引退直後のヤエノムテキが、再び「勝利」を渇望する話 作:よきかな
原作:ウマ娘プリティーダービー
タグ:ヤエノムテキ タマモクロス シンボリルドルフ バンブーメモリー サクラチヨノオー メジロアルダン オグリキャップ
トゥインクル・シリーズに一旦の区切りをつけたヤエノムテキだったが、抑えられない自身の闘争心は更なる勝利を渇望していた。
そんな折、選抜されたウマ娘によるエキシビションレースの開催が告知される。
再び燃え上がる衝動に振り回される彼女は、自身の存在をもう一度証明するべく苦闘する。
※シンデレラグレイ世界線になります
※pixivにも投稿しています
◆序◆
晴天、轟音、芝と汗の匂い。頬を撫でる冷たい空気と、肺の奥からこみ上げる熱気。年末の中山レース場を埋め尽くす空前絶後の大歓声は、早鐘を打つ自身の心音より大きく、振動を伴ってこの身に降り注ぐ。でもそれは決して、決して私に向けられたものではない。
『さあ澄み切った、師走の空気を切り裂いて……』
第三コーナーから第四コーナーへと差し掛かる十六人のウマ娘たち。そのバ群をぐんぐん押しのけて上がってくる強烈なプレッシャーの主。オグリ……キャップ――!
『最後の力比べが、始まります!』
横目で見た彼女の瞳には、先頭のウマ娘の遥か先、ゴールしか見えていない。そうか、結局私は、私は……いや、付いていかなければ、食い下がらなければ。私は、私はまだ終われない。
逸る気持ちとは裏腹に、彼女との距離はみるみる開いていく。外から先頭集団目がけて猛進する灰色の怪物。何度も見た光景だった。そして何度も、夢を砕かれてきた光景だった。
『アルダン、アルダン、アルダン先頭か、オグリ先頭に立つか!』
それだけではない。今年のレースの集大成を見せるべく、他のウマ娘たちも続々とペースを上げて追い込みにかかる。それぞれが一着を獲るために、自分の存在を歴史に刻むために。
「はあぁぁぁッ!」
「追い越す……追い越すッ――」
各々の覚悟が口をついて溢れ出す。それはまるで、『自分の存在を証明する』という誓いのようだった。そんな壮絶な想いたちが競り合い、ぶつかり合い、我先にとゴールへ向かう。自分を置いて、時代が、歴史が、ゴール前に収斂していく――
視界の遥か先、わずかに見える灰色のスーパースターは、この状況下でも笑みを浮かべている。この場全ての、いや、このレースを見ている全ての人々の夢と期待を一身に受けているかの如く。自分が勝つと信じて疑わない表情だ。
何故、そんな顔ができる――
『二〇〇を切った―オグリ先頭、オグリ先頭!』
「ああぁぁぁあぁッ――!」
吠える。その姿を眼前に捉えながらも、開いていくばかりの背中に向けて。手を伸ばす、幾度も幾度も、満身の力を込めて地面を踏み蹴る。届かない。この咆哮も、スピードも。いよいよ増していく歓声と、彼女の圧倒的な強さの前に、自身の存在のすべてがかき消されていく……気がした。
『ライアン来た、ライアン来た―しかし、オグリ先頭、オグリ先頭!』
肺の奥から、ヒューヒューと情けなく空気が漏れる。足りない、何もかもが。気に食わない、先頭で人々の衆目を引いている彼女たちが、そして何より弱い自分が。
(ふざけるな、私はここに居る。ここに居るぞ……!)
怖い。怖い怖い怖い。置いていかれる。かつてのに、新しい時代を作る新星たちに。声も出ない、脚も動かない。自分の時間だけがスローでいて、周りとの差は開く一方だ。急に視界が歪み、自分とゴール板までの空間が際限なく伸長する。
『ライアン来た、ライアン来た、オグリ先頭――』
嫌だ、私はまだ、ここで終わりたくはない。誰にも負けたくない。勝ちたい、勝ちたい。
しかし、その想いをぶつけるべきたちとの距離は、余りにも、遠く――
『オグリ一着!オグリ一着!オグリ一着!右手を――』
「うわぁぁぁあ―!」
宵闇、静寂。首筋から胸を伝って流れ落ちる汗の粒。あの日から、幾度と繰り返している夢の跡。カーテンの向こう側から響く雨音は、ドクドクと流れる自身の血流と重なって聞こえてくる。
熱気と汗で蒸れた胸元をパタパタと仰ぎ、荒い息を整える。冬の冷ややかな空気を浴びてもなお、身を焦がすような闘争心の炎が、喉の奥のほうで虚しく燃え上がっている。
「あんなで
一月二十七日、午前二時十二分。ヤエノムテキは、有馬記念の敗戦から立ち直れないでいた。
◆一◆
「ふっ……はッ!」
薄明の中、稽古の型を黙々と続けるヤエノムテキ。彼女が吐く空気は白く濁り、ゆっくりと河川敷に溶けていく。
ルーティンとは偉大である。日々繰り返す行動は、積み重ねれば積み重ねるほど身体に馴染み、意識せずとも熟達していく。そしていつしか、ルーティン自体が自分の中でセーブポイントのような、調子を確認する動作テストのような存在となる。心が安らぎ、思考がクリアになる。それはまさに明鏡止水、静かに水をたたえた湖面のような、澄み切った心。と、普段ならそう思うはずだ。
「せいッ!」
ひときわ鋭い突きを放つ。その型のまま動きを止めたヤエノは、僅かに震える拳を忌々しく睨み付ける。
(私は、こんなにも成長していないというのか)
座禅を組んでみても、型の稽古をしてみても、どんなに平静を保とうと試行錯誤してみても尚、消えることのない、心の奥で燻る後悔の念。久しく感じていなかった、コントロールの効かない感情。
「やあッ……!はあっ!」
もう一度、己の未熟さを否定したい一心で型を繰り返す。ただ、理由は何となく分かっている。気に入らないモノを力でねじ伏せてきた、過去の自分に少しずつ戻っているからだ。どれだけ精神を鍛えようとも、負けたくない、勝ちたいというウマ娘の本能には逆らえない。そして自分は、その本能を上手く乗りこなす術を、終ぞ身に付けられなかった。
「……――ッ」
ごうごうという川の音が聞こえる。昨夜の雨で少し増水した泥水が走り抜けていく。
