驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
森の奥から、規則的な蹄音が響いていた。
夕陽は低く、森の底にはまだ薄い湿気が残っている。
昼の光を吸った芝が、ゆっくりと息を吐く。土と水と、刈り込まれすぎていない葉の匂い。
──日本では知らない匂いだった。
シャンティイの森、この国のウマ娘教育の中心地。
私はここを拠点に欧州の芝に順応し、ロイヤルアスコット開催を含む3連戦へと挑むこととなる。
──数時間前。
12時間のフライトを終えシャルル・ド・ゴール空港 に降り立ったとき、空気は思ったより軽かった。六月のパリは涼しく、日本の梅雨前とは湿度の質が違う。
英国遠征なのになぜパリに? というのはジャーニーさんから旅のしおりを受け取ったときにも思ったものだ。
普通、アスコット遠征ならロンドンはヒーズロー空港だろうというのが正直なところだろう。
その理由簡単で、今回受け入れをお願いしているフレデリカ・ブレイン トレーナーがフランスを拠点としているためだ。
「てっきり現地で合同練習するのかと思ってましたが」
思わず口にすると、椿トレーナーがこう説明してくれたのを覚えている。
「英国・フランス・アイルランドは三国協定(TPA)で相互に同じ国のようにレースに相互出走できるんだ」
移動自体もいまはドーバー海峡トンネルで繋がってるから、ユーロスターで数時間だよ、と彼女は続ける。
なるほどそれなら札幌や小倉より近いぐらいかもしれない。日本が案外広いとも言えるかも知れないが。
この制度は名目上短期留学扱いの日本ウマ娘にも適用される。
つまり、コネの不十分な英国のチームにお世話になるくらいなら懇意にしているフランスのチームにお世話になって、そこを拠点にアスコットに向かったほうが合理的、というのが私たちの判断だった。
そんなこんなで空港から予約してあったレンタカーで北へ向かう。
車種は、絶対日本人には読めない某会社のSUV。
日本の会社と三社連合を組んでいるので社名は有名かもしれないが、文字からカタカナで読めるのは車かミリタリー趣味の人間ぐらいだろう。
椿トレーナーの後ろの座席で、車のグローブボックスに用意してあったSIMカードをウマホに差し替える。これもジャーニーさんの心遣いだ。
「なにかとホント至れり尽くせりね……」
椿トレーナーがそう呟くが、全く同意だった。
シャルル・ド・ゴール国際空港、亡命ラジオDJノッポおじさんの名前がついた空港から北へ揺られることしばし。
慣れない右側通行に戸惑いながらも、日本では北海道ぐらいでしか見られないただっぴろい平原が終わり、高速道路を降りると農村風景が目に飛び込んでくる。
街の輪郭がほどけ、緑が増え、森が深くなる。やがて、視界の端に長い直線が現れた。芝の帯だ。
日本で見てきた芝よりも、色が深い。柔らかいというより、重い。風に撫でられても、揺れ方が違う。
「シャンティイ──あれが欧州の芝……」
「そうだ、あれが我々が待ちに望んだ欧州の芝だ。私は諸君らを約束通り連れて来たぞ──」
椿トレーナーがハンドルを握ったまま芝居がかった演説調で言い、ご機嫌そうに鼻歌を歌いだす。
そのメロディはこれから英国に駒を進めようとする私たちにはある意味ふさわしいものだったが、特にドイツ人に聞かれると面倒になりそうでもあった。
「……冷えたワインは出発前日までお預けですからね。あと外では歌わないでくださいよ?」
「あ、知ってたんだ。詳しいねー」
話の流れ的になにか椿トレーナーは勘違いしている気がするが、放っておいて車窓の外を眺める。
シャンティイ学園。正式名称はFrance Galop centre de formation Collège et Lycéeという。
この街にあるフランスギャロ管轄の学園は、日本のトレセン学園のようなコンパクトにまとまった1つの学園ではない。
確かにシャンティイレース場の近くに校舎こそあるが、差し渡し10kmほどの街と森そのものがトレセン学園のようだった。
日本のように大勢が共同生活を送る寮は存在せず、代わりに同じトレーナーのウマ娘が集まるチームのチームハウスで共同生活を送るのが一般的だそうだ。
そんなチームハウスとレース場や坂路にレースコースが、市街とその周りの森に点在しているのがシャンティイという街だった。
シャンティイそのものがトレセン学園とはよくぞ言ったものである。
かつて凱旋門賞に遠征した先輩方もここでお世話になったという。
そこで私たちは現地の名門チームのチームハウスの一室を借りることになっていた。
「フレディのご厚意だよ」
椿トレーナーがそう冗談めかして名前を呼ぶ。
フレデリカ・ブレインといえば欧州でも指折りのトレーナーだ。
昔にフランス留学してた時に知り合って、彼女が来日した時にはアルケスでホストを務めたんだ、とは彼女の弁だった。
一体どういう経緯で知り合ったのか本当に謎だ。
彼女の所属はフランスギャロだが、英国人なので普通に英語で呼びかけていいらしい。確かにフレデリカというのはフランス系の名前ではない。
遠征の受け入れ先が英国ではなくフランスだと聞いてから、急いでサクラローレルさんにフランス語の日常会話を習った私の苦労を返してほしい。
まあ観光に使えると思えば無駄ではない。そんな暇があるかはさておき。
そして低木の森の中の真っ直ぐな道路を通り過ぎ、車は狭い砂利道へと突っ込んでいく。
「もうすぐ着くからね~」
大丈夫なのか、という表情が見て取られたのか、椿トレーナーがそう声をかけてくる。
彼女のドライビングテクニックそのものに不安があるわけではない。
ただこうちょっと、思いっきりが良すぎてなんとなく不安だった。本当にこの道でいいんだよね、という意味で。
ただ、ちょくちょく運動着姿のウマ娘を見かけるので方向はあっていると思う。
なぜか格好がバラバラだったのが気になるところだったが。
そうして森のなかの未舗装の道を抜けると、白い建物が見えてきた。
その建物はそれなりに年季の入った様子だった。
1階は白い石づくり、上階は漆喰づくりに濃いグレーのスレート葺きの三角屋根が特徴だった。
敷地内に建物がいくつかあり、回廊が建物同士をつなぎ、中庭を囲むように広がっている。
様式こそ異なるが、某全寮制の魔法魔術学校に似た構造、といえば想像しやすいだろうか。あんな陰気な雰囲気ではないが。
どうやらその建物が目指す場所のようだ。
「さ、ついたよ」
椿トレーナーが車を建物横の駐車スペースにつけると、とりあえず当座の荷物だけを抱えて車から降り立った。
一つ深呼吸すると、日本とは違う森の空気が肺いっぱいに広がる。
私はここから、私は欧州の芝に名を刻むのだ。