自由病   作:original

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揺籃の灰燼

 少年がその“一線”に踏み込んでしまったのは、父親と喧嘩をして家を飛び出し、夢中で足を動かしていたからだった。

 

 黄色と黒の警戒テープが千切れかかった鉄条網。そこを潜り抜けて見えたその場所は、風の音すら途絶えた深い沈黙の森の中だった。立ち枯れた樹木の幹はまるで悶絶から身を捩るように捻じれ、ふと上を見上げると異様な程に先の尖ったの枝の先が何本も連なっていた。その枝の先を二本の尾を持ったカラスがギャアギャアと飛び去って行った。少年が息を切らして立ち尽くしていると、霧の奥からシャリ、シャリと規則的な足音が近づいてきた。

 「子供が足を踏み入れていい場所ではないぞ、ここは。」

 声のした方に目を向けてみると、そこには擦り切れた分厚いコートを着て角灯を持ち下げた老人が立っていた。深く刻まれた皺の奥から見えるその目は、しっかりと少年を捉えている。腰に吊る下げた古びた金属製の測定器からは、時折カチ、カチとチィ…チィ…と小さく乾いた音を立てていた。

 「お父さんと喧嘩しちゃって…。」

 「…そうか、迷い込んでしまったのか。」

老人は少年からスゥと視線を逸らすと、再び静かに歩きだした。少年はこれからどうすればいいのかも分からず、その老人について行ってみた。

 

 二人が歩くにつれて、霧の向こうから巨大な建造物の影々が浮かび上がってきた。異様な圧迫感を放つ、巨大な鋼鉄とコンクリートのドームが捻じれた樹木の隙間から見えた。それはかつて世界の終わりを告げたはずの「第4原子炉」を閉じ込める石棺だった。周りには、錆びついた観覧車や、窓ガラスの割れた無人のアパート群が立ち並んでいた。

 「少年よ、これが綺麗に見えるかね。」

老人はその街並みから目を逸らすことなくそう尋ねてみた。

 「…ううん、怖い。なんにもなくて…それなのに、なんか怒られているような感じ…。」

そう答えた少年の声はどこか震えていた。老人は街並みから少年へと目線を移す。

 「うむ、良い感性だ。」

老人は足元に落ちていた砕けたコンクリートの破片を拾い上げ、少年の目の前へと差し出した。

 「いつしか人間は万物を支配できると信じ込んでしまった。目に見えぬ炎を閉じ込めて、その脅威を閉じ込めて、自分たちの思い通りに操れると。便利さと豊かさという自分達のエゴと引き換えに、この地球に永遠と消える事の無い傷を残してな。そうして、扱い切れないと分かれば、こうして蓋をして見なかった事にする。自分達が何をしているかも本当の意味で理解していなかったというのに。」

老人の声には怒りや悲しみはなかった。ただ、冷徹で冷酷なまでの事実だけが宿っていた。

 「見えないものを恐れることもなく、制御できると、そう過信すること。人間が持つ愚かな病の一つだ。目の前の問題から逃げてきたお前にも、いつかその病にかかる日が来るかもしれない。」

老人の言葉が少年の心の奥に重く伸し掛かった。父親に反発し、自分の思い通りにならないその世界から逃げてきたその幼さが、遠くで佇む巨大な石棺の影と重なって見えた。

 

 「僕は……僕は、どうすればいいんですか」

 

 金属測定器のカチカチという音は少しずつその間隔を狭めていき、チィチィという音はいつの間にかキュゥゥ……と甲高い音を出していた。

 霧が次第に濃くなり、少年と老人の間にも二人を遮るかのように流れ込んできた。

 「知ること、そして忘れないことだ。」

老人の声が段々と遠ざかっていく。手をいくら伸ばしても届かない、シャリ、シャリという足音も、次第に甲高く鳴り響く測定器の音も、その全てが霧の中に消えていった。

 

 

 ―――カチ。

 

 

 最後の音が頭の中で響いたその瞬間、少年は大きく息を吸い込んで目を開けた。

眩しい日光が視界を刺した。鼻を突くのは灰色に染まった沈黙の匂いではなく、青々とした草と空の匂いだった。少年は自分が家の近くのすぐ近くにある見慣れた野原の上に倒れていたことに気が付く。

 

 身体を起こすと、手の中に妙な違和感があった。握りしめていた拳を開くと、そこには何もなかった。だが、微かに、コンクリートの感触とあの老人が教えてくれた見えない炎の冷たさが、残像のようにそこには残っていた。

 

 遠くで少年を呼ぶ父親の声が聞こえた。

少年は一度だけ振り向いて、誰もいない野原の向こうを見つめてから、家へと走り出した。

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