「ヤエノー、おはようっスー!」
水音を突き抜けて、聞きなじみのある声が響く。
「バンブーさん!おはようございます!」
ヤエノの声にブンブンと二度手を振って返事をしたバンブーメモリーは、橋の上から軽やかな足取りで河川敷へと降りてくる。
「こんな早くからトレーニングっスか」
昇る朝日に照らされたバンブーの笑顔は、少し眩しい。
「はい。日々の鍛錬が実力になりますし、何より、型の稽古は心をも整えるものです。一日の始まりとして、これほど有意義な時間はありません」
ビシッと構えをとるヤエノを見て「さすがっスね」と頷くバンブーは、制服姿に通学鞄を持った出で立ちだった。
「バンブーさんこそ、もう学園へ行かれるのですか」
「そうなんスよ。昨日の夜はすごい雨だったじゃないスか―」
聞けば、こういう雨上がりの朝には、学園の職員や有志の生徒たちが、朝練をするウマ娘のためにグラウンドの水取りや整備をおこなっているとのことだ。
「朝練するみんなが困るのを、見過ごしてはおけないっスから」
真っ直ぐでキラキラ光るバンブーの瞳。人一倍正義感が強い彼女だからなのか、奉仕活動は至極当然といった口ぶりだ。
「なるほど……それは由々しき事態。ヤエノムテキ、微力ながらバンブーさんに助太刀いたします」
正義感という面においては、ヤエノにも通じるものがある。乗り掛かった舟で何度も生徒会や風紀委員の手伝いをしたことのある彼女にとって、手伝わないという選択肢は無い。
「心強いっス!朝整備に参加する生徒はジャージ登校でもオッケーなんで、このまま一緒に行くっスよ……っと、もう練習は切り上げて大丈夫なんスか?」
「はい。良い塩梅ですので、このまま向かいましょう」
朝焼けの堤防道路。湿った冷たい風が、進む二人の間を撫でていく。
「四月からは新入生も入ってくるっスからね、アタシも負けてらんないっス!」
バンブーメモリー。短距離、マイル戦線で活躍を続ける熱血ウマ娘で、風紀委員長でもある。昨年のスプリンターズステークスではレコードを叩き出して一着、ヤエノムテキとも天皇賞秋で火花を散らした。その実力は申し分なく、世間では―
ヤエノはいつぞやの雑誌で書かれていた寸評を思い出していた。
自分を含むこの世代は、常にオグリキャップという大渦の中にあった。地方トレセンから彗星の如く現れ、そして各タイトルを次々に獲得。そのサクセスロードは、人々の期待を受けるには十分すぎる戦績で、そしてまた彼女も、誰かの夢を背負って必ず勝つ。
不振に喘いだ時期もあった。オグリキャップはもう終わりだと、心無い声もあった。しかし彼女は、逆境から立ちあがり、先般の有馬記念で劇的な復活劇を遂げた。
愛されないわけがないじゃないか。
強豪揃いの中央トレセンにおいても、何年に一度出るかどうかというほどのウマ娘。彼女のストーリーは、恐らく次世代へと引き継がれていく。彼女を目標に、あるいは彼女が切り開いた道を辿って、新たなスターが誕生する確信があった。
だが、だからと言って。
私たちには私たちの物語が確かに存在するのだ……とヤエノムテキは思う。バンブーメモリーにも、サクラチヨノオーにも、メジロアルダンにも、例えデビュー戦で勝てなかったウマ娘にだって、かけがえのない物語がある。だが、果たしてその存在を世間に証明できるか、というのは全く別の問題だ。力のない者の物語は、いつの時代だって埋もれていく。同世代のウマ娘たちは、大きな歴史の、その彩として添えられているに過ぎない。卑屈すぎるだろうか、敗戦によって単にネガティヴになっているだけだろうか。
「じゃあやっぱり、しばらくレース休むんスね」
先を行くバンブーが少し寂しそうに呟く。二人の話題は、そんな世代のウマ娘たちの進退に移っていた。
「はい。今まで走り続けてきましたから、次のステップへの準備期間だと思って……とトレーナー殿が」
トレーナーの判断は正しい。ヤエノムテキは、好不調の波こそあれど、ほぼフルでローテーションをこなしていた。もちろん身体への負荷は蓄積されているし、このタイミングで区切りをつけ、一度己の走りを見つめなおして新たに目指すべき地点を定める、というのは至極真っ当な流れだ。
「オグリ先輩もトゥインクル・シリーズからは一線を退くっスからね……まぁこの前の――」
『有馬記念で』という言葉をバンブーメモリーは飲み込んだ。あの時の敗戦が響いていることに、ヤエノムテキと何度も戦った彼女は何となく感づいていた。
「天皇賞秋の走りを見ていたら、ヤエノもまだまだできると思ったんスけどね」
咄嗟に話を継いだバンブーが、遠慮がちに微笑みながら振り返る。浅い水溜りをぴしゃっと踏みつけたヤエノは、広がる波紋を静かに見つめている。
「……いえ、今の私には最適解です」
この期に及んでも尚、ヤエノは渇望している。自分こそが最強だと、無敵の名を知らしめるのだと。何度乗り越えても、自分が強くなればなるほどに増していく欲望。誰にも負けたくない、誰にも譲りたくないという燃え上がる気持ち。分かっている、それが自分の強みであることは重々承知している。今までもそうやってトレーナーと共に前に進んできた。分かっていても、やはり自分は、自分の中の炎を恐れている。
何と不器用で稚拙なことだろうか。
バンブーメモリーとの会話も途切れ途切れになってきた頃、ようやくトレセン学園の正門が見えてきた。
「あれ、結構みんな来てるみたいっスね」
グラウンド方面には、既に十数人のウマ娘たちが集まって、輪を作っていた。
「よし、では一班は水取り、二班は砂を運んで――」
冷静に指示を出す、威厳のこもった声色。
「ルドルフさん、おはようございます」
バインダーを片手に指示を出しているのは、生徒会長であるシンボリルドルフ。七冠を達成している、生ける伝説だ。
