驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
最後の休養日から数日、いよいよ我々はアスコットへの移動日を迎えた。
シャンティイからアスコットまでは鉄路の旅。
パリ北駅で驚くほど簡単なパスポートチェックを済ませてユーロスターに乗車すると、数時間でドーバー海峡を渡っていた。
歴史上幾度も英国本土を護る障壁であり続けたこの海峡も、今やトンネルによって陸続きとなった。
ロンドン到着後、キングス・クロス駅やパディントン駅といった名作にも登場した駅で乗り換えて、アスコットまではしめて5時間の旅。
なるほど確かにこれなら小倉や札幌への遠征と大差ないというのも頷ける。
そんなことを思い返しながら寝返りを打つ。
湿った空気が布団の隙間からじわじわと肌へまとわりつく。
アスコットで借りたコンドミニアムの一室は、清潔で、必要なものは揃っていて、それなのにどこか落ち着かなかった。
窓枠の角を伝って乾ききらない結露の跡が細い筋になり、曇りガラスの向こうで空が白く滲んでいる。雨が降っているわけではない。けれど、空気そのものが濡れているような、そんな感触がずっと居座っていた。
私はベッドの薄いマットレスの上に横になっていた。背中が硬い。だけど、寝具が柔らかすぎるよりはまだいい。天井のシーリングライトは消してある。薄明るい昼の光が、部屋の輪郭だけを淡くなぞっている。
隣ではマルシャンドールさんが同じように横たわり、ブランケットを胸まで引き上げたまま、じっと天井を見ていた。
眠っているようにも見えるが、呼吸のリズムが整っていない。一定のテンポで落ちていかない。浅く、短く、いちいち引っかかる。
「(眠れないの?)」
私がそう問うと、彼女は返事をしないまま片手で目元を覆った。指先が細かく震えている。
「(……眠りたい)」
しぼり出すような声。悔しさの混じった、真面目な声だ。
たった一週間弱。
キングズスタンドステークスに彼女は出ない。だから本来なら、ここにいる理由は薄い。
けれど、彼女はここにいる。帯同、という名目に寄りかかるようにして。
「(枕が変わると眠れないんだ)」
元気だったころの彼女はそう語っていた。
だからこそ早期に現地入りもしていたし、私をチームに受け入れたのもこれが理由の一つだったのだろう。
見知ったウマ娘と一緒なら相当マシだから。そういうウマ娘は日本でも見る。
私はそれを責める気にはなれなかった。環境が変われば、体が先に反応してしまう質がある。
本人の努力とは別のところで、地面が揺れるように足元が不安定になる。強い弱いの話ではない。
ウマ娘にはよくあることだ。
私の方は幸い、眠れてはいる。
代わりに口の中がつまらない。起きている間ずっとだ。
──飯が、まずい。
まずい、と断言するのは簡単だ。正確には、味がしない。それに尽きる。
塩気が弱いわけではない。香りも、旨味も、温度も、いちいち平らで単調。
昼に出されたパスタはソースがあるのに水っぽく、草のような匂いが舌の上で散って終わった。
夕食の肉は火が通りすぎていて、噛んでも味がせず味付けも淡い。付け合わせの豆はただ柔らかいだけだった。
こんなマズい飯しかないから大航海時代の粗食にも耐えられ、世界に冠たる植民地帝国を築けたのだろう。
聞けば、すべての野菜はクタクタになるまで煮込んで、出てきた出汁をすべて捨てるのが調理法だという。
なんでもそうしないと灰汁が強くて食べられたものではないとか。この土地は呪われている。
フランスで食べたものが頭をよぎる。
バターの香りと、酸味と、甘味の奥行き。日本の、芳醇な出汁の風味。
いままでどれだけ美味しいものを日常的に食べていたのかここ数日で嫌と言うほど理解した。
ここで受け取る食事は、ただの燃料にすらなりきれない。胃には入る。体は動く。だけど、心が乾いていく。
また寝返りを打つ。
遠征は、走路と時計だけで決まらない。
私は薄い天井を眺めながら、口の中に残る何とも言えない水っぽさを思い出し、舌先を軽く噛んだ。
アスコットの坂は確かに難物だった。
芝は日本と違う。踏めば沈む。戻りも鈍い。しかもコースのうねりが、真っ直ぐに体を運ばせてくれない。
けれど、それは想定内だった。
事前に映像も見た。傾斜の切り替わりで脚がどこへ逃げるか、身体がどう遅れるか、イメージは持ってきた。現地に入ってからの調整でも、問題点は見えている。対策もある。
ただ──
芝への適応は、まだ満足できる水準ではない。
なんとか妥協ライン。そうとしか言えない。
それでも勝つつもりではいる。私は勝つために来たのだから。
初戦のキングズスタンドステークスは半ば追い切り代わりだとしても、勝ちを持ち帰れないなら意味がない。
とはいえ自信はない。
だからこそ、余計なところで士気統制の緑バーを削られるのは厄介だった。
……明らかに消耗入って削れちゃいけないところまで削れているマルシャンドールさんよりはマシかも知れないが。
マルシャンドールさんが、布団の下で膝を抱え直す気配がした。
「(……セミラミス)」
「(はい)」
「(ここの空気、重い)」
彼女はそう言って笑いもしない。
私も、同意するしかなかった。
その時、玄関側で鍵の回る音がした。椿さんが帰ってきたのだろうか。耳が回ってそちらに集中する。
足音は3人分。1人は椿さん。1人は知らない人。そしてもう1人は──
「生きてますか?」
聞き慣れた声。トレーナーさんだ。
慌てて布団を跳ね除けてリビングへと出る。
そこには旅装のままのトレーナーさんにそれを迎えに行っていた椿さん。
そして何故か居るURA海外事業部の緑服、スピードシンボリだった。
……本当に何故ここに。
それが顔に出たのか、彼女は気障な微苦笑を浮かべる。
「おっと、そんなに警戒しないでくれ。差し入れに来ただけだよ」
そう言ってなにやらボール紙の箱を差し出される。
黒地に黄色いイナズマ模様の入ったそれは、15センチ立方ぐらいだろうか。
…………これは?