暗く、ぬるりとした影の通路をすり抜ける感覚が終わったその瞬間、
晴臣の体は重力に従ってポイッと放り出される。
「――ぐっ!」
硬いコンクリートの路面に肩から落ちた衝撃が全身を駆け抜ける。
ゴツ、と乾いた音を鳴らして転がった体を支えながら、晴臣はすぐさま身を起こす。
「……ここは」
周囲を見回す前に、目の前にしゃがみ込む人影が現れる。
「……あのさあ」
ムスッとした声が響いた。
視線を上げると、そこには真琴がいた。
無造作に髪をかき上げながら、じとりとした目で晴臣を睨みつけている。
「この間から、変なのがうろついてるって思ってたけど……ネタバレでもされたの?」
語気は強くはないが、あからさまな不機嫌さがにじんでいる。
晴臣は痛む肩を押さえながら、眉をひそめる。
「……“変なの”って、ハクアのこと?」
真琴はわずかに口をへの字に曲げて立ち上がり、腕を組む。
「名前なんて知らない。あの、チョロチョロしてる黄色いのでしょ? やたら無邪気ぶってるくせに、空気が悪すぎる」
真琴は一歩近づき、晴臣の胸元を軽く叩く。
「で? あいつに会って、虫に操られてたこともバラされたんでしょ? 見ればわかるよ」
「……知ってたのか」
「それはね。そういうのには敏感だし、面白そうと思って少し泳がせておいたんだけど」
少しだけあきれたように呟くと、真琴は軽くため息をついた。
「まったく、まだ本当の面倒はこれからだよ」
その言葉に、晴臣の背筋に冷たいものが走る。
「……“本当の”?」
真琴は言葉を濁したまま、夜の静かな街並みに視線を移した。
「晴臣くんの“タネ”が咲くまで、まだ終わってないよ。」
彼女の声は、確信に満ちていた。
夜風がひやりと肌を撫でる中、晴臣は静かに息を吐いた。
真琴は隣で口をつぐみ、先ほどの言葉以上は語ろうとしない。
「……タネって、結局なんなんだよ」
誰に問いかけるでもなく、晴臣はぽつりと呟いた。
真琴にも、ユメにも、ハクアにも尋ねた。
だが、返ってくるのは曖昧な言葉ばかり。
「“希望か絶望かはまだ秘密”とか……“そのうちわかる”とか……」
何ひとつ、核心には触れさせてもらえない。
焦燥感が胸をかきむしる。
知らされないことへの苛立ちと、見えない不安がじわじわと内側を蝕んでいく。
声には出さず、歯を噛みしめた。
――でも、苛立っても何も変わらない。
晴臣は頭を切り替え、唯一“確かな異常”として自覚しているものに意識を向けた。
「……あの光……」
身体の内側から、時おり脈打つように漏れ出す緑色の光。
それは最近現れ、想像以上の破壊を迫る光。
ハクアは「ユメのタネが原因」と言った。
ならば、まずはこの光の正体に迫るしかない。
静かに目を閉じ、意識を体内に沈めていく。
心の深い場所へ――感覚の底へ――自らを沈めるように。
暗闇の中で、脈打つ緑の光がぼんやりと浮かび上がる。
温かいようで、冷たい。
優しいようで、どこか恐ろしい。
それはまるで――誰かの“心”のようだった。
晴臣の脳裏に、あの夜の夢がよぎる。
ユメが見せた、果てしない星空と、孤独の気配。
(……ユメ、君は何を願ったんだ)
手を伸ばしても、光は逃げない。
だが、掴むこともできなかった。
晴臣は深く息を吸い、目を開けた。
「……なら、こっちから探るか」
覚悟を込めて、緑の光の奥に眠る“答え”へと、静かに踏み込んでいく。
* * *
晴臣の体から、緑の光がうっすらと滲み出ていた。
内側から淡く灯るそれは、さながら心音のように波打ち、空気を震わせる。
真琴はその様子をじっと見つめ――そして、こらえきれないように、クツ、と肩を震わせて笑った。
その口角は、いつもより大げさに持ち上がり、こめかみのあたりまで奇妙に引きつる。
本来の“真琴の笑い”だった。
真琴は想像していた。
タネが芽吹く瞬間。
あの緑の光が形を変え、晴臣が“こっち側”に足を踏み入れる未来。
――だけど。
ふと、想像の続きを思い浮かべたところで、
真琴は思考を止めた。
(……変わっちゃうのかな、やっぱり)
その手に触れたぬくもりも、
笑った時の間の抜けた表情も、
訳も分からず突っ込んでくる猪突猛進さも。
不器用で、鈍感で、それでも誰よりも他人を見ていた――そんな晴臣が。
(私はあなたの、そういうとこが……)
好きだった。
ユメのことも、もちろん好きだ。
ユメが誰かにタネを渡したと聞いたとき、少しだけ驚いた。
晴臣の中に“それ”があると知った時、正直――嬉しかった。
自分のいる側に来てくれる。
それはどこか、救いのようなものでもあった。
でも。
「それで、ホントにいいのかなぁ……」
ぽつりと、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
“変わってしまった晴臣”は、
果たして今まで自分が惹かれてきた晴臣と同じ存在なのだろうか?
もし“こっち側”に来たその時、
晴臣がいままでの自分を忘れてしまったら?
気がつけば、胸の奥が妙に痛む。
真琴はぐっと唇を噛み、浮かべた笑顔のまま、晴臣から視線を逸らした。
その背で脈打つ光は、なおも静かに輝きを増していた。