驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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110 統一女王とアスコットの舞台

 今回の遠征で私が参戦するロイヤルアスコットミーティングが行われるアスコットレース場。

 その特徴はなんといっても高低差20mにものぼる坂だ。

 

 高低差20mといえば、トレセン学園の坂路コースのそれに等しい。

 それぞれに近い寮の名前を取って栗東坂路、美浦坂路とよばれるそれの高低差は28mと18m。

 傾斜度でいえば、美浦坂路を全力で駆け上がるようなものだ。それも坂路コースのようなウッドチップではなく洋芝の。

 

 すなわち、私が適応すべきは洋芝と同時にこの坂道でもあるわけだ。

 もちろん出発前に入念な坂路メニューを組んで鍛えてはきたが、それでもそんなものを駆け上がるのかと思うと今からげんなりする。

 

 

 シャンティイ練習場、坂路コース。

 

 森の外れにあるこの練習場には当然坂路コースもある。

 日本のように整備された坂路コースではなく自然の地形に合わせて作られた2kmあまりのコースだ。

 

 坂路は下から見ると短い。だが走れば傾斜は容赦なく脚を奪う。

 実際のアスコットに合わせて全長1200m、600m付近から登り勾配に入るようコースを取った。

 

 横で入念なアップをするマルシャンドールは何も言わない。私も言わない。

 今日のメニューは併せという名の実戦形式の練習だ。

 

「よく見てきなさい。彼女の走りを、マルシャンドールの脚運びを」

 

 椿さんの言葉を思い返す。

 この練習の目的は勝つことではない。観察することだ。

 トレーナーさんも椿さんもそうとは言わなかったが、2人は初戦のキングズスタンドSすら追い切り代わりに使おうとしていた。

 とにかく早期にこちらでの走り方を確立するのだ。

 

 

 一本目。

 

 スタート。

 前へ飛び出す。だが芝が重い。初速が鈍る。

 日本でのように思ったようなスタートが切れない。巡航に入るまでに半拍遅れる。

 

 600を過ぎ、私は早めに仕掛けた。

 焦りだ。

 

 坂の入口で脚が沈む。押し返そうとしてさらに沈む。

 背後から迫る気配。脚音は一定で乱れがない。

 

 後方脚質の彼女に並ばれ、差される。

 

 ゴール。

 

「坂で焦ったわね」

 

 椿さんの短い指摘。

 そのとおりだった。反論はしない。

 

 

 二本目。

 

 今度は前に出すぎない。巡航を保ち、呼吸を整える。

 芝は重いが、先週よりも昨日よりも受け入れてくれている。

 

 600。

 

 まだ動かない。

 

 ラスト300。

 

 背後の圧が変わる。蹄鉄が芝に食い込む

 空気が締まった。

 

 ──動いた。

 

 彼女の脚音が一段深くなる。

 速くなるとも違う。沈まない。その気配に神経を集中させる。

 

 私は一瞬だけ仕掛けを遅らせた。

 抜かれ際、横に並んだその一瞬。

 

 見えた。

 

 体幹がブレていない。

 脚を芝に預けている。

 

 ──そうか。

 

 次の一歩で、踏み込む足首の角度をわずかに緩める。

 沈むはずの芝が、逃げない。

 

 身体が前へ出る。

 

 並ぶ。

 

 だが追いつくことは叶わなかった。

 最後の伸びが足りない。

 

 ゴール。息を整える。

 

 同じく息を整えるマルシャンドールさんがこちらを見る。

 

「(……今の、わざと?)」

「(いいえ)」

 

 決して意図的なものではない。

 ただ、合っただけだった。

 

 だが何かが引っかかる。

 ……よし。もう一度。

 

 

 三本目。

 

 スタートはまだ鈍い。到底いつも通りとはいえない。

 だがこれまでの全てに比べればマシだった。

 

 だから焦らない。巡航。溜める。

 

 600。

 

 まだ動かない。

 

 250。

 

 背後の気配が変わった。

 ──来る。

 

 足の角度を合わせる。

 押さない。預ける。

 

 ──沈まない。

 

 並んだ。

 

 ラスト100。

 

 脚が止まらない。今までのどれよりもいい。

 

 ゴール。

 

 勝敗は分からない。

 ただ、並んだ。

 

 マルシャンドールさんは何も言わない。

 ただ、視線が私の脚元を捉えて離さない。

 

「(まさか──)」

 

