驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
中山レース場、重賞用控室。
控室は、静かだった。
外の喧騒は壁一枚向こうにあるはずだが、ここには届かない。
音も、熱も、切り離されたように遠い。
純白の襷を扱いてピンと張る。ただ衣擦れの音だけが更衣スペースを満たしている。
略綬のリボンを通した金具を胸元に差し込み、顔を上げる。
姿見に映るは勝負服姿の私。
譽高き赤い軍服、必勝を誓う白襷。
襷の結び目にはブローチ、胸には年度代表を表す勲章。
そして今しがたその上に差し込んだ10の略綬は、私が勝ったG1の優勝レイと同じ色。積み重ねてきた勝利の証。
そして、勝負服ケースに残されたもう一つの略綬。
これは勝った後に差し替える用。そこにはスプリンターズステークスの部分にⅡのピンが付いている。
連覇、その証。
これで、あの日憧れた背中に並ぶことになる。
それを手にブースから出る。
脚の状態に問題はなく、張りも、違和感もない。
英国遠征から合宿、前走まで詰めて使ってはいるが、椿さんの重点的なケアのおかげで不安要素は排除されている。
──問題はない。
ならば、やることは一つだ。
控室にはトレーナーさんにゼファーさん、バクシンオーさんとフライトさんが揃っていた。
「状態は?」
トレーナーさんがタブレットから顔を上げて訊ねる。
「問題ありません」
即答する。迷う理由はない。
トレーナーさんは一度だけ頷いた。そのままブリーフィングに入る。
「やることは変わりません。無理に動かず、仕掛けは自分のタイミングで行いなさい」
簡潔な指示。余計な言葉は必要ない。
「ただ、一点だけ」
わずかに間を置く。
「スリープレスナイトには付き合わないよう」
スリープレスナイト。もちろんデータは頭に入っている。
もともとはダートスプリンターとして条件戦を走っていたが、夏に芝に転向して以来調子がいい。
同期ではあるが話したことはなく、どんな人物かは知らない。そもそも彼女が重賞戦線に出てきたのは私が英国にいる間である。
「近走は2-2。番手で押し切るスタイル。展開に頼らない脚質です。……今回は、貴女を見てくるでしょう」
ああ、と内心で頷く。
理解できる。前に出て、削って、押し切る。
同じタイプだ。
「付き合わず、自分のリズムで走りなさい」
「了解しました」
それでいい。条件は明確だ。
「こちら、お願いします」
そう言って予備の略綬を手渡す。
ウィナーズサークルでトレーナーさんに付け替えてもらうためだ。
本来こういったパフォーマンスのようなことは好かないが、URAも宣伝のためかそういったアピールを求めてくる。
一定の範囲で受け入れるのが大人というやつなのだろう。私は好かないが。
「バクシンですッ!」
弾む声。バクシンオーさんが満面の笑みで立ちあがっていた。
「絶好調ですねッ! 迷いなし、無駄なし、完璧ですッ! これはもう——勝利間違いなし!」
──そのとおり。
トレーナーさんのおかげで、状態にも調整も問題ない。
調子は良好。天候は晴れ、乾いた良バ場。
勝つ前提は成立している。むしろ負ける要素があるようには思えない。
「ここまでは順調そのもの! あとは予定通り進むだけです!」
そう、予定通り。
ここまではすべて、想定の範囲内に収まっている。
ならばこの先も同じだろう。
「──その先も、きっと見えますよ!」
一瞬、バクシンオーさんの太陽のような顔に影が差した気がした。
……いや、気のせいだろう。
その先。
その言葉に一瞬だけ思考が止まる。
──いや、問題ない。
ここで勝てば、並ぶ。……はずだ
同じ舞台で、同じ距離で、同じ条件で。
──脳裏に去来するは幼き日の思い出、冬枯れの中山1200m、1:06.9。
史上初のスプリンターズステークス連覇、ここで勝ちさえすればそこに並ぶ。
その先を考える必要はない。
「……応援してるよ」
静かな声。フライトさんがこちらを見ていた。
いつもと変わらない、穏やかな表情。だが、ほんのわずかに間があった。
「……本当に」
何かを言いかけて、飲み込んだような声音。
その意図は分からない。だが、問題はあるまい。
勝利は、全てを解決するのだ。
「山颪が街に吹いていますね」
低く呟く声。ゼファーさんだ。
「風籠りでしょうか」
いつものように抽象的な表現。だからまあ、気にする必要もあるまい。
脚に問題はない。状態も万全。
展開も事前に詰め切っている。このメンバーなら対処も決まっている。
ならば──やるべきことは一つだ。
ここで勝てば、並ぶのだ。あの日の、あの背中に。
同じ舞台で、同じ距離で、同じ条件で。
並んで、そして──越えて見せる。
時計をちらりと見る。まもなくパドックへの集合がかかる時間のはずだ。
時間には余裕を持って動いたほうがいい。
最後にトレーナーさんの前に立つ。
トレーナーさんはいつものように私の肩から腕を撫で下ろし、送り出してくれた。
「無事に、帰ってきなさい」
「それでは、行ってまいります」
控室。
セミラミスの出ていったドアが閉まる。
「良かったん、ですか」
ノースフライトが吉富トレーナーへと問いかける。
何が、というのを省いているが、この場にいる者たちの間でそれは暗黙の了解であった。
セミラミスの精神状態についてだ。
「良いか良くないかでいえば、良くはないでしょう」
吉富トレーナーはあっさりと言う。
だったら、と言いたげなフライトを軽く制す。
「ですが、あれは本人の選んだ道。外からとやかく言えるものではありませんし、言うべきではない」
もちろん怪我と事故が予見されるならその限りではありませんが、と続けた。
ノースフライトは返す言葉もない。なにせ、ここでの彼女の立場は一番外様でなんら責任を負っていないのだから。
反論のないことを確かめて、そういえば、とトレーナーはサクラバクシンオーに向き直る。
彼女は先程から楽しくてたまらないと言うような笑みを浮かべていた。
「バクシンオーさん、こちらを」
トレーナーが差し出したのは、先程の略綬。スプリンターズステークスを連覇した時のためのⅡのピンが付いたほうだ。
この数日前、サクラバクシンオーとトレーナーにURAの広報部から連絡が来ていた。
ノルデンセミラミスがスプリンターズステークス連覇を達成した暁には、ウィナーズサークルで略綬を着けるパフォーマンスをする役をサクラバクシンオーに務めていただきたい、と。
サクラバクシンオーに続き史上2人目のスプリンターズステークス連覇。
師から弟子への継承、たった2人きりの偉業。格好のストーリーだとでもいうのだろう。
トレーナーとしてはセミラミスがそのような行いを好まないことは知っていたので断りたかったが、そういうわけにもいかず難儀していたのだった。
トレーナーはバクシンオーも断りきれなかったとみて、連覇の証の略綬を手渡そうとしたのだ。
「ああ、それでしたらお断りしましたよ!」
だがサクラバクシンオーの返答は意外なものだった。
「よくURAが納得してくれたね?」
「お願いしたんですッ! 今回は吉富トレーナーさんにその役目はお願いしたい、と!」
サクラバクシンオーは満面の笑みを崩さぬまま続けた。
心底楽しそうに、楽しみだというように。
「