驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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147 短距離の女主人と天皇賞(秋)へ

 トレセン学園、遠征支援委員会室。

 

 

 太陽の軌跡も春秋分点も過ぎて、すっかり日が落ちるのが早くなった。

 夕日の差し込む室内には、静かな空気が流れている。

 

 相変わらず来客のないこの委員会室。

 香港国際競争も近いが、遠征支援委員会が本当にこんな有様で良いのだろうか。

 

 そんなことを思いつつ、対面に座るジャーニーさんが手ずから淹れた緑茶をすする。

 緑茶には詳しくないが、彼女のことだから質の良いものなのだろう。

 

 急須は緑色がかったデフォルメされたクジラが本体、ぶっ刺さった(モリ)が持ち手になったバイオレンスとキュートを両立させたデザインのもの。

 聞けば妹さん(オルフェーヴル)からのプレゼントらしい。なんとも独特なセンスだ。

 

 妹、妹か。

 

「毎日王冠、ご覧になりましたか」

 

 ジャーニーさんにそう問いかける。

 

「ええ、重要な前哨戦ですから」

 

 そう頷いて彼女は言葉を継ぐ。

 

 ウオッカさんが逃げに打って出たのは驚きだった。

 それでもアタマ差まで粘り込んだのはさらに驚きだ、と彼女は言う。

 1着のスーパーホーネットさんが不出走である以上、秋天ではウオッカさんがあらゆる作戦を取って来ることを警戒せざるを得ない、と。

 

 そこまで口にしたあとで、私の顔をフレーム越しに上目遣いに見上げながら続けた。

 

「ですが、お聞きになりたいのは彼女のことではないのでしょう?」

 

 図星であった。彼女に隠し事は出来そうにない。

 自然と頷く。

 

「ノルデンレヨネット」

「……はい」

「セミラミスさんはどうお考えですか」

 

 名前を口にされるだけで、少しだけ思考が切り替わる。

 レヨの走りは、確かに良かった。3着という結果だけでは測れない内容だったと思う。

 

「まだ粗さはありますが、十分上を狙える力があります」

 

 ドリームジャーニーさんは何も言わず、続きを待っている。

 

 だから私は、そのまま率直な評価を口にした。

 

「いずれは、ウオッカやダイワスカーレットにすら届くでしょう」

 

 ジャーニーさんは、緑茶へ視線を落としたまま静かに頷いた。

 

「なるほど」

 

 それだけ言って、しばし沈黙。

 やがて彼女は住之江の岸波と墨書された湯呑を傾けながら、ぽつりと呟く。

 

「周囲は、分かりやすい物語を好みますから」

「……そうかもしれません」

「偉大な姉とその妹、という形は、とても都合がいい」

 

 その言葉に、少しだけ視線を落とす。

 実際、その通りだった。

 

 結果を出せば、“ノルデンセミラミスの妹”。  負ければ、“姉には及ばない”。

 レヨ自身の走りではなく、“私の妹”という文脈で消費される。

 それが、どうしても我慢ならない。

 

「レヨは既に、私の妹として見られすぎています」

 

 ドリームジャーニーさんは静かに耳を傾けている。

 

「ですから、私はできる限り線を引くべきだと思っています」

 

 妹だからと特別扱いしない。

 一人の競走ウマ娘として扱う。

 

「ええ、まあ。世間はそういうものです」

 

 柔らかな相槌。

 肯定でも否定でもない、ただ事実を確認するような声音。

 

「貴女の危惧も、理解できます」

 

 ことん、と小さく音が鳴る。

 ドリームジャーニーさんが湯呑を卓へ置いた。

 

「ですが」

 

 静かな声。

 

「それは、本人に言って差し上げればいいでしょうに」

 

 一瞬、言葉に詰まる。

 ……本人に? 