「おや、君たちもグラウンド整備を手伝いに来てくれたのかな」
こちらに気づいたルドルフが柔らかな微笑みを浮かべる。
「ハイ!生徒会の皆さんが指示してくれるっスか?」
「うむ、今までは生徒の自主的な奉仕活動に任せていたのだが、作業中に何か事故でもあったら、これほど残念なことはないからな。今後は生徒会の主導で安全かつ効率よく進めていくぞ」
一刻も早く朝練を始めようと作業に勤しむ生徒たちを、ルドルフは眺める。
「尤も、志の高い生徒を導くのが生徒会の使命でもあるわけであって……」
「カッコいいっスルドルフ先輩!アタシたちより早い時間から……」
「生徒を護り導く姿勢、改めて感服しました」
ルドルフは昨夜、担当トレーナーに『朝一でモーニングコールをしてくれ』と頼んだことを少し後ろめたく思ったが表情を崩さず「うむ」と流した。
「ともかく、君たちも日々学園のために色々と協力してくれているからな。安宅正路……その志は、ぜひほかの生徒にも見習わせたいものだな」
ルドルフからおおよその動きを聞いた二人は、今一度気を引き締める。
「じゃあ、アタシは一旦着替えてくるっス」
バンブー手を振りながら校舎へと消えていった
「君には見回りを手伝ってもらおうか。向こうにエアグルーヴが居るから……と、そうだそうだ」
先程までとは異なる、強い意志を持った瞳でルドルフがヤエノを見つめる。
「放課後、生徒会室に来てくれないか」
宣戦布告のような、圧力――
「重要な話がある」
◆二◆
紅茶がなみなみと注がれたティーカップを見つめる。琥珀色を湛えた水面に映る自分の顔には、僅かばかりの緊張が伺える。
「最近見つけたお気に入りの茶葉でね、それとも君は緑茶のほうが良かったかな」
自分のティーカップに紅茶を淹れながら、シンボリルドルフが言う。放課後の生徒会室には、トレーニングや課外活動に勤しむ生徒たちの声が微かに響いている。
「いえ、紅茶はアルダンさんによく振舞っていただいているので……お気遣いなく」
柔らかなソファの質感とは対照的にヤエノの膝の上、拳は固く握られている。
「それは何より。やはり持つべきものはよき友だな」
お茶をするためだけに、呼ばれたわけではないのは明白。本題を探ろうとするヤエノの機先を制して、ルドルフが口を開く。
「時に、君は今のトゥインクル・シリーズを……いや、この中央トレセンをどう思う」
「……質問の真意は測りかねますが……誤解を恐れずに言えば、過去最も、いる時かと」
紅茶を啜りながら答えに耳を傾けていたルドルフは、ティーカップから離したその口元だけで微笑んだ。
「ふふ……その通りだな」
彼女は立ち上がると、窓辺に向かってゆっくりと歩きだす。
「元来、中央トレセンはレースを志すウマ娘にとって、より高みへ、より優れた環境でレースに打ち込める場所を提供する機関だ」
窓の外を見つめながら、ルドルフは淡々と話を進める。冬の日は短く、既に傾き始めた夕日の橙が生徒会を照らし始めた。
「そしてここ数年は、特にレースを志すウマ娘が急増している。理由は――痛いほど分かっているね」
ちらりと目をやるルドルフを、ヤエノは神妙な面持ちで見返す。
「故に、ここは一度、中央でも最高峰の走りを見られるような、特別なレースを開催することが、新世代のウマ娘にとってモチベーションになるのではないかと考えた」
要は、そのレースに出走してくれというのが今回呼ばれた目的か、とようやく合点がいったヤエノだが、同時にルドルフの回りくどいともいえるアプローチに、少々困惑も覚えていた。
「グルーヴ、資料を」
「はい」
エアグルーヴから、今回のレースの企画書と出走予定のウマ娘が書かれた名簿が手渡される。既に何人かの出走が決まっているようだ。
この段階となって、ようやく自分に声がかかるということは、つまりそういうことかと邪推する自分を、ヤエノは心の中で りつける。
「デビュー前の者は別だが、近年めざましい活躍を残したウマ娘は、トゥインクル・シリーズ現役かどうかを問わず声をかけた。もちろん彼女も――」
オグリキャップと書かれた欄の横には『出走決定』とメモが書かれていた。
鎖骨の奥のほうで、途端に湧き上がる熱。
「まぁ、長々と建前を話したが、かく言う私も熱に浮かされた一人でね、こういったレースを通じて実力者たちが顔を合わせれば、ウマ娘にとっての新たなステージが拓けるのではないかと……そんなことを思っているんだ」
努めて平静を装い、ヤエノは口を開く。
「ウマ娘にとっての新たなステージ、ですか……タキオンさんが聞いたら飛びついてきそうな話ですね」
「ふふ……やはり君もそう思うかい。何か良からぬことを企まないよう、彼女の周囲に根回ししているところだ」
出走表から目を上げると、いつの間にか対面のソファに戻ってきたルドルフがこちらを見つめている。
「学園側と最終調整をしているところではあるが、まぁほぼ開催は確定と言えるだろう。ということで、だ。昨今の実力者でもある君にも、このエキシビションレースに是非出走して欲しい」
錚々たるメンバーの中でなぜ自分を、という思いが拭えないヤエノを見透かしたかのように、ルドルフは畳みかける。
「見せて欲しいんだ、君にも、圧倒的な存在感を。君は自分の力を、存在を証明するために走っているのだろう。そうであるならば、同世代のライバルも、新世代の強者も、まとめて斬り伏せて名を上げられる……いい機会だと思うが」
生徒会室に差し込む夕日が、ルドルフを照らしている。ヤエノは、その光が作り出す陰に、少しずつ飲み込まれていく。
なるほど。焚き付けられているのか。
自分という存在の証明。己の自己顕示欲が高いということを身に染みて理解しているヤエノは、その浅ましさを忌み嫌うかのように、ルドルフの言葉を流そうとする。
「いえ、私はそのような理由で走っているわけでは―」
―本当にそうか?
