驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
人気のない廊下。
「お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!」
掠れた声だった。
今にも泣きそうな顔で。
なのにレヨネットの瞳には、激しい怒りだけが燃えている。
「勝てない妹が、邪魔だったんだろ!」
そんな、ことは……。
だが、返す言葉が出ない。
「もっとあたしを見ろよ!」
肩が震えている。
「ちゃんと、あたしを見ろよ……!」
その叫びだけが、胸の奥へ鋭く突き刺さった。
「……ノルデンセミラミス!」
最後は吐き捨てるようだった。
レヨネットは踵を返す。
「……レヨ」
呼び止めても、レヨは振り返らない。
逃げるように通路の奥へ消えていく背を、私はただ見送ることしかできなかった。
ほんの少し前まで。
今日は、
久々に良いレースだった。
だから。
このまま香港を勝てば、
きっと満たされるのだと。
そう思っていた。
最終レースも終了し、ウイニングライブでもう何度目になるかの『本能スピード』を歌い終えた後。
私は今日のことを思い返して、充足した気分のままにトレーナーさんの待つ控室へと廊下を歩いていた。
柄にもなく
記者会見の最後に感じた視線。
そういえば、レヨの様子がおかしかった。
ちょうど隣から秋天でも一緒に走っていたカンパニーさんが何か話しかけているようだったのに、レヨはこちらを見たまま、どこか上の空に見えた。
普段のレヨなら、シニア4年目の大先輩相手にあんな態度は取らないだろう。
……悔しさが残っていたのだろうか。
無理もないだろう。今日のレヨの走りは本当に良かった。
安田記念の時もそうだったが、このマイルCSだって例年なら十分勝ち負けになっていたはずだ。
一体、何が足りないというのだろうか。だがこのままいけばいずれは勝てるに違いない。
そんなことを思いながら歩いていると、話し声が聞こえてきた。
角の向こうの自販機前のベンチからだ。
「──いやぁ、参った参った」
聞こえてきたのはカンパニーさんの声だった。
「四角半ばで前が動いた時は“してやったり”と思ったんだけどねぇ。まさか二人ともあそこから止まらないとは」
「……」
「特に君。あの位置からよく伸びてきたよ」
年長者らしい柔らかな声音。
だが返ってきたのは、短い相槌だけだった。
「……はい」
角を曲がる。
ベンチに腰掛けたレヨは、手にしたスポーツドリンクも開けないまま俯いていた。
その隣で、カンパニーさんが困ったように眉を下げる。
そして私に気づくと、小さく肩を竦めた。
「おっと、噂をすればかな」
レヨの肩がわずかに揺れる。
「それじゃおじさんはこれで。姉妹同士、若い子同士、水入らずってね」
立ち上がったカンパニーさんは、すれ違いざまに小さく笑った。
「本当に良いレースだったよ」
「ええ。久々に最後まで気の抜けないレースでした」
そう返すと、カンパニーさんは、違いない、と肩を竦め、そのまま通路の向こうへ歩き去っていく。
その背を見送りながら、小さく息を吐いた。
本当に、良いレースだった。
四角でカンパニーさんが動いた瞬間は肝が冷えたし、直線では外からレヨが迫ってきた。
最後まで、一瞬たりとも気を抜けなかった。
だからこそ。
ベンチへ視線を戻す。
レヨは俯いたまま、まだペットボトルの蓋すら開けていない。
……あれだけのレースだったのだ。簡単には割り切れないか。
無理もない。
今日の走りは、本当に素晴らしかったのだから。
「良い走りでした。あの時点での進出は最良のタイミングだったでしょう。あなたの走りは間違っていない、自信を持っていい」
俯いていたレヨの肩が、ぴくりと震えた。
「……そんな話、聞きたくない」
掠れた声。
思わず眉を寄せる。
「レヨ?」
その瞬間だった。
勢いよく顔を上げたレヨが、こちらを睨みつける。
「姉さんはいっつもそうだ!」
強い声が、静かな通路へ響いた。
「良い走りだったとか! 強くなったとか! 判断は間違ってないとか!」
ベンチの端を掴む指が白くなる。
「そんな話ばっかりして!」
「……私は、事実を」
「会長みたいに、いっつもすました顔して!」
言葉が止まる。
レヨの目は潤んでいた。
だが涙より先に、怒りが溢れている。
「何でも分かったみたいに、勝手に線引いて!」
息が荒い。
「あたしのためだ、って!」
違う。
そう言おうとして、声が出なかった。
「……逃げてたんだろ!」
その一言が、妙に鋭く胸へ刺さる。
「妹だからって、向き合うのから逃げてたんだろ!」
「レヨ、私は──」
