サガイは満面の笑みを浮かべたまま、晴臣に向けて手を広げようとしていたが、ふと何かに気付いたように動きを止めた。
「……残念だが、もう時間だ」
言葉の意味がわからず固まる晴臣。
姫野もシイコも、目の前の妙な男の言動にただ眉をひそめるしかない。
サガイは名残惜しそうに、しかしどこか恍惚とした表情で晴臣の顔を見つめた。
「晴臣くん……。君はもうぼくの神様に会ってるよ。あの方がね、君を気に入って──」
言いかけた時、サガイの輪郭が揺らき、サガイの姿は完全に消えていた。
晴臣は握手の名残りで痺れの残る手を押さえながら、呆然と立ち尽くす。
姫野は口を半開きにして周囲を見回し、「……消えた?」と信じられない声を漏らす。
シイコは晴臣の背中に隠れつつも、「なんだよあの変人……!」と小声で毒づいた。
不可解な言葉だけを残し、サガイはこの場から跡形もなく姿を消していた。
* * *
晴臣の前から完全に霧散したサガイは、まるで画面が切り替わるように、汐見市を一望できる高台へと姿を現していた。
風がサガイの髪を揺らす。
街の昼の喧騒は遠く、ここではまるで別世界のように静かだった。
サガイは街をゆっくりと眺め、軽く息を吸い込む。
「やっぱり、この街はいい匂いがする」
無邪気とも、不気味ともつかない笑みを浮かべ、ぽつりぽつりと独り言を続ける。
「火の精霊、千の顔、黄衣の王、大いなるものの気配…こんな街に勢揃いとは」
軽く首を傾げながらも、楽しそうに肩を震わせる。
サガイはポケットに手を突っ込み、くつくつと笑う。そして、目を細めた。
「――それに、神様とぼくの神様が“みそめた”人間。最高すぎるよ」
その声音は、先ほどの無邪気さと同じ響きのはずなのに、どこか底知れず冷たい。
「きみとあの子……“タネ”。ああ、面白くなってきたなぁ……楽しみで仕方ない」
サガイは満足そうに伸びをし、両手を広げるようにして空を仰ぐ。
「さーて、ぼくの神様も喜んでるし。
まだまだ“遊び”はこれから」
サガイが愉快そうに笑い、宙を見る。その瞬間だった。
“ぶちり”と嫌な音がして、サガイの右腕が肘から先ごと地面に落ちた。肉の断面は滑らかで、血も出ない。サガイ自身も痛みを感じていないようで、ただ小首を傾げた。
「え?なんで?ぼく、今、なにも――」
言葉が途切れる。空間がわずかに歪み、ハクアが、影が差すようにサガイの前へ現れた。
サガイは、明らかに焦った。落ちた腕よりも、ハクアそのものに目を奪われたように。
「き、黄衣のッ」
震えた声で呟く。しかしハクアはその呼称に反応しない。ただ、足元のゴミでも見るかのような冷たい目でサガイを見下ろすと、
ばつん、と乾いた音でサガイの腹部を蹴り抜いた。
サガイの身体が吹き飛び、宙に鮮やかな軌跡を描く。悲鳴はない。抵抗する暇もない。ただ力の抜けた人形のように遠くへ転がっていく。
そして倒れたサガイの前に、ハクアが立っていた。年端もいかない少年の体躯なのに、その存在感は鉄の塊のように重く、周囲の空気を均一に凍らせていく。
サガイは怯えたように目を見開き、片腕を失った側の肩を押さえながら呻く。
「き、黄衣の王、なぜあなたが」
しかしハクアは返事をしない。まるでそこに落ちている虫と話す価値がないと言わんばかりの冷淡な視線で、ただサガイを見下ろしていた。
一拍置いて、ハクアは小さく息をつく。
その仕草は「めんどくさい」という気持ちが子供の全身から溢れ出しているようだった。
「……人間を操るのなんて、どうでもいいよ。好きにすれば?」
声は幼い。だが底なしに冷たかった。
サガイが縋るようにハクアを見上げる。
ハクアはしゃがみ込むと、地面に落ちたサガイの片腕をつまんで持ち上げ、興味なさげにぶらぶら揺らした。
「こういうのもさ、勝手にやってればいいと思うんだけどさぁ……」
少年の目が細くなる。
そこに宿った殺意は、曇天に走る冬雷のように鋭かった。
「――お兄ちゃんに“入った”のはダメ」
ハクアの声には、吐き捨てるような怒りと、歪な独占欲が入り混じっていた。
サガイが震えながら後退ろうとするが、片腕のない身体ではうまくいかない。
「せっかく楽しかったのに。ずっと見てるだけで良かったのに。
お兄ちゃんとその周りで起きることは、ボクの“娯楽”だったのにさ」
ハクアは片腕をぽいっと捨てて立ち上がる。
そして無感情のままサガイを見下ろす。
「全部、台無し。ほんと、ウザい。」
次の瞬間、ハクアの足が動いた。
軽い運動でもするような気安さで放たれた蹴り。
だがその威力は、巨大なハンマーで叩きつけたように重い。
鈍い破砕音が響き、サガイの身体が容赦なく地面に叩きつけられた。
サガイは声にならない声を漏らすが、ハクアは興味すら示さない。
「お前…言い訳とかないの?」
サガイが苦しげに呻きながら答えようと口を開いた瞬間、
ハクアがにこっと――無邪気な、しかし死神のような笑顔を浮かべた。
「ううん、いいや。どうでも」
少年の足がもう一度、ゆっくりと振り上げられる。
「キミみたいなのは、見てるだけでイライラするから」
振り下ろされる影。
ハクアの声は小さく、しかし絶対的な冷たさを帯びていた。
「――消えて」