驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、遠征支援委員会室。
いつものように椿トレーナーを伴って委員会室に赴き、扉を開ける。
コーヒーの香りとともに出迎えてくれたのはこの部屋の主の小柄なウマ娘、ジャーニーさんだ。
「お待ちしていました、セミラミスさん」
「こんにちは。今日は最終確認ですね」
そのままどうぞこちらに、と応接スペースに案内される。
ここを訪れるのも何度目だろうか。
年明け、英国遠征を内々に決めたときからジャーニーさんには遠征のことを相談していた。
彼女の抜かり無さは秋の時点でわかっていたからだ。
静かな足音がして、委員の子によってトレーが運び込まれる。
白いカップが3つ。湯気と一緒にほのかに甘い香りが立った。
ありがとうございます、と軽く会釈して委員の子を見送る。
カフェさんほどコーヒーに詳しくはないが、これはグアテマラの中煎りだ。香りで分かる。
小さな皿には切り分けられたティラミス。ジャーニーさんの行きつけの店のものだろうか。
「いただきます」
カップが置かれる音だけが部屋に落ちる。
しばしその香りと風味を楽しんだ後、ジャーニーさんとふと目が合った。
「では──」
切れ長の目元、淡い色の透明感のある瞳がこちらを見つめる。
「最終確認に入りましょうか」
さあ、ここからが本題だ。
「まずローテーションの最終決定だけど──」
椿トレーナーが手元の資料に目を落としながら口火を切った。
「先日のヴィクトリアマイルでの消耗が想定以下だったから、予定通りキングズスタンドステークスは出走を前提に進めるよ」
最初に出たのは本題も本題、これまで話し合ってきた予定の変更有無。
元々、それまでの消耗度によってグローバルスプリントチャレンジの英国ラウンドを何戦するか決めることになっていた。
中でもアスコットレース場の直線1000mで行われるキングズスタンドステークスと、同1200mで行われるゴールデンジュビリーステークスは中3日で開催される。
幸いヴィクトリアマイルでは余力を残しての勝利だったため、キングズスタンドSを前哨戦として使用するプランに決定していた。
「承知いたしました」
ジャーニーさんもそう頷くだけ。
私も特に言うことはない。予定通りだ。
次に口を開いたのはジャーニーさん。
宿舎や交通手段の最終確認だ。
「到着後の動線も、先日お渡しした最終稿のとおりです」
先日手渡されたホッチキスどめの英国遠征のしおり。
表紙におにぎり型のアスコットレース場と指を3本広げたようなニューマーケットレース場のコースが描かれたそれには、対英陸上戦第2次
……なにも断念した作戦名をつけなくてもいいだろうが、なにやら椿トレーナーが喜んでいたので良しとする。アニメかゲームのネタだろうか
「はい、確認しました。ありがとうございます」
これもまあ、特にいうことはない。
そもそもこの手の業務は学園が懇意にしている旅行代理店の仕事であり、遠征支援委員会は現役競技ウマ娘の視点からの微調整が主だ。
いちいち細かい話を代理店とやらなくて済むのは本当にありがたい限りだった。
「現地での調整に特に変更はありませんか?」
「はい、特には」
話題は英国に着いてからの調整に移る。
現地の洋芝に慣れるための練習場所と練習相手の確保というのが、今回のような帯同なしの単独遠征では課題となりやすい。
だが、その点は解決している。椿トレーナーとその父親の梧郎トレーナーの人脈によってだ。
「それにしても、かのブレイントレーナーとお知り合いとは驚きましたよ。どちらで知己を得られたんです?」
「ジャパンカップで来日した時にね、ホストがアルケスだったの。それでローレルの遠征でもお世話になったんだ」
聞き慣れないトレーナーだが、名指導者として有名なリファールやG1・10勝のミエスクの担当だったと言えばその凄さが伝わるだろうか。
そんな相手が、来日時には用もないのに酒を飲みに来るとかいうから驚きだ。
