余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
変電施設での一件から、数日が経った。
クラヴィスは完全に修復され、ホロウ探索の成功率も格段に上がっている。
彼の演算はより速く、より正確になり、私の「アンテナ」が捉える不快なノイズも、以前よりずっと鮮明な「危険信号」として脳内で処理されるようになった。
私の日常にも、僅かな変化があった。
廃墟で見つけた、旧文明の古い音楽プレイヤー。
クラヴィスの修復で余った部品と、私の拙い知識で修理したそれは、今では私の唯一の娯楽だった。
イヤホンを耳に差し込めば、外界の騒音も、まとわりつくような都市の喧騒も、全てが遠ざかっていく。
そこにあるのは、チリチリとしたノイズ混じりの音楽と、脳内に直接響くクラヴィスの声だけ。それが、私の世界の全てだった。
《その音楽データは、君の脳のストレスレベルを平均7%低下させる。合理的だ。継続を許可する》
「…別に、あなたに許可されなくても聴く」
イヤホンから流れる、知らない誰かの優しい歌声を聞きながら、私は小さく言い返す。
二人の間には、以前にはなかった、そんな軽口のようなやり取りが、僅かながら生まれていた。
彼は私の看守であり、生命維持装置であり、そして、今では唯一の話し相手だった。
そんな、ほとんど平穏と呼んでもいいような静寂を、クラヴィスの声が破った。
《警告。私の演算能力にボトルネックを検知した》
「ボトルネック?どういうこと?」
《君の脳…『アンテナ』が捉えるエーテル信号は、極めてアナログで、非論理的な情報だ。君が『ざわざわする』と表現する感覚もその一つだ。私はそれをデジタルデータに変換し、未来予測モデルを構築しているが、この変換プロセスが私の全リソースの40%を消費している。これがボトルネックだ》
「じゃあ、どうすれば…」
《現状のハードウェアでは、より高レベルなホロウでの生存予測に支障が出る。予測精度向上のため、この変換プロセスを専門に行う外部ハードウェア…『認知処理ユニット』が必要だ。それがあれば、私のリソースは予測そのものに集中でき、君の生存確率は大幅に向上する》
脳内に、古びた建物の設計図が表示される。旧市街の、今は使われていないデータセンター。
巨大なサーバーが墓石のように立ち並ぶ、情報の墓場。
「…人がいる場所?」
私の声が、無意識に強張る。
《否定。記録上、この施設は3年前に完全閉鎖されている。夜間に侵入すれば、誰とも遭遇するリスクは極めて低い》
クラヴィスの予測は、いつだって正しい。私は彼の言葉を信じ、新たな「狩り」へと向かう準備を始めた。
***
夜。データセンターは、クラヴィスの言う通り、静寂に包まれていた。
高い天井、どこまでも続くサーバーラックの列。時折、どこからか吹き込む風が、空のケーブルを揺らして、幽霊の囁きのような音を立てるだけだった。
《目標のユニットは最下層の第7サーバー。急げ》
私は、音を殺して進む。
この場所は、施設に少しだけ似ていた。
けれど、ここにはあの忌わしい研究員たちの視線はない。それだけで、私の心は少しだけ軽かった。
最下層にたどり着き、目的のサーバーラックを見つけ出す。クラヴィスの指示通りにパネルを開け、古びたユニットに手を伸ばした、その瞬間だった。
ウウウウウウウウウウウウッ!
けたたましいサイレンが鳴り響き、建物全体が、まるで巨大な獣が身震いするかのように激しく揺れた。
「なに…!?地震…?」
《否定!これはホロウの突発的な発生だ!このエリアは安定しているはず…計算外だ!緊急脱出ルートを再計算!》
壁や床が、粘土のようにぐにゃりと歪み始める。
天井からはコンクリートの破片が降り注ぎ、空間そのものが、不気味な紫色に変質していく。
世界の法則が、目の前で壊れていく。
***
同じ頃、データセンターの別区画。クラヴィスのスキャンした公的記録には存在しない、『人間』がいた。
施設は3年前に閉鎖された後、安値で再開発業者に買い取られ、ごく最近になって、浮浪者やジャンク漁りを追い払うためだけの、最低限の警備が配置されたのだ。
その三流警備会社の契約社員である中年の男性は、急なシフトと預け先のない幼い娘という、やむを得ない事情を抱え、休憩室で娘を待たせて夜間の巡回にあたっていた。
その最中、突然のホロウ化に巻き込まれたのだ。
「マナ!」
父親は娘の名を叫びながら、歪む廊下を休憩室に向かって必死に走る。
壁が歪み、床が抜ける。
悪夢のような光景の中、彼は娘のことだけを考えていた。休憩室のドアを蹴破ると、怯えて隅で泣いている娘の姿があった。
「パパ!」
「大丈夫だ、パパが来たからな!こっちだ、急げ!」
父親は娘の手を強く引いて走り出す。
「パパ、怖いよぉ!あっ、私のウサギさんの人形が…!」
混乱の中、娘は大切に抱きしめていた、片耳が取れかかったウサギの人形を落としてしまう。拾いに行く暇などない。
父親は娘の手をさらに強く引き、必死に出口を探す。
しかし、行く手には異形の怪物、エーテリアスが次々と生まれ出て、彼らを頑丈な防火シャッターの前へと追い詰めていった。
