驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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152 臨界

 人気のない廊下。

 

「お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!」

 

 掠れた声だった。

 

 今にも泣きそうな顔で。

 なのにレヨネットの瞳には、激しい怒りだけが燃えている。

 

「勝てない妹が、邪魔だったんだろ!」

 

 そんな、ことは……。

 だが、返す言葉が出ない。

 

「もっとあたしを見ろよ!」

 

 肩が震えている。

 

「ちゃんと、あたしを見ろよ……!」

 

 その叫びだけが、胸の奥へ鋭く突き刺さった。

 

「……ノルデンセミラミス!」

 

 最後は吐き捨てるようだった。

 レヨネットは踵を返す。

 

「……レヨ」

 

 呼び止めても、レヨは振り返らない。

 逃げるように通路の奥へ消えていく背を、私はただ見送ることしかできなかった。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 ほんの少し前まで。

 

 今日は、

 久々に良いレースだった。

 

 だから。

 このまま香港を勝てば、

 きっと満たされるのだと。

 

 そう思っていた。

 

 

 最終レースも終了し、ウイニングライブでもう何度目になるかの『本能スピード』を歌い終えた後。

 私は今日のことを思い返して、充足した気分のままにトレーナーさんの待つ控室へと廊下を歩いていた。

 

 柄にもなく十八番(おはこ)となった短距離用曲を鼻歌で歌いそうになりながら、ふと思いかえす。

 

 記者会見の最後に感じた視線。

 

 そういえば、レヨの様子がおかしかった。

 ちょうど隣から秋天でも一緒に走っていたカンパニーさんが何か話しかけているようだったのに、レヨはこちらを見たまま、どこか上の空に見えた。

 普段のレヨなら、シニア4年目の大先輩相手にあんな態度は取らないだろう。

 

 ……悔しさが残っていたのだろうか。

 無理もないだろう。今日のレヨの走りは本当に良かった。

 安田記念の時もそうだったが、このマイルCSだって例年なら十分勝ち負けになっていたはずだ。

 一体、何が足りないというのだろうか。だがこのままいけばいずれは勝てるに違いない。

 

 そんなことを思いながら歩いていると、話し声が聞こえてきた。

 角の向こうの自販機前のベンチからだ。

 

「──いやぁ、参った参った」

 

 聞こえてきたのはカンパニーさんの声だった。

 

「四角半ばで前が動いた時は“してやったり”と思ったんだけどねぇ。まさか二人ともあそこから止まらないとは」

「……」

「特に君。あの位置からよく伸びてきたよ」

 

 年長者らしい柔らかな声音。

 だが返ってきたのは、短い相槌だけだった。

 

「……はい」

 

 角を曲がる。

 

 ベンチに腰掛けたレヨは、手にしたスポーツドリンクも開けないまま俯いていた。

 その隣で、カンパニーさんが困ったように眉を下げる。

 

 そして私に気づくと、小さく肩を竦めた。

 

「おっと、噂をすればかな」

 

 レヨの肩がわずかに揺れる。

 

「それじゃおじさんはこれで。姉妹同士、若い子同士、水入らずってね」

 

 立ち上がったカンパニーさんは、すれ違いざまに小さく笑った。

 

「本当に良いレースだったよ」

「ええ。久々に最後まで気の抜けないレースでした」

 

 そう返すと、カンパニーさんは、違いない、と肩を竦め、そのまま通路の向こうへ歩き去っていく。

 その背を見送りながら、小さく息を吐いた。

 

 本当に、良いレースだった。

 

 四角でカンパニーさんが動いた瞬間は肝が冷えたし、直線では外からレヨが迫ってきた。

 最後まで、一瞬たりとも気を抜けなかった。

 

 だからこそ。

 

 ベンチへ視線を戻す。

 レヨは俯いたまま、まだペットボトルの蓋すら開けていない。

 

 ……あれだけのレースだったのだ。簡単には割り切れないか。

 

 無理もない。

 今日の走りは、本当に素晴らしかったのだから。

 

「良い走りでした。あの時点での進出は最良のタイミングだったでしょう。あなたの走りは間違っていない、自信を持っていい」

 

 俯いていたレヨの肩が、ぴくりと震えた。

 

「……そんな話、聞きたくない」

 

 掠れた声。

 思わず眉を寄せる。

 

「レヨ?」

 

 その瞬間だった。

 勢いよく顔を上げたレヨが、こちらを睨みつける。

 

「姉さんはいっつもそうだ!」

 

 強い声が、静かな通路へ響いた。

 

「良い走りだったとか! 強くなったとか! 判断は間違ってないとか!」

 

 ベンチの端を掴む指が白くなる。

 

「そんな話ばっかりして!」

「……私は、事実を」

「会長みたいに、いっつもすました顔して!」

 

 言葉が止まる。

 

 レヨの目は潤んでいた。

 だが涙より先に、怒りが溢れている。

 

「何でも分かったみたいに、勝手に線引いて!」

 

 息が荒い。

 

「あたしのためだ、って!」

 

 違う。

 そう言おうとして、声が出なかった。

 

「……逃げてたんだろ!」

 

 その一言が、妙に鋭く胸へ刺さる。

 

「妹だからって、向き合うのから逃げてたんだろ!」

「レヨ、私は──」

「お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!」

 

 胸の奥が、不意に掴まれたようだった。

 レヨ自身も、はっとしたように唇を震わせる。

 

