驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
103 統一女王と英国遠征
ノルデンセミラミス、英国遠征──
(文:乙名史 悦子)
統一女王は、なぜ安田記念を選ばなかったのか
ノルデンセミラミス、英国へ
今週末に春のマイル王者決定戦安田記念を控えながら、昨年覇者ノルデンセミラミスの名前は出走表にない。
連覇を捨てて彼女が向かうのは6月の英国。ロイヤルアスコットミーティングを皮切りとする直線スプリント3連戦だ。
彼女が短距離路線の国内最強格であることはもはや説明を要しない。
昨年の安田記念を史上初のクラシック級で制すると、スプリンターズS、マイルCSと相次いで混合戦で勝利、シニア級に入っても高松宮記念、ヴィクトリアマイルを制覇──短距離からマイルまでの芝シニアG1を全て制し、タイキシャトルですら成し遂げなかったスプリントとマイルを統べる統一女王と呼ばれる存在となった。
直近のヴィクトリアマイルも、中団から早めに抜け出して1バ身以上の完勝。内容面での評価も揺るぎない。
それだけに、「なぜ安田記念ではないのか」という疑問が浮かぶのは自然だろう。
だが、今回のローテーションは回避ではない。
最初から、選ばなかったのである。
すでに済んでいる「国内での格付け」
セミラミス陣営が見据える今年の最大目標は、『グローバルスプリントチャレンジ』制覇。
日・英・豪・香港を舞台に争われるこのシリーズは、数年前に創設された比較的新しい試みだが、2年前にはテイクオーバーターゲットが優勝し、日本でもその価値は徐々に認識されつつある。
短距離の“世界一”を、分かりやすい形で証明する。
セミラミス陣営はその目標を明言しており、今回の英国遠征はその中核にあたる。
そう考えれば、安田記念を選ばなかった理由は明快だ。
マイルGⅠでの国内評価は、すでにヴィクトリアマイルで完了している。
それでも、連覇を見たかったという声が消えないのも事実だ。
だが彼女の視線は、すでにその先にある。
それでもヴィクトリアマイルを走った理由
ただし一つ、予定外だったレースがある。
当初、ヴィクトリアマイルもローテーションには含まれていなかった。
陣営は消耗を懸念し、当初は回避の方針だったという。
だが彼女は首を縦に振らなかった。
最大のライバルであるウオッカが出る。
その舞台に、自分だけがいないという選択肢はなかった。
結果は前述の通り。
勝ち切ったことで、国内への未練は断ち切られた。
彼女の雄飛を妨げるものは、もうない。
英国短距離という“分かりにくい選択”
日本のレースの文脈で言えば、海外挑戦の象徴は凱旋門賞か、あるいは香港国際競争。
6月のロイヤルアスコットミーティングは、日本のファンにとっては必ずしも馴染み深い舞台ではない。
それでもこの時期、この場所を選んだのは、シリーズ日程との整合性に加え、直線スプリントという条件が、彼女の資質を最も厳密に測るからだろう。
勝てば称賛されるが、評価が一気に跳ね上がるとは限らない。
負ければ疑問だけが残る。
そうした立場を承知の上で、ノルデンセミラミスは英国へ向かう。
目線は、すでに「次」にある
取材を重ねる中で感じるのは、この遠征を“挑戦”として語る空気の薄さだ。
必要な場所へ行く。
必要なレースを走る。
その延長線上に、世界一がある。
幼い頃、短距離王者に憧れてレースの世界に入った彼女は、いつしか「憧れを超えること」を目標に据えた。
そのために必要なら、前例のない道も選ぶ。
安田記念の週末、日本に彼女の姿はない。
だがそれは逃げでも空白でもなく、次の答えを取りに行くための選択だ。
英国遠征は、その第一歩に過ぎない。
来たるべきロイヤルアスコットミーティング初日、GSC第3戦キングズスタンドステークスの開催は現地時間6月17日に迫っている。
コラム:グローバル・スプリント・チャレンジとは
「グローバル・スプリント・チャレンジ」(Global Sprint Challenge)は、豪州、英国及び日本の主要スプリント競走を提携した世界で初めての国際スプリントシリーズだ。
従来、競馬の世界王者といえば中長距離路線、とりわけ欧州の大舞台が基準とされることが多かった。一方でスプリント路線は、各国に強豪は存在しながらも、その実力を横断的に比較する枠組みが乏しかった。
そこで日・英・豪・香港など主要開催国が連携し、指定された競走を対象にポイントを集計。年間を通じて最も優秀なスプリンターを決定するのが本シリーズである。
現在、シリーズは複数の主要短距離レースを結節点とし、シーズンをまたいで各国を転戦する構造をとる。単発の遠征とは異なり、継続的な挑戦と安定した成績が求められる点が特徴だ。
単純なスピードだけでなく、
・異なる馬場適性
・遠征への対応力
・開催時期の違いへの調整能力
を含めた総合力が問われる。
日本にとっては、短距離戦線の国際的な評価を高める意味合いも大きい。実際、過去にはシリーズを制したウマ娘がその名を世界に刻んでおり、国内スプリント路線の価値向上にもつながっている。
分かりやすい「世界一」の称号。
だがそれは、一度の勝利では届かない。
年間を通じ、海を越えて結果を積み上げる者だけが、その座に近づくことができる。
シリーズ優勝の決定方法
