驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、チーム棟。アダフェラチーム室。
窓の外ではすっかり秋めいてきた日差しが傾き始めていた。
レモン水の水差しが汗をかき、クリスタルのグラスの中で氷がからりと音を立てる。
ホワイトボードには、京都芝1600mの簡易図と想定隊列。
今日は休養日も兼ねて、チーム室でフライトさんと戦術研究を行っていた。
「──これで大体の状況は想定できたかな? かなり無理のある状況もあったけど」
「そうですね。でも、事前に想定しておくことは大事です」
三角で外から被せられたら? ──そのまま押し上げる。
内へ閉じ込められたら? ──閉じ込められる前に外へ。
外も含めて完全に包囲されたら? ──四角で加速中に必ず包囲は綻ぶ。そこを突く。
不測の事態への備えは必要だっただろう。
とはいえ今更ここまでの戦術研究が必要なのか、とは思っていた。だがトレーナーさんの意見は違った。
「貴女は年間無敗の重みを理解できていない」
その視線はホワイトボードを見ているようで、はるか昔を見ていた。
「勝ち続ければ全てが敵になる。まして次のマイルCSは国内最終戦、最後のチャンスです。自らの勝ちを度外視して崩しに来る陣営が居ても不思議ではありません」
第45回有馬記念。
世紀末覇王の秋シニア三冠のかかるレース。そのウマ娘は完全に包囲された。
トレーナーさんとその教え子もそこにいたからこその言葉なのだろう。
部屋の片隅、いつの間にか私の写真が過半を埋め尽くしたギャラリースペース。
高松宮記念の優勝レイが今の派手な名古屋友禅になる前の濃紺のレイをかけた、緑の勝負服のウマ娘の写真もそこにはあるはずだ。
あの場に居たウマ娘の中で包囲網に加わらなかった数少ないウマ娘こそが彼女だったのだ。
……私に言わせれば、勝つためにはあらゆる手段を取るべきだと思う。その高潔な王者の精神は尊重されるべきだが。
それよりも、そこまでやってなお勝てなかったという事実の方が、余程不甲斐なく思えた。
そんな練習終わり──戦術研究も立派な練習だ──ふとゼファーさんの読んでいた雑誌が目に入る。
『ダイワスカーレット陣営は今回も強気! 「行くなら徹底的に行く」』
ブックシェリフにはレース専門誌が数冊積まれ、そのうちの一冊の一文だった。
壁掛けのモニターからは秋の天皇賞特集が流れている。
『もっとも、実際には番手で折り合う形でしょうね。東京2000でハイペースの逃げはさすがに考えづらい』
解説者の言葉に、向かいに座っていたトレーナーさんが小さく頷いた。
「本当にハイペースで飛ばせばウオッカを助けるだけですからね」
どれくらいかといえば、普段の彼女らを見ていなければチーミングすら疑われるぐらいには利敵行為だ。
ソファの隣では、フライトさんがくすりと笑った。
「でも、あの子案外ほんとに行きそうなのよね」
「……ええ」
私は雑誌へ目を落としたまま頷く。
誌面には大きく踊る見出し。
『ミス・パーフェクト、再び先頭宣言!』
そこには堂々と胸を張るスカーレットの写真が載っていた。また布地をいじめている。
『自分のレースをするだけです!』
記事内コメントも実に彼女らしい・。
もっとも、誌面の論調そのものは懐疑的だった。
『逃げ宣言は牽制か』
『実際には番手想定』
『ハイペースはむしろウオッカ向き』
概ねそんなところだ。
東京2000m、天皇賞秋。
逃げ切りは難しい。
いや、難しいどころか逃げ切ったウマ娘は距離短縮以降一人としていない。
秋天で逃げはタブーと言っても良いほどだ。
「ですが」
私は誌面から顔を上げる。
「前で主導権を握れるのであれば、理に適っているようにも思えます」
「府中に吹くは乱れ風」
その隣、窓際で風を浴びていたゼファーさんが静かに口を開いた。
「祥風たるは悪いことではございませんが」
柔らかな声音。
状況が刻一刻と変わる府中では、前に行くことが必ずしも最適解ではない、ということだろう。
安田記念連覇。
そして天皇賞・秋勝利。
府中を得意とする彼女の言葉にはそれだけの重みがあった。
速さで押し潰す。私のレースは基本的にそういうものだ。
だからこそ、理解しきれない部分がある。
なぜ最後に差されるのか、なぜ前が残り切らないのか。
今年の安田記念でもウオッカは普段の差しを封印し前からのレースで勝利した。
やはり前からのレースのほうが強いのではないだろうか。
「そうね」
フライトさんが頬杖をついた。
「府中は、いつもの勝ち方を変えさせられることがあるから」
その言葉に、私は視線を向ける。
彼女はふっと笑った。
「私も安田記念では後ろから行ったもの」
本来、フライトは番手から中団で流れに乗るタイプだ。
だがあのレースでは、序盤から意図的に位置を下げている。
