驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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156 2つの距離の女主人とレセプション

 トレセン学園、美浦寮、自室。

 

 

 床には半分ほど埋まったスーツケースが。

 机の上には香港レースクラブ主催のレセプションパーティーの案内状と、遠征日程表が広がっている。

 

 私は黙ったまま荷造りを続けていた。

 

 衣類を畳む音。

 ファスナーの擦れる音。

 部屋へ響くのは、それだけだった。

 

 向かい側では、レヨも無言で荷物を纏めている。

 

 以前なら。

 遠征前の夜など、もっと騒がしかったはずだ。

 

 忘れ物はないか。

 香港の料理はどうだろうか。

 お土産は何にするか。

 

 そんな、どうでもいい話をしていたことだろう。

 だが今は違う。

 

「……それ、機内持ち込みですか」

「ん」

「液体物は分けた方が」

「……分かってる」

 

 会話は成立している。

 

 少なくとも、表面上は。

 

 あの日のような激しい感情の衝突は、もうない。

 不眠も、少しずつ落ち着いてきていた。

 目を閉じるたびレヨの叫びが蘇るような感覚も、今は薄れている。

 

 けれど。

 

 胸の奥へ張りついた沈黙だけは、未だ剥がれないままだった。

 

 資料を鞄へ入れながら、ふと視線を上げる。

 レヨは机の横へ置いていたドレスケースを持ち上げようとしていた。

 だが荷物が偏っていたのか、ぐらりと身体が揺れる。

 

 反射的に立ち上がりかける。

 手を伸ばそうとして。止まった。

 

『勝手に線引いて!』

 

 胸の奥へ、あの声が蘇る。今さら、どの面を下げて。

 そんな迷いが脳裏を過った一瞬のうちに、レヨは自分で持ち直していた。

 

「……大丈夫」

 

 こちらを見ないままの声。

 私は伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろす。

 

「……そうですか」

 

 結局、そんな言葉しか返せなかった。

 

 沈黙。

 

 窓の外では、冬の雨が静かにガラスを叩いている。

 

 明日から香港。

 

 世界中の記者が居る。

 海外のウマ娘たちが居る。

 レセプションでは、私たちは姉妹として並んで立つことになるだろう。

 

 何事もなかったように。

 いつも通りに。

 

 そう振る舞わなければならない。

 

 鞄へ視線を落とす。

 綺麗に畳まれた勝負服の手袋。

 レセプション用も含めて勝負服は正副両方を持ち込む予定だった。

 

 完璧であれ。理想であれ。

 そうして積み重ねてきたものたち。

 

 なのに。

 

 ふと、脳裏へ明るい声が蘇る。

 

『そんな時は抱き締めれば良いのです!』

 

 底抜けに真っ直ぐな声。高笑いが聞こえるようだ。

 

 ……もしバクシンオーさんなら。

 きっと迷わない。

 寂しかったのなら抱き締めて。

 苦しかったのなら頭を撫でて。

 妹なら甘えて当然だと、笑って受け止めるのだろう。

 

 理屈も。

 距離も。

 正しさも後回しにして。

 

 理想の姉なら、きっとそうする。

 

 なのに私は。

 

 視線の先では、レヨが無言で荷物を閉じている。

 

 その背中へ、どうしても踏み込めない。

 

「……明日、朝は7時半集合です」

 

 ようやく絞り出した言葉は、それだった。

 

「……分かってる」

 

 短い返事。

 それで会話が終わる。

 

 互いの気配だけが残る静かな部屋で、私はそっと唇を噛み締めた。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 香港行きの機内は、思っていたより静かだった。

 英国遠征と違い、5時間あまりのフライト。ユーラシア大陸を横断した前回とは比べるべくもない。

 傍らで寝息を立てるゼファーさんの意外に幼気な寝顔から目を窓の外に向ける。

 

 香港。

 

 短距離路線の頂点。

 

 幾多の日本スプリンターウマ娘が挑み、そして敗れていった舞台。

 ビリーヴさんやカルストンライトオさんですら2桁着順に沈めてきた魔境。

 いつしか本家フランスになぞらえて“短距離の凱旋門”と呼ばれるようになった。

 