 

「……軽々しく、期待を口にすべきではありません」

「期待?」

 

 そこで初めて、彼女の眉が僅かに寄った。

 

「レヨはまだ発展途上です。現時点で過剰な期待を背負わせるのは──」

「そんな話をしているのではありません」

 

 珍しく、ほんの僅かに語気が強い。

 静かな部屋の空気が、僅かに揺れる。

 

「彼女は、貴女に評価されたい訳では──」

 

 そこまで言って、彼女は一瞬だけ言葉を切った。

 まるで、自分でも踏み込みすぎたと気づいたように。

 

 だが。

 

「……それを言うべきは、私にではないでしょう」

 

 今度ははっきりと、そう言った。

 

 私は返答に詰まる。

 

 レヨが。

 私に。

 

 ──評価ではなく。

 

 別の何かを求めている。

 

 そんな考えが脳裏を過る。

 いや、考えたことがなかったわけではない。

 

 同室になってから、妙にこちらへ寄ってきたこと。

 他愛もない話をしたがったこと。

 メジャーさんに、寂しがっていたと言われたこと。

 

 だが。

 

 もし私が踏み込みすぎれば。

 レヨはますます、“ノルデンセミラミスの妹”として見られてしまう。

 

 メイクデビューの時から、そうだった。

 レースを勝ったのはレヨなのに。

 称えられていたのは、“ノルデンセミラミスの妹”という物語だった。

 

 その後も変わらない。

 

 NHKマイルでも安田記念でも、姉に続けるか。

 毎日王冠も次の天皇賞(秋)は、姉と異なる中距離へ。

 

 まるでノルデンレヨネットという一人のウマ娘ではなく、ノルデンセミラミスの付録であるかのような見出しが紙面に踊る。

 

 ──ならば、これ以上私が踏み込めば。

 

 その懸念だけは、どうしても拭えなかった。

 

「……それで、いいのでしょうか」

 

 気づけば、そんな言葉が漏れていた。

 ドリームジャーニーさんは少しだけ目を丸くしたあと、小さく息を吐く。

 

「少なくとも」

 

 彼女は緑茶を一口含む。

 

「今のままよりは、よほど」

 

 静かな声だった。

 だがその言葉には、妙な実感があった。

 

 理屈ではない。

 同じく妹を持つ者の声だった。

 

 しばし沈黙が落ちる。

 

 やがてドリームジャーニーさんは、ふっと表情を和らげた。

 

「……失礼。少々、踏み込みすぎました」

「いえ」

 

 こちらこそ、と返しかけてやめる。

 

 きっとこの人は、本気で言っている。

 それが分かってしまったから。

 

 窓の外では、夕陽がもうほとんど沈みかけていた。

 

 私は冷めかけた緑茶へ視線を落とす。

 

 確かに。

 レヨは、そういう言葉を喜ぶのかもしれない。

 

 だが。

 

 それで本当に、彼女のためになるのだろうか。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 トレセン学園、美浦寮、自室。

 

 夜の寮室には、衣擦れとファスナーの音だけが静かに響いていた。

 荷造りといっても大した量ではない。

 天皇賞(秋)の開催地は府中、トレセン学園からそう離れているわけでもなく、遠征というにはあまりにも近場だった。

 もっとも、前日には出走者宿舎へ入らなければならないのだから、結局こうして荷物をまとめることになる。

 

 向かいのベッドでは、レヨが黙々と手を動かしていた。

 いつもより少しだけ口数が少ない気がする。

 

 ……いや。

 

 緊張しているのは、むしろ私の方かもしれない。

 先日のジャーニーさんとの会話が、まだ頭の片隅に残っていた。

 

 ──それを言うべきは、私じゃないでしょう。

 

 加えて、メジャーさんの言葉も。

 

 ──妹って、もうちょい雑でいいんだよ。

 

 雑。

 

 未だによく分からない。  だが少なくとも、今までのままでいいとも思えなかった。

 

「……毎日王冠、良い走りでした」

 

 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。

 レヨの手がぴたりと止まる。

 

「……え?」

 

