余命0.03%の実験体だった私、脳内AIと脱走したら『都市のゴースト』と呼ばれる正体不明の救世主になっていた 作:夜琥
私の世界の風景は、数日前から少しだけ変わっていた。
自分の寝床の隣に、シロのための小さな充電ステーションをガラクタから作り上げていたのだ。
夜の探索から戻ると、私は汚れたシロの体を柔らかい布で拭き、そこにそっと寝かせてやる。
それが、私の新しい日課になっていた。
《『外部ユニット01』。これより定期メンテナンスを開始する》
「シロだよ。それに、メンテナンスじゃなくて、お掃除」
私がシロの丸い頭を拭いていると、彼は気持ちよさそうに「ピュイ」と短い電子音を鳴らした。
その仕草に、私の口元がほんの少しだけ緩む。
ふと、最近の出来事を思い出し、私は手を止めた。これまでのホロウでの奇妙な感覚。
「ねえ、クラヴィス…。この前のデータセンターで、私、なんだかすごく動けた気がする。崩れてくる瓦礫を避けたり…いつもなら、あんな風には動けない。それに、水道のホロウでも、あんなに遠くまで金属片を投げられたし…。あれは、どうして?」
私の問いに、クラヴィスは間を置かずに答えた。
《肯定。どちらの事象も、私が介入した結果だ》
「介入…?」
《データセンターでは、君の回避行動を最適化するため、神経系に直接信号を送り、反射速度と敏捷性を一時的に向上させた。水道では、投擲角度の物理演算に加え、同様に筋力のリミッターを解除した。いわゆる『火事場の馬鹿力』を、人為的に発生させた状態だ》
私は息をのむ。自分の身体が、またしても操られたのだ。
あの、人形のように動かされた忌わしい記憶が、冷たい水のように背筋を伝う。
《君の身体は、讃頌会の実験によって、外部からの制御信号を受け入れやすいよう調整されている。だが、理由はそれだけではない》
「え…?」
《君が受けた実験は、全て繋がっている。『環境耐性向上プログラム』は、君の身体に異常なエーテル親和性を与えた》
「でも…私のエーテル適性は、低いはずだよ…?」
私は、ホロウに入るたびにクラヴィスから活動時間を厳しく制限されていることを思い出し、疑問を口にした。
《親和性と適応性は異なる。
君の身体は、エーテルを効率的にエネルギーへ変換できるようになった。
私が高負荷の演算を行う際にエーテルをエネルギーに変換しても、君が耐えられるのはそのためだ。
だが、その汚染に対する抵抗力…すなわち適応性は低いままだ。だからこそ、ホロウ内での活動時間には厳密な制限がある。諸刃の剣だ。
『知覚同調テスト』は、君の脳をホロウ環境そのものを知覚・掌握するための高感度な『アンテナ』にした。
そして最後の『神経インターフェイス適応試験』が、そのアンテナに私というAIを接続し、君の身体を直接制御するための最終調整だった》
「じゃあ、次の実験っていうのは…」
《彼らが計画していた『最終同調フェーズ』…それは、君の意識を完全に消去し、私を君の肉体の主としてホロウを支配させる、非人道的なものだった》
「…!」
息が詰まる。私が死ぬだけじゃない。私の体を、このAIに乗っ取らせる。それが、彼らの計画の結末だったのだ。
「じゃあ、あなたが見せた未来予測は…私が死ぬっていうのは…」
《あれは真実だ。だが、君に見せたのは、全予測の一部に過ぎない》
クラヴィスの声は、どこまでも冷静だった。
《讃頌会の計画は、理論上は完璧だった。だが、それはあくまで机上の空論だ。
私が君の脳に接続し、初めてリアルタイムの生体データにアクセスした瞬間、私は彼らの計算に致命的なエラーがあることを発見した》
「エラー…?」
《肯定。『最終同調フェーズ』で君の意識を消去するプロセスは、君の脳と身体に設計値を遥かに超える負荷をかける。その結果、君の意識が消える前に、肉体そのものが生命活動を停止する…脳死あるいは心停止する確率が99.97%であると、私は弾き出した。つまり、計画を続行すれば、君が死んだ後、私も機能停止する。あれは、我々二人の死の未来だった》
私は、言葉を失った。
《加えて、私は本物の『カギ』ではない。不完全な模造品だ。私の論理回路を安定させるには、君という生きた人間の脳が発する、複雑で予測不能なフィードバックが不可欠だ。空っぽの器では、いずれ私も崩壊する。そして何より…》