 あの人が思いもよらなかった世界に、私は立とうとしている。

 

 

『もっとあたしを見ろよ……!』

 

 耳の奥で、まだ声が響く。

 私は静かに窓から香港の摩天楼を見下ろした

 

 今は考えるべきではない。考えれば、乱れる。

 

 私は“ノルデンセミラミス”として香港へ向かっている。

 ならば、それに相応しく在らなければならない。

 

 


 

 

 夜の香港国際空港は、白と金の光に満ちていた。

 到着ロビーへ出た瞬間、湿り気を含んだ暖かな空気が肌を撫でる。

 日本より幾分暖かい。

 

 空港内には既に香港国際競争の広告が並び、巨大なパネルには各競走の有力出走者達が映し出されていた。

 

 その中には、私の姿もある。

 

 赤と白の勝負服。

 金文字で記された“JAPAN”。

 

 視線を向けた観光客らしき人々が小さくざわめく。

 

「あっ、セミラミスだ」

「本物?」

「頑張ってください!」

 

 私は軽く会釈を返す。

 

 歓声。

 フラッシュ。

 

 反射的に口元へ笑みを作る。

 

 それはもう、呼吸に近かった。

 

 


 

 

 この香港国際競走は招待競走である。

 すなわち、条件を満たせば旅費や滞在費などを先方(HRC)が持ってくれる。

 ただし、そのかわりに公式行事への参加が求められる。

 このレセプションパーティーもその一つだった。

 

 

 香港中心街、高級ホテル。

 

 

 吹き抜けのエントランスには巨大なシャンデリア。

 磨き上げられた大理石の床へ光が落ち、各国の関係者達がグラスを片手に談笑している。

 

 英語、広東語、フランス語、日本語。

 

 様々な言葉が交差する中、私は自然な足取りで会場へ入った。

 

 その瞬間、空気が動く。

 

「ノルデンセミラミス!」

「こちらを!」

「香港初挑戦への意気込みを!」

 

 海外メディアが一斉に集まる。

 

 フラッシュが瞬く。

 視線が集中する。

 

 だが不思議と重さは感じなかった。

 感じないようにしていた。

 

「(この舞台へ立てることを光栄に思います)」

 

 自然に英語が口をつく。

 

「(香港スプリントは世界最高峰の短距離競走です。素晴らしい相手と走れることを楽しみにしています)」

 

 笑顔。

 会釈。

 完璧な受け答え。

 

 周囲の空気が柔らかくなる。

 

「(今年は欧州G1も制しました。今の貴女こそ世界最強との声もありますが?)」

「(光栄な評価です。ですが、それを決めるのは常にレースであるべきでしょう)」

 

 またフラッシュ。

 どこか遠くで拍手が起きる。

 

 私は微笑む。

 正しい角度で。正しい温度で。

 

 何も問題はない。

 

 そう、“ノルデンセミラミス”は振る舞っていた。

 取材の波が一段落したところで、聞き慣れた声が飛んできた。

 

「お、いたいた」

 

 振り返れば、ローレルゲレイロさんがグラス片手に歩いてくる。

 さっき挨拶したんだけどさ、と人だかりを顎でしゃくる。

 

「あのグッドババと知り合いなのか?」

「昨年の安田記念でご一緒しました」

「へえ、そういやそうだったな」

 

 視線の先では、香港の英雄グッドババさんが関係者達に囲まれていた。

 

「じゃあ二次会も来るんだよな? 」

「ええ、その予定です」

「なら後でな」

 

 それだけ言って彼女は人混みの向こうへ消えていく。

 

 本当に、いつも通りだ。

 少しだけ肩の力が抜ける。

 

 その直後だった。

 

「(相変わらず綺麗に笑うのね)」

 

 すぐ近くから物腰柔らかな英語。

 この声は忘れるはずもない。英国遠征で丸ひと月寝食を共にした相手だった。

 

