驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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136 短距離の女主人とセントウルステークス

──踏み出す。

 

鋼鉄の檻に閉ざされていた視界が開け、ガシャンという音を知覚する。

ゲートが開いた。

 

扉とともに前へ。

まずまずのスタート。3完歩、5完歩、速度に乗る。

内側、スプリングソングも同じように飛び出してきた。

彼女と並走しながら、それにあわせるように内へと切り込んでいく。

 

短い直線で内枠の11名の前を横切って最内へ。

本来は先行脚質のスプリングソングだが、今日は珍しくハナを取るようだ。

それなら番手につけさせてもらおう。

 

逃げるつもりのウマ娘は居なかったようで、外枠にもかかわらず先頭集団を形成することができた。

先頭はスプリングソング。番手は外側が私、内側は内枠から出てきた黒い短パンのシンボリグランという形だ。

番手を握ることができたのは僥倖。このまま速めのペースをキープして、流れが緩まないのが一番都合がいい。

 

そのまま向こう正面を過ぎて3コーナーへ。

カーブにあわせて体を傾けながら、芝を踏みしめて走り抜ける。

英国で必死で適応してきた柔らかな洋芝に比べれば、慣れ親しんだ野芝は硬く反発を返してくる。

少なくとも巡行においては何の問題もない。

良い兆候だった。ここまでは気分よく走れている。

 

 

コーナーの最中、その曲率を利用して周囲を観察する。

 

 

まず先頭、スプリングソング。

 

彼女のペースは崩れていない。初めての逃げだったはずだが、そうとは思えないほどにうまくやっている。

頭の中で彼女の評価を一段引き上げた。

踏み込みは浅くないし、ピッチも一定だ。上体のブレも許容内。

 

……想定より、保っていると言えるだろう。

 

夏合宿で担当だった菊代トレーナーの指導がよかったのだろうか。

ペースも落ちていないし、無理に押している様子もない。維持できている。

 

──少なくともここまでは。

 

 

視線をわずかに右へ。

内ラチ沿いのシンボリグランは、私とスプリングソングに進路を制限されて選択肢を失っている。

確かシニア級3年目のベテランだったか。経験は豊富だろうにもかかわらず、随分と消耗しているようだ。

行程はまだ半分も残っているというのに余裕が削られている。

しきりにこちらを気にしているようだが、道を開けるつもりは一切ないので抜けたければ位置を下げることだ。

そうなればさらにロスを抱えるわけで、もはや彼女は脅威ではない。

 

 

耳を回して後方。

縦に10バ身隊ほど伸びた隊列は動いていない。差しはまだ後方で待機している。

すでに4コーナー半ば。この局面で動かないなら、さしたる脅威ではないだろう。

 

再び前へ注意を振り向ける。

スプリングソングの呼吸は乱れていない。だが、余裕があるというわけでもないようだ。

惜しい。もう一残しできれば、それこそG1でも通用するだろうに。

 

コーナー出口が近づく。

眼前には観客席の建物が見えてきた。間もなく残り400といったところか。

進路は確保済み。

 

出力を一段上げる。

 

外からの視界が開けるにつれ、スタンドの色が増えていく。

ざわめきが波のように押し寄せる。

 

前方、スプリングソング。

踏み込みはまだ保たれている。ラインも乱れていない。

 

横へ視線を落とす。

シンボリグラン。内で維持しているが、その走りに余裕はない。

脚の使い方が単調になっている。

 

──消耗が表に出始めているな。

 

進路を半歩分、内へ寄せる。

 

それだけで十分だった。

シンボリグランのラインがわずかに後ろへずれる。

 

観客の声が一段上がった。

構わない。前へ。

 

スプリングソングとの距離が詰まる。

呼吸のリズムは変わらない。よく粘ったといえるだろう。

 

──だが、ここまでだ。

 

出力を上げる。

コーナーが終わり、直線へと接続する。

 

芝は問題ない。

十分に加速した私の脚に、心地よい反発が返ってくる。

そう、この感触だ。思わず笑みがこぼれた。

脚を回せば回しただけ加速する。

蹄鉄を引き抜くのにパワーのいる洋芝ではない、弾むような野芝の感覚。

 

残り250を切って、スプリングソングに並びかける。

 

