話せば話す程、書けば書く程、本当のことから遠ざかっていく。
日常の言葉は、あらかじめ用意された浅い記号の受け渡しに過ぎないと、私は考えている。例えばだ、『悲しい』と言えば、相手は自分の知っている悲しみの箱から似たような感情を取り出しては納得したかのような顔をするだろう。だが、四十を超えた私の内側にあるものは、そんな三文字の記号に収まるような生温いものではないのだ。いわば…
そこには、既存の辞書にはまるで存在しないような色彩が咲き、幾何学の法則を無視した角度で物体がこちらを見つめては笑みを浮かべて、またある所では、言葉という相互理解が特有の粘性を持って重たく冷たく、厚かましく横たわっている。私にとっての世界の真実と感触はそこにしか存在しないといっても過言ではないと言えるのだ。
だから私はペンを握る。この、その、あの世界を、紙という平面の世界に引っ張り出す為に。
しかし、ペン先が紙に触れた瞬間、いつも激しく重い落胆が訪れるのだ。
言葉という容器は余りにも小さく、それでいて浅いのだ。頭の中にあった圧倒的な質量と独自の位相は、インクの黒い文字へと落とし込まれた瞬間に、途切れ途切れの死骸へと姿を変えてしまうのだ。《青》そう書いた瞬間に色の純度は死に、《痛い》と表現した瞬間にその質量はどこかへ霧散することになる。私が紙の上で踊らせることが出来るのは、脳内のその美しさそのものではなく、翻訳に失敗して飛び散った言葉の破片でしかないのだ。
そう、言われた気がした。展開に対してなのか、世界観に対しての表現やそのものに関してなのか。実際、私自身にそう言われたのだと思う。嘲笑とは違う、理解を拒絶する困惑の声だった。そうとは言っても、自分の世界を分かりやすく書き直すというのことは、本当の私の世界を彼らの浅いルールに合わせて平坦に踏み荒らすことを意味していた。
喋れば嘘になり、書けば劣化し、見せれば拒絶されるのだ。筆を置こうとしたことも、いや、寧ろあの頃は置いていたのだろうが。だが、書き出さなければ、行き場を失ったこれまで自由に動けていたはずの脳内の世界が、私の内側から皮膜を圧迫し、精神を狂わしていくではないか。そこで私は初めて気が付いたのだ、私の文学は他者へと伝える為の伝達手段ではないと。自分の内側で増殖する毒を外へと排出する為の“惨めな生存行為”なのだと。
声に出来ない絶望と、言葉の容器から溢れ落ちた全ての沈黙を抱えたまま、私は今夜もペンを取る。
どれほど言葉が浅くても、どれほど世界が届かなくとも。
この手に残された唯一の不完全な道具で、私は私だけの世界の痕跡を紙の上に刻み続ける。