心の奥底の炎は問いかける。自分のことをナメた目で見てきた奴は、全てその力で叩き伏して、ここまでやってきたのではなかったか。お前は、お前はまだ求めているはずだ。
「ヤエノムテキ…紅茶が冷めてしまうよ」
殺気立つ心中を鎮めるように、ぬるくなった紅茶を啜る。渇きは、癒えない。爪が掌に食い込むほど、強く拳を握る。
勝ちたい。本当は全員を倒して、無敵の名をこの世に知らしめたい。だが、怖い。自分には確かに力はあるが、それ以上の力を持つ者たちがには居る。そしてまた、新しい才能の前に私は―
思い出されるのは、やはりあの時の有馬の記憶。
「ああああぁッ!」
『おっとヤエノムテキ、ゲートを前にして蹴りの仕草です。いつもの演武のようですが、これは少し落ち着きがないと見えるか―』
忌々しい記憶を吹き飛ばすように、大きく息を吐いて心を落ちつかせる。自分は、本当に走りたいのか―現状では、その答えは全く見えなかった。もし、もう一度破れてしまったら、今度こそ本当に。アスリートとしてのヤエノムテキは終わった、とそう思われてしまうかもしれない。
「出走についてはトレーナー殿と相談の上、正式にお返事を差し上げます。紅茶、ご馳走様でした」
お礼を述べて退出しようとするヤエノの背中越しに、ひときわ大きな声でルドルフが言う。
「オグリキャップと、あと何回本気の勝負ができるだろうね」
ヤエノは何も言わず、後ろ手に生徒会室の扉を閉めた。
パタンという扉の音を最後に、生徒会室にはしばしの静寂が流れる。張り詰めた空気を破って、エアグルーヴが呟く。
「少々、乱暴なお誘いだったのでは」
「私も、少し熱くなりすぎてしまったかな……」
ルドルフは苦笑交じりに応え、残りの紅茶を一気に飲み干す。
「だが、これでいいのだろう?」
背面を向けているソファの背もたれの向こう側へ、ルドルフが声をかける。
「ああ。ヤツの根底にあるのは、消えることのない闘争心だからな」
ソファに横になっていたナリタブライアンが、むくりと上体を起こして言う。
「アイツがレースに向かう原動力は、過剰ともいえる闘争心にあるはずだ。だから―」
「それを刺激してやればいい……か。やはり些か荒療治過ぎないだろうか」
不安を口にするエアグルーヴとは対照的に、ブライアンは落ち着いている。
「問題ない。そんなもので潰れるヤツなら天皇賞秋は勝てていない。それに―」
「担当トレーナーも彼女の気質を十分に理解している、だろう?」
ルドルフが言葉を引き継ぐ。
「私のセリフを奪うの、流行っているのか」
そもそも、レース出走に関する情報が担当トレーナーに入っていないわけがない。今回の企画レースの全てを把握したうえで、ヤエノムテキの担当トレーナーは『それでも必ずヤエノはレースに出ることを選ぶ』と断言した。
「まあそういうことだ。よほどヤエノムテキのことを信じていなければ、ああいう言葉は言えないだろうからな」
ニヤリと笑うナリタブライアンの横顔を見て、シンボリルドルフも口角を上げる。
「君もやはりお人好しだな、ブライアン」
「……私は、アツいレースが見られればそれでいい」
緊張感のあった生徒会室に、少し和やかな空気が流れる。
「とはいうものの、現状ではお世辞にも本調子とは言えないようだが、ここから彼女はどう乗り越えていく?」
グルーヴの問いに、ブライアンは答える。
「いつだってレースへの葛藤は、同じくレースでしか克服できない。それが自分の走りなのか、誰かの走りなのかはそれぞれ……まぁ、私なら自分と同じ匂いのするヤツに惹かれるけどな……」
ブライアンは出走予定者の名簿を手に取り、眺める。
「なるほど……ちょうど今回の出走予定者に、近いタイプが一人居るな」
◆三◆
絶え間なく地面を踏み蹴る。荒い息の間に思考を巡らせる。ターフの緑はものすごい速さで視界を流れ、渇いた空気が喉の奥を刺す。コンディションは悪くない。ヤエノムテキは、冷静に自分の走りを分析する。
後方から、風切り音の間隙を縫って蹄鉄の靴音が聞こえる。じりじりと迫るその靴音からはまるで、捕食者が徐々に獲物を追い詰めていくときのような緊迫感を覚える。
来る――来るッ。
一時間前――
「すみません、お忙しいところお呼び立てしてしまって」
シンボリルドルフからエキシビションレースへの出走を勧誘されて三日。出走への踏ん切りがつかないヤエノムテキは、自分なりに答えを探していた。
「いや、むしろ大助かりやわ。ヤエノからの呼び出しがあらへんかったら、ウチは今頃クリークに園児服着せられてるところや……」
関西弁を話す小柄なウマ娘、タマモクロス。既にトゥインクル・シリーズから引退しているが、彼女も今回のエキシビションレースには出走するらしい。
「なッ……それはなんと羨ま―……いえ、災難でしたね」
うっかり口を滑らせたヤエノを、白い稲妻は逃さない。
「―ッ……そういやアンタも同類やったな。ウチを護りたいとか何とか……そんなんならもう勘弁やで」
タマモクロスは猜疑心たっぷりの視線をぶつけると、そのまま頭を抱えてぶつぶつと呟き始めた。
「そもそも足りひんのや、トレセン学園にはツッコミが不足してるんや……最近アヤベもふわふわ絡みでボケの方向に舵を切って……皺寄せが全部ウチに来てるんや……」