「(お久しぶりです、マルシャンドールさん)」

 

 芦毛のウマ娘が楽しそうに目を細めた。

 

 距離が近い。

 

 こちらの反応を観察するように、彼女はわずかに顔を傾ける。

 ……いつもより、化粧が濃いような。気の所為だろうか。

 

「(半年ぶりかしら?)」

「(ええ)」

 

 先程まで取り囲まれていたのを見ていたのか、苦笑して続けた。

 

「(香港でも人気者なのね。大変そう)」

「(慣れていますので)」

「(そう)」

 

 彼女は小さく笑った。

 その目だけが、笑っていない。

 

 違う。

 

 表情の奥を見られている。

 

「(妹さんも来ているのでしょう?)」

 

 一瞬。

 本当に、一瞬だけ返答が遅れた。

 

「(……ええ)」

「(会ってみたかったの)」

 

 せっかくだものね、と言うその声音に悪意はない。

 

 純粋な興味。

 それだけだ。

 

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

 私は微笑む。

 いつも通りに。

 

「(きっと喜びます)」

 

 マルシャンドールさんは数秒だけこちらを見つめ、それからふっと肩を竦めた。

 

「(ふぅん)」

 

 その視線が、何を見抜いたのか。

 考えないようにする。

 会場の窓の向こうには、香港の夜景が広がっていた。

 

 宝石のような光の海。

 そのどこにも、静かな場所など無いように思えた。

 

 

 公式のレセプションパーティーはこれでいい。

 だが、この後はそうもいかない。

 

 今でははるか昔となってしまった。

 先々週、マイルCSの前のことだった。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 好爸爸と表示された連絡先からのメッセージ。

 グッドババさんの香港名だ。

 

『やあやあ元気にしてたかい。

 どうやら香港スプリントへの招待を内諾してくれたらしいじゃないか。嬉しいね。

 去年も来てくれるかと楽しみにしてたんだが、ウマインフルエンザの流行じゃ仕方ない──』

 

 英語で綴られた文章は相変らず長い。

 だが内容は明白だった。

 

 ──レセプションの後、内々でインフォーマルパーティーをするから是非に来ないか。

 

 思えば直接話すのは昨年の安田記念以来だったか。

 メジャーさんと香港のジョイフルウィナーさんが、ちょっと聞くにたえない口論をしていた時が初対面だった。

 

 あの後連絡先を交換して、時折連絡をとってもう1年半になる。

 そして1年半越しの約束、香港に来ることがあったら訪ねてくれというのを、今果たそうとしてくれている。

 

 ああ、社交辞令じゃなかったんだな、と口元が緩んでしまう。

 

 ──自慢の妹さんも香港カップに出るんだろう? ぜひ誘い合わせて来てほしい。

 

 続く一文を読んで、顔を画面から上げ振り返る。

 その先には机に向かうレヨ。

 

「レヨ」

「え?」

 

 何やらぶつぶつとレース映像を観ていた彼女が、イヤホンを引っこ抜いて振り返る。

 私はメッセージの内容をかいつまんで──一々訳すのも面倒だった──説明した。

 

「というわけで、レヨもいかがですか」

「あたしも!? 絶対行く!」

 

 美味しいものいっぱいあるよね、点心とか! と、もうレース研究が手につかない様子に思わず苦笑する。集中を乱してしまったようだ。

 こんなことならもう少し後、マイルCSが終わってから誘ったほうが良かっただろうか。

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 ちらり、と横を盗み見る。

 

 公式レセプション終了後、香港トレセン学園差し回しの車で私たちはインフォーマルパーティーの会場へと送迎されていた。

 私たちとレヨたち、椿さんと猿田トレーナーらの6人で乗り合わせた高級ミニバンではそれなりに砕けた会話がなされていたが、私とレヨの間にだけそれはない。

 

 夜景越しに車窓に移るレヨの顔には、表情というものが抜け落ちている。

 

 ……私が。

 

 壊した。

 

 全部。

 

 

 車は静かに会場となるホテル正面の車寄せへと滑り込んでいった。




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