驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
マイルCSの翌々日。
小雨降りしきる中、私はチームルームの前で立ち尽くしていた。
曇り空から差し込む冬の光が、濡れた石畳へ白く広がっている。
いつもの学園。通い慣れたチーム棟。
それなのに、どこか現実感が薄かった。
『もっとあたしを見ろよ……! ……ノルデンセミラミス!』
耳の奥で、まだレヨの声が響いている。
昨夜も、ほとんど眠れなかった。
京都レース場、宿泊所。
控室を引き払って個室へ戻ってからも、私は長いこと椅子へ座ったまま動けずにいた。
机の上には香港遠征用の資料。
付箋のついた広東語の簡易会話集。
それを手に取って開く。
だが、ページをめくる指が止まる。
『お姉ちゃんの妹で、いたかったのに……!』
胸の奥が軋んだ。
違う。
そんなつもりではなかった。
レヨを遠ざけたかったわけではない。
むしろ逆だ。
誰より才能があると思っていた。
だから、“ノルデンセミラミスの妹”という枠へ押し込めたくなかった。
それなのに。
では私は、何を見ていた。
レヨの走りを。
才能を。
未来を。
……レヨ自身を。
そこまで考えると、思考が止まる。
分からない。
ベッドへ入っても眠気は来なかった。
目を閉じれば、怒りと悲しみの入り混じったレヨの顔が浮かぶ。
なのに私は、何一つ返せなかった。
深夜、控えめなノックの音がした。
「……起きていますか」
ゼファーさんの声だった。
扉を開けると、彼女は紙コップを二つ持って立っていた。
「温かいものでもどうかと思いまして」
「……ありがとうございます」
受け取る。温かい。
だが、それだけだった。
ゼファーさんは何も聞かなかった。
ただ、「では、また明日」とだけ告げ、静かに去っていった。
翌朝の
窓の外を流れていく防音壁をぼんやり眺める。
隣にはゼファーさんが座っていた。
何かを話すでもなく、時折こちらを気遣うように視線を向けてくる。
その気遣いが有り難くて。
同時に、ひどく情けなかった。
私は、こんなにも周囲へ気を遣わせているのか。
『逃げてたんだろ!』
違う。
違うはずだ。
だが、その否定すら揺らぎ始めていた。
学園へ戻った後、私は寮の部屋へ戻った。
レヨは、もう居た。
一瞬だけ視線が合う。
胸の奥が痛む。
「……ただいま帰りました」
「……おかえり」
反射のように言葉が出た。
それだけだった。
ドライヤーの音、カーテンの擦れる音。
生活音だけが、やけに大きく聞こえる。
以前なら。
こんな空気ではなかったはずなのに。
夜。消灯後も眠れなかった。
レヨの寝返りの音が聞こえる。あの子も眠れていないのだろう。
だが声はかけられない。
謝ればいいのか。
違うと言えばいいのか。
もっと早く向き合うべきだったと認めればいいのか。
そのどれもが、今更のように思えた。
薄暗い天井を見つめながら、私は静かに目を閉じる。
眠気は来ない。
ただ、“ノルデンセミラミス”という呼び方だけが、ずっと胸の奥へ残り続けていた。
気づけば翌日昼過ぎ、私はチームルームの扉を開けていた。
ふわりと漂ってきたのは、独特なスパイスと柑橘系の香り。
ゼファーさんが、赤いワインのような色の湯気が立つ液体をガラスの器へ注いでいる。
「温まりますよ。どうぞ」
懐かしのホットワイン。
口をつけると、シナモンと柑橘類の香りとともにぶどうの甘みが喉を通り抜ける。
冷えた体が温まっていく。
だが、その温かさも胸中へ沈殿した澱を溶かすには至らない。
向かい側では、トレーナーさんが湯気越しにこちらを見ていた。
「……答えは出ましたか、と聞くつもりはありませんが」
カップを持つ指先が止まる。
「時間もありませんので、今日は別の話をします」
静かな声音だった。
だが、それだけに逃げ場がない。
「……申し訳ありません」
反射的に言葉が零れる。
「何に対しての謝罪ですか?」
私は答えられなかった。
レヨを傷つけたことか。
周囲へ心配をかけたことか。
あるいは。
「……その“理想”は、誰のためのものでしたか」
胸の奥が軋む。
ナニカが込み上げそうになるのを、必死に押し戻した。
「ですが、今は自己反省に沈んでいる場合ではありません」
トレーナーさんの声音が、わずかに硬質さを帯びる。
「香港遠征は予定通り行います」
反射的に背筋が伸びた。
「そして貴女には、普段通り振る舞ってもらいます」
思考が止まる。
「不仲や不調を察知されることは避けたい。今の貴女は、世界中から狙われる立場です」
香港。
グローバル・スプリント・チャレンジ制覇に王手。
理性が理解する。理解してしまう。
今の自分は、世界中から狙われる立場なのだと。
「……ですが」
何もなかったように。
今まで通り。
レヨと。
「できますか、と聞くつもりはありません」
トレーナーさんが静かに言った。
「やりなさい」
カップを持つ指へ力が入る。
「……私の問題です」
絞り出すように言葉が落ちた。
私が間違えた。
私が傷つけた。
ならば。
「いいえ」
短く、トレーナーさんは否定した。
「もう貴女だけの問題ではありません」
静かな声だった。
「もし今、貴女が崩れれば。レヨネットさんは、自分が姉を壊したと思うでしょう」
息が止まる。
違う。
そんなことは。
だが、脳裏を過ぎったレヨの顔が、その否定を許さなかった。
あの子なら。
きっと、そう思ってしまう。
「……だから、立ちなさい」
窓を叩く雨音だけが、しばらく室内へ響いていた。
トレセン学園、プレスルーム。
「それでは香港国際競走、遠征ウマ娘合同記者会見を始めます」
フラッシュが瞬く。
壇上へ上がった私は、歓声へ向けて穏やかな笑みを返した。
『まずは香港スプリントへ出走予定、グローバル・スプリント・チャレンジ制覇へ王手をかけるノルデンセミラミスさんです!』
歓声が大きくなる。
私は軽く会釈を返す。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。香港という素晴らしい舞台で走れることを、今から非常に楽しみにしております」
よどみなく言葉が出る。
自然に笑えているだろうか。いつも通りに、理想通りに。
海外記者から英語で質問が飛ぶ。
「(現在のコンディションはいかがですか?)」
私は微笑みを貼り付けたまま、通訳を待たずに流れるように答えた。
「良好です。
会場からは感嘆混じりのざわめきが上がる。
完璧だっただろう。
少なくとも、外から見る限りは。