朝露が残る畑に、風が気持ちよく吹き抜ける。
晴臣はシャツの袖をまくり、農家の男性と共に畝の間でしゃがみながら、軽く汗を拭った。
「これで今日の分は終わりですね。ありがとうございました、助かりました」
「いえ、お手伝いできて良かったです」
晴臣が頭を下げると、農家の男性も笑いながら帽子を取って礼を返す。
軽トラックの荷台に道具を戻し、市役所に帰ろうと軽くストレッチをして立ち上がったそのとき――。
「ハルく〜ん♪」
透明感のある声が風に乗って届く。
見れば、坂の上から姫野ルイが小さく手を振りながら近づいてくる。今日も白いワンピースに身を包み、日傘を差してどこか優雅に歩いていた。
「お疲れさま。朝から畑仕事なんて、働き者ね?」
「まぁ……地味に地元密着課だし」
「あは、それっぽい〜。でねでね、実はちょっとだけ、生活課にお願いしたいことがあって」
「お願い?」
「うん。ちょっとした相談、というか、困りごと、というか……♪」
にこにこ笑いながら、姫野は晴臣の隣に並ぶ。
「ついでにお茶でもしたいし、一緒に市役所まで行ってもいい?」
「別にいいけど…姫野って、市役所嫌いじゃなか?」
「そうよ? でも、ハルくんとなら我慢してもいいかなって思っちゃったの♡」
「……ありがとう?」
「うふふ、どういたしまして♪」
小さく笑うと、姫野は晴臣の腕を軽く取って歩き出す。畑の土の匂いと、朝の風に混じって、ほんのりと花の香りが漂っていた。
* * *
汐見市役所・生活課。
「ただいま戻りましたー……」
晴臣が扉を開けて中に入ると、その瞬間――
「うおおおおお!? ま、まさか……!」
ガタンッと勢いよく椅子を倒しながら立ち上がったのは、くたびれたスーツ姿の中年男性。
生活課の課長である。
「ひ、姫野ルイさん!? 本物!? 本当に本物!? あの! 坂道のカフェの、奇跡の存在、汐見の妖精――!」
「ええっ!? ……あら、はじめまして。姫野ルイです♡」
課長は鼻息荒く机を回り込み、晴臣を押しのけて姫野の前にぴたりと立つ。
「サインください! あ、ちがう、まず名刺を! いやその前に深呼吸を! いやなんで今日に限ってネクタイヨレてるんだ俺!?」
「えっと……あの……ふふっ、なんだかすごく歓迎してくれてるみたいでうれしいです♡」
姫野が小首をかしげて微笑むと、課長は頭を抱えて一人で悶絶する。
「生きててよかった……定年までがんばれる……これはもう実質表彰……」
「……課長、娘さんのときと全く同じですよ」
晴臣が呆れたように呟くと、課長はぴたりと動きを止める。
「……そうなのか?」
「はい、娘さんと共通の話題ありましたね」
「ぐ……ま、まあでも、ルイさんは別格なんだ!癒やしと美の権化なんだよ!」
「娘さんのときも言ってましたけどね、それ」
「だって両方最高なんだもん!」
「はいはい、で、課長。姫野さん、今日は相談があるそうですよ」
「そ、そうなのか?」
慌ててスイッチを切り替える課長。その顔は赤面のままだが、無理やり業務モードに戻ろうと椅子に座り直す。
姫野はそんなやり取りに小さく笑いながらも、晴臣のほうにちらりと目を向けた。
「ふふ、いいところね」
「……まぁ、悪い人じゃないんだけどね」
落ち着きを取り戻した課長を見て、クスリと笑った姫野が改めて口を開く。
「というわけで――」
姫野が柔らかに微笑みながら、ふんわりとした口調で告げた。
「……あまり詳しくは言えないけれど、私はこの汐見市に、とてもとてもお世話になってるの。だからその……何か、恩返しがしたいなって思って、イベントとか?」
「おおおおおおおおおお……!」
課長が机を叩いて立ち上がる。なぜか泣いている。
「その心意気……受け取ったあああああッ! やろう! やるぞ! イベント! 盛大に、奇跡の祭りを開催するぞおおおおお!!」
「は、はあ……あの、課長……」
晴臣は顔をしかめながら、いつものように冷静な口調で続ける。
「イベントって、何やるんですか?」
姫野が一瞬きょとんとした顔になり――次の瞬間、口元に指を当てて小さく舌を出した。
「てへ♡ なにも決まってないの」
「……」
課内に、妙な静寂が流れる。
しかし次の瞬間――
「馬鹿野郎ォォォォォ!!」
課長の怒声が響き渡った。晴臣の胸ぐらを掴まん勢いで前のめりに迫る。
「そういうのを考えるのが俺たち生活課の仕事だろうがッ! 何言ってんだ貴様ッ! 正気かッ!?」
「えええええ!? なんで俺が怒られてるんですか!?」
「姫野ルイさんがやるって言ってるんだぞ!? やらせろよ!? 盛り上げろよ!? 市を挙げて祭りにしろよ!?市民の声に耳を傾けるのが市職員だろうがああああ!!」
「……課長がわりと正論言ってる……?」
晴臣は白目になりかけながら呟いた。
「ふふっ……計画通り」
姫野はそんな生活課の騒がしいやり取りを、まるで他人事のように優雅に見つめていた。