レースから離れてなお、彼女は彼女なりに苦労が絶えないようだ。
「あ、いえいえ。今日はそういった話ではないのです」
ヤエノは思う。恐らく、タマモクロスのレースに対する熱源には、自分と近いものがある。そして精神的に繊細な面もある。久しく公式レースから離れている彼女が、何故またターフに立とうとするのか、何が彼女を奮い立たせるのか。そこに自分が暗闇から抜け出す手掛かりがないか、と考えたのだ。
「なんや、真面目な話かいな。よっしゃ、ウチが相談乗ったるで」
腕まくりをしてやる気満々なタマモクロスに、今回のエキシビションレースについて訥々と話しだす。やがてヤエノの言葉は堰を切ったように脈絡なく溢れ、その様子はそのままヤエノの心が乱れていることを表していた。
「……分からないのです。オグリさんとの再戦を前にしてこんなにも昂っているのに、頭の隅ではレースそのものへの恐れがあるのです。ですが、この闘争心は絶えず私をレースへと駆り立てる」
自らの葛藤を全てぶつけるように、タマモクロスを見つめる。夏空のように澄んだ彼女の瞳に、憔悴した情けない自分の顔が映る。
「怖くはないのですか。恐れながら、トゥインクル・シリーズを走らなくなって久しいタマモさんは―」
「おもんないわ」
じっと腕組みをして話を聞いていたタマモクロスが、ヤエノの言葉を遮って乱暴に吐き捨てる。
「今のヤエノ、全然おもんないわ。ウチとアンタは、結構似たもの同士やと思てたんけどな……」
気圧され言葉に詰まるヤエノを尻目に、タマモクロスは踵を返す。
「行くで」
「ど、どちらへ……」
顔だけで振り返り、ヤエノムテキを睨み付ける。
「決まってるやろ、レース場や」
その瞳が、まるで雷光のように輝く。
「タマモクロスの現在地、見せたるわ」
現在――
「さぁて追い込んだで、ヤエノ……」
背後から迫り来る足音は、既に自分を捉えている。流れる汗が胸を伝う感覚、肺の奥から込み上げる血の味―
「アンタの炎、ウチがもういっぺん引っ張り出したるからなァ!」
更にギアを上げ、自分に並びかけるタマモクロスを、横目でちらりと見る。
タマモクロス。
史上初の天皇賞春秋連覇を達成など、ウマ娘界に一時代を築いた存在。まるで電光のように後方から追い上げてくる走りをして『白い稲妻』と呼ばれている。
中央に編入したオグリキャップの、最初の
こんな時でも、ヤエノはまた雑誌で読んだことのある寸評が脳裏に浮かんでいた。
(何を気にしている……ヤエノムテキ)
自分に喝を入れ、瞬時に状況を判断する。タマモクロスとの戦い方は、一昨年のジャパンカップで『ジョーカー』から学んでいる。競り合いになれば、彼女のポテンシャルを引き出してしまう―ヤエノは、タマモクロスと並走するのを避け、コースの更に内側へ切り込んで距離をとる。
「さすがに頭のキレるやっちゃな……伊達に秋天は勝ってないっちゅうことか……せやけどな!」
タマモクロスは体格で勝るヤエノムテキに対して、すぐさまぶつかるように幅を寄せる。
「今は
「―くっ!」
距離のロスを厭わずに、自分のペースを乱してまで競り合いに持ち込んでくるタマモクロスに思わずたじろぐ。
(このヒリつくような気迫……これが……)
徐々に、だが確実にタマモクロスが前へと進出する。
「こんなもんやったら、エキシビションもウチとオグリの一騎討ちや……なァヤエノォ!」
お互いの呼吸音すら聞こえてきそうな距離。振り抜く互いの腕が時折ジャージの裾を掠める。競り合う二人の間を埋める空気が、徐々にその熱量を高めていく。
「誰もアンタなんか見いひん。誰もアンタの名前を呼ばん。クラシックの時と同じや――」
煩い。
「サクラチヨノオーも、メジロアルダンも……ヤエノムテキも、
煩い。二度と、もう二度と―
「それが許せないんとちゃうんかい、だからお前の存在を証明するんとちゃうんかい……なぁ!ヤエノムテキ!」
「……―ッ!」
抑えていた炎が一気に燃え上がる。足先まで熱が迸り、頭の中ではパチパチと何かが爆ぜ、眼球の周りがぎゅーっと熱くなる。
「私は……ヤエノムテキは此処に居る!」
呼吸が苦しくなるのも構わず、尚も彼女は吠える。
「タマモクロスも!オグリキャップも!私が倒して証明する!私が、私こそがヤエノムテキだ!」
体中の熱は二本の脚を通って、踏み蹴る地面へと伝う。力が滾る。先ほどまでとは打って変わったような荒々しくも力強い走り。
(これが、やはりこの感覚が自分の――)
「ようやく良い顔になったやないか……せやけどな」
そんなヤエノムテキを見て、不敵に笑みを浮かべるタマモクロス。
「コッチはコッチで、ウチが主人公やからなァ!」
ヤエノムテキに呼応するように、タマモクロスもその速度を増していく。稲妻のような気迫を纏い、一直線に猛進する。
「「はぁぁぁぁぁぁっ!」」
互いの咆哮が重なる。炎と雷、二つの熱が周囲の空気を歪めながらゴール板を通過する。歓声一つないレースの幕は、勝者が掲げた拳で締めくくられた。
「届きませんでした……」
タオルで頭を覆ったまま、ベンチでうつむくヤエノムテキ。汗に濡れた髪をぐしゃぐしゃとタオルで
