驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
椿トレーナーとの面談翌日。この日は朝から冷たい雨が降り続いていた。
私は3人目のトレーナーである吉富トレーナーのもとを訪ねていた。
もらった書きつけと眼の前のドアの場所に相違がないことを2度確認して、呼び鈴を鳴らす。
鬼が出るか蛇が出るか……いやそんな訳はないが、もう口の中が乾いてきているのを感じる。
「はい、どうぞ」
たったった、と軽い足音がして、扉が開けられる。
独特なスパイスと柑橘系の香りとともに迎え入れてくれたのは、淡い鹿毛の長髪を後ろで二つ括りにした大きな流星が特徴のウマ娘。この人は私でも知っている、ヤマニンゼファーさんだ。
ヤマニンゼファーさん。安田記念連覇に加え中距離の天皇賞秋を制覇、スプリンターズSも2着と3階級制覇に最も近づいたウマ娘だ。
そしてその奥、彼女の肩越しに佇んでいるふわりとしたボブカットの上品な御婦人。
こちらと目が合うと、彼女は静かににこりと微笑みを返してこう言った。
「はじめまして、ノルデンセミラミスさん。
彼女こそが、今日私がアポイントをとった、吉富まつりトレーナーその人であった。
挨拶を交わした後、私は室内に通された。前に訪れた明石トレーナーの部屋と違って洋風の間取りなのが印象的だった。
奥の壁にはチームの誰かの趣味だろうか、両手を広げたぐらいの大きな魚拓と潮の満干が記載されたカレンダーが飾られているのが見える。
テーブルについた私の前に、吉富トレーナー手ずから赤いワインのような色の湯気がたつ液体の入ったガラスの器が置かれる。液中にはくし切りにされたなにかの果実が沈んでいた。
部屋いっぱいに広がった香りの元はおそらくこれだろう。だがこの正体はなんなのか、さっぱりわからない。
私の横に座るヤマニンゼファーさんが、恵風ですね、と呟いてカップを両手で持って口をつけているあたり、二人の間ではおなじみの物らしい。
「ホットワインです、温まりますよ。ああ、もちろんアルコールは残っていませんのでご安心を」
なるほど、これがホットワインというものか。
お言葉に甘えて私も口をつけてみると、シナモンと柑橘類の香りとともにぶどうの甘みが喉を通り抜ける。
確かに雨で冷えた体を温めるにはもってこいの飲み物だった。
一息入れて改めて吉富トレーナーを観察する。
彼女の第一印象としては、例えて言うなら日本史や現代文の教諭、といったものだった。
物静かでやさしそうに微笑む、経歴からしてベテランなのだが髪艶が良いためか年齢を感じさせない年齢不詳な御婦人。
それが、失礼にならない範囲でみてとれた彼女の印象だった。
しれっと同席しているヤマニンゼファーさんは、本人曰く風待ち、吉富トレーナー曰く指導補助員を務めてくれているのでここに居るとのこと。
彼女については寮でも台風の日に風を感じに外に出かけるなど、わりと独特な感性をお持ちな方だというのは知っていたので、そういうものだと思うことにした。
ではあらためて、と開口一番、吉富トレーナーから出てきたのは意外な言葉だった。
「選抜レースの後、脚に違和感や疲労はありませんでしたか?」
怪我はなさそうでしたので声はかけませんでしたが、重いバ場を走るのは慣れていなさそうでしたので、と彼女は続けた。
確かに私はこれまでほとんど重いバ場で走ったことはなかった。あの後は脚に何かあったわけではないが、疲れて早めに寝てしまった。疲労がたまっていたのは間違いない。
それにしてもたった1度走りを見ただけでそこまでわかるとは、さすがはベテラントレーナーというべきか。
「伊達に長くやっていませんから。……貴女の今の走りは良バ場に特化したもので、渋ったバ場では滑ってしまって力を発揮できないでしょう」
図星だった。
レースでは幸い転倒などはしなかったものの、脚に力を込めても蹄鉄が上滑りして全然進まなかった。
全く彼女の言う通りだ。どうしてそこまでわかるのだろうか。
これまでそれを指摘してきたトレーナーや教官はいなかった。
「わかりますよ。その若さでよくぞここまでものにしましたね。ご出身からして直接指導されたこともないのでしょう?」
どくん、と心臓が高鳴る。
まるですべてが見透かされているような。
「四角から上がってくる姿は、サクラバクシンオーのそれを思い出しました」
脚質まで変えてしまうとはさぞ思い入れがおありなのでは、と続けられた。
そう、まさしくそうなのだ。
何度見返したことか、何度夢に見たことか。
「はい、あのスプリンターズステークス、両親に何度もお願いしてやっと連れて行ってもらえたんです! 選抜レースでもあの時と同じ8番を引けたときは嬉しくて嬉しくて! 最終コーナーから位置を上げて、1人だけ格が違う圧倒的な加速! 国内どころか世界にすら並ぶもののない走り! あの時のサクラバクシンオーさんこそが私の理想なんです!」
吉富トレーナーは、ご両親に中山レース場まで連れてもらったのね、と相槌をうつ。
「そうなんです! 母もマイルで活躍してたウマ娘で、自慢の母ではあるんですけどマイルは何か違うかなって思ってて……! その前の月のマイルチャンピオンシップでレコード出したのに届かなかったのが悔しくて! でもスワンステークスの時もそうだったんですけど、お2人の活躍でマイルと短距離は違うのかなって思えるようになって……。入学前は仇みたいに思ってたんですが、入学してお会いしてみたら全然違ってて、それからはノースフライトさんにもかわいがってもらえてて……」
ふと我に返る。何を言っているんだ私は。
気がつくとテーブルに手をつき、立ち上がって身を乗り出してしまっていた。
そのまま、ゆっくり椅子に腰を下ろす。顔から火が出そうだ。
「ふふ。豪風と雁渡の交わる先に、吹くは微風か野分か……」
ヤマニンゼファーさんがそう微笑みながらホットワインをすする。
刹那、息が止まる。
内蔵を氷の手で掴まれたかのように体温が奪われるのを感じた。
ヤマニンゼファー、彼女の引退レースであり3階級制覇の掛かったスプリンターズステークス。
惜しくも2着だったがそのレースの1着は? サクラバクシンオーである。
サクラバクシンオーの引退レースでの枠順は8番。ではその前年のレースでは? 当然知っている。12番だ。
じゃあその時の8番は? ヤマニンゼファーだ。
そういえばさっき自分はなんて言った? 国内どころか世界にすら並ぶものはない?
