驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
ニューマーケットレース場。
アスコットで二度走った身にとっては、その第一印象はあまりにも違っていた。
アスコットレース場のような重厚なスタンドも、品評の視線を押し付けてくる観客の密度もない。あるのはただ、横へと果てなく広がる直線と、風にさらされた芝だけだ。
観客は遠く、歓声もまだ届かない。評価される場ではなく、ただ速さだけを問われる場所。そんな気配があった。
誘導に従い進むと、視界いっぱいに横一列のゲートが並ぶ。
三角おにぎりに例えられるアスコット、&マークのようなグッドウッド、しだれた枝のようなエプソムダウンズ。その流れで言うならニューマーケットはフレミング左手の法則と形容できるだろうか。
指一本一本が2000mほどもあるこのレース場で一番短い真ん中の指が、今回私が走るジュライコースだ。
静かだ。はるか遠くにスタンドがけむり、風の音だけが通り抜ける。
私の枠番は2。かなり端だ。
係員に促されるまま、ゲートへと歩みを進めた。
9番のマルシャンドールは動かない。
すでにどこを見るべきかを知っているように、ただ前だけを見据えている。
さらに外、15番のキングスゲイトネイティヴは落ち着かない様子。
小さく蹄鉄を鳴らし、抑えきれない力が前へと滲んでいるかのようだ。
鉄の檻に足を踏み入れる。
乾いた音が、やけに大きく響いて扉が閉まった。
一瞬、外界と切り離される。
息を吸う。耳を伏せ、ゲートに全神経を集中させる。
ゲートが開いた。
張り詰めていた筋肉が弾ける。
踏み出しは悪くない。むしろ良い部類だ。
だが、出し切らない。その必要はない。
一完歩、半拍だけ抑える。中央寄りのウマ娘が前に出る。それで構わない。
ここにはコーナーは存在しない。ただ前を取ることにさほど意味はない。
必要なのは、見極めだ。
視線を落とす。
芝の色、踏み荒らされていない帯、わずかに密度の違う筋。
サクラローレルさんやタイキシャトルさんの教えを思い返しながらそこを踏む。
ラチ沿い。状態のよい芝を、鴨川の飛び石のように選んで跳ねる。
脚は自然と前へ出る。
抑え気味に走ってているのに位置が下がらない。
むしろ横一線に揃ってくる。
逆に言えば、そうできなかったウマ娘から消耗していくのだ。
誰もが最適を探している。だが、それを探している時点で遅い。
中央が膨らむ。外でも内でもない、曖昧な帯にバ群が寄っていく。そこを正解だと見た者たちが、一斉に脚を使い始めた。
広い直線コースの中央には確かに状態の良い帯が見える。だがそこはよろしくない。
地元勢のベテランが進むそこだけは整っているが、その左右は芝が乱れている。あれでは位置取り争いで消耗してしまうだけだ。
だから、私は変えない。
踏む場所も、リズムも、そのまま。
最善の場所ではないのは承知の上で、隊列の外側、内よりを進む。
その中でも特に良い場所を選んで蹄鉄をそこに差し込んで。
外が伸び、中央がさらに押してくる。
確かに速い。だが雑だ。
焦れている。
ここで前に出なければ、と。
ここで決めなければ、と。
だから脚を使う。使わされる。
まだ脚を削る場所ではない。いくら短距離だと言っても無駄遣いしては勝てる勝負も勝てないのだ。
緑の芝に一直線に立つ白いラチ。先の坂の上には人だかりが見えてきた。
レースはようやく半ば、まだ仕掛けはここではない。
──伸びている。
抑えていたはずの脚が、気づけば前へ出ている。
無理に出したわけではない。ただ、同じリズムで踏み続けているだけで、周囲との差がじわじわと詰まっていく。
中央のバ群はまだ厚い。
良いレーンに乗っているウマ娘たちは崩れてない。踏み込みも深く、まだ余裕がある。