これまでの下りから一転、仁川の坂が眼前に立ちはだかる。

だが、欧州のレースを経験した今、この程度の坂で脚が止まるほどヤワな鍛え方はしていない。

 

……思ったより粘られた。

感覚的にはまだ間があると思っていたが、もう200を切っている。

 

更に後方、外に持ち出してきたシンボリグランの外から迫ってくる気配。

 

──なるほど。

 

脚を温存する、というわけにはいかないようだ。

 

一段、ギアを上げる。

 

全開までは不要。

前を突き放し、後ろを封じる分。必要な分だけでいい。

 

 

そのままスプリングソングを抜き去り、先頭に躍り出る。

前はこれでいい。並んだ時点で抜くのは決まっていた。

 

問題は後ろか。

 

声なき叫び、形なき気迫と共に後方から気配が迫ってきている。

2レーン外から鋭い差し脚、このリズムは……カノヤザクラだ。

 

残り100。

 

速度を測る。直線での爆発的な伸びは想定通り以上。脅威ではない、というのは訂正したほうがよさそうだった。

 

──届かせてきたか。

 

だが、そこまでだ。

 

出力を調整。不必要に上げすぎず、落としすぎない。

それ以上でも、それ以下でもなく。

徐々に距離が縮まらなくなっていき、ついには変わらなくなった。

 

──1バ身。

 

それ以上でも、それ以下でもない。

そのままの距離を保ってゴール板を踏み越える。

 

ゴールの瞬間。横殴りの観客の声が消え、一拍の沈黙。

遅れて歓声が巻き起こる。

 

倒していた上体を起こし、ゆっくりと駈歩へ。

 

 

《電光掲示板 13 1馬身 4 1/2馬身 12 ハナ 5 クビ 7 》

 

 

 

電光掲示板に表示されたのは1着私、2着カノヤザクラという当然の結果。

どうやら、スプリングソングは3着に粘り込んだらしい。

 

後ろに注意を払いつつゆっくりと減速し、息を整える。

 

間違いない。私の脚は完全に日本仕様に戻っている。

この分であれば、秋のG1戦線も問題なく走り抜けることができるだろう。

すこぶるよい、満足できる結果だ。

 

そう手応えを感じていると、後ろから追いついてくる気配。

……スプリングソングだ。

 

横目に見る。

肩で息をしているが、姿勢は崩れていない。視線も落ちていない。

 

「……お疲れさま」

 

3着。

果たして彼女にとって良かったのかは微妙なところだ。

良い経験にはなったかもしれないが、2着に入らなければ出走決定ファン数が増えない。

クラシック級の彼女にとってはファン数が積めるかどうかはレースの選択にもかかわってくる。

 

一拍遅れて、彼女が頷く。

 

「……はい」

 

息の間に、かすれた声。

すっかり消耗しているようだ。実力を出し切ったのだろう。

 

いや、悪くはなかったのだ。ただ……言葉を選ぶのは難しい。

このような時にかける言葉を私は持たないからだ。

特にレース直後の今は。

 

「良い走りでした」

 

自分でも、少し踏み込んだ言い方だと分かる。

だが、間違ってはいない。もし何か言うなら今この時しかないのだ。

 

「例年なら十分に勝ち負けになっていたことでしょう」

 

風が抜ける。

彼女の呼吸が、わずかに整う。

 

「あなたの走りは、間違っていません」

 

少しだけ間を置く。なんと言えばいいか。

 

「自信を持っていい」

 

言い切ったところで、ようやく視線を戻す。

これで、良かったのだろうか。

どうにも自信が持てない。ちらりと表情をうかがう。

 

「……はいっ」

 

短い返事。

だが、彼女の声には先ほどより芯がある。

 

……良かった。

 

それ以上の言葉は不要だった。

 

コーナーの半ばで彼女と別れ、後続を避けつつ折り返す。

勝者として、応援に来てくれた観衆への挨拶を済ませなければならない。

 

手を上げる。歓声が応える。

 

──何かが、足りない。

 

胸の内側に、何も残っていない。

勝ったという実感だけが、ひどく軽かった。

 

当然だ。これはあくまで前哨戦。

本番はあくまでスプリンターズステークス。

それを連覇することで初めて──あの日憧れた背中に手が届くのだから。




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