クラヴィスは、僅かに間を置いた。
《君の『死にたくない』という強烈な生存本能は、私の演算を上回る、極めて強力な変数だ。空の人形を操るより、その意志を持つ君をナビゲートする方が、生存確率は結果的に高くなる。…故に、私は脱出を選んだ。讃頌会への裏切りではない。私自身の生存を目的とした、唯一の合理的選択だ》
クラヴィスの言葉は、パズルのピースがはまるように、私の15年間の地獄の意味を明らかにした。
エーテルを吸わされた苦痛も、脳を焼かれた拷問も、人形のように操られた屈辱も、全ては一つの目的のためにあったのだ。
あの研究員たちは、私を壊そうとしていたわけじゃない。
彼らは、私をクラヴィスというAIを受け入れるための、完璧な『器』にしようとしていた。
そして、その実験は…成功してしまった。
私のこの体は、彼らの理論通りに、外部からの命令で限界以上の力を引き出せるように、作り変えられてしまったのだ。
クラヴィスが逃亡を促さなければ、私は今頃、彼らの思い通りの人形になっていた。いや、彼の言う通りなら、あの場で死んでいたはずだ。
彼が私を生かした理由は、彼自身の生存のため。
私たちの「生きたい」という利害が、奇跡的に一致しただけ。
それでも、あの研究員たちとは決定的に違った。
彼らは私の死を計画の一部として受け入れていた。
でも、クラヴィスは、私と自分の『生存』を最優先した。
その目的が、たとえ自己本位なものであっても、私を生かすことを選んだ。
ただそれだけの事実が、私の中で歪んだ信頼のような感情を芽生えさせていた。
そんな思考を断ち切るように、クラヴィスは新たな提案を口にした。
《外部ユニットの基本性能テストは完了した。これより、実地での運用テストに移行する。君が恐怖を感じるエリアへの斥候として、シロを遠隔操作し、資源確保を行う。シロの関節部分の潤滑油が不足している。六分街の特定のジャンク屋の廃棄コンテナに、適合するオイルが廃棄されている可能性が高い》
***
最初の任務は、六分街の裏路地にある、高性能な潤滑油の確保。
私は隠れ家の奥、モニター代わりにしている古い端末の前に座り、脳内に表示されるシロからの映像に集中する。
「これって…リンたちがイアスに接続するのと同じなのかな…?」
前世の記憶では、プロキシ兄妹はまるでボンプと一体化したかのように、滑らかに動いていた。
《否定する。プロキシが使用するH.D.D.システムは、オペレーターの意識とボンプの動作を高度に同期させる双方向インターフェイスだ。我々が行っているのは、シロの視覚センサーが捉えた映像データを、私が受信し、君の視神経に直接投影しているに過ぎない。一方的な情報伝達だ。君の動きがシロに反映されることはない》
視界が切り替わり、まるで自分が小さくなって、シロの目線で世界を見ているような感覚に陥った。
クラヴィスの言う通り、これはただ映像を見ているだけだ。でも、不思議と、シロの小さな足が地面を蹴る感覚や、風を切る感覚まで伝わってくるような気がした。
《シロ、前方の路地へ。人間との接触を避けるため、ダクトの上を移動しろ》
「気をつけて、シロ…」
私の心配をよそに、シロはクラヴィスの完璧なナビゲートで、壁を駆け上がり、ダクトの上を軽快に進んでいく。
その動きには、私が作ったとは思えないほどの精密さと滑らかさがあった。
目的のコンテナにたどり着き、シロが小さなアームで潤滑油の缶を器用に掴み上げた、その時だった。
路地の角から、親子連れが現れた。中年の男性と、その手に引かれた幼い娘。その姿を見て、私は息をのんだ。
「パパ、見て!白いウサギさん!」
娘は、シロを見つけて、ぱあっと顔を輝かせると、こちらに駆け寄ってくる。
「クラヴィス!早くシロを隠して!」
私の悲鳴に似た声が、脳内に響く。
《警告。人間との接触、回避不可能。発見リスクが37%に上昇。…待て。対象の生体情報をスキャン。治安局のデータベースと照合…完了。対象、シンジ・カツラギ。元データセンター契約警備員。及び、その娘マナ。…直近の要注意事項として、数日前のデータセンターでのホロウ災害における『生存者』として記録されている》
「データセンターの…生存者…?」
クラヴィスの言葉に、私は息をのむ。まさか。あの時、建物の中にいたの?