 少しだけ目を丸くしてこちらを見た。

 

「特に最後まで脚色が鈍らなかった点は評価できます。以前よりも持久力配分が安定していました」

 

 言いながら、少しだけ違和感を覚える。

 ……違う。

 私は何を言おうとしていたのだったか。

 だが、言葉が上手くまとまらない。

 レヨは数秒こちらを見ていたが、やがて小さく笑った。

 

「ありがと、お姉ちゃん」

 

 その笑みは、嬉しそうにも見えた。だから少しだけ安堵する。

 間違ってはいなかったのだろうか。

 

「明日は、楽しみにしています」

「……うん」

「レースも見に行きます」

 

 その瞬間。

 

 レヨが、はっきりとこちらを見た。

 

「……本当?」

「ええ、もちろんです」

 

 頷く。

 

「……見たいと、思いました」

 

 それに、と続けかけて少し迷う。

 

 本当はもっと別のことを言おうとしていた気がする。

 だが、言葉が上手く見つからない。

 

「今の貴女なら、ウオッカやスカーレット相手でもきっと──」

 

 一度、言葉が途切れる。

 

「……良いレースになると思います」

 

 そこで。

 ほんの僅かに、空気が止まった気がした。

 レヨの表情は変わらない。少なくとも、そう見えた。

 だが、数秒遅れて彼女は視線を落とし、バッグのベルトを指で弄る。

 

「……そっか」

 

 返ってきた声は明るい。 いつも通りだった。

 だから私は、小さく息を吐く。

 

 少しは、これまでと違う話し方ができただろうか。

 だが一方で、胸の奥には妙な引っかかりが残っていた。

 

 何かを間違えたような。あと少しで届かなかったような。

 そんな感覚。

 

 沈黙が落ちる。

 

 窓の外では秋の虫の声。

 レヨは再び荷造りへ戻っていた。

 私もそれ以上、言葉を探せない。

 

 雑でいい。

 

 そう言われても、どこまで踏み込んでいいのか分からない。

 

 もし私が踏み込みすぎれば。 もし私の言葉が、レヨを縛ってしまったら。

 そんな考えが、どうしても頭から離れなかった。

 

 一方で。

 

 あの時の「……本当?」という声だけが、妙に耳に残っていた。

 

 あの時、レヨは確かに嬉しそうだった。

 ……途中までは。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 東京レース場、重賞用控室。

 

 地下通路には、独特の静けさがあった。

 上では既に観客の熱気が渦巻いているはずだが、ここまで降りてくる頃には音も随分と遠い。

 

 聞こえるのは足音と、時折開閉する扉の音だけ。

 私は控室の並ぶ通路を進み、一つの扉の前で立ち止まった。

 

 数秒迷ってから、軽くノックする。

 

「おう、開いてるぜ」

 

 聞こえてきた声に、自然と少し肩の力が抜けた。

 扉を開ける。

 

 中に居たのはウオッカと、凱旋門賞遠征時から彼女を担当している奈瀬文乃トレーナー。

 ウオッカは椅子へ腰掛けたまま、こちらを見るなり片眉を上げた。

 

「珍しいじゃねーか」

「そうでしょうか」

「そうだろ。お前、自分が走らねぇ日に控室まで来るタイプじゃねぇし」

 

 ……それは、そうかもしれない。

 室内には既にレース直前特有の空気が満ちていた。

 静かな熱。張り詰めた集中。

 それでもウオッカは、どこかいつも通りに見える。

 

 ウオッカと文乃トレーナーとの間にアイコンタクトがかわされ、文乃トレーナーは軽くため息を付いて外へ出た。

 扉が閉じるのを見計らって声をかける。

 

「調子はどうです?」

「悪くねぇよ」

 

 短い返答。 だが、その視線には妙な静けさがあった。

 以前よりもずっと鋭い。

 

「難しいレースにはなるでしょうね」

「だろうな」

 

