揺らめくと、その腕から鋭利なエーテルの刃を形成し、私を守るように立ちはだかった。
背中の守りは、彼女がいれば完璧だ。
私はポンペイさんの背中に両手を強く押し当て、自分の中のナノマシンとエーテルを限界まで活性化させる。
「よし。治療を始めよう。私が絶対に繋ぎ止めてみせる」