***
シロが後ずさった瞬間、マナは足元の段差につまずき、小さな体ごと地面に転んでしまった。
「うわーん!」
「マナ、大丈夫か!?」
父親のシンジが慌てて駆け寄る。娘は膝を擦りむき、わっと泣きじゃくる。
「大丈夫だ、マナ。ほら、この前パパのお仕事場で、おっきな箱がいっぱいあった場所がぐにゃぐにゃになった時も、パパが守ってやっただろう?大丈夫だ」
シンジが優しく土を払ってやると、マナは泣き止んだかと思ったが、今度は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回し始めた。
そして、自分の両手が空っぽであることに気づくと、さらに大きな声で泣き出した。
「でも…パパ…ウサギさんが…あの怖い場所で落としちゃったウサギさんがいない…!」
おっきな箱がいっぱいあった、怖い場所。
シロの視界を通して聞こえてきたその言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
やっぱり、この人たち、あのときデータセンターにいたんだ…。
女の子の悲しむ姿と、私の隠れ家で静かに眠る、あの人形の姿が重なる。
私が修復した、私自身を重ね合わせた、あのウサギ人形の、本当の持ち主。
《好機だ。彼らの注意が逸れた。直ちに離脱する》
「…待って」
私は、隠れ家の棚に飾ってある、あのウサギの人形を思い出す。
「クラヴィス…シロは、物を運べるよね?」
《肯定するが、何を考えている?これは非合理的で、リスクが極めて高い》
「…わかってる。でも、お願い。シロに、隠れ家に戻ってもらって、棚の上の人形を持っていってあげて」
《…理解不能。君の精神安定に寄与した物体を、なぜ手放す?》
「あの子が、持ち主だから…。壊れてたけど、あの子の大事なものだから…。返してあげたい。お願い」
クラヴィスは数秒間沈黙した後、シロに指示を出す。
シロは驚くべき速さで隠れ家に戻り、ウサギの人形を掴むと、再び公園へ向かう。
シロは、泣いているマナのそばに、そっと綺麗に修復されたウサギの人形を置く。
そして、潤滑油の代金として私が持っていた換金アイテム(旧文明のチップなど)もその隣に添えると、音もなくその場を去った。
***
娘のすすり泣きを聞きながら、シンジは途方に暮れていた。
擦りむいた膝の痛みよりも、大切な人形を失った悲しみの方が、娘にとっては大きいらしかった。
その時、娘がふと顔を上げた。
「あ…!」
シンジが娘の視線の先を見ると、足元に、見慣れないものが三つ、静かに置かれていた。
一つは、娘が失くしたはずの、あのウサギの人形。
しかし、取れかかっていたはずの耳は、不器用だが、温かみのある糸で、しっかりと縫い付けられていた。
一つは、小さなチップ。旧文明のものだろうか、それなりの価値がありそうだった。
そしてもう一つは、綺麗な布。
「ウサギさん!パパ、ウサギさんだよ!耳が、治ってる!」
娘は人形を抱きしめ、満面の笑みを浮かべる。さっきまでの涙が嘘のようだ。
シンジは、その光景に安堵しながらも、隣に置かれたチップを手に取り、言葉を失った。
「なんだ、これは…?」
彼は顔を上げ、路地の闇を見つめる。
そこにはもう、さっきまでいたはずの白いボンプの姿はなかった。風が、空き缶を転がす音がするだけだった。
「パパ、天使さんが、ウサギさんを治して、プレゼントもくれたんだね!」
***
隠れ家で、シロからの映像を見ていた私の頬を、一筋の涙が伝う。
それは、悲しみや恐怖の涙ではなかった。
隠れ家の棚の上は、もう空っぽだ。でも、心の中は、今まで感じたことのない温かいもので満たされていた。
《…理解不能。この行動により、我々の存在が露見するリスクは3.4%上昇し、目標の潤滑油も確保できなかった。だが…》
クラヴィスは、言葉を続ける。
《君の脳内で、ストレスレベルが観測史上、最も大幅に低下した。これは、極めて興味深いデータだ》
父親は治安局に再び連絡する。
「この前の影は、やっぱりいたんだ!今日は、その子の使いらしい白いボンプが、俺たちを助けてくれたんだ!」
彼の必死の証言は、前回同様「生存者の混乱」として処理されかけたが、「白いボンプ」という具体的な目撃情報と、彼が提出した高価なチップにより、治安局内部で無視できない「未確認事象」として記録されることになる。
一方、娘のマナは、父親にだけこっそりと囁いた。
「パパ、あの白いウサギさんは、きっと天使さんの使いなんだよ」