「最初からあんな感じやったら、正直分からんかったと思うけどな」
コツンと額に何かが当たる。顔を上げると、タマモクロスがペットボトルのお茶を差し出している。
「ほれ、ウチの奢りや。タマモクロス勝利の美酒、付き合うてくれるやろ」
まだ少し上気しているタマモクロスの顔を、じっと見つめる。この人は本当にウマ娘史に残る大器をもっているのだな、と改めて思う。
「なんや、ウチが他人に奢るのがそんなに珍しいっちゅうんか……」
じとりとした目で睨まれる。
「す、すみません!そうではなくて……」
慌てて否定し、お茶を受け取る。
「タマモさんのおかげで、また自分の走りを取り戻すことができましたので、しっかりお礼を言わねば……と言葉を探していたのです」
「いらんいらん。正面切ってお礼を言われたら照れるやんか」
既に少し照れ気味なタマモクロスは、隣に座るや否や自分のお茶をごくごくと飲み下す。
「ま、本番バチバチにやり合えれば、それが一番のお礼やで」
湿った口元を拭って、タマモクロスはにやりと笑う。それにつられてヤエノも思わず顔がほころぶ。
「ですが、正直驚きました。タマモクロスさんの現在地が、まさかここまでとは」
お茶を口に含む。渋みと甘みを舌で転がすようにしてから、ごくりと嚥下する。
「元々ウチはレース一回に使うエネルギーが尋常やないからな、精神的にも肉体的にも燃費が悪いんや」
タマモクロスは、冬晴れの空を見上げている。
「その点、ローテーションが無い今のほうが、むしろ現役の時よりも良い状態かもしれへん」
全てのウマ娘にとって、中央でローテーションをこなしてタイトルを獲ることだけが、至上の幸せというわけではない。ましてや、最高の状態でレースに臨むという点においては、ローテーションほど厄介なものはない。
この、白い稲妻と謳われた伝説的なウマ娘であっても、それは例外でないということか。
「ウチもな、タマモクロスっちゅうウマ娘の存在を証明したくて堪らんくて、レースで成り上がるって決めたんや」
自分の胸を軽く拳で叩き、タマモクロスは続ける。
「せやけど、ウチが思ったよりもココが繊細でな。勝ちたい、負けたないって気持ちばかり空回りして、それが原因で周りにもぎょうさん迷惑かけたんや……それでも結局はターフに立った。自分を証明するためには、それしか方法がなかったから……いや、それが自分の望んだことだったから、やな」
そこまで一気に話し終えると、タマモクロスはこちらを向いて爽やかな笑顔を見せる。
「やっぱ、ウチら似た者同士やんな」
誰しもが苦しんでターフに立っている。それは自分だけではないことは分かっていたが、特に自己顕示欲が強く、勝利に対して貪欲なタマモクロスとは、葛藤の種類も近いものがあるようだ。
「もしかしたらそうではないかと思って、私もタマモさんにお声がけをしたのです……おっしゃる通り、似た者同士なのかもしれませんね」
打ち解け合った二人は朗らかに笑い合う。
自分に対する踏ん切りはついた。元々分かっていたことではあるが、やはり闘争心という炎を、自らの糧にして走るしかない。その炎が激しさを増すほど、自分の走りはより高みへ行ける。
だが、ヤエノにはもう一つ気がかりなことがあった。
「……チヨノオーさんとアルダンさんは、今回のレースには出られないのです」
二人の名前を聞いて、タマモクロスは申し訳なさそうに手を合わせる。
「あー……さっきは煽ってすまんかったな」
「いえ、それはいいのです。結果的に私のトリガーはそこにもあったのですから」
サクラチヨノオーは一昨年の宝塚記念の後、怪我による長期休養を余儀なくされている。一方のメジロアルダンは、先日の日経新春杯には出走したが四着、更には怪我が再発し、三度目の長期休養となる可能性が高いとのことだった。
「私は、そんなお二人の存在も背負ってレースに臨みたい。クラシック戦線で誓った時のように、いつかレースに戻ってこられた時に、その名が風化されていてしまわないように、ですが――」
「有馬であんな負け方をした自分に、再び想いを託してくれるのか分からない……ちゅうことやんな?」
ヤエノは素直に頷く。自分の中では有馬のトラウマは払拭された。だが世間が、他のウマ娘たちがどう見るかはまた別の話であって、それは親友とも呼べる二人にも同じことがいえる。少なくともヤエノはそう考えていた。
「そんなに心配やったら、直接聞いてみたらええやんか」
ヤエノの後方をちょいちょいと指さしてタマモクロスが言う。振り返ると、そこにはメジロアルダンとサクラチヨノオーの姿があった。
「その程度のことでヤエノさんへの信頼が揺らぐほど、私たちはぬるいレースをしてきたつもりはございません」
「そうですよ。ダービーの激戦、ヤエノさんこそ忘れてしまったんじゃないですか」
チヨノオーが車椅子に乗ったアルダンを押し、こちらへとゆっくりやってくる。両者とも、脚の患部には痛々しくも包帯が巻かれている。
「昨年の天皇賞秋もですよ。最後の直線での追い上げ、まさか忘れたとは言わせませんからね……」
二人の唐突な登場に、ヤエノは驚く。
「お二人とも、いつからいらっしゃったのですか」
「タマモさんとレースしているところから、ずーっと見てましたよ。ね、アルダンさん」