 即答だった。

 迷いがない。

 

 ヴィクトリアマイルの時とは違う。

 

 以前のような、どこか噛み合わない感触がない。

 ただ真っ直ぐに、勝ちに来ている。

 

 だからだろうか。

 

「……ですが、貴女なら勝てます」

 

 気づけば、そんな言葉が口をついていた。

 口にしてから、自分で僅かに驚く。

 こんな言葉を、自分から誰かへ向けた記憶がほとんどなかった。

 

 一瞬。

 ウオッカが黙った。数秒遅れて、ふっと息を漏らす。

 

「……へぇ」

 

 その口元が、ゆっくり吊り上がった。

 

「前はそんなこと言わなかったよな」

 

 視線が細くなる。

 

「ヴィクトリアマイルん時は、お前は最後まで来なかった、って顔してたぜ」

 

 図星だった。

 

 ヴィクトリアマイルの時、私は妙な物足りなさを覚えていた。

 

 ウオッカなら。

 もっと最後まで来ると思っていた──信じていたからだ。

 

「……貴女は、最後まで来るウマ娘でしょう」

 

 気づけば、そんな言葉が漏れていた。

 するとウオッカは、堪えきれないように笑った。

 

「ハッ」

 

 立ち上がる。

 その目には、熱があった。

 

「だったら見てろよ」

 

 彼女は真っ直ぐこちらを見る。

 

「ブチ抜いてやる。全員だ」

 

 気づけば、口元が僅かに緩んでいた。

 ああ。

 やはりこの人は、こうでなくては。

 

 


 

 

 ウオッカの控室を後にし、地下通路を歩く。

 

 すれ違うスタッフたちの足音。

 遠くから響く歓声。

 レース発走時刻が近づくにつれ、地下にも僅かな熱気が流れ込み始めていた。

 

「……あら」

 

 前方から聞こえた声に顔を上げる。

 スカーレットだ。

 

 既に勝負服姿。

 青と白を基調とした大礼服のような勝負服は、彼女の燃えるような明るい栗毛とよく映えている。

 

「スカーレット……」

 

 彼女は一度こちらを見たあと、何かを探すように軽く周囲へ視線を向けた。

 

「ウオッカのところには行ったの?」

「……ええ」

「ふぅん」

 

 短い返事。

 恐らく、先程までウオッカの控室に居たことだろう。

 だが、それ以上は考えなかった。

 

 ただ。

 

 改めて見ると、彼女の纏う空気は普段より明らかに張っていた。

 鋭い。研ぎ澄まされている。

 

 だがその一方で、僅かに力みすぎているようにも見える。

 

「……少し、気負いすぎでは?」

 

 気づけばそう口にしていた。

 スカーレットの眉がぴくりと動く。

 

「何よそれ」

「合宿明けに比べれば身体は絞れています。ですが、力みが強い」

 

 一瞬、沈黙。

 失言だったかもしれない。

 だが次の瞬間、彼女はふっと笑った。

 

「はっ」

 

 強気な、獰猛な笑み。

 

「当たり前でしょ。天皇賞よ?」

 

 その真紅の瞳が、縦に割れた瞳孔が、真っ直ぐこちらを見据える。

 

「ちゃんと見てなさい」

 

 一歩、こちらへ近づく。

 

「アタシが勝つところをね!」

 

 そう言い残し、彼女は踵を返して通路の奥へ消えていく。

 その背中を見送りながら、小さく息を吐く。

 

 ……やはり、この二人は似ている。

 

 一番を譲るつもりがないところも。

 どれだけ苦しくても、前へ出ようとするところも。

 

 勝ちたい。

 ただ一番になりたい。

 

 あの二人は、きっとそれだけで走っていける。

 

 そしてきっと、最後まで脚を止めない。

 

 ……少しだけ、眩しく思えた。

 

 

 


 

 

 

『各ウマ娘、ゲートに収まり体勢整いました。第138回天皇賞、スタート──』




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