 だが止まらない。

 

「なのにいっつも、あたしのこと全然見てくれない!」

 

 声が掠れている。

 泣きそうな顔だった。

 

「勝てない妹が、邪魔だったんだろ!」

「っ……!」

 

 息が詰まる。

 

 そんなこと、一度だって。

 

 むしろ逆で。

 私は。

 

「もっとあたしを見ろよ!」

 

 レヨが立ち上がる。

 

 肩が震えていた。

 

 怒りなのか。

 悔しさなのか。

 それとも。

 

 分からない。

 

 何一つ。

 

「ちゃんと、あたしを見ろよ……! ……ノルデンセミラミス!」

 

 吐き捨てるようにそう叫ぶと、レヨは踵を返した。

 

「……レヨ」

 

 反射的に呼び止める。

 

 だがレヨは振り返らない。

 

 逃げるように通路の奥へ駆け去っていく背を、私はただ見送ることしかできなかった。

 

 


 

 

 通路へ再び静寂が満ちた。

 私はその場に立ち尽くしたまま、去っていった背中の残像を見ていた。

 

 荒い呼吸。

 震える肩。

 涙を堪えるような声。

 

『もっとあたしを見ろよ!』

 

 胸の奥へ突き刺さったその叫びだけが、何度も反響している。

 

 見ていた。私は、ずっとレヨを見ていたはずだ。

 

 あの子の才能も。

 走りも。

 強さも。

 

 誰より知っているつもりだった。

 

 G1を、それも4つ5つ、いやもっと、7つでも勝てる器だと。もっと高みに届くウマ娘だと。

 だからこそ、“ノルデンセミラミスの妹”という物語へ押し込めたくなかった。そんな扱いに我慢がならなかった。

 

 だから線を引いた。

 

 姉ではなく、競走者として。

 特別扱いではなく、対等に。

 

 それが正しいと思っていた。

 なのに。

 

『お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!』

 

 喉の奥が、ひどく熱い。

 

 違う。

 そんなつもりではなかった。

 

 勝てない妹が邪魔だったなど、一度だって思ったことなどない。

 

 むしろ逆だ。

 私は。

 

 そこまで考えて、思考が止まる。

 

 ──では、私は何を見ていた? 

 

 レヨの“走り”ではなく。

 レヨ自身を。

 

 私は、本当に見ていたのだろうか。

 

「……会長みたいに、か」

 

 ぽつりと漏れた声が、やけに空虚に響いた。

 

 何でも分かったような顔をして。

 相手のためだと決めつけて。

 勝手に線を引く。

 

 脳裏に蘇る。

 

『だからこそ、“憧れを超える”という物語は、もっと丁寧に扱うべきだと思っている』

 

 ──私の誓いを、物語として消費(つか)う気か。

 

 そう怒鳴ったのは、誰だったか。

 

 視界の端で、自販機の照明が白く滲む。

 

 分からない。

 

 何を間違えたのか。

 どうすれば良かったのか。

 何故あんな顔をさせたのか。

 

 ただ。

 

 胸の奥へ残った“ノルデンセミラミス”という呼び方だけが、ひどく痛かった。

 

 

 不意に、背後で靴音が止まった。

 

 我に返る。どれほどこうしていたのだろうか。

 

「……トレーナーさん」

 

 振り返れば、少し離れた通路の壁際にトレーナーさんが立っていた。

 

 いつからそこにいたのか分からない。

 だが、その姿を認識した瞬間。

 張り詰めていた何かが、わずかに軋んだ。

 

 私は反射的に通路の奥を見る。

 レヨの姿は、もう見えない。

 

「……行かなければ」

 

 半ば無意識に、そう口にしていた。

 

 追いかけて。

 違うと伝えて。

 そんなつもりではなかったのだと。

 

 だが。

 では、私は何を言えばいい。

 

『勝手に線引いて!』

『もっとあたしを見ろよ!』

 

 耳の奥で、レヨの声が何度も反響する。

 

「今はやめておきなさい」

 

 静かな声だった。

 

「感情が溢れている時に追えば、余計に拗れます」

「ですが……!」

 

 思わず声を上げかけて、止まる。

 

 何を言う。

 

 私は。

 レヨに。

 

 何を。

 どの面をさげて。

 

 沈黙が落ちる。

 

 トレーナーさんは急かさなかった。

 ただ静かに、こちらを見ている。

 

『ま、自らの独善で他人を測ることは、悲劇のもとですよ』

 

 ふいに、脳裏へ過去の言葉が蘇った。

 

『……といっても、一度やらかさないと本当に理解はできないものですが』

 

 喉の奥が、ひどく苦い。

 独善。そうか……。

 

「……私は」

 

 そこで言葉が途切れる。

 

 何を守ったつもりだった。

 何を見ていた。

 

 レヨの走りを。

 才能を。

 未来を。

 

 では。

 レヨ自身を。

 私は、本当に見ていたのだろうか。

 

「逃げてはいけません」

 

 トレーナーさんが静かに言う。

 

「ですが、今すぐ答えを出そうともしないことです」

「……」

「向き合いなさい」

 

 穏やかな声だった。

 

「改めるに遅すぎるということはありません」

 

 返事はできなかった。

 

 そのままトレーナーさんに促されて歩き出す。

 ただ胸の奥では、未だに“ノルデンセミラミス”という呼び方だけが、鈍い痛みとして残り続けていた。




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