チヨノオーは手を目に当てて双眼鏡のジェスチャーをしなが言う。
「タマモさんから連絡がありましたので、失礼ながら隠れて見ておりました。さすが私たちの、素晴らしい走りでしたよ」
「でも、ヤエノさんならもっと凄い走りができると思うんです!春のエキシビションレースでは、その走りを楽しみにしていてもいいんですよね⁉」
いたずらっぽく微笑む二人。オグリキャップしか見えていなかったのは、他でもなく自分だったのかもしれない。
「お二人とも……申し訳ありません。私の認識が甘かったようです」
「私たちは、ヤエノさんがとっても強いウマ娘だと確信したから、あの時想いを託したんですよ」
三人が激しく競ったクラシック戦線。その記憶を風化させまいと誓った日を思い出す。
「そしてその確信は、今この時も寸分とて変わりません」
丁寧に謝罪の礼をとるヤエノの手を、二人が握る。
「だから今回も、ヤエノさんに想いを託します!」
チヨノオーの瞳には薄っすらと涙が浮かんでいる。この三人で最もレースから離れている彼女が、レースへの想いを他人に託すという行為自体、相当に悔しいことだろう。それでも、こうやって力強く手を握ってくれている。
「私たちは必ず、ターフに戻ってきます。その時まで―」
言葉に詰まるアルダンの手は震えていた。何度も何度も怪我から復帰しレースに挑み、その度に跳ね返されてはまた休養に入るというガラスの脚は、もう一度輝く場所を探している。
そんな二人の想いを受けて、ヤエノムテキは高らかに宣言する。
「ここに再度誓いましょう。私が、この世代の存在をもう一度、必ず世に証明します」
そんな三人を見ていたタマモクロスが「そう簡単にさせへんけどな」と冗談交じりに言い放つ。
決意と覚悟を新たにした、晴れやかな表情のヤエノムテキに、アルダンが諭すように語りかける。
「それに、ヤエノさんにはもう一人、想いを託してくれている大切な方がいらっしゃいますよ」
きょとんとした顔で目をぱちくりとさせたヤエノは、数秒の硬直の後――
「くっ!私は大馬鹿者です!」
何かを思い出したような素振りの彼女は、慌ただしく荷物をまとめて駆け出していった。
「それでは、失礼します!皆さん、本当にありがとうございました!」
◆四◆
道場の冷たい床を感じながら、ヤエノは座禅を組んでいた。四方には蠟燭の炎。ゆらゆらと揺らめく光源を、瞼の向こう側に感じながら、彼女は想いを巡らす。
タマモクロスと真剣勝負をしたこと、シンボリルドルフが挑発的な誘いをしてきた意味、想いを託してくれる戦友たち、そして何より、自分が走る理由について。
静かに息を吐き、明鏡止水の境地に達したヤエノの首筋にぴとり、と冷たいものが触れる。
「ひゃああうわぁぁっ⁉」
反射的に飛び退って距離を取る。そのまま反撃の構えをとったヤエノの目に映ったのは―
「トレーナー殿⁉」
冷たいものの正体は、トレーナーが差し入れとして持ってきたスポーツドリンクだった。
「あんまり集中していたものだから、ついからかってみたくなっちゃって……ごめんごめん」
クスクスと笑いながら、担当トレーナーが謝罪を口にする。
「それよりも、私があそこまで接近されるまで気づかなかったとは……如何なる術を⁉」
「ヤエノのお祖父さんのところで武術を教わってから、担当トレーナーとしてヤエノと同じ道を歩むために、ちょくちょく稽古をつけてもらっていてね」
トレーナーは、ヤエノと全く同じ構えをとってみせた。
「それでできるようになってしまったと⁉」
「歩法は全てに通じる重要なもの、って言われたものだから熱が入っちゃって」
「なるほど、さすがトレーナー殿。お見事……ではなくてですね!」
「それで、話があるんだよね」
悪戯に対する抗議をひとしきり終えると、トレーナーが本題を促した。ヤエノが「はい」と頷くと、そのままトレーナーは続ける。
「エキシビションレースのことだね」
やはりか、と思うと当時に苦笑がこぼれる。
「申し訳ありません。最初からトレーナー殿に相談にすべきでした」
共に歩む時を重ねる度に、トレーナーは自分のことをどんどん理解していく。最早、自分以上に自分の心を知っているのではないか、とさえ思えてくる。
「いや、今回は担当トレーナーとして、ヤエノを信じてみたんだ。だから敢えて声を掛けなかった。こちらこそ、申し訳なかった」
真っ直ぐにこちらを見て、真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
「それに、こっちが何を言っても、ヤエノは自分で道を切り拓こうとしたでしょ」
やはり、なんでもお見通しだ。
「私が担当しているヤエノムテキってウマ娘は、どんな困難な状況でも、自分の拳で、自分の脚で、どうにか活路を見出そうと足掻いて藻掻いて――」
トレーナーは蠟燭に視線を落とす。
「でも絶対に、心の炎は絶やさない。そんなウマ娘だから」
言葉は要らなかった。ヤエノムテキの覚悟が決まったことは、今日呼び出しをした時点で分かったのだろう。
「そうかもしれません、ですが……」
トレーナーが自分に託した想い。それに答えるには、例え分かり切ったことでも、言葉にしておく必要があると思った。