(1) 各競走の入着ポイント方式
優勝・10pt、2着・5pt、3着・4pt、4着・3pt、5着・2pt、着外・1pt。
遠征ウマ娘がG1レースに勝利した場合は獲得ポイントは2倍。
(2) 3カ国以上のシリーズ競走に出走して、42ポイント以上獲得したウマ娘のうち、最も得点の高い者をシリーズ優勝とする。
(※シリーズ優勝者の無い場合もあり得る)
シリーズ優勝ウマ娘への賞品、ボーナス
(1) 優勝トロフィー
シリーズ優勝ウマ娘および担当トレーナー、所属チームに対しトロフィー贈呈
(2) シリーズ主催者所管ウマ娘養成機関合同開催の国際交流プログラム参加招待
シリーズ優勝ウマ娘に対し、各シリーズ主催者と提携する養成機関合同の国際交流プログラムへと招待。
(3) シリーズ主催者が施行するレースへの公式アンバサダー招待
シリーズ優勝ウマ娘に対し、各シリーズ主催者が施行する以下のレースでの公式アンバサダーへと招待。
| 主催者 | 競争名 |
| レーシング・ヴィクトリア・リミテッド | メルボルンカップ |
| ロイヤルアスコットミーティング | キングジョージ6世&クイーンエリザベスS |
| URA | ジャパンカップ |
| 香港レーシングクラブ | クイーンエリザベス2世カップ |
(4) シリーズボーナス
本年より条件が変更となり、3か国のG1競走に優勝した場合に100万USドルが贈呈される。
出典:http://www.ura.go.jp/news/kokusai/globalsprinte.html
羽田空港、国際線ターミナル。
英国遠征は、その第一歩に過ぎない。
記事の最後の一文を閉じて、画面を伏せる。
第一歩。便利な言葉だ。どこからでも始められるし、どこまでも遠くへ行ける。
ターミナルは思ったより静かだった。早朝便の出発ロビー。ガラス越しに差し込む光はまだ柔らかく、床に長い影を落としている。
キャリーケースの取っ手を引く。重さはいつもと変わらない。かさばる荷物はあらかじめ滞在先に送ってある。
足音が、ひとつ。
「……お姉ちゃん」
振り向くと、レヨネットが立っていた。
私服姿。帽子も被っていない。隠す気はないらしい。
その目の奥に、まだ抜けきらない影があるのを、私は知っている。
夢だと言っていたダービーを回避した日から消えないものだ。
「来ていたの」
「うん。お姉ちゃんの門出だもの。見送りくらい、するよ」
くらい、という言葉に少しだけ力が入っている。
安田記念は今週末に迫っている。調整の最終段階だ。
本来なら、休養か軽い追い切りの時期だろう。
「体調は問題ないですか」
最初に出たのはその確認だった。
ただでさえ皐月賞を跛行で回避しているのだ。スカーレットのように気負いすぎて春全休などということになっては目も当てられない。
レヨネットは一瞬だけ瞬きをしてから、頷く。
「うん。もう大丈夫。……安田記念、出るんだから」
「ええ、聞いていますよ」
昨年、私が制した舞台。
クラシック級史上初の安田記念制覇。記事はそう書いた。
彼女は、そこへ向かう。
「勝つから」
言葉は短い。だが、その奥にあるものは単純ではない。正直言って厳しい戦いとなるだろう。
私の時はマーク戦法でなんとか勝ったが、差しのウオッカにそれは、と考えたところで意図して思考を断つ。
「あなたなら、勝てます」
嘘ではない。事実としてそう思っている。
能力も適性もある。見たところ府中マイルは合っている。展開が流れれば、差し切れる。
だがそれは……いや、やめておこう。
けれど、レヨネットの表情はわずかに硬いままだ。
「……そうじゃなくて」
小さく零れた声。
しかし続きは出てこない。
何を求めているのか、分からないわけではない。
けれどそれを言葉にしてしまえば、彼女を一段低く扱うことになる。
ターフの上で、姉も妹もない。
甘やかすことは、彼女のためにならない。
そのような行いは礼を失する。
「焦らないで。前半が速くなっても、慌てて位置を取りに行かないこと。あなたの脚は最後に活きます」
技術的な助言を並べる。正しいことだけを選ぶ。
それでは足りないだろうことは解っていたが、いまの私から言えることはここまでだ
レヨネットは一瞬だけ視線を落とし、そして無理に笑った。
「……分かってるよ」
分かっている。だがそれ以上を求めるのは甘えだ。
少し離れた場所で、ゼファーさんが静かに立っている。
風に豊かな二つ結びの髪を揺らしながら、何も言わない。
トレーナーさんも先輩方も、誰も口を挟まない。
アナウンスが搭乗開始を告げる。時間だ。
レヨネットが小さく息を吸う。
「……帰ってきたら」
言いかけて、止まる。
「何?」
「ううん。なんでもない」
ほんの一瞬、手が伸びかけた。
だが触れずに下ろされる。
そう、私たちはそうあるべきだ。ターフの上にいる間は。
「安田記念、楽しみにしてるよ」
そう告げると、レヨネットの目が揺れた。
褒めるでも、抱きしめるでもない。
ただ、競技者として。最大限のエールを贈る。
「……うん」
その返事は、少しだけ掠れていた。
待ってくれていた椿トレーナーを伴い出国ゲートへと向かう。
振り返らない。
振り返れば、何かを与えてしまう気がした。
ガラス越しの空が、ようやく明るくなり始めている。
英国遠征、憧れを超える第一歩を私は踏み出した。