「バクシンオーちゃんが前で飛ばしていたでしょう?」
「ええ」
当時の映像は見ている。
直線入口で既に先頭、そのまま押し切るかに見えた。
「でも、府中の直線は長いの。だから、最後にもう一段脚を残したかった」
私は黙って聞く。
最後に脚を残す、というのは短距離戦線にも当然存在する概念だ。
だが、その比重が違う。
府中ではそれが、勝敗を決定づける。そう彼女は続けた。
結果は直線後半で失速したバクシンオーさんをかわしてフライトさんが勝利した。
「ですが、前で耐え切れれば勝てるのでしょう?」
私がそう返すと、部屋が一瞬静まった。
実際、ゼファーさんは安田記念も天皇賞・秋も前から勝っている。
スカーレットもまた、前で押し切るレースを得意としている。
やはりペースを握り続けることこそが勝利への方程式の一般解ではないのだろうか。
「勁風たること自体は悪くありません」
それも悪くはない、とゼファーさんが静かに頷く。
「ですが、府中は流れが留まりません。ただそれだけでは、風に呑まれることもあります」
「でも結局、最後に脚を残した子が伸びるのよね」
フライトさんはそうくすりと笑う。
「特にウオッカちゃんみたいなタイプは」
「……ええ」
私は小さく頷いた。思い返されるはヴィクトリアマイル。
……結局、来なかった。
だがダービーで見せたあの鋭い差し脚は、確かに府中で脅威となるだろう。
「総合的には、わずかにウオッカでしょうね」
トレーナーさんがカップを置く。
「スカーレットが前で形を作るでしょうが、それでも最後に差を詰めてくる。府中ではああいう相手が厄介です」
私は雑誌を閉じた。
ペースを握る側が有利なのは事実。本命はスカーレットで動かない。
逆にフライトさんはウオッカが有利と見ているようだ。
ゼファーさんは窓の外へ視線を向ける。
「府中は、その時吹く風で表情を変えますから」
誰の言葉も、間違ってはいないように思えた。
だからこそ。
今年の天皇賞・秋は、ここまで注目されているのだろう。
「レヨネットちゃんは、どういうレースをするのかな」
不意に、ノースフライトさんがそう言った。
柔らかな声音だった。
だが私は、その問いに少し考えてから答える。
「恐らく中団やや後ろでしょう」
東京2000m。
最後の長い直線、持続的な加速。
あのコースへレヨを当てはめるなら、自然とそうなる。
「前半で無理に位置を取りに行くタイプではありません。リズム重視かと」
「ふふ、やっぱりちゃんと見てるのね」
フライトさんが笑う。
私は軽く首を傾げた。
「同じレースへ出る可能性もある以上、分析は必要でしょう」
「そういうとこ」
どこか困ったような声。
意味がよく分からず、私は雑誌へ視線を戻す。
秋天想定。
隊列予測。
ダイワスカーレット先行。
ウオッカ差し。
各紙概ね似たような内容だった。
「府中への適性自体はあると思います。デビュー戦の時点でかろうじて2000mを走れていました」
私は頁を捲りながら続ける。
「呼吸の作り方は上手いですし、なかなかの差し脚を持っています」
「うん、私もそう思うよ。安田でも、ちゃんと府中に対応していたもの」
フライトさんが頷く。
自然とその先の言葉を続けた。
「ですが、現状ではウオッカやスカーレットには及ばないかと」
静かに、部屋の空気が止まる。
私は顔を上げた。
トレーナーさんが小さく眉間を押さえている。
フライトさんは曖昧な笑み。
ゼファーさんだけが変わらず穏やかな表情だった。
「……セミラミスちゃん、レヨネットちゃん相手でも容赦ないね」
フライトさんが苦笑する。
「事実の話ですが」
私は率直に返した。
現時点での完成度、経験、実績。
比較すれば答えは出る。
安田記念2着は確かに優秀だ。クラシック級としては破格と言ってすらいい。
だが、ウオッカには届かなかった。
4ポイントものハンデがあってなお、勝てなかった。
それだけのことだ。
「レヨネットちゃんも十分すごい子なんだよ?」
フライトさんがやんわりと言う。
「安田であそこまでやれたんだから」
「ええ」
そこに異論はない。
「ですが、秋天を勝つとなると別でしょう」
私がそう言うと、トレーナーさんが小さく息を吐いた。
「貴女ね……」
「何か間違っているでしょうか?」
「いえ、間違ってはいないのですが……なんといいますか」
もう少し手心というか……とトレーナーさんは苦笑しながら続ける。
トレーナーさんまでそういったことをおっしゃるのか。
「ですが、不用意な慰めはかえって失礼でしょう」
少なくとも私ならそう思う。
負けたレースの後で、頑張った、だの、惜しかった、だの。言われても困る。
勝てなかった事実は変わらないのだから。
私がそう言うと、フライトさんがなんとも言えない顔でこちらを見た。
「……貴女、ほんと……そういうところよ」
再び返ってきた同じ言葉。
やはり、よく分からなかった。