なんでも梧郎トレーナーはフランス語どころ英語もできないというのに、海外の名伯楽となんかこう友人になれるのだという。
人は見かけによらないというか、すごいコミュ強だとしか言いようがない。
「ブレイントレーナーのフランスギャロ所属の子も英国遠征するから、一緒に練習させてもらえることになったんだ」
「確かお相手は短距離G1勝ちウマでしたか。なんとも気前の良いことで」
その人脈パワーでG1ウマ娘と調整させてもらえるのだから感謝しかない。
元々トレーナーさんは現地で練習相手になるウマ娘を依頼するつもりだったようだが、その手間が省けるというものだ。
「一応、現地の頼れそうな連絡先はまとめておきましたので」
「助かるよ、ありがとう」
まったくそのあたりジャーニーさんは抜かりがない。
「また何かあればおっしゃってください」
そう言って彼女は机の下から書類ケースを取り出し、カラフルな付箋が貼られた書類を机に広げた。
「──事前に提出する書類はこちらとなっております。ご確認の上、署名して提出いただければ」
「いやー、書類仕事苦手だからホント助かるよ」
URAも学園もお役所仕事で嫌になるね、と椿トレーナーは笑う。
傍から見て、彼女が書類仕事をものすごく苦手とするいうことはなさそうだった。
しかし、通常業務でも何かと書類に追われるトレーナー職。ルーチン外の遠征関係だけでも受け持ってもらえるのは本当に助かるらしい。
その後も細々とした書類関連──例えば補助金の精算に必要な報告書や、もしもの場合の医療関係など──を詰める。
そのような事態が起こることなどあってはならないが、万一というのは逆に必ず起こるのだ、と椿トレーナーはいう。
そうとは言わなかったが、彼女の念頭にはローレルさんの凱旋門遠征時のことがあるのは明白だった。
そしてすべての確認が終わり、お互いに渡すべき書類を交換しおわった。
机の上は片付けられ、書類も残っていない。
会議室の扉の前に立ったところで、用件がすべて終わったのだという実感がわく。
「では、こちらで以上です」
ジャーニーさんは、いつもと同じ調子でそう言った。
一歩引いた、正しい距離。
「お世話になりました」
椿トレーナーが先に廊下へ出る。
それを見送ってから私も続こうとして——足を止める。
……別に、言い忘れたことがあるわけじゃない。
けれど、このまま出ていくのは、少しだけ違う気がした。
「……」
自分でも理由が分からないまま、視線を下げる。
ジャーニーさんは柔らかなほほえみをたたえたまま、急かさずに待っていた。
「……ありがとうございます。助かりました」
「そう言っていただけるなら、良かったです」
そう頭を下げる。
変わらない声色。けれど、視線だけは外さない。
ほんの一瞬、沈黙が落ちる。
彼女の、たれ目がちでともすれば気だるげな印象を与える目。
眼鏡越しに覗く涼やかな瞳は吸い込まれるように深く──見えた、気がした。
次の瞬間、彼女は一度だけ瞬きをする。
それはごく自然な動作で、意識して見ていなければ気づかない程度のものだった。
けれど、そのあとだ。ほんのわずか、間が空いた。
私は反射的に、半歩だけ距離を取っていた。その動きが必要だった理由をうまく言葉にできない。
彼女はすぐに姿勢を整える。視線も、声も、乱れていない。
見慣れたはずの立ち姿だった。
「……どうか、されましたか」
平静な、穏やかな口調。
ぶしつけな真似をしたというのに、心配するでもなく、咎めるでもない。
それでも、その一言が出るまでに、先ほどと同じ一拍の遅れがあったような気がした。
……今のは。
そう思ったのは、私だけだろうか。
表情は静かな笑みのまま変わらない。
けれど、目の奥だけが、ほんの一瞬深さを変えたような気がした。
「……行ってまいります」
「ええ。それでは、よき旅路を」
深々とお辞儀をする彼女に見送られ、委員会室を後にする。
扉が閉まるか閉まらないかというときに、彼女の低めの声がした気がした。
「どうか、ご無事で」