「お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!」
胸の奥が、不意に掴まれたようだった。
レヨ自身も、はっとしたように唇を震わせる。
だが止まらない。
「なのにいっつも、あたしのこと全然見てくれない!」
声が掠れている。
泣きそうな顔だった。
「勝てない妹が、邪魔だったんだろ!」
「っ……!」
息が詰まる。
そんなこと、一度だって。
むしろ逆で。
私は。
「もっとあたしを見ろよ!」
レヨが立ち上がる。
肩が震えていた。
怒りなのか。
悔しさなのか。
それとも。
分からない。
何一つ。
「ちゃんと、あたしを見ろよ……! ……ノルデンセミラミス!」
吐き捨てるようにそう叫ぶと、レヨは踵を返した。
「……レヨ」
反射的に呼び止める。
だがレヨは振り返らない。
逃げるように通路の奥へ駆け去っていく背を、私はただ見送ることしかできなかった。
通路へ再び静寂が満ちた。
私はその場に立ち尽くしたまま、去っていった背中の残像を見ていた。
荒い呼吸。
震える肩。
涙を堪えるような声。
『もっとあたしを見ろよ!』
胸の奥へ突き刺さったその叫びだけが、何度も反響している。
見ていた。私は、ずっとレヨを見ていたはずだ。
あの子の才能も。
走りも。
強さも。
誰より知っているつもりだった。
G1を、それも4つ5つ、いやもっと、7つでも勝てる器だと。もっと高みに届くウマ娘だと。
だからこそ、“ノルデンセミラミスの妹”という物語へ押し込めたくなかった。そんな扱いに我慢がならなかった。
だから線を引いた。
姉ではなく、競走者として。
特別扱いではなく、対等に。
それが正しいと思っていた。
なのに。
『お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!』
喉の奥が、ひどく熱い。
違う。
そんなつもりではなかった。
勝てない妹が邪魔だったなど、一度だって思ったことなどない。
むしろ逆だ。
私は。
そこまで考えて、思考が止まる。
──では、私は何を見ていた?
レヨの“走り”ではなく。
レヨ自身を。
私は、本当に見ていたのだろうか。
「……会長みたいに、か」
ぽつりと漏れた声が、やけに空虚に響いた。
何でも分かったような顔をして。
相手のためだと決めつけて。
勝手に線を引く。
脳裏に蘇る。
『だからこそ、“憧れを超える”という物語は、もっと丁寧に扱うべきだと思っている』
──私の誓いを、物語として
そう怒鳴ったのは、誰だったか。
視界の端で、自販機の照明が白く滲む。
分からない。
何を間違えたのか。
どうすれば良かったのか。
何故あんな顔をさせたのか。
ただ。
胸の奥へ残った“ノルデンセミラミス”という呼び方だけが、ひどく痛かった。
不意に、背後で靴音が止まった。
我に返る。どれほどこうしていたのだろうか。
「……トレーナーさん」
振り返れば、少し離れた通路の壁際にトレーナーさんが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
だが、その姿を認識した瞬間。
張り詰めていた何かが、わずかに軋んだ。
私は反射的に通路の奥を見る。
レヨの姿は、もう見えない。
「……行かなければ」
半ば無意識に、そう口にしていた。
追いかけて。
違うと伝えて。
そんなつもりではなかったのだと。
だが。
では、私は何を言えばいい。
『勝手に線引いて!』
『もっとあたしを見ろよ!』
耳の奥で、レヨの声が何度も反響する。
「今はやめておきなさい」
静かな声だった。
「感情が溢れている時に追えば、余計に拗れます」
「ですが……!」
思わず声を上げかけて、止まる。
何を言う。
私は。
レヨに。
何を。
どの面をさげて。
沈黙が落ちる。
トレーナーさんは急かさなかった。
ただ静かに、こちらを見ている。
『ま、自らの独善で他人を測ることは、悲劇のもとですよ』
ふいに、脳裏へ過去の言葉が蘇った。
『……といっても、一度やらかさないと本当に理解はできないものですが』
喉の奥が、ひどく苦い。
独善。そうか……。
「……私は」
そこで言葉が途切れる。
何を守ったつもりだった。
何を見ていた。
レヨの走りを。
才能を。
未来を。
では。
レヨ自身を。
私は、本当に見ていたのだろうか。
「逃げてはいけません」
トレーナーさんが静かに言う。
「ですが、今すぐ答えを出そうともしないことです」
「……」
「向き合いなさい」
穏やかな声だった。
「改めるに遅すぎるということはありません」
返事はできなかった。
そのままトレーナーさんに促されて歩き出す。
ただ胸の奥では、未だに“ノルデンセミラミス”という呼び方だけが、鈍い痛みとして残り続けていた。