同じレースを走ったウマ娘とそのトレーナーの前で?
ぶわっと額に汗が滲み、頬をつたって流れ落ちる。
ど、どうしよう。謝る? 謝って済むのか? この無礼が?
どれくらいそうして固まっていただろうか。たぶん数秒のことだと思う。
気がつくと、ヤマニンゼファーさんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
どうぞ使ってください、と水色に赤の差し色が入ったハンカチを手渡される。
我に返った私は、なにはともあれ立ち上がり頭を下げた。
とんだご無礼を、とか、申し訳ありません、とかそんなことを言った気がする。
そのまま頭を下げ続ける。言ってしまったことから怒声も覚悟していたが、実際はそうではなかった。
「頭をお上げください。……私もゼファーも怒ってなどいませんよ。むしろ若い娘はそれくらい元気でなくては」
「海をも渡り得た豪風に、そよ風が敵わぬのも道理。今は軟風なれどもいずれはとの心意気、確かに受け取りました」
おずおずと顔をあげる。2人ともくすくすと微笑んでおり、確かに怒りの色はない。
相変わらずヤマニンゼファーさんは何を言っているかわからないが、少なくとも耳は伏せられていないし、逆に応援してくれているような雰囲気を感じる。
本当に……? と思わず言葉が口をついた。
「ええ。まあお掛けください。どうしても気にするというなら、そうですね……3階級制覇など、目指してみますか?」
「まあ、跡風たらんと? 東京の千六と二千でしたら、いつでもお付き合いしますよ」
耳を疑う。
申し訳ないと思うならヤマニンゼファーが為せなかった3階級制覇をやってみろと、私の跡を追ってくれるなら練習には付き合うぞと、そう言っているように聞こえたのは気のせいだろうか?
目を白黒させながらお2人を見ると、口を隠して笑っている。どうやら冗談らしい。よかった。
「……
秋天ワンチャンとか冗談ですよねヤマニンゼファーさん? 奇跡を起こせばあるいは、と言っているように聞こえましたが!?
マイルなら何とかなっても2000mは持ちませんよ!?
「ゼファーもそれくらいにしてあげなさい。冗談はさておき、落ち着かれたようですので続きと参りましょう」
そう言って彼女は口を湿らせる。私もつられてカップを口に運ぶ。
ホットワインの酸味と甘みが心にしみわたるようだ。先ほどとは別の意味で冷えた体が温まる。
吉富トレーナー曰く、彼女の指導スタンスはこうだ。
「私はウマ娘一人一人に合った走り方を指導します。基本的には王道の先行が好みですが、無理に矯正したりするつもりはありません」
どうやら彼女の指導スタイルは放任型か管理型かでいうと放任寄りらしい。
自分がどちらに向いているかはわからないが、両極端でなければいいかなと思う。
そしてスタイルとして先行抜け出しが好みなのであれば、私は彼女の好みと一致していることになる。
「私としては競技一辺倒で考えてほしくないのです。学園を出た後の人生のほうが長いのですから、無理を押して怪我をしないことを最優先とします」
一方でここだけは徹底管理側のようだ。
怪我をするなという点では去年オリエンテーションで講演していたURAの職員と気が合いそうだ。たしか樫本……だったか。
「もし私の指導が合わないと感じれば、いつでも移籍して構いません。その場合は推薦状も書きます」
本当に、と思わずヤマニンゼファーさんのほうを見ると、どうも本当らしい。
自身が重賞を勝たせたウマ娘をあっさり放出して、それどころか出戻りを受け入れたことすらあるという。
正直、気味が悪いレベルで寛容だが、納得できない相手と組んでも仕方がないでしょう、と彼女はこともなげに言う。
「それでもよろしければ、貴女が走るお手伝いをさせていただけますか」
そう彼女は締めくくった。
言葉を飾らずに言えば、変な人なのだろう。
でも、ここまでウマ娘のことを第一に考えてくれるトレーナーもなかなかいないように思う。
迷った末に、私はもう少し考える時間を下さい、と他の2人に対するのと同じ答えを返した。
「それでは色よいお返事をお待ちしていますよ」
そうして、私はチーム棟を後にした。
雨の降る中、美浦寮へと帰る。
するとノースフライトさん(そういえば彼女は栗東寮でアストンマーチャンさんと同室のはずだがなぜかよく会う)やダイワメジャーさんにトレーナーは決めたかと聞かれた。
それには、考えているところ、と返事をする。
今までだったら相談でもしていたところだったところだろうが、そうしようとは思わなかった。
これは、自分で決めるべきことだと直観したからだ。
翌日、結論を出した私はとあるトレーナーに連絡をとった。
「──今後ともよろしくお願いいたします、トレーナーさん」
「承知しました。貴女がそう望む限り、共に征きましょう」