「乗り越えられたのは、トレーナー殿と共に歩んできた道のりがあったからです。」
真っ直ぐにトレーナーを見つめ、真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
「ご存じの通り、私はとても不器用なウマ娘です。自身の激情に身を焦がし、気に入らないものがあれば力で解決したがる」
蠟燭の炎が一層激しく揺らめく。
「そのくせ、そんな粗暴な一面を憎み、嫌い、遠ざけようとしてはまた飲み込まれる。この気質は、この先一生をかけても治らないでしょう」
ヤエノの言葉は止まることを知らない。
「ですが、トレーナー殿とであれば、何度でも乗り越えられると思うのです。もちろん、相応のご迷惑をお掛けすることになるでしょう」
大きく深呼吸をし、めいっぱいの想いをぶつける。
「それを全て承知の上で、これからも、共に同じ道を歩んでくださいますか」
数秒の、静寂――
「なんだか、告白みたいなセリフだね」
耳の先がカーっと熱くなる。
「こッ――、いえいえ、断じてそのような……っ!も、もちろん慕ってはおりますが――す、好きとかそういうものはまだ若輩な私には早いと言いますか、その――」
全身の毛を逆立て、赤面したヤエノはしどろもどろになっている。
「それに、前にも聞いたことのあるような」
「そ、それは、大事な約束は何度も確かめ合うべき、とアルダンさんからご教授いただきましたので……その、変でしたでしょうか」
トレーナーは両手で顔を覆ったヤエノを、穏やかな表情で見つめる。
「いや、ヤエノの言う通り大事なことだね―こちらこそよろしく。これからも、二人で共に道を行こう」
トレーナーが右の手で拳を作り、胸の前まで掲げる。顔を上げたヤエノも、それに応えて右の拳をコツンとぶつける。
「それで、トレーナー殿。久しぶりにお手合わせ、お願いできますでしょうか」
ヤエノが演武の型をとる。トレーナーは待っていましたとばかりに、羽織っていたジャケットを脱いで袖口を捲る。
「もちろん」
「ありがとうございます、トレーナー殿。ヤエノムテキ、これにて再びの火水合一と成ります」
夜の静寂の中、二人は演武を始める。幾度となく繰り返した動きは、無駄が一切ない洗練されたものとなっていた。それは、ヤエノムテキとトレーナーがこれまで歩んできた時間の長さと、お互い本気で向き合ってきた不断の努力による賜物だった。揺らめく蠟燭の炎に照らされた二人の演武は、夜の闇が濃くなってからもしばらく続いていた。
◆締◆
例年より遅咲きの桜も散った、四月中旬。
『さぁ、皐月賞にも劣らない盛り上がりを見せております、ここ中央トレセン学園で本年よりおこなわれるエキシビションレース――』
レース場に響く歓声。超満員の観覧席に、メジロアルダンとサクラチヨノオーの姿があった。
「残念でしたね、もう少し開催時期が早ければ、桜の中でのレースになりましたのに」
まだ脚の包帯は取れていないが、車椅子なしでもごく短い距離でなら歩いても良いとの許可が下りていた彼女は、チヨノオーの助けを借りながらも自力でレース場までやってきていた。
「知っていますか、アルダンさん」
チヨノオーの状態は一進一退であったが、ようやくリハビリも軽い運動を含んだメニューへ移行することができていた。
「八重桜って、普通の桜より遅咲きで……開花期間も長いんです」
二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑い合う。
「……それならちょうど今日あたり、満開かもしれませんね」
『現役最強から期待の新星、果ては引退した伝説も一日限りのカムバック。他のどのレースよりも豪華な顔ぶれとなっておりますが――』
誰も彼もが超一流の実力者、と言われる中央のレースでも、この陣容はやはり異質というべきメンバーだが――
『やはり一番人気はこのウマ娘』
「勝てーオグリー!」「オグリキャップ!」
観客は口々に彼女の名を叫ぶ。
『有馬記念で奇跡の復活を遂げたオグリ――』
「押忍!」
どの歓声よりも大きな声の主、ヤエノムテキ。実況を遮るかの如く発せられた叫びに、会場は一瞬静まり返る。
『おっと、叫んだのはヤエノムテキ。ゲートを前にして少々落ち着かない様子か……いや』
ヤエノは、ゆっくりと一人のウマ娘に向かって歩き出す。
「正々堂々、勝負しましょう」
立ち止まったヤエノムテキは、オグリキャップに右手を差し出して握手を求めた。
オグリキャップは、少し驚いたように目を見開いたが、すぐにすべてを理解したとばかりに、歓喜に満ちた表情でその手を握り返す。
「ヤエノムテキ。やっぱり君とは、面白いレースができそうだ」
晴天、轟音、芝と汗の匂い。頬を撫でる暖かい空気と、肺の奥からこみ上げる熱気。芳春の中央トレセンレース場を埋め尽くす空前絶後の大歓声は、早鐘を打つ自身の心音より大きく、振動を伴ってこの身に降り注ぐ。その歓声は、今は誰のためのものでもない。
心の炎を鎮めるな。止水の情を絶やすな。その身を賭して、無敵の名を示せ。
「はぁぁぁぁぁぁっ!」
その咆哮を以って、自らの存在証明を、鳴らせ。