 息を整えながら誰ともなしに吐き出されたフランス語の呟きの内容はわからない。

 

 えっほえっほと坂を登ってくる足音。

 ボトルとタオルを抱えた椿さんの声が後ろから届く。

 

「(2人とも、クールダウンして休憩しましょ!)」

 

 とにかく、何かが掴めた。

 それで十分だった。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 芝への適応も重要だったが、レースの本分は走ることのみにあるのではない。

 走り終えた後のウイニングライブまできちんとこなすのが習いというものだった。

 

 だが海外遠征で問題となるのがライブ曲の練習である。

 今回の場合だと3回G1レースに出るが、課題曲は前半2戦用が『Graceful Gale』、ジュライカップ用が『Straight Line Fever』の2曲だった。

 後者が短距離マイル用の『本能スピード』相当、前者は日本に相当するものがないのロイヤルアスコットミーティングの短距離・マイル用の曲である。

 もちろん映像を見て練習を重ねてはきたが、周りに誰もステージ経験者が居ない日本での練習には限界があった。

 そのため、ある程度人数を揃えての練習はフランスに到着してからとなる。

 

 

 シャンティイトレセン学園、ダンススタジオ。

 

 

 今はシャンティイトレセン学園の校舎として使われている城の中庭を抜け、重い扉をくぐると空気が変わる。

 外の光は白く乾いていたのに、内部はやわらかく、少しだけ冷たい。

 案内されたのは、かつて舞踏会に使われていたという大広間だった。

 

 天井は高い。

 視線を上げると、装飾の縁取りが幾重にも重なり、その中心にかつてシャンデリアが吊られていた名残の金具が残っている。

 磨かれた板張りの床は広く、足を踏み出すとわずかに軋んだ。

 

 格式と機材が同居している。

 ここで舞踏が踊られていたのだろう。今日はその代わりに、英国遠征組のウイニングライブの通し練習が行われている。

 

 

 通し練習そのものは大きな滞りもなく終わった。

 

 初めて複数人で合わせたが、難しい振り付けというわけではなかった。

 日本にいる間にきちんと映像を見て練習しておいて良かった。

 

 休憩に入り、壁際に置かれたベンチに腰を下ろす。

 ペットボトルの水を口に含むと、ようやく喉の奥の乾きに気づいた。それでも消耗はしていたらしい。

 

 隣にマルシャンドールさんが立つ。

 

「(あなた、いつもそうなの?)」

 

 唐突な言葉だった。

 

「(何がです?)」

「(一度見ただけで、そこまで合わせるの)」

 

 合わせる、と言われても困る。

 映像は事前に何度も見ていたし、今日も最初の通しで全体の動線は掴めた。あとは位置と角度を揃えるだけだ。

 

「(普通では?)」

 

 そう答えると、彼女は少しだけ目を細めた。

 私は肩をすくめる。

 

「(ウイニングライブを疎かにするわけにはいきませんし、こちらでの時間は貴重です)」

 

 とはいえライブの練習にフランスまで来たのではないのだから、日本で仕上げられるだけ仕上げてくるのが普通だろう。

 そう言ってから、水をもう一口飲む。冷えた感触が喉を通る。

 

 マルシャンドールさんは何も言わない。ただ、私の足元を一瞬だけ見た。その視線が、坂路で向けられたものと同じ種類だと気づき、私は小さく息を吐いた。

 

 別に、特別なことはしていない。

 見るべきものを見て、合わせるだけだ。

 それができなければ、一流とは言えないだろう。

 

 

 私たちの間に無言の時間が流れる。

 

 

 その沈黙を破ったのは、後ろから話しかけてきたアナバーさんだった。

 

「(どうしたのよ、2人ともお疲れ?)」

 

 そのまま流れるようにベンチの隣に腰掛ける。距離が近い。

 

「(ねぇ、なら今度の休養日をあわせて、私たちとお出かけしない?)」

 

 せっかくフランスに来たのに一度も遊びに行かないのは人生損してるわよ、とのお誘いだった。

 たち、とは。とあたりを見渡すと、ゴルディコヴァがこちらを見ていた。

 なるほど、そういうことか。

 

「(ええ、ぜひ)」

「(よかった。マルシャンドール、貴女も来るわよね?)」

「(え……ああ、ご一緒させてもらうよ)」

 

 そういうわけで、英国に出発する前の週に4人で出かけることとなった。




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