だが。
横一線だったはずの並びに、わずかな綻びが見え始める。
踏み直し、わずかな修正。その一歩の差が距離になっている。
ならば、行く。
まもなく400m。
仕掛ける、というほどでもない。
ただ、抑えを外す。
それだけで脚は伸びている。
一段、前へ。
内ラチから3レーン外、選び続けてきた芝はまだ生きている。
踏めば返る。力が逃げない。
中央の帯は確かに良い。
だがそこは混み合っている。押し合い、踏み合い、削り合っている。
ならば、こちらでいい。
最善ではない。だが、最も無駄がない。
その差が、ここから効いてくる。
一人、抜く。
さらに一人。
横の景色が開ける。
先頭集団に並びかける。
だが、突き放せない。
中央のウマ娘たちはまだ落ちない。
良い芝に乗り、脚を温存したベテラン勢だ、こちらの進出に食らいついてくる。
キングスゲイトネィティヴもそこにいる。
だが、問題ない。
ここで削る必要はない。無理に離す必要もない。
このまま、維持すればいい。
少しずつ差が縮まり、ゼロに近づいていく
同じリズムで。
同じ踏み込みで。
前へ。
並ぶ。
そして、抜いた。
残り200、先頭に躍り出る。
内ラチの向こう、明るい色の人だかりから音が飛び込んでくる。
遠かったはずの観客の気配が、いつの間にか近い。
そのまま脚を回す。
振り返らない。
後ろは見ない。見る必要がない。
前だけを見て進む。
白いラチ。緑の芝。その先に続く直線。
それだけでいい。
──終わらせている。
──終わらせるのが早い。
リフレインするその言葉を振り払い、最後まで気を抜かず走り切ると自分に言い聞かせる。
まだ終わっていない。ここからが本当の勝負だ。
踏みを緩めないよう意識しながら、リズムを崩さず脚を回し続ける。
同じ強さで踏み込み、同じ深さで地面を捉え、その積み重ねで前へ進む。
確かに伸びている。だが、伸び切ってはいない。
中央の気配が完全には消えず、背後に残る密度がまだほどけきっていないのを、感覚として理解する。
それでも構わない。
余計な加速も、無駄な力みもいらない。ただ走ることだけに集中する。
呼吸は乱れていない。脚にもまだ余力がある。このままなら、最後まで保つ。
そう判断し、その判断に従う。
歓声がさらに膨らみ、音の質がわずかに変わる。だがその意味を拾うことはしない。拾えば意識が散る。
前だけを見る。
白いラチ、緑の芝、一直線のコース。その反復だけを自分の世界に残す。
わずかに、空気の流れが変わる。
左側、中央ではない。
右、ラチ側の視界の外に気配を感じる。
思わず耳をそちらに回す。いつの間にそんなところまで。
誰だ?
──いや、この足音を私はよく知っている。
ここ一ヶ月、何度も共に走った蹄音ではないか。
──難しく考えなくていい。やることは一つでしょ?
──最後まで踏み込む、それだけよ。
やられた。アレはそういうことか……! 後ろに意識を向けさせないために……!
奥歯を食いしばる。
意識の外、内側から忍び寄っていたのはオレンジの勝負服。
豊かな銀髪とミントグリーンのマントをたなびかせ、マルシャンドールが並びかけて来た。
残り150m。
──並ばれた。
緑の芝が急速に石畳の街並みに変わる。
香辛料の匂い。布地が、証文が空に舞う。
正面に立つはマルシャンドール。
口元だけが、わずかに緩む。
勝ち誇るでもなく、挑むでもなく、ただ取引が成立したと理解した者の顔。
彼女はカウンターに鎮座した光り輝くおおきな天秤に、チャリンチャリンと腰の金貨袋から中身を乗せていく。
「お待ちしておりましたお客様。さあ、取引を始めましょうか」
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