***
私は、クラヴィスが示す唯一の安全ルートを必死に走っていた。私の頭にあるのは、ただ「生き延びたい」という一心だけ。
崩れ落ちる瓦礫を避け、歪む床を飛び越える。
その途中、床に落ちている小さな、片耳の取れかかったウサギの人形が目に入った。
「…壊れてる。私みたい…」
まるで、讃頌会に「最高傑作」と呼ばれながらも、人間として壊れてしまった自分自身を見ているようだった。
私は、ほとんど衝動的にそれを拾い上げ、パーカーのポケットにねじ込んだ。
《前方、敵性反応多数。だが、右手の巨大ホログラム広告の電源に干渉すれば、陽動が可能だ》
私は言われるがままに、壁の制御パネルに触れる。
クラヴィスがシステムに介入し、巨大な広告がけたたましい音楽と共に、激しく明滅を始めた。
私の逃走経路の先には、頑丈な防火シャッターがあった。
「シャッターが…!開かない!」
《落ち着け。私が緊急開放コードを送信する。3秒だけ開く。その隙に駆け抜けろ!》
クラヴィスがシャッターをハッキングし、重い音を立ててシャッターが上がり始める。私はその隙間に滑り込み、闇の中へと消えていった。
***
父と娘が防火シャッターの前で絶望していた、その時だった。
突如、建物の奥からけたたましい音楽と、目を眩ませるほどの強い光が放たれた。
それに気を取られたかのように、彼らを追い詰めていたエーテリアスたちが、一斉に光の方向へと向きを変え、去っていく。
「な、なんだ…?」
父親が呆然としていると、今度は目の前の、固く閉ざされていたはずのシャッターが、重い音を立ててゆっくりと上がり始めた。
「今だ!行けるぞ!」
父親は娘の手を引き、その奇跡的な隙間から脱出する。
彼らが最後に見たのは、シャッターの向こうを駆け抜けていく、小さなフードの影だけだった。
***
「……怖かった」
隠れ家に戻った私は、床に倒れ込むように座り込んだ。ポケットから、先ほど拾った片耳のウサギ人形が転がり出る。
《不明。君の行動は非合理的だ。生存に不要な物体を回収する意味はない》
私はクラヴィスの言葉を無視し、人形の取れかかった耳をじっと見つめる。そして、クラヴィスの修復のために集めていた道具箱から、小さな針と糸を取り出した。
「…あなたを直すための道具だけど…少しだけ、借りるね」
私は、サバイバルのために覚えた不器用だが確かな手つきで、人形の耳を丁寧に縫い付け始めた。
それは、私が初めて「自分のため」でも「生きるため」でもなく、ただ、壊れたものを癒すために行う、静かな作業だった。
修復が終わった人形を、私はしばらく膝の上で眺めていた。
もう壊れていない。ちゃんとした、ウサギの人形だ。不器用な縫い目は、なんだか温かい。
けれど、その温かさが、私の胸をちくりと刺した。
これを持っていることは、あの恐怖の夜を思い出させるだけじゃない。
見知らぬ誰かとの、細くて、でも確かな「繋がり」が生まれてしまった証拠だ。
繋がりは優しさと同じ。
いつか私を裏切り、傷つけるための罠だ。施設で、私はそれを骨の髄まで教え込まれた。
《その物体をどうするつもりだ?所有し続けることは、君の精神安定に悪影響を及ぼす可能性がある。破棄を推奨する》
「…わからない。でも、捨てるのは、嫌」
壊れていたものを、ただ元に戻しただけ。
でもそれをゴミのように捨てることは、できなかった。
私は、綺麗に修復したウサギの人形を、隠れ家の隅、自分の寝床のそばにある小さな棚に、そっと置いた。
捨てることはできなかった。
でも、ポケットに入れて持ち歩くには、この人形が象徴する「繋がり」はあまりにも温かくて怖すぎた。
だからここに置く。
いつでも見えるけれど、すぐに手は届かない場所に。
この温かい気持ちを忘れてしまわないように。でも、決してそれに溺れてしまわないように。
壊れたままの私と、もう壊れていないあなたとの、境界線。
誰にも見せるためではない。ただ、自分だけが見える場所に、ささやかに飾ったのだ。
***
避難所で、父親が治安局の職員に興奮気味に話している。娘は、失くした人形のせいで泣きじゃくっていた。
「信じられないかもしれないが、本当なんだ!突然、化け物があっちに行ったかと思ったら、開かないはずのシャッターが…まるで、誰かが道を開けてくれたみたいに…!最後に、フードを被った小さな子の影が見えたんだ…!あの子、まだあの中にいるかもしれない!頼む、探してやってくれ!」
この父親の必死の通報を受け、治安局は半信半疑ながらも、ホロウ化したデータセンター跡地の捜索を行うが、子供の痕跡は見つからない。
公式には「生存者の見間違い」として処理されたが、彼の話は口コミで広がり、「ホロウで人を助ける、謎の影」という都市伝説が生まれる。
一方、裏社会では、ニコが倉庫街で経験した「幸運な偶然」のような、説明のつかないシステムエラーの噂が囁かれ始めていた。
痕跡を残さないその手口から、一部のハッカーはそれを「ゴースト」の仕業ではないかと冗談めかして語っていた。
二つの全く異なる都市伝説。その中心にいるのが、たった一人の孤独な少女であることを、まだ誰も知らない。
そして、彼女の隠れ家には、いつか持ち主の元へ帰る日を待つ、一体のウサギの人形が静かに眠っている。